第91話 14-3.


「あ……」

 思わず声をあげ、アマンダは『それ』から数歩行き過ぎてから立ち止まってしまった。

 何度も通っている道なのに、今日まで『それ』に気付かなかった。

 調達品の民間委託物流に関して、夏期休暇中のデポジットをあらかじめ打っておくのはこの配置では当然のことで、アマンダも今日は盆休み前の暑い夏の太陽の下、横浜市内の物流業者や港湾倉庫、乙仲業者をぐるりと巡回してきた、その帰り道。

 予定より早く終わったのをいいことに、最後に辞去した上組横浜支店からYSICのオフィスまでは馬車道をブラブラ歩いて約20分、丁度いい腹減らしになるかと歩き始めたのだが、刺すような陽射しに焼かれた上に、着ていた服がドレスブルー、額に薄っすら浮いた汗を手の甲で拭いながら徒歩を選択した自分を呪い始めた、その刹那。

 『それ』を視界の隅に捉えた数瞬の後、冷たい風に頬を優しく撫でられたような気がした。

 アマンダは暫くその場で立ち尽くしていたが、やがて、ぎこちなく、ゆっくりと回れ右して数歩、戻る。

「……ちらっと、だけ」

 軍服姿でショウ・ウィンドウに張り付くという見っとも無い姿だけは通行人に曝すまい、自分にそう言い聞かせて、おずおずと振り返る。

 見間違いではなかった。

 昨夜、チラ、と頭に浮かんだ『明日吹く風』とはこれだったのか、と思う。

 視線の先、ショウ・ウィンドウのガラスの中。

 それは、真夏の大都会に突如出現した、樹氷。

 ガラスの中には、煌くような純白のウェディング・ドレスがディスプレイされていた。

 パニエで優雅に膨らんだ、可愛らしいプリンセス・ライン。

 身体の線がはっきりと出る、それだけにシックで大人っぽいスレンダー・ライン。

 まるでギリシャ神話の女神のような、シンプルだけど華麗なエンパイア・ライン。

 どれも、引き裾トレーンが美しく伸び、ディスプレイ・ステージ一杯に広がって、まるで雪原のようだ。

 ティアラやベール、ブーケが、まるでクリスマス・ツリーのアクセサリーのようで、アマンダには、まるでそれ自身が光を放っているようにも見え、その煌めきに眼が眩み、真っ直ぐ立つことすら出来ないほど。

 アマンダは、知らぬうちにフラフラと、ガラスの真ん前に引き寄せられていた。

「はぁ……」

 思わず洩れる感嘆の溜息。

 アマンダは、その人工の樹氷を網膜に焼き付けるかのように、瞬きも忘れるほど眺め続けて、やがて、おもむろに瞳を閉じた。

 瞼の裏に鮮やかに浮かび上がるウェディング・ドレス、その隣には燕尾服姿の、陽介。

 頼りなさそうに見えるが、実は上背もあり、それなりに筋肉もついてがっしりとした身体つきをしている彼に、その燕尾服はきっと似合うだろうと思えた。

 陽介の隣、主の居ないウェディング・ドレスに、アマンダは思い切って自分を当て嵌めてみる~その空想を脳内に捻り出すために、アマンダは相当の時間と集中力を要した~。

 褐色の肌の自分に、その純白のドレスが果たして似合っているのか、どうか。

 自分では、よく判らなかった。

 そうこうするうち、空想の中の自分の頭には、ティアラと練り絹のベール、手にはクレセント・ブーケまで持っている。

 もちろんブーケは、ひまわりだった。

 少なくとも想像の中の陽介は、いつもの微笑で自分をみつめてくれている。

 アマンダは、思い切って、そっと、白い手袋を嵌めた腕を、彼の腕に絡ませてみた。

 想像の中で陽介に腕を絡めている自分の頬が、ベール越しにも真っ赤に染まっているのが判った。

 リアルな自分もきっと、目が泳いでいるのだろう。

 高鳴る心臓の鼓動は、想像している自分のものだ。

 だからきっと、この空想を繰り広げている瞬間、自分の頬も茹蛸みたいに真っ赤になっているに違いない。

 咄嗟にアマンダは、想像の中で絡めていた腕を解く。

 真っ赤に頬を染め、まるで小娘のように慌てて彼から離れた自分の姿。

 アマンダには、それは自分の躊躇いと自信のなさの象徴に思えた。

 果たして自分は、陽介と釣り合うのだろうか? 

 本当に、陽介を幸せにしてあげられるのか? 

 考えるなと言われてもなお考えてしまうのは、自分の弱さ故か? 

 闇の底をのたくり、未だ夕闇に佇む自分が、『穢れなき純白のドレス』を着ている図など、滑稽を通り越して惨めささえ漂っているような気がしないか? 

 そこまで考えた刹那、想像の中の陽介が、ふっと自分に背を向けた。

「あ」

 思わずアマンダは、遠ざかろうとする陽介に向けて、手を伸ばしてしまう。

 コツン。

 伸ばした指先に、リアルな痛みを感じて、アマンダは瞼を開いた。

 プリンセス・ラインのドレスに向けて伸ばした手が、丁寧に磨きこまれたガラスに、行く手を遮られていた。

 不意に、以前にもこんなことがあたっけ、と、ふと、思い出した。

「アタシ……」

 このガラスこそが、今の自分と陽介を隔てる距離のような気がした。

 陽介との再会の時、やはり自分の伸ばした手は、防弾ガラスに遮られたのだ。

 明るい陽射しの下で微笑みながら手を差し伸べる陽介、その手に誘われ、夜の底から一歩、夕闇へ踏み出した自分。

 衛星軌道から地球を見ると、陽光の射す昼間の世界と、未だ闇に飲み込まれた夜の部分が、まるで悪い冗談のように、はっきりと目にすることができる。

 その、白と黒、昼と夜の境界線、黒い世界の縁取りが滲むように、じわじわと陽光が侵食しつつある、薄暗い、もしくは仄明るい、昼夜境界線の辺り。

 自分と陽介の立ち位置は、まさに今、そこにあるのだろう。

 陽光煌めく昼の世界に立つ陽介が差し伸べてくれた手を、夜の世界で這いずり回ってきた自分が思わず掴み、そして仄明るい薄暮の世界へと一歩踏み入れた。

 けれど。

 けれど、確かに繋がれたふたりの手と手の間には、それでもやはり、けっして越えることの出来ない『昼夜境界線』があるのではないだろうか? 

 よくよく考えてみれば、あの砂漠の惑星で出会った時から、今日まで。

 陽介と自分は、同じ場所から一歩たりとも、動けてなんかいないのだ。

 哀しくて、悔しくて、そして夢見る乙女のようにウェディング・ドレスのショウ・ウィンドウに張り付いている自分が滑稽で、思わず涙が零れた。

 ああダメだ泣くな、こんなところ誰かに見られたら、恥ずかしくってここら辺、歩けなくなっちまう! 

 慌てて目尻を拭い、踵を返した途端、柔らかい、聞き慣れた声が聞こえた。

「……なにがそんなに哀しいの? 」

 反射的に声の方を振り返れば。

 ジャニスが立っていた。

 外出先からの帰りか、傾き始めた陽射しを受けて輝くアッシュグレイのショートヘアが、ドレスブルー姿によく映えていた。

「……え、えと」

 アマンダの答えを待たず、ジャニスはすっと彼女の隣に並び、ショウ・ウィンドウのドレスをみつめる。

「素敵なドレスね。……アミーもこれを眺めていたんでしょう? 」

「ア、アタシ……」

 ガラスに映ったアマンダの泣き顔と、ウェディング・ドレスを交互にみつめながら、ジャニスは淡々と続ける。

「ドレスっていうのはね、アミー? 私達、女の戦闘服なのよ? 」

「戦闘……、服? 」

 鸚鵡返しに問い返すと、ガラスに映ったジャニスが微笑んだ。

「特に、ウェディング・ドレスっていうのは、最終決戦用ね。決意の表れみたいなもの」

 そう言ってから、ジャニスはゆっくりとアマンダの方を振り返った。

 もう、笑顔ではなかった。

「そしてね、アミー? ここが大事。……この戦闘服は、誰もが自由に袖を通せる。恋したい。幸せになりたい。そう、心より願い、そうなろうと決意した女は、誰でも着ることができるの」

 ジャニスは頭ひとつ高いところにある、アマンダの泣き顔に両手を伸ばし、頬を掌で柔らかく、挟む。

 もう、これ以上、アマンダの瞳から哀しみの涙が零れぬように、とでも言いたげな真摯な、祈るような、真っ直ぐな視線を向けて。

「で、でもっ! ……だけど、アタ、アタシ、みてえな……」

 頬に添えられたジャニスの手に、僅かに力が込められた。

 たったそれだけで、アマンダは続く言葉を堰き止められてしまう。

 ただ、堰き止め切れず溢れる涙が、ジャニスの白く細い指を、ゆっくりと濡らしていく。

「特務士官だって、兵隊ヤクザだって、ストリートギャングまがいの暴走族だって……、例え、殺人犯だったとしても、ひとを愛してはいけないひとなんか、いない。幸せを望んではいけないひとなんて、いないのよ? 」

「……うっ」

 嗚咽が洩れそうになる刹那、再びジャニスが浮かべた笑顔に、アマンダは辛うじて溢れそうな想いを堪える。

「貴女だってそう。一体、貴女ってどうしてそう、肝心なところで弱気になるの? 去年の9月だってそうだった」

 アマンダの潤んだ瞳の向こうに、哀しげな、心配そうな表情のジャニスがいた。

「貴女を雁字搦めにしているのは、貴女の臆病さ。貴女は、自分自身を言い訳にして、ほんとは傷つくのが怖いだけ。貴女とセンター長を隔てているのは、生まれ育ち、過去、エリートと不良、相手の気持ちへの思い遣り……、そんなものじゃないわ。そんなの、全部言い訳に過ぎない。……貴女と彼を隔てているのは、欲しいものは傷ついたって欲しいと願う、覚悟のなさ」

 富美子の、幸次郎の、四季の言葉が胸の中で暴れている。

 痛いくらい、暴れ回っている。

 そう。

 そうだ。

 ジャニスの指摘通りだ。

 アタシは、傷つくのが、痛いのが、嫌なのだ。

 怖かった。

 アタシは、怖かった。

 もう、痛いのはイヤだった。

 漸く、娘を動物園に連れて行ってやれる、平凡だが願ってやまなかった『幸福』の直前で命を奪われた父、アタシを庇って死んでしまった母、ふたりを奪われた痛み、ふたりの命を引き換えにしてもなお、脇腹に残った傷痕の痛みは耐え難かった。

 傷痕に残る痛みは、周囲の子供達に、大人達に、弾かれ続けて、いつも疼いていた。

 そのうち、自分で自分を傷つけることを覚えた。

 他人に傷痕を抉られるよりも、自分で傷を抉る方がまだ、耐えられると思ったから。

 でも、そんな自分を見て涙を隠しながら、世界中で唯一人、優しく傷を癒そうとしてくれている祖母の姿に、やっぱり痛みを覚えた。

 その祖母すら病から救えずに、抱えた痛みは、今もこの胸の奥で疼いている。

 大人になれば耐えられる、そう思い、そうであってくれと希み願いながら必死で生きてきた自分は、だけど、やっぱり痛みを堪えかねていたのだ。

 だから、陽介の差し伸べてくれた手が、嬉しかった。

 離したくない、真剣に願い、そして祈った。

 そうだ。

 アタシは、もう二度と、痛みを感じたくなかった。

 だから、夜の闇の底、泥や汚物に塗れて這いずり回っている方が、楽だった。

 だから、陽介に手を引っ張られても、昼間の明るい世界に踏み込む勇気が持てなかった。

 だって。

 好きで好きでたまらない、大好きな陽介に、もしも拒絶されたら、きっと死ぬほどの痛みを感じてしまい、アタシは二度と立ち直れない。

 そんな痛みに、アタシはこれ以上耐えられそうにないんだ。

 痛いのは、もう嫌なんだ。

 それだけなんだ。

 たった、それだけのことなんだ。

「ジャニスゥ……」

 溢れる想いはしかし、福音を齎してくれた天使のような友人の名前にしか変らない。

 しかしジャニスは、それで充分とでも言うように、眼を細め、優しげに微笑みながら、頷いてくれた。

 祖母のように。

「大丈夫、アミー。こんなガラスの垣根、貴女はきっと乗り越えられる。しっかりしなさいチャンピオン! 私がセコンドについてる、だから大丈夫! ……だって」

 ジャニスは一旦言葉を区切り、背の高いアマンダを柔らかく抱き締めた。

 背伸びして。

 甘い囁きが、アマンダの耳朶を擽る。

「あの時だって貴女は、防弾ガラスさえブチ抜いて、彼に抱き締められたじゃないの」

 囁きに導かれるようにアマンダは、ジャニスの背中に手を回し、華奢な身体を抱き締めた。

 一瞬、抱き潰してしまいそうだと力を抜きかけたが、すぐに思い直して力一杯抱き締めた。

 陽介や四季、高崎夫妻と同じように、彼女の手は離してはいけない、そう思ったから。

「……痛いよ、アミー」

 くすぐったそうに囁くジャニスの吐息が、耳朶の『陽介からのプレゼント』を揺らす。

 陽介はいつも傍にいてくれたんだ、改めてそれが実感できたようで嬉しかった。


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