16. 約束の地
第99話 16-1.
妙に身体全体が怠かった。
寝返りを打てば、少しは楽になるかとも思ったのだが、まるで鎖で縛られたみたいに身動きがとれない。
いったい、どうしたんだろう。
こりゃあ、風邪でもひいたかな?
そういえば、後頭部の辺りで鈍痛がする。
熱でもあるのか、喉が焼けるようにひりひりして、症状を自覚した途端、猛烈に水分が欲しくなった。
ああ、冷たいエビス……。
いや、風邪じゃマズイか。
だったら、せめて麦茶とか水でも……。
それにしてもいったい何時の間に風邪なんかひいたんだろう?
別に飲み過ぎて駅のベンチで寝た記憶もないし、土砂降りにあって身体が芯まで冷えた、なんて覚えもない、風呂からあがって裸で寝たとか冷房を朝までつけっぱなしで寝てしまった覚えも、もちろんない。
だいたい、瞼が開かないってのはどういう訳だ?
余程、症状が重篤なのだろうか?
夏風邪は、拗らせると長引くって言うしなぁ。
仕方ない、今日は仕事は休むとするか、たまにはいいだろう。艦隊勤務なら出来ない贅沢というやつだ。
オフィスに電話してもいいが、アマンダに
そこまで思考が辿り着いて、ふと、気付いた。
……アマンダ?
俺はなにか、アマンダのことで、とても重要な何かを忘れている気がするのだが……。
ええと。
大隊長や統括にヒントを貰って……、出張を口実に山梨県へ行ってそこで……。
いやいや、これは時間を遡り過ぎだ。
馬車道で、アマンダとジャニスを見掛けて……、ああ違う、もっと端折らなきゃ。
そうそう。
ウェディング・ドレスのディスプレイを見て、気付いたんだよ。
それでYSICのロビーで……、あの時はただ、想いを伝えなきゃって必死だったんだけど、考えてみれば一生分の恥をいっぺんに晒したよなあ。
アマンダもさすがにカンカンに怒ってたし。
でも、その夜のキスは……。
うん。
甘かった。
雰囲気に
別にファーストキスって訳じゃなかったけれど、キスってのはあんなに甘くて、エロティックなものだったっけか?
灯りを消した居間で、台所の蛍光灯に照らされて、アマンダの長い睫が細かく震えているのは、なんていうか、儚げで、綺麗だった。
告白して、良かった。
と言うか、もっと早く告白するべきだったか?
いや、遅かれ早かれ、俺とアマンダはそうなる運命だった……、ってのは言い過ぎだな。
今だから言えることだ。
あの、強く抱き締めれば腕の中で粉々に砕けてしまいそうな儚いアマンダを、俺は一生手放さない、例え死んでも守るんだ、アイツが無条件で認めてくれる、真のヒーローになってみせるんだ。
そう、思ったことだけは、真実だ。
……あれ?
なんか、何時の間にか思考が脱線してるな。
ああ、そうだ。
重要な何かを忘れてる、って話だった。
……でも、あれ?
ええと。
ヒーロー……。
死んでも守る。
ヒロインを、アマンダを、守る。
そうだ!
あの時!
アマンダは?
アマンダはどうなった?
無事だったのか?
俺はアイツを守れたのか?
……待て。
今の俺の、この不自由且つ不快極まりない状況を鑑みるに。
ひょっとして、俺は、死んだ、のか?
もしそうだとしたら、ここにアマンダがいないということは、俺は彼女を守ることが出来たと言うことになる。
なる、のか?
いや、守れたんだろう。
もしも守れていなかったのなら、隣にはアマンダもいる筈だ。
だけれど、彼女の気配も、あの甘く懐かしい、ミルク・ビスケットのような香りも、感じ取れない。
と言うことは、おそらく、アマンダは無事なのだろう。
だとしたら。
漸く俺は、ヒーローの真似事くらいは出来た訳だ。
アマンダが口癖のように言っていた言葉、それすら彼女らしいと言えば言える、子供っぽい幻想なのだろうが、けれど愛する女性がそうあれ、そうあって欲しいと望んでいるならば、そしてそれが可能なら、そうありたい、としみじみ想う。
俺の生死は兎も角、アマンダは無事らしいと判って、思わず吐息をつくと、それまでピクリとも動かなかった右手の指が、微かに動いた。
今度は自分の意思で右手の指を、親指、人差し指、中指と順番に、握るように動かしてみる。
動く。
動かせた指の先から、ゆっくりと感覚が戻り始めたような気がした。
そして、気付いた。
なにやら、掌に柔らかな『何か』が置かれているような感触。
「陽介……? 」
刹那、微かな声が耳に届く。
ああ、この声。
聞き慣れた、懐かしくて甘い、ハスキーボイス。
少し、普段に較べて湿っぽいかな?
それは彼女にしては、滅多に聞けない優しげな、そして切なげな、脳を直接刺激するような~あまり旨くない喩えだ、自分でも何を言いたいのか判らない~、甘い囁き。
ああ、そうだ。
滅多に聞くことは出来ないけれど。
俺は、この優しい囁きを耳にするだけで、天にも昇るほど、幸せな気分になるんだ。
そして、もうひとつの確信を得る。
この声で囁く彼女はきっと、綺麗な、整った顔に、少しだけ恥ずかしそうな、困ったような微笑を浮かべ、黒曜石のような不思議な煌きを讃えた瞳を、真っ直ぐに俺へ向けているに違いない。
一所懸命、俺をみつめてくれていることに、それはもう違いないのだ。
そんな彼女の表情を、この眼で見たい。
その一念だけで陽介は、ゆっくりと瞼を開こうと、両目に神経を集中させた。
暗闇が、徐々に濃紫へ、そして明け切らぬ夏の薄明の群青へと移ろい、それが不意に血の赤に変った次の瞬間、人工的な白い光が射し込んできた。
「陽介っ! 陽介ぇっ! 」
今やはっきりそうと判る、アマンダの涙声。
右手の掌を掴み、力一杯揺さぶっているのは、彼女の手。
ナイフより、分隊支援銃器より、東欧製のハンドガンよりなによりも、台所用具や裁縫道具が似合う、美しい、アマンダの手。
「先生っ! 誰かっ! は、早く! 早く来て! よ、陽介が、陽介がぁっ! 」
こらこらあんまり騒ぐな迷惑だぞ、と言おうとして、口は動くが声が出ていないことに気付く。
酸素マスクかなにかを装着されているらしい。
と言うことは、ここは病院か?
瞳の動く範囲は狭かったが、左の視界の端に映った見覚えのあるシルエットは多分、点滴台か何かだろう。
アマンダの叫び声の合間に聞こえてくる電子音は、心電図かなにか、テレビでお馴染みの音のようでもある。
どうやら、死んではいない、助かったようだ。
そして、俺の手を握り締めて泣き叫びながら、医師や看護師を呼んでいるアマンダの声の大きさからすれば、彼女は怪我もなく、無事に助けることが出来たのだろう。
そうと判れば、今は唯、アマンダの顔が見たかった。
だが、喋れない身としては、意思を伝えるにはボディランゲージしかあるまい。
そして俺の身体で動く部位は限られているようだ。
陽介は力を込めて、右手を握り締めている彼女の柔らかな掌を握り返す。
力を入れ過ぎれば、儚くも夢のように崩れ去ってしまいそうな、柔らかな、小さな掌を。
ああ、アマンダ。
お前って奴は、こんなに小さな掌に、抱えきれないほどの幸せと驚きを乗せて、俺に幸せを感じさせてくれていたんだな。
「陽介っ? 」
右手の動きに気付いたのか、叫ぶのを止めたアマンダの涙に濡れた顔が、いきなり陽介の視界一杯に広がった。
まったくアマンダ、お前ってヤツは。
こんな時でも、俺の予想の遥か斜め上を行く。
「陽介、大丈夫かっ? 痛くないか? アタシが判るか? 喋れねえのか大丈夫かなんか言ってよお願いだからアタシを許してアンタをこんな酷い目に合わせたアタシを許して許すって言ってよ頼むよ陽介早く、早く元気になってもっぺんキスしてよぉっ! 」
参ったな喋れないんだよそれなのにそんな何もかもいっぺんに言われてどうすりゃいいんだ?
取り敢えず意思表示が大切だと、陽介は、ゆっくりと頷いて見せた。
微かに首に力を入れただけで頭全体や背中、胸に激痛が走り、ほんの数ミリしか動かせなかったが、どうやらアマンダには伝わったらしく、それは彼女の瞳からボロボロッ、と大粒の涙が零れ落ちたことでそうと知れた。
「陽介ぇーっ! 」
一言叫んだ次の瞬間、アマンダの顔が視界から消え、次の瞬間胸に重みがかかり、同時に予想外の激痛が身体全体を襲った。
ぐわっ痛い!
そう叫ぼうとして敵わず、僅かに自由になる顔の筋肉を最大限に使って感情を表現したつもりだったが、肝心のアマンダは身体の上に突っ伏しているようで、当然、どれだけ顔が歪んでいるかは判らないようだった。
「はい、退きなさい! 」
見知らぬ女性の声がして、次の瞬間、ふ、と身体が軽くなる。
ああ、医者と看護師が駆け付けてくれたんだと気付いた途端、さっきまで身体を切り刻んでいた激痛が、嘘のように退いていった。
「うあああ、陽介ぇ、陽介ぇえっ! 」
アマンダの泣き叫ぶ声に些か閉口しつつも陽介の意識は再び、ゆっくりと現実から遠ざかりはじめる。
まあ、いいや。
アマンダが五月蝿いくらい元気だってことが判っただけで、安心だ。
後は俺が生きるか死ぬか、それはもうこの際、医師達に任せておこう。
だいたい俺自身、死ぬ気なんてこれっぽっちもない。
そうさ、そうだとも。
アマンダを残して死ぬなんて、あり得ない。
ただ、予想外に長い夏休みになりそうだけど。
急激に薄れ往く意識とアマンダの泣き声を聞きながら、陽介は思った。
次に目覚めた時は、できればアマンダの笑顔が、駄目でもせめて普段通りの仏頂面が拝みたいもんだ。
「は……。了解しました。データ抽出次第、ご報告……。え? ……あ、はい。……手配いたします。……アイアイマム」
当面陽介の代理を務めるという瑛花からの報告書提出の命令を受領して、志保は受話器を置いた。
「どうしたの? 志保」
いつのまに横に来ていたのか、ジャニスが小首を傾げて訊ねてきたのに、志保は立ち上がりながら唇を突き出して見せた。
「今期第1クォーターの調達実績報告に不審点があるから、原始データ送れって、統括が」
「急に忙しくなっちゃったねえ、ご苦労様です」
他人事のようにのんびり呟くジャニスに、志保は肩を竦めて見せた。
「せめてアミーが早いトコ戻ってくれないかしら」
「あの娘、こんなところは腕っこきだから」
自席から立ち上がり、背後にある陽介の部屋のノブを掴んでから、志保は思い出したようにジャニスを振り返った。
「ジャニスもセンター長室に用事? 」
ジャニスは志保の真似をするように、やはり肩を竦めて見せた。
「私は病院で遠隔でお仕事中のアミーに頼まれて。緊急で荷役依頼する予定の神奈川県トラック協会との契約書の捺印、代理押印してくれってメール」
「ちょっと、ジャニス。代理押印って、そんなの許される筈ないでしょう? だいたいアミーも……、って、なに? 」
そこまで言って、志保はジャニスがニヤニヤと笑っているのに気付く。
「『アミー』も、代理押印頼むなんて非常識よねえ? 」
「むぅ」
知らないうちにアマンダをニックネームで呼んでいたことをからかわれて、志保は頬を赤くしながらセンター長室へ入った。
最近、漸くジャニスの性格~『面白ければ悪魔にだって魂を売り飛ばす』精神~に気付いて、抵抗は彼女の燃料であることを悟ったのだ。
「確かセンター長、メモリは抽斗に入れてたわよね? 」
陽介のデスクに回り込みながら、答えを期待するでもなく言うと、ジャニスが後をついてきた。
「その筈。そうそう、センター長印も抽斗にないかな? 」
志保は何気なく、一番下の抽斗を開いて、思わず息を呑んだ。
「! 」
「……どしたん? 」
志保の表情の変化に気付いて、ジャニスは志保の背後から抽斗を覗き込んだ。
「あ」
そこに入っていたのは、何百羽もの、折鶴。
メモ用紙やコピー用紙、スットックフォーム、何かの包み紙。
ありとあらゆる種類の紙で折られた、可憐な鶴の群れ。
ジャニスが、まるで子供みたいな歓声を上げた。
「うわぁ……。ジャパニーズ・ペーパー・クラフトだぁ! 」
「ええ……。ORIGAMI、ね……。鶴よ。折鶴。Crane」
「へぇぇええ……。これ、Craneなんだ……。アミーったら鶴を折ってたんだね。なんなの? って聞いても教えてくれなかったんだ」
志保は驚いてジャニスを振り返った。
「え? ……これ、アミーが折ったの? 」
「うん! 」
ジャニスは瞳を子供のようにキラキラと輝かせ、抽斗から視線を外さないまま答えた。
「すごいんだよ、アミー。片手でね。電話とか新聞読みながらとか会議中とか端末操作しながらとか、そこらへんにある紙切れでパパッて、あっという間に折っちゃうの! 」
陽介の抽斗に仕舞われた無数とも思える様々な大きさの鶴達。
志保は、一見折紙等とは無縁に思える彼女の外見イメージもさることながら、あの無口なアマンダらしいコミュニケーションがこんなにも可憐な鶴となって現れたことに、何故か胸が詰まる想いがした。
そしてそれ以上に、陽介がそれらを大事に抽斗へ仕舞い込んでいることに、思わず表情が緩むのを禁じ得なかった。
それは、微笑ましくも初々しいふたりへの祝福と、少しの悔しさ。
「ねえ、ジャニス? 」
「ん? 」
漸くこちらに顔を向けたジャニスに、志保は、ゆったりと微笑みかけながら、言った。
「この鶴、千羽鶴にしてセンター長に持って行ってあげようか? 」
「……千羽鶴? 」
小首を傾げるジャニスに、志保は再び鶴達へ視線を落としながら頷いた。
「うん。日本の風習。病気や怪我のお見舞いに、早く元気になりますようにって願いを込めて、鶴を沢山折って、飾りを作るのよ? 」
「志保……」
ゆっくりと微笑むジャニスに、志保は微笑を悪戯っ子のような笑顔に変えた。
「勘違いしないで? これで千羽鶴作って持ってったら、きっとアミーが悶えるほど恥ずかしがるだろうなって、思いついただけなの」
ジャニスもクスクス笑って頷いた。
「今度はアミーが入院しちゃうかも、ね? 」
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