第四話 かつての日、二人は出会い

 トワニカ陛下と初めて出会ったのは、十年以上前。

 巨大龍についての文献を求めて、世界中の叡智が集う場所、エリシュオン魔導国の首都へと留学していた頃だ。


 若造だった私は、ただただ知識の探求に溺れていた。

 多くのことを知り、未知を潰せば、己の中の恐怖が同じように消えると信じていたのだ。


 魔導国には心臓を凍り付かせる魔女がいるという話もあって、それはそれで恐ろしかった。

 他国の人間であるというだけで疑心暗鬼に駆られるのに、魔女など絶対に会いたくない類いである。

 とはいえ、最大の恐怖はやはり巨大龍。

 龍について学ぶため、私は日々、研究と文献の調査に勤しんだ。

 ……もっとも、当時は巨大龍など伝説上の存在であり、いまだ実害は皆無だったのだが。


 仮住まいと市場、魔導学院の図書館を往復する日々。

 空想の恐ろしさにせっつかれながら、ただひたすら学ぶことを繰り返していた日常の中で。

 私は、その女性ひとと出会った。


 その日の市場はなぜだか慌ただしく、それとなく私は聞き耳を立ていた。

 どこそこの令嬢が行方不明。いや、王族らしい。捜索隊が出ている。国に関わることだ。

 などという話が聞こえてきても、大変だなとのんきに考えていたものだ。

 しかし、自体は急変する。


「――退け! 痛い目を見ても知らんぞ!」


 不吉な言葉が振ってきた。

 ――頭上から。

 反射的に視線を上げれば、そこには陽光の中、こちらへと飛び込んでくる女性の姿があって。


 日の光を受けて、キラキラと輝く水色の髪。

 蒼く真っ直ぐな眼差し。

 私の視線は彼女に惹きつけられて、心臓がぐっと苦しくなり。


「退けと言ったからなぁ!」


 ――そのまま、彼女の下敷きにされた。

 ぐえっと情けのない声を上げて潰れた私の上から、彼女は億劫そうに立ち上がる。

 遠くで喧噪。

 人混みを強引に割って、屈強な男たちがこちらへと迫っていた。しかし、人々がごった返しているため、手間取っているらしい。


 確実なトラブル。

 このままでは人災に巻き込まれると正確な判断を下す脳髄。


「くっ。もう追ってきおったか」


 走りだそうとする女性。

 しかし、その表情が苦痛に歪む。

 彼女はしゃがみ込み、足首を押さえていた。

 ……悩む時間は、そう長くはなかった。


「こちらへ」

「は?」


 私は、起き上がるなり彼女の手を掴んだ。


「待て、無礼である、なにをするつもりだ」

「待ちません、失敬、あなたは彼らから逃げたいのでは?」

「それは、そうだが」


 まごつく彼女に、私は告げる。


「窮地はチャンス」

「なに?」

「幼馴染みが教えてくれた大切な言葉です。えにしを大事にしろとも言っていました。なので、どうかご無礼をお許しあれ」

「きゃっ!?」


 一息に女性を抱き上げて、私は路地へと逃げ込んだ。

 そうして、大きく迂回しながら、男たちがやってきていた方向へと走る。


「待て、このままでは逆戻り――」

「それでいいのです」

「馬鹿なのか」

「面倒ごとに関わった時点で大馬鹿でしょう。ですが、これでいいのです。奴らは自分たちが追いかける側だと思っている」


 だから、来た方をもう一度探そうとは思わない。少なくとも、しばらくは。

 ゆえに裏を掻く。


「背後に抜けて、そのまま安全な場所へ逃げます。あなたは目立つので……私の上着でもかぶっていてください」

「…………」


 外套を頭に乗せると、そのひとは急に静かになった。

 私はひたすら走り、人気のない場所へと到達することに成功。

 女性を下ろす。


「とりあえず、ここまでくれば安全でしょう。あとは、お好きになされてください」

「……素性を聞こうとは思わないのか」


 女性はそんなことを言ったが、私にしてみればまっぴら御免である。

 これ以上関わりを持てば、なんらかの罪に問われかねないのだ。


「そうでしょう、次期魔導王、トワニカ・エル・エリシュオン閣下?」

「貴様、なぜ余の名を」


 氷のような眼差しと、立ちのぼる魔力が私を脅す。

 いまさら当てずっぽうだったと言い出せるわけでもなく、仕方なく彼女の髪と瞳を示して見せた。


「魔氷絶心。魔力があふれ出して染まった水色の髪。氷のように美しい瞳と、ゆるぎないその心を見れば、誰にでも明らかでしょう。何より彼ら――衛兵が捜索に駆り出される相手となれば、数は限られます」

「だが、確定は出来ないはず」

「……できますよ」


 何故、と彼女は問う。

 簡単だと、私は答えた。


「あなたが城を抜け出すこと、市場を駆け抜けることを、誰も止めはしなかったからです」

「――――」

「本気の衛兵から、貧弱な私が逃げおおせるわけがない。ならば、わざと逃がしたと考えるべきでしょう。探している相手をわざわざ逃がすのは……あなたが敬意を払われる相手だからだ」


 そうなれば、自ずと答えは決まってくる。

 ……もっとも、最大の理由は私の宿命さがだった。

 エンネアと出逢ってから、望まないトラブルに遭遇する確率は加速度的に酷くなっていたのだ。

 だから、このときだって一番都合が悪いことだろうと判断しただけなのである。

 そう、それだけだったのだが、王女様は感心したように頷いて。


「……ふむ、少しは頭が切れるようだな。貴様、名をなんという」

「ヨナタン。ヨナタン・エングラーです、閣下」

「よし。気に入ったぞヨナタン。貴様を、私の側近に取り立ててやろう」


 ――などと、幼い言葉を交わしたのが、始まりの日。

 それから私と陛下は、何度となく顔を合わせるようになった。

 正確には、彼女が王城を抜け出す手伝いを、何度もさせられた。

 いわゆる、腐れ縁である。


「案ずるな。何度捕まっても、貴様の名前だけは出さない」

「出されたらよくて国外退去。悪ければ私の首が飛びます。慕われているのはあくまで閣下だけなのです」

「それは困る、人類の損失だ」

「お誉めの言葉がお上手で」

「本気で言ってるのだぞ!」


 ムキになった彼女と喧嘩をしたりもした。

 一緒に氷菓子を食べたり、水辺で語らったこともあった。

 あるとき、彼女は言った。


「いずれ、この身は朽ちる。余は死ぬ」


 誰だってそうだろうとは茶化さなかった。

 私もまた、死という言葉に畏れを覚える人種だったからだ。


「秘密を一つ教えてやろう。照応という言葉を知っているか?」

「言葉自体は」

「魔法において照応とは、とても重要な概念だ。たとえば……エリシュオンの王となるものは、莫大な魔力を持つ。それは、この国自体と契約するからだ。己の身体を、領土と見做してな」


 彼女曰く、国土と契約することで人知を超えた力を手に入れる魔法を、王室の先祖が開発したのだという。

 そうして、歴代の王族は皆この契約をしてきた。

 だが、誰しも国と深く結びつけるわけではなく、最も強い約定やくじょうがあったものこそが、王に選ばれるのだという。


「それがあなただと?」

「そうだ。余はいずれこの国の女王となる。しかし、この契約には問題が一つあるのだ。国と繋がるということは、国に命を捧げるということ。照応を基点にしているのだから、相互に影響が出る。当然だな」


 自然と共存する魔導国の繁栄。

 それは、森林を生かすことに他ならない。

 歴代の王は自らが人柱となり、この国の全ての植物を豊かに育て上げてきたのだという。

 文字通り、その身命を賭して。

 なるほど、ならばここまで国民に愛されるのも理解できる。

 城から抜け出すことを看過されるのも、それを許されるのも、彼女が国そのものだからだ。

 しかし――


「ああ、やはり察しがいいな。契約の対価に、術士はじわりじわりと衰弱し、やがては死ぬ。国土が他国に脅かされれば、死は早まる。森が燃えても、枯れても、朽ちても同じだ。契約が強いほど、その連携は密接となる」


 だから、彼女は逃げ出したのだと言った。

 こんな現実から、責任から、死から逃げ出したかったのだと。


「卑怯だろう。卑劣だろう。嘲笑あざわらうがよい、ヨナタン。王族にありながら、覚悟なきものと。愛してくれる民からさえ逃げ出した愚者と。しかし、それでも運命に抗いたかったのだ。ただ、余は――」

「逃げようとすることは、生きようとすることです」

「な、に?」


 初めて表情を変え、戸惑ったようだった彼女に。

 私はただ、当たり前のことを言った。


「私は、大変な怖がりで、臆病者で、多くの物事に背を向けました。しかし、一度だって死にたいと思ったことはありません」


 なかった。

 私は死を望まなかった。

 どれほど世界が恐ろしくて、理不尽で、不合理で、不条理でも。


「逃げるとは、生きようとすること。脅威を前にして命を捨てるのではなく、一秒でも長く、死の運命サダメに抗おうとすることです。私はそんな閣下を、笑うことなどできません。なにより閣下が生きることは……国を、存続させることではないですか」

「――――」


 大きく目を見開いて。

 宝石のように美しい蒼い瞳で、ジッと彼女は私を見詰めて。

 そして。


「決めたぞ、ヨナタン。余は」


 彼女、トワニカ・エル・エリシュオンは。


「余は、王として生き抜く。だから――この度し難い人生を、ともに歩んではくれまいか?」



§§



「などと、恥ずかしくげもなく余はそう告げたのだ。覚えておるか、ヨナタン」

「……忘れました」

「嘘をつくな」


 言いながら、トワニカ女王陛下は、私に特産の果汁酒を押しつけてくる。

 酸味が強く、炭酸が混じった、青春の味がする酒。


 場所を陛下の私室に移し、私は直に杯を受けていた。

 彼女の容態はどうにか安定しており、しかし予断を許さない。

 領土と命を共にしている陛下にとって、森を蚕食さんしょくする龍跡樹林は身体を蝕む悪性ガンにも等しいものだからだ。


「ヨナタン。龍禍賢人」

「なんでしょうか」

「余は、生きたい」

「…………」

「なんとしても、生き延びたい。頼めるか?」


 氷の声音。

 けれど確かに存在する古き友人の熱情を受けて。

 私は。


「なんとか、致しましょう」


 己を奮い立たせ、断言したのだった。


「龍跡樹林、滅ぼすべし!」

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