他人の不幸は蜜の味

柚子ハッカ

第1話

他人の不幸は蜜の味


 この大きなお屋敷に来てもうすぐ一年になる。

 今どき〈大きなお屋敷〉なんておかしな呼び方だけど、本当にそうなのだから仕方ない。都内の高級住宅街に広い庭付きの一戸建て。一戸建て? 外から見たら豪邸よね。絶対に注文住宅だし、部屋数だって無駄にある。防犯カメラは何台も設置されている。

「何か悪いことでもしないと建たないわよねえ」

 通りすがりの人は八割がたそう言うの。でしょうね、私もそう思うわ。


 二十五歳を過ぎた頃から家政婦として生計を立てている。

「若いのに勿体無いわねえ」っておばちゃん達は口を揃えて言うけど。髪の毛に隠れた耳から頬にかけての焼け爛れた部分を見せると、みんな黙るの。

 家政婦紹介所の社長は「そんなの皮膚移植して消しちゃえばいいじゃない」って言うけど。いくら整形技術が進歩したって心に負った傷までは簡単には消せるもんじゃない。

 この傷は当時付き合ってた男につけられた。偏執的な愛情。私はそれなりには綺麗な顔立ちをしてたと思う。けれどそれが彼の不安を煽り、偏った愛情になり狂った。「その顔がいけないんだよな」笑いながらそう言ってライターオイルをかけて押さえられてて火で焼かれた。

 それ以来知らない人が多く出入りする仕事には就けなくなった。

 出来るだけ地味で目立たない服装で歩くようになった。



 この家の主人の仕事はよく知らない。知る必要もない。言われた通りの時間に言われた仕事をすればいいだけだ。

 朝は旦那様が最初に起きてくる。食事を出して、その間に中学生の坊ちゃんを起こしに行く。そして坊ちゃんの食事を用意する。そして奥様を起こす。奥様の支度が終わる頃、旦那様は出掛けて行く。もちろん奥様は見送りをされる。次は坊ちゃんが出て行く。もちろん奥様は玄関に立たれて、見送られる。

 端から見ていればいい家族だ。

 それから奥様は出掛ける。どこに行くのかは知らない。知る必要もない。帰りの時間さえ把握していればそれでいい。

 坊ちゃんは一度帰宅する。それから軽食を食べて塾へ行く。母親の所在も帰宅時間も聞かない。私も聞かれないことは話さない。

 奥様は旦那様の帰宅時間よりは必ず早く帰宅する。それは今まで破られたことはない。だが奥様は浮気している。

 それに気がついたのは、部屋を掃除していた時だった。不思議な香りがした。奥様は絶対使っていないマリン寄りのムスクの香り。柔軟剤からルームスプレーまできちんと指定されている。甘ったる過ぎないフローラルな香り。それなのに違和感を感じた。そしてうっすら付いた首筋のキスマーク。「虫に刺されてますよ。ずいぶん季節なはずれな虫もいましたね」そう言ってあげた。慌てて隠していたけど。

 旦那様だって浮気の一つや二つされてるんじゃないかしら? 旦那様はお金持ちというだけじゃなくて、背も高くて格好いい。中年なのにお腹も出てないし、頭髪だってふさふさだ。浮気の証拠が出てこないのは当たり前かもしれない。そんなものがわらわら出てくるような人なら、こんなところに家なんて建てられないもの。優秀な人は脇だって甘くない。



 ある時、激しくインターフォンが鳴らされたの。何度も何度も何度も。いったいどんなおかしな人かしらと思ってモニターを覗いたら、可愛らしい若い女の子だった。それでちょっと興味がわいて扉を開けたの。玄関まで入れてあげたわ。

「──貴彦さんはいますか?」

 よく見たら巻かれた髪はボサボサで目は血走っていた。慌てて服をきたのかもしれない。ブラウスの袖口には黒い線がついていた。洗濯用のカゴから出してきたのかしら? ストッキングも履かずにパンプスを履いていた。

 午前中にやって来て旦那様が在宅してるわけないじゃない。どうかしてるわ。けれど面白かったから部屋の中へどうぞと言った。

 私が優雅にお茶の用意をしているとその若い女性は少し落ち着いたようで、部屋をキョロキョロと眺めていた。奥様が特別にブレンドさせている紅茶をお出しする頃にはすっかり自分を取り戻していた。

「奥様は不在です。もしよろしければ言伝を伺いますが」そう言ってにこりと微笑んであげた。すると女性は壊れたように泣き出した。

 どうやら彼女は旦那様の愛人だったらしい。いや、愛人というのもどうなんだろう。恐らくそこまでの域に達してない気がした。ただ単なる一夜の遊びの相手。彼女に身なりからそんな気がした。

 話を聞けばどうやらカラダの関係になって妊娠したようだった。だがそれを告げて以来、連絡が取れなくなったらしい。ため息が出るような話だった。

「それでどうなさるおつもりですか?」

 私がそう聞くと彼女は目を泳がせはじめた。何も考えてなかったのだろう。

「奥様と離婚させて一緒になりたいとか、子どもだけは産みたいから認知して欲しいとかあるでしょう? それとも堕胎費用の請求ですか?」

「いえ!」彼女はそう言うと黙ってしまった。「……どうしたかったんだろう」

 私はため息をついた。どうしたいのか決まっていないのに相手の家に乗り込んでくるなんて、感情的すぎるし短絡的だ。

「──私はただ、喜んで欲しいなって」

 誰にでも股を開く売女だと思われてるだろうに、よくそんなことが思いつくものだと呆れた。それでも彼女には優しい言葉をかけ、今日のところは帰ってもらうことにした。もちろん名前と住所と電話番号を聞くのを忘れなかった。


 その夜、旦那様が早めに帰って来たので着替えを用意するついでに聞いてみた。その素敵な顔の眉間に皺が寄る。

「──このことは妻は?」

「話しておりません。そのかたの虚言かもしれないと思いまして。虚言でいちいち奥様を悩ませる必要はございませんから」

 そう答えると旦那様はあからさまにホッとした顔をされた。そして財布から札を掴むと私に握らせた。

「今度その女が来たらこのカネを渡して帰ってもらってくれ。どうせカネの無心だろう。それから──」旦那様はスマホを取り出して何やら操作した。

「暗号資産なら好きなように使えるだろう?」そう言ったので、私は頭を下げてそっとその場を後にした。

 後ろ暗いところがなければお金なんて出すことはないのに。手元には三十万あった。


「あら、もう茶葉が切れたの?」

 奥様はそう言った。確かにあと二回分はあったかもしれない。

「すみません。先日お客様がいらしたので」

「お客様?」

 奥様は首を傾げた。私は黙って先日のカメラに写っていた女性をプリントアウトしたものを渡した。

「──この女性は?」

「旦那様に用事だとおっしゃってました。錯乱されていたようなので外で騒がれてもご近所迷惑だと思って、中に入れてお茶をお出ししたんですが」

「そういう方の場合は警察を呼んで構わないのよ」

 奥様は私をたしなめるように言った。けれど唇が弧を描いていた。



 私の仕事の中には坊ちゃんの部屋の掃除も含まれている。中学生の男子としては綺麗にしている方だと思う。私は部屋に入り、パソコンを立ち上げる。その履歴は何度見ても本当に愉快だ。

 女叩き・差別発言・クソリプ・誹謗中傷。ありとあらゆる行為が残っていた。よくもまあこれだけの悪口を思いつくものだ。そういう意味では尊敬に値する。そして〈死ね〉などの直接表現を使ってないところもまた上手なところだ。直接表現は訴えられたり、捕まると思ってるのだろう。どこぞの欠けたネットの知識で笑いがこみ上げる。直接表現じゃなくても今じゃそんなことはないのに。

 坊ちゃんが学校でも虐めに加担しているのは知っていた。裏サイトはもちろんのこと、リアルでカネを巻き上げていた現場に遭遇したからだ。

 念のため旦那様に報告したら、今回のように暗号資産が送られてきた。

 坊ちゃんは家では問題を起こさない。成績だって上位だ。先生方の覚えもいい。奥様も積極的に学校行事に参加される。虐めなんて通報したところで「虐められるほうに問題がある」となるに違いなかった。学校だって小さな社会だ。そんなものだろう。



 奥様は怪しげな男を家に招くようになった。お相手なのかと思ったが、どうやら興信所の人間らしい。いかに自分に有利に運べるか離婚を視野に行動しているんだろう。

 その場合は親権はどちらにいくんだろうか。どちらもいらないといいそうだが。

 奥様だけが興信所を利用して有利に進めようなんて、虫が良すぎるわね。


「──興信所?」

 旦那様は驚いたように言った。

「はい。怪しげな男性が出入りしていまして。たまたま〈興信所〉と聞こえたもので」

 ふーん。旦那様は顎に手をあてて、何か考え始めた。

「──だとしたらこっちも利用してみるべきか」そう呟いた。「助かるよ。またいつものようにしておいたから」

 私は礼を述べて、その場を後にした。



 坊ちゃんはいつもよりのんびりと軽食を食べていた。

「塾の時間に遅れますよ」そう声をかけた。

「──今日、塾って行かないと駄目かな?」

「私に聞かれても駄目ですって言うしかないですよ。坊ちゃんが具合悪いというなら別ですが」

 すると急に「イテテテ」と叫び出した。腹が急に痛くなったというのだ。仕方ないので部屋で横になっててもらうことにした。奥様には一応連絡を入れる。『ひどくなるようなら病院に連れて行って』そう返信がきただけだった。塾には私からお休みの連絡を入れた。

 休むだろうとは予想していた。昨晩、虐めてるうちの一人のポルノ画像をネットにあげていたからだ。その反応が気になるんだろう。私も何気にそのURLを手に入れていた。閲覧数はすごい勢いで伸びていた。しかもどうやらちゃっかり動画のほうは売るらしい。お金ならこの家に腐るほどあるのに、欲望はとどまることを知らないらしい。


 私はあえてお腹に優しい夜食を坊ちゃんの部屋に届けた。出てこないかとも思ったが、そんなことはなかった。ご機嫌で部屋の扉を開けた。

「お腹の調子はいかがですか?」

「うん。もう平気。逆にお腹減っちゃって」そう笑顔で答えた。

 現役中学生のポルノ動画を欲しがる輩はたくさんいた。笑いが止まらないのだろう。そもそも元手がかかってない。売上は全て坊ちゃんのものになるのだ。

「そういえば坊ちゃん」私がそう声をかけると、坊ちゃんはがっついていた皿から顔をあげた。

「──お伝えするかどうか悩んだのですが、坊ちゃんだけ知らないのはどうかと思いまして」

「なに?」

「旦那様と奥様がそれぞれ興信所を頼んだようです。理由は分かりませんけど」

「興信所?」

「ええ」

「離婚でもするかな」

「どうでしょうか」

「両方が浮気してるのは知ってるよ」

「それはどうなんでしょう。私には分かりませんが。けれど財産分与されるでしょうから、資産は半分になるでしょうねえ」

 そう言うと坊ちゃんはピクリと眉を動かした。

「再婚して子どもが出来たりなんてことになったら、さらに半分……」

 坊ちゃんは急に黙り込んだ。私は一礼して部屋を出て行った。



**


 私は住み込みではない。遅くなりそうな時は泊まることもあるが、基本的には日付が変わる前にはお暇することにしている。今住んでいるところもそう遠くないところだ。

 どうせ近々荒れるだろう。そう思うと眠れない。

 その時は思ったよりも早く訪れた。


 旦那様も奥様も早めに帰宅された。坊ちゃんはあれ以来塾は休んでいる。

 パトカーのサイレンの音が激しく響き渡った。

 慌てて外へ出た。外はすでに人だかりが出来ていた。スマホを手にしている人がたくさんいた。出来るだけ近くに寄って行く。


「──どうやら殺されたらしいわよ」

「そうなの?」

「しかも両親ですって」


 ご近所のおばさま方が仕入れてきた情報を交換していた。耳をそば立てる。新しいおばさまも加わってくる。

「どうやら刺されたみたい」

「刺したっていうか鉈らしいわよ」

「それって鉈を持って押し入ったってことかしら? そんなの持ってないわよ、普通」


 私は人混みをすり抜けて警察車両に近寄って行った。警察官の怒号が飛んでいるが、皆関係ないかのように振る舞った。

 警察官に両脇に挟まれた坊ちゃんが警察車両に乗せられて行く。どうやら彼が殺したというのに気づいてない人が殆どだった。それはそうだろう。まさかあんな子どもが両親を殺すなんて考えていないだろうから。ただ数社の報道機関は彼にカメラを向けていた。カメラのフラッシュで一瞬表情が見えた。

 坊ちゃんは確かに笑っていた。


 馬鹿ね。故意に殺した場合は相続する権利がないのよ。それから少年法は改正されてるから、今では十五歳以上なら死刑か無期懲役の判決もあり得るのよ。ああ、でも十八歳にはなってないから死刑はないわね。十四歳未満なら児童福祉法が適用されたのに。先月誕生日を迎えて十五歳だから無理ね。欠けたネットの知識の〈少年法〉に踊らされていたのだろうけど。

 それからポルノ動画のことはそのうちバレることでしょう。匿名で通報しておいたから。



 私は現場をゆっくりと通り過ぎた。9センチのピンヒールに膝上15センチのミニスカート。いつもは纏めている髪を靡かせ、ばっちりと化粧をしている。誰も私だと気が付かない。

 スマホを取り出してタップする。

「──お久しぶりです。私です。もう堕胎しちゃいました? ああ、それはよかった」

 きっと思ってもいなかった資産が転がり込むことでしょう。それが本当に旦那様の子ども、ならね。



 他人の不幸は蜜の味。



 fin

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