14. ひまわりを、この胸に
第89話 14-1.
8月に入って暫く経った朝、いつもの時間に陽介が自室のドアを開くと、嗅ぎ慣れた香りが鼻腔を擽った。
「アマンダ……! 」
廊下の手摺に持たれて、朝の町並みを眺めながらラッキーストライクを燻らせていたアマンダは、懐かしい、射すような鋭い視線を肩越しに投げて寄越し、ボソッと不機嫌そうな声で言った。
「遅ぇよ、どんだけ待たせんだ? 今日から復帰だって判ってただろうが」
思わず綻ぶ顔をそのままに、陽介は鍵を閉めるのもどかしくガチャガチャ音を立てながら言った。
「結構、焼けたんじゃないか? 」
「テメエ、ケンカ売ってんのか? 」
鞣革のような褐色の肌は、心持ちその色を深めているように思え、陽介は一瞬、自分がまだひまわり畑にいるような錯覚に捉われる。
アマンダはすぐに表情を緩め、はっきりそうと判る微笑を浮かべた。
「ま、いいや。それより腹減っちまったよ。おい、早いとこ行こうぜ? 」
「あ、ああ」
アマンダの声に現実に引き戻された陽介は、いつものように彼女の後を歩こうとして、彼女が階段に身体を向けながらも、一歩も進んでいないことに気が付いた。
普段なら陽介を放置したままとっとと階段を下りる~もっとも、関内駅の改札を抜けてからと、退勤後の帰り道に関しては、春先から肩を並べて歩くようになったのだが~筈なのに、と訝しげに立ち止まった陽介は、彼女の右手が焦れたようにプラプラと動いているのに気付いた。
肩越しに僅かに見える彼女の顔をそっと覗き見ると、見事なほど真っ赤に染まっていた。
「……ああ」
陽介はそうか、と口の中で呟き、彼女の隣に並んでそっと、掌を握った。
少し汗をかいていた彼女の掌は、触れた途端、感電したようにビク、と震えたが、やがてゆっくりと、指を絡めてきた。
「……新しい、ルールだな」
呟いて一歩先に足を出した陽介に、まるで手を引かれるように、アマンダがボソリと呟く声が聞こえた。
「うっせ、馬鹿」
高崎農園の2日間では
「馬鹿野郎、テメエッ! タルんでんじゃねーぞっ! 」
オフィスにアマンダの怒声が響き渡る。
「何ヶ月ウチでオマンマかっ食らってやがった! 何遍も言ったろうが、主契約のエビデンス雛形が向こうから出たら、大豆関連は食管法をまず当たれって! 何の為に逆引きデータベース作ってやったと思ってんだよっ! 」
「も、申し訳ありません! 」
1班では一番若い、つい数ヶ月前までミキータ・フロントで重迫のオペレータをしていたマーチン・ヒルズ陸士長が、190cmはあろうかと言う巨体をコンパクトに折り畳んで頭を下げた。
「もうっ、雪姉ちゃん五月蝿い! 」
「雪姉ちゃん、電話聞こえないー! 」
外線使用中のフローラやアヴィから一斉にブーイングが上がるが、怒鳴ってる本人も電話中~しかも送話口を押さえもしていない~であり、周囲からのクレームは綺麗にスルーしている。
けれど、どんなに激しい怒りでも嘘みたいにアッサリ終わるということも皆にとっては周知の事実であり、実際、アマンダはあっさりと矛を収めた。
「ん、判ったんならもういい、ケツはアタシが持つから。マーチン、次からちゃんとやりゃいいから。だけど二度はしちゃならねえぞ」
「ハッ! 」
姿勢を正して脱帽敬礼するマーチンに、手で追い払う仕草をしながらアマンダは電話に戻る。
「おう、悪ぃ。で? どこまで話した? ……ん。……ん。あー、違うってば。……そう! 輸送艦『支笏』は緊急輸送がブレイクしたから、
怒鳴りまくって叩きつけるように受話器を置くと、アマンダは隣の8係のパーティション越しに顔を蒼褪めさせて遣り取りの様子を見守っていた、医薬品担当のチャールズ・マッコイ三等艦尉に声を掛けた。
「マッコイ、聞いてたな? フェリーの手配は? 」
「はっ! 先程のご指示通り、701師団のチヌークが1機、大黒埠頭の上屋前で待機しております! 」
「ボヤッとすんな、Go、go、go! 」
「イエス、マム! 」
8係長の席の横に立ち、ジャニスと打合せをしていて一部始終を見ていた陽介は、知らぬうちに口を開いたまま、アマンダの雄姿に見惚れていた。
「アミー、ありがと、助かったわ! 」
隣で声をかけるジャニスに、アマンダは軽く手を上げて、反対側の手はもう次の電話を受けようとハンドセットを持ち上げていた。
「ああ、中島課長! いつもお世話になりありがとうございます、沢村でございます。何度もお電話頂きました様で、本当に申し訳ありませんでした。……え? いやだ課長、そんなリッチな休暇、このブラックな職場で通る訳が……。あら、いやですわ! オホホホホ」
口調は既に余所行きの、模範的な営業トークに切り替わっていた。
何度見ても、信じられないほどの見事なスイッチだ。
だいたい、さっきの揚陸艦への輸血用血液緊急輸送ブレイクを巡って、上官相手に~戦務参謀というからには、少なくとも二佐だろう~大立ち回りを演じていたのも、そもそも彼女率いる7係の扱い品目ではなく、8係のジャニスの管轄だ。
そんな事実こそが、いかにもアマンダらしいのだと、しみじみ思う。
自己犠牲だとか、浪花節だとか、そんなステロタイプな言葉では言い表せない、誰かが苦しんでいて、誰が困っていて、じゃあ自分は今何を優先すればいいのか?
そんな迷いを、社会人、組織人なら咄嗟に考えてしまう柵などに縛られることなく、真っ直ぐに表わすことの出来る彼女の性格と、それを実行してしまうエネルギー、そして成し遂げてしまう実力が、陽介には頼もしく、逞しく、そして眩しく感じられる。
態度だけは折り紙つきの悪さで、椅子に浅く座りデスクの上に両足を投げ出しているアマンダの姿を眺めていた陽介は、隣のジャニスの囁きで我に返った。
「……想い人復活で、良かったですね」
「なっ! 」
思わず大声をあげそうになり、慌てて口を噤む。
視界の隅で、アマンダが肩と耳にハンドセットを挟んだまま訝しげな視線を投げるのが見えたから。
わざとらしく咳払いをし、陽介は「じゃあ8番、頼んだぞ」と棒読みで告げ、「イエッサー! 」と芝居掛かった調子で答えるジャニスから逃げるように、自室へと踵を返す。
アマンダの背後を通り過ぎる瞬間、彼女がポイと小さな『なにか』を放り投げてきた。
掌で受け止めると、メモ用紙で作った、折鶴だった。
センター長室へ戻り席へ座ると、パーティションのガラス越しに、アマンダの豊かな黒髪が見える。
髪を無造作にゴムで束ねていた農作業の時と違って、今は自由に背中でうねる髪を眺めるうちに、日常が戻ってきたことの実感と安心感、そして非日常と呼べるあの高原で過ごした2日間への、どうしようもないほどの愛惜が、同時に湧いてきた。
ガラスの向こうには、相手と自分の立ち位置に応じて愛想と罵声を使い分け、傲岸不遜な態度でそれでも期待以上の成果を力尽くで叩き出す凄腕『調達屋』のアマンダがいる。
反面、細やかな心配りで周囲を助け、困っている人へさりげなく手を差し伸べ、相手が本当に必要な支援を確実に行い、けっして見返りを求めない、懐の広くて深い、アマンダもいる。
ちょっとしたことで頬を真っ赤にして、無口な分だけ見ているこちらが恥ずかしくなるほどの照れ屋で『面倒臭い』アマンダも、片手で鶴を折り、象を見て黒い瞳を煌かせ、パンダを見て怖いと背中に隠れ、近所の小学生と真剣に野球に興じる、そんな子供のようなアマンダも、料理洗濯掃除裁縫等家事全般をそつなくこなす家庭的なアマンダもいる。
そして、『ひまわりの女王』、アマンダも。
それもこれも、全てはアマンダなのだ、そう考えるうちに、陽介には高崎夫妻が言った言葉が、すんなりと、なんの抵抗もなく胸に収まる気がした。
『お互いに、知ってるフリをして、あの手この手で互いに気を引き合い、牽制しあい、探り合う……。だが、結局互いの信頼感さえあれば、そんなもの、なんでもない』
『知らないけれど、信頼できる。信頼さえしていれば、後はゆっくり、知っていけばいいんです』
気が付くと、未だハンドセットを肩に挟んだアマンダが、いつのまにかこちらに椅子を回してじっとみつめているのに気が付いた。
このオフィスでのアマンダの姿を、高崎夫妻や明野の人々に見せたらなんと思うだろう?
ふと頭に浮かんだ想像に思わず笑みを浮かべると、どう思ったのか、アマンダがアカンベエをして背中を見せた。
「子供か、アイツ……」
ひとりごちながら折鶴を摘み上げて机の抽斗を開く。
そこに仕舞われた沢山の折鶴、その一羽、一羽が、これまで『見知らぬアマンダ』に驚かされつつも楽しんできた遍歴に思え、陽介はさっき渡された折鶴をそこへ丁寧な仕草で置くと、暫くの間愛惜しそうな視線で鶴達を眺め続けていた。
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