第93話 14-5.
「いや、沢村さん。今回は本当にお世話になりました。お蔭で私も本社に対して鼻が高い」
「磯野様、そんな、おやめください。こちらこそ、瑕疵担保期間を過ぎた調達品の処理をお引き受け頂いたこと、お礼を申し上げなければいけませんのに」
「いえいえいえいえ反対ですよ逆ですよ沢村係長。なにしろ、それが今回の大量ご発注に繋がったんですから」
ニコニコ顔のニチレイ横浜事業所取締役事業所長、磯野の横で、やっぱりホクホクと恵比須顔の営業部長の小山が口を添えた。
「まあ、小山部長。それは仰らない約束で」
アマンダが人差し指を唇に当ててウィンクして見せると、いい歳をした磯野と小山が揃って顔を赤くした。
「いずれにしても、私どもUNDASNは、貴社の高品質な糧食を必要としていることに変りはございません」
アマンダは真顔に戻って、間を取り持つように口を添える。
「今後とも、貴社とは最高のお取引を継続させて頂きたいと、ウチの蘭崎とも話しておりましたの」
「それはもちろん、弊社とて同じことです」
磯野が立ち上がりながら右手を差し出した。
「今後とも、宜しくお願い申し上げます」
「こちらこそ。ああ、随分お引止めしてしまいましたわね。御多忙でしょうに、貴重なお時間を拝借してしまい、申し訳ありませんでした」
アマンダも立ち上がり、磯野、続いて小山とも握手を交わした。
「こちらこそ、突然お邪魔して申し訳ありませんでした」
「いえ、私の方こそ、こんな作業略装のままで失礼しました。それに向井も留守にしておりまして」
「とんでもない、急に立ち寄ったのはこちらです。せめて、お礼を申し上げたかっただけですから。向井センター長にも宜しくお伝え下さい」
二人をロビー隅の商談コーナーから先に外へ出して、アマンダは小走りに彼等の前に立って玄関エントランスまで誘導し始めた。
その瞬間。
「アマンダッ! 」
「え? 」
思わずアマンダは声を上げ、立ち止まってしまう。
周囲を見渡すと、ロビーにいた全員がフリーズして、ただ一点をみつめていた。
それまで、低く流れるBGMの隙間を縫うように、さわさわと聞こえていた会話もピタリと消えて、見知った筈の職場はまるで、異次元空間に迷い込んだように、不思議な静寂に包まれていた。
「……あれ? 」
アマンダは一瞬、デジャヴかと思ってしまった。
あの夏の昼下がり、日野春駅の、陽介とふたりだけの不思議な静寂に包まれたホームを思い出したのだ。
思い出に浸りかけて、アマンダは慌てて現実へと引き返す。
”いや、待て。ボケてる場合じゃねえ……”
再び、そして今度ははっきり陽介と判る声がロビーに響き渡った。
「アマンダ・ガラレス・雪野・沢村一等陸尉っ! 」
フルネーム階級付きで呼ばれて、アマンダの脳は一瞬にして陸士長任官直後にまで時間を遡り、脊髄反射にも似た反応を見せた。
「サー、イエッサー! 沢村、現在地! 」
拳を握った右手を真っ直ぐ天井へ向けて上げながら、隣で驚いたように立ち竦んでいるニチレイの二人組~それは驚くだろう、これまでの長い付き合いで、これほど軍人らしいところなど見せたことなどないのだから~をどうしようか、丁度いいから陽介に挨拶させるべきか、いや陽介もなんだか普段とは違う迫力があるし、だったら先に外へ追い出したほうが正解か、ぐるぐる考えているうちに、敢え無くタイムリミットがやってきた。
何故なら。
右手を突き上げたアマンダを、陽介はカウンターの奥からすぐに見つけ、立ち竦むギャラリーを掻き分けるようにしてロビー中央まで進み出てきたから。
姿勢をキヲツケに戻しつつ、アマンダは正面、手を伸ばせば届く距離で立ち止まった陽介の顔を見て、思わずビクッと肩を震わせてしまう。
怒っているのか、悲しんでいるのか、とにかく目の前の陽介の表情は、アマンダがこれまで見たどんな表情よりも険しかったのだ。
自分はいったい、何を仕出かしてしまったのだろうか?
いや、本当に自分は何かやっちまったっけ?
パニックになりつつもアマンダは、やはり反射的に脱帽敬礼をしてしまう。
が、陽介はそんな一番基本的な軍隊慣例をサラリと無視してみせた。
「アマンダ! 」
「イエッサ! 」
最初、彼がフルネームに階級をつけて呼んだから公務だと判断したが、いざ向き合うと陽介は何故か、答礼もせずにファーストネームで呼ぶ。
陽介の意図が、これっぽっちも見えず、アマンダはその場で身動きが取れずに立ち竦んでしまう。
上官が答礼しない為に解けない脱帽敬礼を、陽介は苛立たしげな表情で答礼に代え、アマンダの腕を掴んで無理矢理解かせた。
アマンダは慌てて小声で陽介に囁きかける。
「バ、バカかお前? 皆見てるぞ、どうしたって……」
「アマンダ! 」
アマンダの言葉を途中で遮り、陽介は再び名を呼んだ。
不意に、彼の表情が緩む。
けれど、いつもの笑顔に戻った訳ではない。
ただ、険しさが消え、後悔と哀しみだけが残った。
「アマンダ、聞け。聞いてくれ」
陽介は漸く、声を普段の音量まで下げ、続いて腰を折って頭まで下げた。
「俺が馬鹿だった。俺はとんでもない大馬鹿野郎だ。許してくれ」
そりゃそうだ、大馬鹿野郎にゃ違ぇねえ。
なにせ、こんな部下やら業者やらが溢れるロビーでこんな真似やらかすんだから。
思わずコクンと頷いてから、アマンダは慌てて両手で陽介の肩を掴み、頭を上げさせる。
「こ、困ります、センター長、どうぞ頭を上げてください! 」
陽介は頭を上げたものの、口は閉じない。
「俺はお前の言う通り、意気地なしのカッパ野郎だ。居心地の良い距離と時間が惜しくて、本当に欲しいものから眼を背けていた。見て見ぬ振りをして、お前を傷つけ、そして俺自身が傷つくことが怖くて、周囲を、自分を、そしてお前を欺き続けてきたんだ」
アマンダには未だ彼が何を言おうとしているのか判らなかったが、少なくとも公務中にオフィスで、しかもこんな大勢のギャラリーが耳を欹てているところで話すべきではない話をしようとしていることだけは十二分に理解できた。
「センター長! お、お話でしたら後ほど執務室へ伺いますから、今は」
「いいから聞け! 」
陽介の声がロビーに響く。
外線電話の呼び出し音がどこかで鳴っていたが、誰一人、出ようとはしなかった。
人々はロビー中央のふたりを、生唾を飲み込みながらみつめている。
この軍隊の一機関にあるまじき、突然のシチュエーションの行き着く先を見極めようと。
そしてアマンダもまた、どうも話は自分に関係がありそうだと思いつつ、唇を閉じて陽介の言葉の続きを待つことにした。
どうやら、陽介が喋り終わるまでは、事態は動かせそうにもなかったから。
「アマンダ。俺は、あの熱砂の静かな地獄の星で初めてお前と出逢ったその瞬間から、そして再会してからこの瞬間まで。いつもお前に驚かされっ放しだった。その新鮮な驚きのひとつひとつ、全てが俺には楽しくて、そしてそんなお前と一緒に過ごす時間が……、途轍もなく愛惜しかった。手放したくないと思った。お前が俺の傍にいて、笑って怒鳴って美味いモン作ってくれて掃除してくれて洗濯してくれて裁縫してくれてチャリンコの背中が温かくって通勤電車のシートで肩にかかるお前の頭の重さが心地良くてお前が器用に生み出す折り鶴の一つ一つがまるでふたりの思い出の証みたいに嬉しくて早朝のマンションの廊下に射す朝陽に黒髪がキラキラ輝いてなんだか得も知れぬいい香りが気持ち良くて繋いだ手の温もりがたまらなく愛しくて……。そんな、些細な出来事の欠片を掻き集めて、金庫に仕舞っておきたいくらい、俺には大切な時間だったんだ。どんなことがあろうが手放したくない、そう思ってた……」
「陽介……」
思わずアマンダは、普段通りに彼を呼んでしまっていた。
けれど、そんなことすら気付かないほど、嬉しかった。
叫び出したくなるほど、躍り上がりたくなるほど、嬉しかった。
さすがにそれはできかねて、そしてそれよりもアマンダは、片手で口をふさいで激しい勢いで喉にこみあげてくる嗚咽を押し殺さなければならなかった。
漸く嗚咽は殺せたが、かわりに涙がポロポロと溢れ出た。
最近チョイと泣きすぎだ、と頭の隅でチラ、と思った。
「だけど、間違ってた」
陽介は、自嘲の笑みを浮かべ、ボソ、と独り言のように呟く。
「え? 」
間抜けな返事をしてしまったアマンダを置き去りに、陽介はすぐに真剣な表情に戻り、再び話し始めた。
「俺は間違っていた。確かに、お前と一緒にいる時間は、俺にとっては煌くような、宝石のような大切な時間だった。だけど、本当に大切なのは時間じゃなかったんだ。俺は、目の前の宝石の輝きに目が眩み、その宝石を両手で持ち切れないほどに抱えて微笑んでくれている、本当に大切にすべきものが見えていなかった」
ああ。
陽介。
まさか。
だけど。
でも、もし。
もしも、そうなら。
アタシ、どうすればいいの?
それともこれは、アタシの、早とちり?
ぬか喜びはイヤだよ?
だけど陽介、アンタはアタシのヒーローだろ?
だったら、さぁ?
涙も涸れて、声も出せずに倒れてしまう、その前に。
お願い、助けてよ。
アタシが立ち直れなくなる前に、助けてよ。
お願いだから、さぁ?
「俺は、その宝石が欲しかった訳じゃなかったんだ。俺はだけど、その宝石の美しさだけで、満足しちまっていた。ハナっから、諦めてたのかも知れんな。目の前の輝きが手に入るだけで満足しておけ、真の宝石はどうせ俺には高嶺の花なんだ、求めて得られるものじゃない、無理して手を伸ばすと、目の前の宝石すら失うぞ……。なんて」
陽介は一旦言葉を区切ると、溜息混じりにボソ、と言った。
「こんな臆病なヒーロー、居る訳ないよな」
もう、立っていられない。
期待するな気を抜くな油断大敵喜ぶな、いいか絶対期待するんじゃねえぞと、まるで呪文のように胸の中で繰り返し呟きながらも、アマンダは陽介が次に空気を震わせるだろう言葉への渇望を抑え切れずにいた。
期待と畏れが交互にアマンダの心を打ちのめし、アマンダはとうとうふらりとバランスを崩す。
ゆっくりと斜めになりながら、心のバランスと身体のバランスは繋がってんだな、とぼんやり考えていると、陽介がガッシリと両手で自分の身体を支え、再び真っ直ぐ立たせてくれた。
真っ直ぐ立たせてくれたのはいいけれど、直後に、陽介は、本当に立っていられない程の言葉を投げ掛けた。
「アマンダ。本当に大切なのは、お前だ。本当に失いたくないのは、お前なんだ。その細い腕で抱えきれぬ程に沢山の煌く宝石を俺の前に差し出して、笑って照れて怒鳴って泣いているお前こそ、俺が本当に欲しかった、たったひとつの宝石なんだ」
遂に、欲しかった言葉を、今、漸く、アタシは手に入れた。
この言葉を、この言葉を裏打ちしている陽介の愛を、アタシはとうとう手に入れることができたんだ。
こんなに、嬉しいことはない。
こんなに幸せなことはない。
陽介の言葉に、こんなに喜べるアタシは。
ああ、好きだよ、陽介?
アタシだって、そうだった。
アタシだって、本当はアンタが欲しくて、アンタに抱かれたくて、でも、隣でアンタがただ黙って微笑んでくれてる時間だけでさえ、アタシは身も心も蕩けそうになるくらい幸せで、自分の命よりも大切で、だからせめて、それだけはなんとしても守りたくって。
アンタが大馬鹿野郎なら、アタシはアンタの遥か斜め上を行く、宇宙一の大馬鹿だ。
それくらい、アタシはアンタが、好きで好きで堪らない。
「俺は馬鹿だから、今、漸く判った。俺はお前が好きで好きで堪らない。俺はお前がいなきゃ駄目だ、生きていけない。それくらい、お前が欲しい」
ああ。
もう、いいや。
もう、死んだっていいや。
死んだって、不思議じゃないよな?
だって、こんなに胸がドキドキして、心臓が破裂しそうなんだもの。
「俺は、アマンダ。お前を心より愛してる。お前の隣に立って、一生一緒に、手を繋いで歩いていきたい」
漸く、いつもの優しい笑顔を見せてくれたね、陽介?
でも。
「……陽介、てめえ、ほんっとにアタシでいいのかよ? 」
想いとは裏腹に口をつく言葉はけれど、まるで水中で喋っているかのようにみっともない湿り声で、それが想いを表しているように思えた。
こんなに素敵な、永遠に煌くダイヤモンドのような言葉を貰っておきながら、いや、素敵過ぎてアタシには夢としか思えない。
夢なら醒めるな。
いや、現実であって欲しい。
もう、なにがなんだか判らない。
だから、助けて、陽介。
これは夢なの? 現実なの?
陽介お願い、教えてよ。
アタシのヒーロー。
「アタシみたいな、暗闇の夜の底、泥水啜りながら生きてきた女でいいのかよ? 腐った空気を吸い過ぎて、根性も捻くれて、大人になりきれねえ、こんな汚れた餓鬼……」
「馬鹿野郎! 」
ああ。
思い出すなあ。
ミハランの兵站本部、補給廠のトラック・プラットフォーム。
「言っただろう? お前は大人だ。立派な大人だよ! 」
あの時と同ンじだ。
お前の怒鳴る声が、まるで福音のように心に沁みるよ。
「だってお前は、あんなに素敵な笑顔で笑えるじゃないか。百万本のひまわりに埋め尽くされた、黄金の海原の真ん中でさえ、お前は一番綺麗だった。お前の笑顔は、百万本のひまわりさえ色褪せるほど、美しいじゃないか」
陽介の声が響く。
いつだってアンタの声は、どんなに離れていたって真っ先にアタシの心に届くんだ。
「だから、そんなこと言うな。俺の方こそ餓鬼だった。こんな大切な宝物の傍にいながら、目の前の煌きに眼が眩んで、今日の今日まで自分を欺いてきた、クソ餓鬼だった。でも、そんな俺だって、言えたんだ。真の宝物が見えたんだ。だから、お前は餓鬼じゃない。こんなにも俺を幸せにしてくれるお前が、餓鬼な訳がない。だから、お前も言え。俺に言ってくれ。お前はもう、太陽を追うひまわりに自分を重ねる必要なんかないんだ。お前自身が、世界で一番美しいひまわりなんだから。お前は、ひまわりの女王なんだから」
嬉しい。
幸せだよ。
心が爆ぜるくらいに幸せがたっぷり詰まった言葉を花束にして贈ってくれるアンタが傍にいる、傍にいてくれる、奇跡のようなこの瞬間、もう、夢でも現実でも幻でもなんだっていいよ。
だってアタシは幸せだから。
幸せを感じるアタシだけは、誰が何と言おうと、真実だから。
こんなでっかい幸せを貰ったんだ、この先、アタシに訪れるのはもう、幸せしかないんだから。
「陽介」
ひとつだけ、聞かせて。
「だったら……、アタシの太陽は? 」
陽介の表情が、ゆっくりと変っていく。
アタシの大好きな、あの蕩けるような笑顔へと。
「俺だ。俺が、お前だけの太陽だ。俺は、お前という世界一綺麗なひまわりのためだけに輝く、太陽だ」
もう、駄目だ。
幸せ過ぎて、死んじまいそうだ。
支えて、陽介。
口から洩れる嗚咽を押し殺せず、瞳から堰を切って溢れる想いの滴を堰き止められず、アマンダはふらつく脚に力を込めて、一歩、陽介へ踏み出す。
幸せまで、後、何歩だろう。
アタシだけの太陽まで、後、何センチだろう。
突然、暗闇の夜の底へ突き落とされたあの餓鬼の頃から、とうとう太陽に手が届く距離までアタシは辿り着いたんだ。
惜しみない陽光を降り注いでくれていた太陽が、両手を広げ、出迎えてくれているのが、涙で濡れる視界に映る。
こんなに太陽が眩しいのに、雨模様なんて不思議な天気だ。
最後の一歩は倒れ込むように、アマンダは陽介の胸に飛び込む。
今度こそ、ふたりを隔てるガラスは、存在しなかった。
首っ玉にしがみつき、彼の肩を噛むように、それでも嗚咽を止められないアタシの背中を、陽介の手が優しく、撫で、叩く。
ああ。
やっぱり陽介?
さすが、アタシだけの太陽だ。
アンタ、暖かいね。
「愛してる。アタシのヒーロー」
耳元で囁くと、陽介が照れたように笑った。
「言っただろう? 俺はヒーロー失格だって」
違うよ、陽介。
アンタはアタシを助けてくれたじゃないか。
熱砂の地獄で、アタシに手を差し伸べてくれたあの日から。
いつだってアタシは、アンタの伸ばしてくれた手を握りその手に導かれ、夜の底から夕闇へ、そしてあのひまわり達と同じ蒼空の下へと、とうとうアンタは救い出してくれたじゃないか。
アマンダの言葉にならない想いを読みとったかのように、陽介は少しだけ身体を離し、アマンダの涙で煌く瞳をみつめて言った。
「お前にそう言われるたびに、俺は歯痒かったんだ。……だけど、今日でちょっとは、ヒーローに近づけたかも知れないな」
充分だ。
もう、充分だよ。
こんな素敵なヒーロー、アタシにゃ勿体無え。
もう、なんにもいらない。
心の底からそう思う。
だからアタシの両腕が、どうか永遠にコイツから離れませんように。
どうか、アタシの背中を支えてくれているこの温かい手が、永遠に離れませんように。
今日まで生きてきて良かった。
アンタと出逢えて良かった。
あの時、生き延びて良かった。
陽介の手が、ワーキングカーキの上から、そっと脇腹の傷痕を押さえているのが判る。
「陽介ぇ」
もう、愛しい人の名前を呼ぶだけで、弱いアタシはイッパイイッパイだ。
「ごめん、陽介、ごめんねぇ、そして、ありがとう……」
漸く、それだけ言えたアタシを、陽介はふわりと抱き寄せ、囁いた。
「過去までは手が回らないけど……。でも、そんな過去全てを込みで、今日からは俺が一緒だ……」
アタシは、心に誓う。
絶対、離さない。
この、アタシだけの太陽を。
例えこの手が千切れようと、アタシは噛み付いてでも、離しはしない。
もう、こうなったら、死んでも幸せになってやる。
だから。
「幸せに、して」
「判ってる。だからお前も、もう、幸せを怖がるな」
必死で頷く。
何度も、頷いてみせる。
だって、もう言葉にならないから。
だけど、陽介にはちゃんと伝わっている。
何故か、頭の片隅でそう思った。
ああ、おっちゃん、おばちゃん。
これが、信頼できる、ってことなんだね?
ジャニスに手を引かれて、訳の判らないままに1階に降りてきた志保は。
志保は、呆然として、立ち竦むことしか、出来なかった。
志保には、何が何だか、判らなかった。
今、自分の目の前で繰り広げられている軍隊にはそぐわない光景を、人垣の後ろから一部始終眺めていながらも、判らなかった。
今、自分が持て余しているこの気持ちが、果たして本気の恋なのか、それとも、少しだけ彼が気になる程度のものだったのか。
UN時代から、時折接触のあるUNDASN高級将校に興味があったことは確かだし、それはなにも志保だけではなく、UNやUNDAの女性職員達の間で、彼等はひとつのブランドとして確立されていたのだから。
そんな自分の価値観を浅はかかしらと少しは恥じるところはあるけれど、だが好きになったら相手が何でも、と言うような子供っぽい情熱だけで突っ走れないと考える程度に志保は大人だったし、年齢相応に賢明で堅実だっただけのことだ。
それだけに、実際UNDASNに出向して、自分の『守備範囲』内の独身の兵科幹部達との接点が出来てみると、予想以上に彼らは転勤異動が激しく且つ戦死戦傷率が高いこと、そしてそれ以前の問題として
昔から、ガッシリした身体つきや濃い体毛など所謂『男っぽいオトコ』は生理的に受け付けなかったし、銀行マンの父、ボストンの旧家の令嬢で敬虔なピューリタンだった母に育てられたお嬢様育ちの志保にとって、体育会系の兵科将校や学究肌でフェチっぽい専科将校はどちらも異質な人間で、何より軍人特有のガサツさ無神経さ、一口で言えば『スマートな紳士』ではない彼等~艦隊マークの徽章に書かれた『ネイビーはスマートネスをもってモットーとす』という『モットー』は嘘っぱちだと思っている~と、志保はとても付き合う気にはなれなかったのだ。
戦場での苦労話、自慢話、怖かった出来事面白かった出来事不思議な出来事、訳の判らない専門用語や想像もつかない略語俗語、自分の知らない、風景。
こんなにも、価値観、世界観が違う人間と付き合える訳がない。
真剣に、そう思った。
だから、陽介が着任してきた時、それまで自分が知り合った、どの『軍人』達とも違うことに、衝撃を受けた。
いつも微笑を浮かべて物腰も柔らか、仕事以外の話題も結構豊富で、しかも独身、ルックスも厳つくはない。
だから、惹かれた。
ただそれが、本当の恋なのかどうか~何が本当の恋なのか、それすらもあやふやだったのだが~、それだけが判らなかった。
今でも、そうだ。
陽介がもしも、シビリアンだったら。
それでも彼とお近付きになりたい、そう思ったかどうか、志保にはやはり答えを出すことは出来ない。
だけど、それでもいいじゃない。
なにも今すぐ結婚したい、とか言ってる訳じゃないんだから。
『少し気になる男性』なんだもの、『試し』に付き合ってみよう。
そう、お試し、ってやつ。
それだけのことだ。
志保は、自分にそう言い聞かせる。
だけど、陽介が。
あの7係長だけをファーストネームで呼ぶ事が悔しかったのは、確か。
総務と呼ばず、個人名を呼んでくれたことが嬉しかったのは、確か。
あの夜、アマンダを庇ったことが哀しくて涙零したことは、確か。
翌日、再び総務と呼び名が戻り、隠れて泣いたことは、確か。
そして。
そして今、自分の頬を、熱い涙が止め処なく流れ続けていることだけは、確かだから。
ロビーの真ん中で抱き締めあうふたりの姿が、流れ落ちる涙で滲んだ、その刹那。
突然、志保の目の前にいたアッシュグレーのショートヘアが、振り向いた。
「志保? 」
ジャニスは、涙でぼやける視界の向こうで、蕩けるような優しい微笑を浮かべて、囁いた。
「独りで泣いちゃ、駄目。哀しいときは、独りで泣いちゃ駄目だよ」
ジャニスは志保をふわりと抱き締め、耳朶を擽るような優しい声で、言葉を継いだ。
「私が一緒に泣いてあげるわ。だから、独りで、泣かないで? 」
涙が溢れそうな、だけど柔らかく優しげな光を放つジャニスの瞳に映る自分の泣き顔を見て、志保は、漸く理解した。
ああ、私。
結構、本気だったんだ。
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