第92話 14-4.


「なあ、アマンダ」

 陽介は、いつもの駅前スーパーでビニルで包装された茄子を選んでいるアマンダの背中に声をかけた。

「んん? 」

 アマンダは振り向きもせず、唸るように答える。

「今日、寄り道してただろ? ジャニス8番と」

 ピク、とアマンダの肩が震え、茄子の袋を掴んだまま動きが止まった。

「え、あ、あれ? 」

 アマンダの予想外の反応に、陽介は殆ど脊髄反射のように、身体に力を入れてしまう。 

 どこで地雷を踏んだのか、全く判らなかったが、ここはこのまま黙り込むよりも言い切ってしまった方が『マシ』だと過去の経験から咄嗟に判断し、続けて言葉を投げ出すことにした。

「夕方、馬車道沿いのどっかから出てきたじゃないか。どこ行ってたんだ? 」

 フリーズし続けるアマンダから、おどろ線にも似た『突っ込むなオーラ』が立ち昇っているような気がして、焦った陽介は言わずもがなの言い訳に走る。

「な、なんだよおい、別に咎めてる訳じゃないし、ホラ、俺、今日は県庁に行ってて、その帰りに見かけたもんだから……」

「……ッピングだよ」

「え? 」

 ボソ、と聞き取り難い、低い声が聞こえ、陽介は思わず訊ね返した。

 アマンダは、彼女の審査を通過した茄子の袋を陽介の押すカートに放り込んで、真っ直ぐ正面から睨み付けるようにして、言った。

「ウィンドウ・ショッピングだっつってんだよ馬鹿! 」

「め、珍しいな」

 陽介は、隣の鮮魚コーナーへ歩き始めたアマンダの後を追いかける。

「アタシだってそれくらいすらあ、人をなんだと思ってやがんだ? 」

 今度は小海老を選びながらアマンダは、最初のリアクションで醸し出した『危険な印象』をさらりと拭い去った淡々とした口調で、問わず語りで話し始めた。

「アタシ、今日は民間物流関係回ってたんだけどさぁ。ジャニスはテルモだったかな。馬車道歩いてたら、ばったり出会ってよ。お互い早く終わったみてえだから、ブラブラすっか、なんてな。んで、オフィス近くでちょいと小洒落たカフェさてんがあったもんだから、ジャニスが入りてえ、ケーキ食いてえ、とか言い出してよ」

 小海老のトレイをカートに投げ入れて、アマンダは陽介を振り向いてニッ、と笑った。

「今日は洋食だぜ? ベーコン余ってたから、茄子のアラビアータと冷製グリーンピースのポタージュ、海老ピラフだ。せいぜいアタシを褒め称える言葉でも考えてな」


 そんな数日前の会話をぼんやり辿りながら、陽介はタクシーのリアシートに沈み、窓の外を流れる馬車道通りのお洒落な街並を眺めていた。

「確か……、この辺りだったかな? 」

 横浜市港湾局での会合が思いの外はかどったこともあり、時計を見ると帰所予定時刻まで30分以上も余裕があった。

 だから陽介は運転手に声を掛けた。

「すまない、ここで降りるよ。停めてくれ」

 下車し、沿道を一渡り眺めてから、陽介はゆっくりとオフィスの方へ向かって歩き始めた。

 お洒落なブティックやアクセサリーショップ、アンティークショップ、レストランや喫茶店が軒を連ねる馬車道は、観光横浜を象徴するような華やぎを見せており、夏休み中という事も手伝って、ラフな服装の人々でいつもより賑やかに感じられた。

 それだけに、堅苦しい第1種軍装ドレスブルーで歩いているのが妙に浮いているように思われて、陽介は途中で車を捨てたことを後悔し始めていた。

 歩こうと決めた切っ掛けは、もちろん数日前に交わしたアマンダとの会話だったが、よくよく考えてみれば、彼女だって女性だし、ましてやジャニスと一緒だったとなれば彼女に連れ回されてウィンドウ・ショッピングくらいはするだろう。

 余計な詮索だった。

 『あの夜』以来、どうも必要以上にアマンダのことを気にし過ぎてしまう、と陽介は独り苦笑を浮かべ、少し歩く速度を上げようとした。

 その刹那。

 陽介は、思わず足を止めた。

 視界に飛び込んできたのは、ウェディング・ドレス。

 陽介には、そこにディスプレイされた純白のドレスが、なんというデザイナーの手によるどんなドレスなのか、これっぽっちも判らなかったし、確かに高価そうで美しいドレスだとは思うけれど、まさか一目惚れした夢見る乙女のようにそれに目を奪われてしまった訳でもない。

 ただ、ふと、思ったのだ。

 アマンダのウィンドウ・ショッピングのお目当てが、この花嫁衣裳だったのではないか、と。

 根拠など、なにもない。

 それどころか、普通に考えると、目の前のドレスと彼女の間に横たわる距離は、連想するのも憚るほどに遠かっただろう。

 しかし、この瞬間、陽介は想像してしまったのだ。

 アマンダとウェディング・ドレスを遠く隔てている『先入観』を取り払った時の結末を。

 おそらく、アマンダならば目の前のそれぞれ違ったデザインのドレス、どれを取っても素晴らしく似合うだろうなと、思えたのだ。

 陽介には、ウェディング・ドレスを身に纏ったアマンダの姿を、自分でも驚くほど容易に想像することができた。

 彼女の、まるで黒豹を思わせるかのように艶々と煌くカフェオレ色の肌に、あの純白のドレスは、物凄く似合うだろう。

 雪野という名前にぴったりの純白のドレスに身を包んだ彼女は、きっと~我ながら陳腐な喩えだと呆れたが~白雪姫のように美しいだろう。

 そして、あの百万本のひまわりに囲まれていた時の、見ている者まで幸せになるような、彼女の美しい満面の笑みは、きっと、きっとこのドレスに最高に似合う筈だ。

 ええと、手に持った花束……、そう、ブーケ。

 そいつは、ひまわりにすればどうだろうか? 

 きっとアマンダの笑顔が、一層華やぐ筈だ。

 そして、ウェディング・ドレスで着飾った彼女の横に立つのは……。

 そこで陽介は我に返る。

 待て。

 ちょっと待て。

 俺はいったい、何を無責任な妄想をしているんだ? 

 中学生や高校生じゃあるまいし。

 無責任、甚だしい。

 そこで再び、引っ掛かる。

 それじゃあ、無責任じゃない妄想って、なんだ? 

 胸が、チクリと痛む。

 そうだ。

 この痛みこそ、『あの夜』以来、そしてひまわり畑で再会して以来、ずっと心に刺さっていた棘の正体。

 そうだ。

 アマンダが、ウェディング・ドレスに興味があるかどうか、が問題なのではない。

 陽介自身が、アマンダにウェディング・ドレスを着せたいか? 

 そして花嫁衣裳で着飾った彼女の隣に、自分が立ちたいのか、どうか。

 それが大事なのだ。

 それこそが重要なのだ。

 思わず歯噛みしてしまう。

 結局俺は、そんな簡単なことが判らなかったのだ。

 結局俺は、そんな簡単に出せる答えを、答えぬように逃げ続けていただけなのだ。

 あれほど楽しく心地良かった、ふたりの暮らし。

 アマンダとの、その関係が変ることを恐れるあまり、俺はこんな簡単な答えに目を瞑って日々を過ごしてきたのだ。

 陽介は、ウェディング・ドレスから顔を背け、真っ直ぐに前を見て再び歩き始めた。

 そして歩きながら、前を真っ直ぐにみつめながら、尚も陽介は考えた。

 あのひまわり畑で俺は、アマンダの語るこれからの彼女の人生に『似合うかも』などと無責任な言葉を吐きながらも、その実、彼女の隣に自分を置いていたではないか。

 あの蝉時雨の降りしきる、人っ子ひとりいない駅のホームで、俺はアマンダと一緒にまたここを訪れたいと願い、アマンダにもそう告げたではないか。

 いや、なにもここ数週間の話だけではない。

 動物園で子供のように燥ぎ、目を煌かせる彼女を見て。

 台所で美味しそうな匂いを漂わせる彼女、一緒にテレビを眺めながらアイロンをあてる彼女、鼻歌を歌いながら繕い物をする彼女、ブツブツ文句を言いながらも威勢良く掃除機を走らせる彼女、子供達の笑顔と歓声に囲まれてバットを振り回す彼女、毎朝の通勤電車の中、自分の肩に頭を預けて寝息を立てる彼女。

 いや。

 いや。

 もっと、ずっと前から。

 あの静謐な地獄を抜け出た俺は、何処に居ても、どんな時も、いつもアマンダのしなやかで艶やかな姿を探し続けていたのではなかったか? 

 俺はアマンダが隣にいる時間と空間を、どれほど愛惜しんで来たことだろうか。

 そして意気地なしの俺と来たら、どんな幸運か、再び巡り逢えたこの街での愛惜しい時空間を手放したくないあまり、もっと大切な、もっとも望む幸せにまで眼を瞑り、見て見ぬ振りを続けてきたのだ。

「俺は……、なんて馬鹿なんだ」

 アマンダがよく投げつけてくる罵声、あれはまさに、的を射たものだったのだ。

 確かに最初は、彼女の瞳にSOSのサインをみつけ、守りたいと咄嗟に手を差し伸べたのだし、それが間違いだったとは思わない。

 だが、それ以降俺は、ただ彼女のサインを見落とすまいと汲々としているばかりで、一緒に歩いていこう、歩いていきたいという想いが、すっぽりと抜け落ちていたのではなかったか。

 物理的には彼女と肩を並べて歩きながらも、精神的には、彼女の一歩後を歩きながら、彼女が何かしらのサインを出してはいないかと、目を眇めて、キョロキョロと落し物はないか見落としはないだろうかと、『監視』ばかりに気を取られていたのではないのだろうか。

 けれど。

 けれど、アマンダは。

 そんな俺をアマンダはしかし、ヒーローだと言ってくれたのだ。

「くそっ! とんだ、間抜けなヒーローだ、俺は! 」

 吐き捨てるようにそう言って立ち止まった時、陽介は何時の間にかYSICの通用口に辿り着いていた。

 怪訝そうな顔をしている顔見知りの警衛に、投げ付けるような敬礼をしてビル内に駆け込んだ。

 ヒーローだと? 

 この俺が? 

 いいや。

 違う。

 俺は、誰にだって手を差し伸べる訳じゃない。

 『みんなのヒーロー』なんかじゃ、ない。

 アマンダだから。

 俺が、アマンダを救いたいから。

 アマンダが、掛け替えのない、大切なひとだから。

 もしも俺が彼女の言う通り『ヒーロー』なのだとすれば、それはアマンダだけのヒーローなのだ。

 そう。

 だから。

 今、自分がやらなければならないことは、ひとつ。

 まずは、最愛の女性~今ならはっきりと言える、アマンダを愛している、と~に逢わなければ。

 階段を5階まで3段飛ばしで駆け上がり、陽介はオフィスへ飛び込んだ。


 今日も残業はほぼ決定だけど、それでも退勤時刻前には自然と気が緩んで欠伸がでちゃうわ。

 そんなことを考えながら、ジャニスが口を半ば開いた、その刹那。

「アマンダッ! 」

 ジャニスは、そしてフロアにいた全員が、その大声に一斉に振り返った。

 オフィスにあるまじき、その声の主が判って、振り返った全員は、今度は一斉にフリーズした。

 驚きの表情に呆れが加わっていた。

 噛み付きそうな陽介の表情を見て、ジャニスはいったい何が起こったのかと思わず立ち上がってしまった。

 返事がないのに焦れたのか、再び陽介の大声が響いた。

「アマンダ、アマンダはっ? 居ないのか? 外出か? 」

 一番陽介に近い席にいたグロリアが起立しておずおずと答えた。

「か、係長は、30分ほど前に来客があり、現在1階ロビーで接客中で」

 グロリアの言葉を最後まで聞かず、アタッシュケースと制帽を放り投げるように彼女へ渡すと陽介はオフィスを飛び出していった。

「な、なに? なにがどうなってんの? 」

「どどどど、どうしたの? 」

「雪のんに用事だって言ってたけど……? 」

「雪姉ちゃん、またなんか仕出かしたの? 」

 アタッシュケースを両腕で抱え、彼の制帽をアミダに被ったまま、持ち主の消えた方を呆然と見ていたグロリアの周りに、アグネス、フローラ、アヴィが駆け寄り、口々に疑問の声を上げた。

 それは、このフロアにいる全員が持っている、共通した疑問で。

「ついていけば判るわ」

 だからジャニスは、その疑問の解決方法を提示したのだ。

 小首を傾げて振り向いたグロリア達に、ジャニスはいい笑顔を浮かべて、その背中を押した。

「こんなとこで仕事しながら待ってても、状況把握なんかできないわよ? 」

 そう言いながらギャラリーを引き連れて歩き始めたジャニスは、不安そうな表情で陽介の消えた方向をみつめている志保の姿を視界に捉え、足を止めた。

 彼女には、辛い結果になるかも、とチラ、と思った。


 陽介は階段を、今度は4段跳びで駆け下りた。

 踊り場で擦れ違った下士官と危うくぶつかりそうになるのを避けて「すまんっ! 」と声を投げ掛けながら、尚スピードを緩めない。

 ああ、アマンダ、許してくれ。

 全ては、弱い俺自身の誤魔化しと、勘違いだった。

 アマンダの瞳に浮かぶSOSをみつけた時、思わず手を差し伸べた俺が、なにを勘違いしたのだろうか。

 アマンダを守りたい。

 アマンダを哀しませたくない、俺がアマンダを守らなければと言いながら、その実、俺は自分が傷つくことが怖かっただけなんだ。

 アマンダを求める想いを、もしも拒絶されたらと、ヒーローのベールを想いに被せ、これなら傷つくまいと胸を撫で下ろしていただけなんだ。

 微温湯のような、低空飛行の幸せを、それも幸せの形さと嘯きながら、自分を、アマンダを誤魔化しながら、微温湯の居心地の良さを捨て切れなかった、大馬鹿野郎の弱虫に過ぎない。

 欲しいものは、少しくらい傷つくのは覚悟の上で、それでも欲しいと言える強さが、俺にはなかった。

 自分の果てしない欲望と、それを果たせなかった時の衝撃の大きさを秤に掛けて、俺は唯々、毎日が平穏無事でありますようにと、遣り過ごしてきただけなんだ。

 許してくれ、アマンダ。

 今度こそ本当に、俺は俺の何が悪かったのか、漸く理解した。

 だから、今度だけは許してくれ。

 弱さは時として、なによりも罪深い。

 果てしない後悔と尽きぬ欲望を抱えて、俺は、アマンダ。

 それでも俺は、君が欲しい。

 君を、力いっぱい、抱き締めたい。

「アマンダッ! 」

 飛び込んだ1階の業者受付ロビーは、閉館時刻まで後30分、調達業者達が未だ20人ほどもいた。

 窓口を取り仕切る調達事務係の40人を含めて、そのフロアにいた全員が、一斉に声の方を振り向いた。

「アマンダ・ガラレス・雪野・沢村一等陸尉っ! 」


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