断章 300年の沈黙より目覚めて

〝それ〟はエンネア・シュネーヴァイスを見ていた

 一部始終を見ていた。

 ただ、見ているだけのつもりだった。


 テュポス山脈は、人がエルドと呼ぶ国の北方に位置していた。

 人間の暦で300年以上前、古き巨大龍が死に絶えた地である。

 龍の血肉、なにより骨は大地と混じり、この山脈を形成した。


 龍は、本来同じ〝龍〟の気配を避ける。

 破壊のルールによって世界を塗りつぶすことが使命であるから、二度同じ場所を通ることはない。


 しかし、現代の龍は過去の龍を求めた。

 ……いかなる法則、感傷、知的行動の産物であるかは解らない。

 だが、新しき龍は、確かにテュポスへとやってきたのだ。

 それがこの地に住まう人間たちにとって、悲劇でしかなくとも。


 龍の巨体に踏み潰され、血の花が咲く。

 花が咲くことを、龍は喜びとも誇りともせず進む。


 当然だ。そのような回路は実装されていない。

 ただ進み、ただ破壊し、新たなるルールで世界を塗りつぶすこと。

 それが、巨大龍の使命である。


 何も知らない人間たちは逃げ惑い、阿鼻叫喚あびきょうかんとなった。

 混乱の中、他の個体が倒れれば踏みつけて進み。

 泣き叫ぶ幼い個体が一人はぐれても、誰もが無視を決め込んだ。

 年老いた人間が走れなくなってうずくまりり、そのまま見捨てられていく。


 当然だ。生物とは、増えるために生きるのだ。

 生殖に不要な存在など切り捨てることが正しい。


 力なきもの。

 すぐに死ぬもの。

 弱者。

 わざわざそれらに割くリソースを持つ生物種など、存在しない。

 正しい。

 この場では巨大龍も、人間も正しかった。


 よって、ここで起きていることは、自然の摂理である。

 どれほど人間にとって悲劇的であろうとも、圧倒的に正解であったのだ。

 だが――


 そんな摂理に、抗うものがいた。


 尻尾の一振りで、砂の城のように倒壊していく建造物。

 瓦礫が雨のように降りしきる中、真っ直ぐに進む人間の女がひとり。

 それは老婆を担ぎ上げると、歯を食いしばって走り出す。

 目の前を龍の尻尾が薙ぎ払っても、動じることなくその下を潜って逃げ延びる。

 途中、泣きじゃくる幼い個体を認めた〝それ〟は、強く子どもを抱きしめ、手を引いて進む。

 叫ぶ。


「窮地はチャンス! 逃げ延びれば、仲間たちが保護してくれます。諦めないで、最後まで――生きることを!」


 声に応じたわけではないのだろう。とどめを刺したいなどという感情の持ち合わせはなかったはずだ。

 だが、龍はゆっくりと大顎を開く。

 喉奥でちろちろと燃える、災禍の種火。

 数秒の後、この地は赤黒い業火に包まれて消滅するだろう。


 されど――〝それ〟は止まらなかった。

 老いた個体と、幼い個体を連れてどこまでも走り。

 最後の瞬間、二人をかばって抱きしめ。

 振り返って、巨大龍を正面から睨み付けた。


「龍よ、荒ぶるものよ、希望を奪う災厄よ、聞きなさい。あたしは――人間は、決してあなたに屈しない。そう……。あたしたちの祈りは、消えはしない!」


 放たれた誓言せいげん

 強い力が宿る言葉。

 〝それ〟はまなじりを決し。

 しかし、災禍の変化に気が付いて、目を見開いた。

 龍の凶眼と、女の視線は出会っていたのだ。


〝それ〟がポケットを探り。

 巨大龍に向けて、何かを差し出す。


 花だった。

 一輪の、永久とわ白き花。

 なんの力も持たない、脆弱な山野草。


 だが。

 たったそれだけの事が。

 不可避の破滅を、現象を、逆転させる。


 ――奇跡。


 それ以外に、どう言い表すことが正しいのだろうか?

 巨大龍が、ほんのひと刹那、動きを止めた。

 この星において最も強き破滅の力が、人間種などという脆弱な存在のただ一個体の声を聞いて停止したのである。

 これを、奇跡以外にどう呼ぶのか、その時は知らなかった。


 巨大龍の、感情などという回路を有しないはずの瞳が、ゆっくりと人間を見下ろす。

 何故こうなったのか、誰にも解らなかった。

 不可思議で、興味深くて、同時にジッとしていることが出来なくて。


 〝吾〟は、気が付けば彼女たちを助けていた。


 本来ならば古き龍の遺骸とともに大地へ帰るはずだった吾は、残されていた権能を振り絞る。

 巨大龍が改めて胸郭きょうかくを膨らませ、火炎を放つ。

 一瞬後にも消え失せる人間たちを、両腕で届く範囲全て抱きしめ、吾は飛翔する。


 白き流星となって飛ぶ。

 龍由来物質の汚染より人間を護り。

 やがて、力尽きて地に落ちた。


 女が己を犠牲にして庇った者たちは無事だった。

 しかし〝それ〟の肌は焼け落ち、いまこの瞬間にも命の火は消えゆこうとしている。


 命。

 命とはなんだ。

 なぜこの個体は、未来がないものを、幼くて繁殖の役に立たないものを庇った?

 正しくない振る舞いを、何故行った。

 吾はどうして、衝動に突き動かされている?


 あふれ出す疑問は止まらず。

 やがて、吾は決断を下した。


 それは禁忌だったのかも知れない。

 ことわりを司る〝白き巨人〟として、間違った行動だったのかも知れない。

 それでも――


 吾はその日、エンネア・シュネーヴァイスと一体化した。

 意識が混ざり、彼女の記録と感情が流れ込んでくる中で、いくつもの個体の顔を見た。

 なかでも、強く表出されていたのは、二人の男で。


「希望、か」


 残された力は少ない。

 本来と比べれば、皆無にも近しいものだ。

 それでも吾は、エンネア・シュネーヴァイスの行動の意味を知りたかった。

 ゆえに。


 七年の後、吾は巨大龍を倒したのである。

 それが、次なる破滅のカウントダウンに過ぎないと知っていても。


 エンネア・シュネーヴァイスが守りたいと願ったものを、理解するより前に、失わないために――

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