第88話 13-7.
「はいよー、到着ぅ! 」
粋な勘亭流で『高崎農園』とデカデカと書かれた軽トラックが、見事なドリフト走行で駅前のロータリー~そんな立派なものじゃない、ただの広場だ~に滑り込んだ。
「お前……」
フラフラになって助手席から転がるように降りてきた陽介を放置して、アマンダは軽やかな足取りで駅舎の中へ入っていった。
「おお、11分04秒! 記録を21秒も縮めたぜ。さすが、ガソリン車の4WD、農道のランボルギーニって呼ばれるだけの車格だな」
民間利用でガソリン車は珍しい、よく認可されたなと言ったら、UNDASN実験施設の特権を活かしてガソリン車利用認可を得たんだ、アマンダはドヤ顔でそう答えた。
彼女の中では、食堂のおばちゃんに神経痛消炎剤を渡す行為と大きな違いはないのだろうと思えて、陽介は黙って頷いておいたのだが。
黙認の見返りが、このハードなカーアクションだとは思ってもみなかった。
「くそっ! ……酷い運転だ、相変わらず。ミハランの砂漠で
呪詛の言葉は掠れてアマンダに届く筈もなく、折角の高崎婦人お手製の昼食~暑かったでしょう、と、冷めたい手打ち笊蕎麦に梅干の入ったお握りだった~が胃の中から飛び出しそうになるのを必死に飲み込み、心持ち蒼褪めた顔の陽介は、数度深呼吸をしてからゆっくりと駅舎の中に入った。
「あらぁ雪ちゃん、もう帰るのかね? 」
「違うよおばちゃん、仕事熱心な相棒が次の得意先へ行くって言うからよ」
キオスクの店員や駅員と歓談していたアマンダが、陽介を振り返って、駅の小荷物預かりに入れておいたアタッシュケースを差し出した。
「荷物、これだけだったよな? 」
「ああ、ありがとう」
「丁度いいや、後10分程で上りの各停が来るから、それ乗ったら3駅先の韮崎で下りのスーパーあずさに15分待ちでスイッチできらあ」
アマンダの隣で昨日も話した駅員が、切符を差し出し、笑ってみせた。
「隊長さん、良かったらまた来て下さいやあ」
「ありがとうざいました、是非そうさせてもらいます」
駅員やキオスクの店員に頭を下げる陽介の横で、大人の会話に入れてもらえない子供みたいに面白くなさそうにしていたアマンダだったが、一瞬の沈黙を逃さずに陽介の手を取り、改札に引っ張りながら駅員に言った。
「じゃあ柴田さん、ちょいと中、入れて貰うぜ。行こ、陽介! 」
自動改札に切符を通す陽介の隣の
1時間に1本間隔らしい土日ダイヤの昼下がり、地上駅で単式ホーム1面1線と島形ホーム2面2線を持つこの駅は、どのホームにも駅舎からは跨線橋を渡らなければならない。
アマンダは元気いっぱいの小学生みたいな足取りで、さっさと階段を駆け上がっていった。
遅れて陽介が階段を降りると、上りホームには人っ子一人おらず、ただ、線路脇の並木から聞こえてくる蝉の声だけが身体に染み入るように響いている。
昨日、駅に降り立った時には唯々、暑さを助長させる効果音でしかなかった蝉時雨が、今日、自分とアマンダ、ふたりきりの、何処か夢の世界にいるような錯覚を起こさせる風景のプラットホームに立って聞くと、まるで1台のピアノが奏でる静かなBGMのようにも思えてしまうのが陽介には不思議で、けれど何故だか納得できるのだった。
脳内へ、不意に流れてきたメロディ、この曲は。
クラシック音楽には造詣はなかった筈なのだが、不意に曲名が舞い降りてきた。
そう、『別れの曲』とか言わなかったか、確かショパンだったか?
途端に、自分の横で肩を並べて、列車のやってくる方向に顔を向け、爪先立ちしているアマンダが堪らなく愛しく感じられる。
訊ねたいこと、言いたいこと、苦しくなるぐらいに胸を塞ぐ降り積もる想いは、けっして消えてなくなった訳ではないけれど、たった2日のこの逢瀬~そう呼んでよければ~を経たことで、まるで紗がかかった映像のようにそれらは希薄になって、より一層、高く深い蒼空と一面のひまわりが織り成すあの風景にふたり抱かれていた時間こそが、唯一、大切に守りたい現実にすら思えるのだ。
こうしてアマンダの背中を見ているうちに、不意に、彼女が目の前から消え去り、あの何十万本ものひまわりに紛れてしまい、再び見失ってしまうのではないか、そんな不安が陽介の胸の中に湧き上がってきた。
だから陽介は、そっと、アマンダの掌を握る。
そっと、静かに、柔らかく。
少しでも力を込めれば、儚く散ってしまいそうな、ひまわりの女王。
アマンダは、ホームに立ってからずっと、陽介の顔を見ないよう、そしてそれが自然に振舞っているように思ってもらえるよう、最大限の努力を自分に強いてきた。
ずっと、ずっと、瞬きする時間さえ惜しんで彼を見ていたかったし、陽介が列車に乗ってしまった後も、きっと最後尾が遠くに消え去るその瞬間までみつめているだろうけれど、そうすればきっと、涙が止め処なく溢れて結局視界を曇らせることが判っていたから。
……いや、嘘だ。
本当はこれ以上彼をみつめていれば、きっと列車が来た途端、遮二無二彼の腕を掴まえて離そうとせず、ホームに崩れ落ちて見っとも無く泣き喚き、彼を困らせてしまいそうだったから。
そうなることが確実に思えたから、列車が来るのを待つように見せかけて、顔を背け、背中だけを見せていたのだ。
心の中では、今もこちらに向かってのんびりと走っているだろう普通列車に向かって、来るな、故障でもなんでもいいから、その場で止まれと念を送りながら。
だが、背後で黙って立っている陽介の、大きくて力強い、そしてどんな時でも自分にむかって差し伸べてくれていた手が、自分の掌をそっと包んでくれた、その刹那。
これまで、必死で堰き止めていた想いは堰を切って溢れ涙となって頬に零れ落ち、せめて押し殺そうと空いた片手で抑えた唇はそれさえも果たせず、とうとう嗚咽を漏らしてしまう。
堪えかねて、崩れ落ちようとする膝にありったけの力を込めて、反射的に彼の掌を力一杯握り返す。
祈りを籠めて。
今の自分が持てる全てと引き換えになろうとも構わない、そんな唯一で絶対の祈りを籠めて。
どうか。
どうかこれ以上、ふたりの距離が開かぬように。
せめて、再会のとき、互いに微笑みを交わせる別れであるように。
祈りにも似た想いを込めて、アマンダは顔を背けたまま、繋いだ掌を離さずに、しかしこれ以上立っていることすらとうとう叶わず、思わずよろめいたところを、彼はしっかりと身体全体で受け止めてくれた。
刹那、あれほど煩かった蝉の声が嘘のように、消失する。
遠くで鳴り始めた踏切の警報音が、誤動作だったとでもいうように唐突に途切れる。
眼に痛いほどの溢れる陽光、木々の緑、信号の赤青黄、ペンキの剥げかけた古い広告、全ての色という色が、一瞬にして、モノクロームの世界へ飲み込まれていく。
全てが消え失せたかのような、儚い幻想のような世界の中で、アマンダには唯、掌に感じる彼の温もりと頬をつたう涙だけが、確かな現実感を持っているように感じられた。
「アマンダ……」
陽介の声が、なにもない世界に、静かに、そしてはっきりと、響く。
まるで、遠雷のように。
答えようとして口を開けば、見っとも無い嗚咽が洩れそうで、アマンダはただ、ガクガクと首を振り、返答に代える。
「なんで、俺に黙って旅立ったんだ? 」
問われた内容はいざ知らず、その声、口調には責める様子など欠片も感じられず、普段同様の優しさと温かさに絡め取られるようにしてアマンダは、掠れた声で途切れ途切れに答えざるを得なかった。
「……だ、だって……。あ、あんな格好悪いこと、し、しちまって、さあ……? お前……、めい、迷惑だろうし、アタシなんか、きっと……、きっと……」
だらしない、みっともない。
募る自己嫌悪と闘いながら
「み、見るなよぉ」
抗おうとして涙声しか出せず、身体の何処にも力が入らないアマンダを、陽介は真正面から真っ直ぐにみつめて少しだけ、大きな声を出した。
「判った、アマンダ、判ったから。……だから、な? 」
きっとアタシ、今、酷い顔だ。
思いつつも涙は止まらず、喉はひりついて声も出ない。
ただ子供のように頷き続けることしか出来ないアマンダに、陽介はいつもと変らない笑顔を浮かべて、はっきりと言った。
「迷惑じゃないから。次は、俺も誘え。……な? 」
「陽介ぇ」
もう、駄目だ。
抑えられない。
好き。
陽介、やっぱり好きだ。
『あの子達』より、あんたが好きだよ。
思わず、空いた片手で陽介のドレスブルーの襟を掴んだ瞬間、硬く握っていた筈のふたりの掌が解れ、続いて空いた陽介の片手が襟を掴んだアマンダの手を、まるで子供をあやすように柔らかくほどいていく。
「あ……」
漸く洩れたアマンダの声に押されるように、陽介の身体は一歩、後ろへ下がった。
「誘ってくれないのか? 」
問い質す彼の声を合図に、劇的なほど鮮やかに、世界が色付き、音という音が一挙に戻ってきた。
涙に霞む視界に飛び込んできたのは、オレンジと緑のツートーンカラーに塗り分けられた、115系普通列車用リニアモーター車3両編成が扉を開くシーン。
乗り降りする人もまるでなく、柴田という名の駅員がアマンダの背中から「雪ちゃん、停車時間は1分じゃよ」と声をかけて、苦労人らしいその外見らしく、返事も待たずに車掌のいる最後尾へと歩み去っていった。
柴田のさり気ない優しさに押されて、アマンダは縋るように、涙に塗れた顔を陽介に向ける。
「……誘っても、いいのか? 」
陽介は怒ったような表情をして見せて、すぐに笑顔に戻った。
「もちろん」
「陽介っ! 」
アマンダは、彼の背後に回り込み、両手で背中を遮二無二押して、車内に押し込んだ。
だって、アタシは、決めたんだ。
陽介の優しさに絆されて。
陽介の胸の中に灯る温かさに
だから、アタシは。
「3つ先の韮崎で、下りホーム、15分待ちでスーパーあずさ! 」
「判ってるよ、子供じゃないんだから」
苦笑いする陽介から視線を逸らさず、アマンダは顔を濡らし続ける涙を、腕白小僧のようにグイ、と腕で拭う。
「陽介、アタシ」
思わず口をついて出る、堰き止め切れなかった想いを乗せた言葉は、しかしホームに鳴り響く発車のブザーに掻き消され、アマンダは思わず、陽介へ腕を伸ばす。
その手の指先を、陽介の掌がそっと受け止めた。
「陽介! 」
アマンダが叫んだ途端、ブザーは鳴り止み、彼はそっとアマンダの手の甲に口付けて、そっと囁いた。
「横浜で待ってる。ひまわりの女王様」
彼はポン、と~まるで幼子にそっと手鞠を渡すように~アマンダの手を彼女に投げ返した。
ああ、ああ。
陽介、アンタってヤツは、もう本当にどこまで。
アタシを甘やかせてくれるんだろう?
どれほどアタシを、喜ばせくれるんだろうか?
こんなの、好きにならずにいられないじゃないか!
「必ず帰る、だから待ってて! 」
想い半ばでドアはエアの音とともに閉まり、鉄輪式リニアモーター車はインバーターの音を唸らせながらゆっくりと滑り始める。
アマンダの叫びが聞こえたのか聞こえてないのか、陽介はドアの向こうで綺麗な艦隊式敬礼をしながら彼女をみつめていた。
待っててくれる。
陽介は、きっと、アタシが帰るのを待っていてくれる。
彼が唇を落とした手の甲のそこだけが疼くように熱く、その熱さがふたりが交わした約束の証に思え、アマンダは涙を流しながら陸式の敬礼を送る。
陽介は、きっと、待っていてくれる。
それは、つまり。
アタシには、明日が待っている、と言うこと。
少なくとも、陽介と再会してからと同じ、明日が。
これまでと変らない明日が、少しだけ淋しく、切なかったが、それでも良かった。
だって、少しは変っている筈だもの。
だって彼は、陽介は、アタシのことを『ひまわりの女王』と呼んでくれたもの。
ふざけて言ったのかも知れないけれど、それでもアイツはアタシをひまわりだと言ってくれたのだもの。
貴方だけの花になりたい、貴方のためだけに咲き誇りたい、叶わぬ願いと知りながらも願い続け、希みを捨て切れなかった今日までの想いが、刹那の夢かもしれないけれど、それでも叶った瞬間なんだもの。
祈りにも似た言葉を呟きながら、列車が消えてもなお敬礼を解かず暫くは立ち竦んでいたアマンダだったが、やがて小さな吐息をほっと吐くと徐に敬礼していた腕で額の汗と、頬を濡らす涙を拭った。
「……さて。女王陛下はとっとと臣民達の待つ王国へ帰るとするか」
そして、その先に待っている筈の。
彼との明日へと、帰りたいから。
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