第100話 16-2.
「ふぅっ……」
部下からの指示要請や取引先からの連絡等でパンクしそうなメールファイルを、しゃかりきになって処理し続けて、さすがに眼球と瞼の間にもう一枚膜が張ったような疲れを感じて、アマンダはゆっくりと携帯端末のAFLディスプレイから顔を上げた。
病室の大きくとられた窓から、攻撃的な程の眩しさで射し込んでいた晩夏の午前中の陽光は、午後に入ってご機嫌麗しく何処かへ遊びに出掛けた様子で、今、外の世界は白っぽい霧に覆われているかのように変色して、今のアマンダにはかえって眩しすぎるほどだった。
眩しいくらいに、陽光が煌めく、静かで平穏な、日向。
仕事が忙しいのはさておき、穏やかな空気と明るい陽射しに満たされた空間で、陽介とふたりっきりで過ごすひととき。
陽介が、こんなアタシを太陽の光が眩しすぎるほどの昼間へ、導いてくれた。
不意に、そんな想いが抑え難く沸き起こり、アマンダは慌てて両手で目元を強く抑え、大きく息を吸い込む。
陽介の緊急手術から既に4日目、慣れた筈の病院特有の匂いが、一瞬、遠い、けれど片時も忘れたことのない記憶を呼び覚ました。
「ばあちゃん……」
穏やかな笑みを浮かべ、すっかり細くなった皺だらけの腕をゆっくりと持ち上げて、枕元で眼を真っ赤に腫らしていたアマンダの黒髪を撫で続けてくれた、祖母の言葉。
『雪ちゃんは、最近、穏やかに笑えるようになったねえ』
だから、とアマンダは、ICUで一瞬陽介が瞼を開いてから、数十回も誓った想いを繰り返し、そっと目元から手を離す。
さっきまで携帯端末のフィルム型キーボードの上を舞うように動いていた右手に、今もまだ残る陽介の掌の感触。
ICUのベッドに、点滴のチューブやモニタ類のコードで雁字搦めに縛り付けられていた陽介が、酸素マスクの下で、必死に浮かべた微笑み、それを伝えようとまるで赤ん坊のように弱々しい力で、何度も握り締めてくれた掌の温かさの意味を、アマンダは絶対死ぬまで忘れるもんか、忘れてたまるか、きっと忘れないと言いたげに、そっと、今はなにもない掌を握り締めた。
『ほんとのヒーローって奴はな? ヒロインを、こんなに泣かせちゃいけないんだ』
血に塗れながら、38口径で開いた大穴を胸に抱きながら、掠れる声で格好をつけて見せた陽介は、きっとICUのベッドで握った掌でもそう言いたかったに違いない。
「だから、もう泣かない。……ばあちゃんお墨付きの笑顔で、出迎えてやらあ」
手術室の前で、四季に囁かれた言葉が蘇る。
そうさ、お前がアタシの太陽であるように、お前にとってもアタシは太陽でいたいんだ。
だからお天道様も驚くくらいの眩しい笑顔で、お前の目覚めを迎えてやるさ。
微かに涙で湿った指先の向こう、ICUから一般病棟へ移された陽介の顔からは酸素マスクは外され、点滴のチューブが2本延びている。
ICUで眠っていた時から較べると、まるで人が違うみたいに穏やかな表情を浮かべている陽介の寝顔を、アマンダはじっとみつめた。
まったく、世話焼かせやがって。
何日寝りゃあ気が済むんだよ?
さすがのアタシも、もう代休のストック、底をつくぜ?
考えてみりゃあ、待たされるのは何時だってアタシだ。
いったいテメエ、何様のつもりなんだ?
いい加減にしやがれ陽介のクセに!
……なあ、ほんと、頼むよ。
病室ってのはヤニも吸えねえし、携帯端末の通話も出来ねえし、マジ、参るんだよ。
だから、頼むよ。
眼ぇ、醒ませ。
早く起きろよ。
怒らねえから。
……お願いだから、さあ?
今眼ぇ醒ますと、もれなくアタシの笑顔がついてくるぜ?
……なぁんて、な。
頼むよ。
起きてよ。
でねえと弱いアタシは、毎日泣いてばっかりだ。
せっかく笑顔をサービスしようと思っても、これじゃあ笑い方なんて忘れちまうよ。
陽介。
アタシの、ヒーロー。
ヒーローってなぁ、美女が悲しんでる時ゃ、颯爽と駆け付けるもんだぜ?
だから、さぁ?
お願い。
起きて。
アンタとどうでもいいような話がしたいよ。
アンタの優しい瞳でみつめられたいよ。
アンタの笑えない冗談で笑いたいよ。
アンタの柔らかい笑顔が見たいよ。
アンタとコーヒー飲みたいんだよ。
アンタと手を繋いで歩きたいよ。
アンタと一緒に飯食いてぇよ。
アンタに抱かれたいんだよ。
もっぺん、アンタと。
キス、したいよ。
アマンダはそっと上体を折り、陽介の寝顔を上から覗き込む。
「よ、う、す、け」
一音づつ区切りながらゆっくりと、愛する人の名前を構成する一文字づつが、まるで彼の命を繋ぎ止めている呪文のようで、囁くようにその呪文を紡げば想いが届くとでも言うように、アマンダは吐息が彼の頬を撫でる距離まで顔を近付け、唇を微かに動かす。
暫くそのままの姿勢で、息を止めて彼をみつめていたアマンダは、やがてそっと瞼を閉じると、ゆっくり、更に顔を近付けた。
あと数ミリ、というところで、震える睫に飾られた瞼を開く。
ごくり、と微かに喉が鳴った。
アマンダは瞳を閉じると、そのまま更に身体を折る。
啄ばむ様な、くちづけ。
一瞬だけ触れた彼の唇の感触を確かめるように、ペロ、と舌先で唇を湿らせる。
刹那、頬が朱に染まるのを覚える。
アマンダの唇が微かに開かれ、ゆっくりと、震える吐息が再び陽介の唇を撫でた。
「ん……」
それが合図であったかのようなタイミングで、自分のものではない声が、静かな病室に響いた。
「……え? 」
アマンダの表情に驚きが広がる。
まさか?
疑問を口にする間もなく、陽介の瞼がゆっくりと開いた。
「え? 」
信じられなかった。
確かに、医者は言っていた。
『手術は成功です。麻酔と破断した神経組織のバイオ再生療法、双方の影響で2、3日は眠ったままでしょうが、心配いりませんよ』
だから、腰を据えて待つことにしたのだ。
ジャニスも志保も、『その程度だったら、私達がバックアップするから』と言ってくれた。
だから、待つことにしたのだ。
だけど、待ち切れなかった。
1分1秒でも早く。
そう思いながらそっと落とした唇が。
落ち着け、アタシ。
そんな、馬鹿な。
口付けが切っ掛けで目覚めるなんて。
童話の世界じゃないんだから、さあ。
しかも童話じゃ、王子様がキスしてお姫様を起こすのが定番だ。
これじゃあ、あんまり。
パニックに陥りかけるアマンダを現実に引き戻したのは、陽介の掠れた声だった。
「やあ、アマンダ。なんか、久し振りだな」
ああ。
ほんとに陽介だ。
アタシの、ヒーロー。
待ち侘びて待ち焦がれて、あんな恥ずかしい真似までさせた、陽介だ。
なにか言わなきゃ。
ええと。
えと。
そうだ。
笑うんだ。
そう決めてたじゃねえか。
笑え、アタシ。
「うぐ」
顔の筋肉が、思い通りに動かなくて、代わりに喉が鳴った。
ああ、駄目だ。
やり直し。
「うぅ」
少しだけ、唇の端が動いてくれたけれど、それでもやっぱり変な声が洩れ、おまけに涙までポロッと零れた。
「なんだ、お前……。泣いてんのか? 」
くそっ!
なんでこんなトコだけ目聡いんだ、この馬鹿は!
折角の目覚めを笑顔で迎えよう、そう決めたのだ、これ以上涙が零れぬよう、下っ腹に力を入れる。
しかし膝頭はガクガク震え、今にも椅子から転がり落ちそうで、アマンダは思わず布団の上に出た陽介の左手に両手で縋り付く。
二度と、離さない。
死んでも、離さない。
もう、絶対、絶対、離すもんか。
漸く掴んだこの手を、今度こそアタシは離さない。
ふたりで一緒に、生きてゆく為に。
ふたりで、恋していく為に。
「アマンダ? 笑ってくれよ」
陽介の言葉に、アマンダは握った手に一層の力と祈りを込めて握り返す。
彼の温かい掌が、あのときと同じように、ゆっくりと握り返してくる。
ああ、待ってたよ、陽介。
アンタはいつも、そうやって駄目なアタシに手を差し伸べてくれていた。
アンタの伸ばした手、柔らかな瞳、温かな笑顔、優しい想いに導かれ、アタシは今日まで生きてきたんだよ?
そして、今日からは。
今日からは、アンタと一緒に生きていくんだ。
その、第一歩。
アンタが言ってくれたんだ。
アタシはひまわり。
あの子達のように、笑顔でアンタを見上げるんだよ?
だって、アンタは太陽だもの。
アタシだけの太陽、なんだもの。
そして、アタシは。
アンタの太陽でもありたいんだ。
だから、だから太陽らしく、眩しいくらいの笑顔をアンタに。
だから、もう一度。
「泣いてなんか、ねえ」
笑ってんだよ、これでも。
「泣いてなんか、ねえっ! 」
だって、本当に。
本当に、嬉しいもの。
嬉しくって嬉しくって、たまらないんだもの。
陽介はふ、と笑顔を浮かべると、枕に頭を沈めながら、微かに頷いて見せた。
「お前の笑顔は、最高に綺麗だから、なあ」
ああ。
もう、駄目だ。
なんでそんなに優しいんだ?
なんでアタシを手放しで褒めてくれるんだ?
まともに笑えないような、アタシなのに。
アンタをこんな目に遭わせた張本人なのに。
こんなに泣いてばかりで、困らせてしまっているのに。
「陽介、馬鹿ぁ」
最後は誤魔化しようもないくらいの泣き顔と涙声で、アマンダは顔を陽介の胸に埋めた。
今度は、そっと。
ミルク・ビスケットの、仄かに甘い香りで、胸が満たされたような気がした。
ああ、やっぱり。
この香りが、アタシの、幸せの香りなんだなぁ。
点滴のチューブに繋がれた陽介の右手が、アマンダの背中をゆっくり、優しく撫でた。
「うああっ、うぐ、うえっ」
嗚咽に震えるアマンダは、それでもうわごとのように、繰り返し、繰り返し、呟く。
「泣いてねえっ! 泣いてなんか、ねえっ! 」
そう唱えてさえいれば、これを最後に涙を流す日々なんて二度と来なくなるんだ。
そう唱えてさえいれば、今日からは幸せばかりしかないんだ。
そう、信じて。
「ああ、そうだな。笑ってんだよな? 」
陽介は泣きじゃくる我が子を宥める父親のように、そう言いながら、けれど右手の動きを止めない。
「陽介、陽介ぇっ! 」
好きだ。
好きだよ、陽介。
これまでの人生……、まあ他人様に自慢できるような代物じゃないことは判っているけど、アタシの生きてきた今日まで、全てを賭けて、愛してる。
親父やおふくろ、ばあちゃん、たくさんのひとと悲しい別れを経験してきたアタシはだから、今度こそ、今度こそ絶対陽介、お前を離さない。
例えこの手が千切れようと、例えこの生命と引き換えようとも、絶対、繋いだこの手を離さない。
そうとも。
こんなにアタシを幸せな気持ちにしてくれるコイツを、離すもんか。
こんなにアタシを大切にしてくれるコイツを、離すもんか。
こんなアタシをいつも助けてくれるコイツを、離してたまるか。
アタシの、ヒーロー。
アタシだけの、太陽。
眩しい夏の陽射しが時折零れ落ちる白い病室、時の流れが静止したような正午前、アマンダの泣きじゃくる声だけが響いていた。
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