第87話 13-6.
「あー、暑いぃ」
「なんだよ、だらしねえなあ! 」
一宿一飯の恩義もあり、好奇心も手伝って、陽介は朝食後に幸次郎達に農作業の手伝いを申し出た。
昔と違って力仕事も少ないことだしと承諾を貰って、借りた作業着を着てアマンダとコンビを組んで3時間、太陽はそろそろ中天にさしかかろうかと言う1130時過ぎ、陽介は夏の陽射しに耐え切れず、とうとうその場にへたりこんでしまった。
その姿を見てアマンダは、女子高生のようにケラケラ笑いながらコンバインから下りてきた。
どうせ自動運転だ、無人でも仕事は続けてくれる。
「冗談抜きで、だいぶ鈍ったんじゃねーの? 」
言いながら差し出された水筒の冷たい麦茶を一気に喉に流し込む。
ミハラン時代に彼女から教わった、レンジャー流『酷暑地帯での効率的な行動メソッド』を忘れた訳ではなかったが、一気飲みせずにはいられなかったのだ。
アマンダが陽介のポケットに無理矢理突っ込んでくれた塩飴は、とっくの昔に品切れになっていた。
「……ミハランも酷かったが、日本の夏の高温多湿は、もっと酷いよ」
アマンダは腕時計を見て、ウンと両手を一杯に広げて伸びをした。
「少し早いけど、ちょいと休むか。もうすぐ昼飯だし」
そう言うとアマンダは、陽介の腕を掴んで無理矢理立たせる。
「こんな炎天下で座ってるほうが自殺行為だぜ? こっちで一服しようや」
連れて行かれた背丈2m程の『ロシア』の栽培地区は、収穫、出荷は来週からとの事で、今は心地よい日陰を惜しみなく提供してくれていた。
一旦日陰に入ってしまえば、流石は避暑地の乙女高原に隣接する丘陵らしく、涼やかな風が汗を拭き取り、火照った身体を優しく冷ましていく。
「陽介」
「ん? 」
陽介は振り向かずに答える。
彼女の声が湿り気を帯びていることが判って、これから続く彼女の言葉と表情が想像できてしまい、顔を見てしまえばきっと、これから言う彼女の言葉にノーと言えなくなりそうだったから。
「ほんとに、午後の列車で帰っちまうのか? 」
「……帰るんじゃないって。出張だよ、出張」
「仕事は明日だろ? 晩飯食ったら韮崎駅まで送るからさあ。最終のスーパーあずさにゃ充分間に合うって、今日中に松本に着けるから、さあ? 」
思わず、じゃあそうしようかと言いかける自分の本音を力任せに捻じ伏せる。
「いや。ご主人達には急な来客で、ただでさえ昨晩はお手間をかけてるんだから。そんな厚かましい真似、申し訳なくって出来ないよ」
アマンダの言うとおり、松本出張なんて最終の特急でも充分だ。
プライオリティの高い任務ではない。
どころか、今では判る、これは四季と瑛花の『謀略』だ。
……ありがたい、には違いないが。
「むぅ……」
高崎夫妻を持ち出されてまで、さすがにアマンダは無理強いできないようで、脹れっ面で唸っている姿を横目で見て、陽介は改めて彼女の存在を愛惜しく思う。
「なあ、陽介」
再びの呼び掛けに驚いて、陽介は思わず顔を向けてしまった。
正面で向き合ったアマンダは、予想に反して、一欠けらの邪念もないと言った純真そうな顔で、真っ直ぐに陽介をみつめていた。
「……どうした? 」
「昨日はあんまり嬉しくって、つい……、聞きそびれたんだけど、さ? 」
「ん? 」
「なんでお前、ここへ来てくれたの? なんで、ここが判ったの? 」
陽介は汗の引いた頬をポリポリ掻いて、まず二つ目の質問から答えた。
「去年も一昨年も、この時期長期休暇取ってるって8番とかから聞いて……、んで、後は推理だ」
「ふーん」
二つ目の質問は彼女にとってもついでのようなものだったらしく、おざなりな返事をした後、じっと無言で陽介の顔をみつめ続けている。
さて、困ったことになった。
アマンダの顔を見るまでは、あれも聞きたいこれも訊ねたいしかし一体どうやって、と悩んでいた陽介だったが、いざ彼女の顔を見てからは、そんな悩みすら忘れてしまっていたのだ。
彼女の真っ直ぐな視線を感じて、陽介は焦ってしまってその挙句、心の一番上にあった言葉を口の端に乗せる。
「なんでって、その……。昨日の晩も言っただろ? 休みの前の晩、その……、色々と、まあ、あったし、さ……」
「ほんっとに、それだけ? 」
きょとんとして訊ね返すアマンダのあまりにも無邪気な表情に、陽介はますます慌てて言い返す。
「そ、それだけってお前、ま、まあその、な、なんだ……」
それだけじゃない、お前にどうしても逢いたかったんだともう少しで口から飛び出しそうになる台詞を、陽介は寸でのところで飲み下す。
今は、言うべきじゃないと、思った。
今、何を言っても、嘘になってしまいそうな気がして。
今言ってしまうと、ただこの場の雰囲気に飲まれて、調子に乗ってしまったように思われないか?
違う、違うんだよ。
確かにこの農園が、日常から遠く離れた、美しい、澄んだ空気に包まれたこの高原が、アマンダのもうひとつの素顔を、予想以上に素敵な、美しい笑顔を見せてくれた、そしてそれに魅せられた、そうには違いない、けれど。
それは切っ掛けにしか過ぎなくて、ただ間抜けなことにこんな大事な気持ちを抱きながらも、知らぬふりをしてのうのうと日々を過ごしてきた己の救い難いほどの馬鹿さ加減に、気付かせてくれのが、このひまわりの海なんだ。
それをアマンダには判ってもらいたくて、だから今は言えない、そう思うのだ。
アマンダは暫くの間、呆れたように陽介の真っ赤に染まった顔を見ていたが、やがてクスクスと笑い出し、それも収まると、優しげな微笑を浮かべて、静かに言った。
「やっぱ、陽介は……、優しいなぁ」
「……え? 」
「優しいついで……、って言うのもなんだけど、もういっこ、訊いていいか? 」
アマンダは陽介の言葉を奪うように言葉を重ね、陽介が一瞬首を傾げたのを了解の合図と解釈したのか、質問を切り出した。
「あの夜、お前……、総務の明石と一緒に蓬莱町プリンス別館の裏口にいたろ? あれはなんで? 」
陽介と再会したら、たったひとつ、これだけは訊ねようと思っていた質問だった。
答えを想像するだけで、実際に胸は鋭い痛みに疼き、視界がぼやけ、瞳の奥がキュンとなる、これじゃあ質問なんか出来る訳がねえ、と自分を叱咤し、清水の舞台から飛び降りるほどの勇気を振り絞ったつもりだったが、思いもかけず言葉はスラスラと口をつき、アマンダは内心驚いた。
「え? 総務? 」
陽介にとっては予想外の質問だったらしく、暫し眼を瞑って首を捻っていたが、やがて口の中で小さく「ああ」と言った。
「思い出した。あの日、セミナー会場のあのホテルに到着してから名刺を忘れたことに気付いてさ。オフィスに電話して、お前がもう退勤したって聞いたから、代わりに総務に持ってきてもらったんだ。で、お礼も兼ねて懇親会のパーティに誘ってさ。丁度出てきたところでお前と会ったんだよ」
それがどうしたんだ? と無言で問うてくる陽介の表情を見て、ああコイツらしいやとアマンダは、ホッとするより先に笑いが湧き上がる。
いや、ホッとしたからこそ、笑う余裕が出来たのか?
「そっか……」
あれこれ思い悩んでいた自分が馬鹿みたいに思えてきた。
もちろん、だからといって陽介を責める気は、これぽっちもない。
数日前、1年ぶりに高崎家を訪れ、煌く陽光を一杯に受けて揺れているひまわり達が出迎えてくれている光景を見た時、改めて、心に決めたのだ。
アタシには、この子達がいる。
元々、手が届かない筈の陽介の、せめてもの代わりにと胸に抱いた、この子達が。
代わりになどなり得ないことは、出会って間もない高橋夫妻がどうぞと花束を胸に抱かせてくれた次の瞬間に悟ったけれど、それでも、太陽を追い求めて空を見上げるこの健気な花達が、まるで自分の分身のように切ない想いを代弁してくれているかのように思えて、愛惜しくてたまらなく、どうせ届かぬ夢ならば、せめてこの子達と手の届くところで光る夢を見よう、そう決めたのだ。
だって陽介は、抱いてこそくれなかったけど、はっきり『抱きたい』と言ってくれたじゃないか。
それは決して慰めの、その場凌ぎの空回りする言葉などではなく、ちゃんと『身体』で示してくれたじゃないか。
その上で陽介は、実に彼らしい優しさと思い遣りをもって、アタシを大事だ、大切だと言ってくれたじゃないか。
もう、それだけで。
それだけで、アタシは満足だ。
……負け惜しみかもしれないし、実際そうだと思うけど。
やっぱり、哀しくて切なくて悔しくて堪らないけど。
それでも、どんなに温かい慰めや誤魔化しよりも、アタシにはそんな正直な陽介の言葉が嬉しかったし、心に沁みたし、やっぱりコイツを好きになって正解だったと、そう、しみじみと思えたもの。
だから、高崎家に着いたその日1日、おっちゃんとおばちゃんには心配かけて悪かったけど、それでも泣いて泣いて泣き喚いて、だからアタシは漸く笑えるようになったんだ。
それだけでも、アタシにとっては上出来だ。
なのに、その上、陽介は。
そんなアタシに手を伸ばそうと、こんなところまで来てくれた。
こんなに嬉しいことはない。
やっぱり、アンタは、ヒーローだ。
そうだよ。
アンタは、アタシの、スーパーヒーローだよ?
陽介?
「そうか……」
質問しておいて、たった一言呟いたまま、瞼を閉じて微笑みを浮かべたまま口を閉ざしたアマンダを見て、陽介はしかし、これ以上自分から質問を重ねる気持ちは失せていた。
ただ、傍にアマンダがいてくれることが嬉しくて、そして自分がまだ、彼女に差し伸べられる手を持っていることが、どうしようもなく嬉しかった。
そうだ。
もういいじゃないか、過去のことは。
それよりも。
今は、それよりも。
「それにしても、ほんっと、いいところだな……。お前が毎年来るのも、判るよ……」
陽介の言葉に、アマンダはゆっくりと瞼を開き、しかし眼を細めて笑って頷く。
「だろ? 」
アマンダは徐に立ち上がり、首に巻いたタオルで額の汗を拭った後、ゆっくりと歩いて『ロシア』の杜を抜け、陽光の下に出る。
刹那、周囲のひまわり達が一斉に彼女を振り返ったような錯覚に捉われた。
女王の登場に姿勢を正す、臣下のように。
誘われた訳でもないのに陽介もまた立ち上がり、アマンダの横に立つ。
アマンダはチラ、と隣に立つ陽介に微笑みかけ、言葉を継いだ。
「自分で言うのもなんだけど、さ? アタシの人生、前半、結構辛かった……。まぁ、半分以上は、アタシ自身の責任なんだけど、な。……けど、陽介。お前と出逢ってからこっち、結構、世間様並みの幸せってヤツ、経験できたような気がするんだ」
そう言うとアマンダは照れ臭そうにペロッと舌を出してみせる。
「ミハランでお前に、大人になれって言われて、さ。アタシ、馬鹿だけど、必死になって考えた。なかなか答えは見つからなかったけど、お前や姐の言うこと聞いて、考えて、頑張って、幹部になって、ここへ来て……」
アマンダは、両手を広げ空に向かって背伸びした。
それは陽介が、アマンダをこの丘で再び視界に捉えた時と、同じポーズだった。
「金でもねえ、欲でもねえ、力でもねえ……、これなら……。この子達となら、アタシは一生一緒にやっていける、この子達だって、アタシを決して拒みはしない。そう、素直に思えた。……そしたら、スゥッ、と力が抜けて、さ。きっとそれまで、知らねえうちに身体中、そこかしこに要らねえ力が入ってたんだろうな……」
ウンッ、ともう一段、身体を伸ばしてから、アマンダは腕を下ろして陽介を見た。
「結婚して、子供を産んで……、なんて、そこまで人並みのゼータクは言わねえよ。抱きたいってお前が言ってくれたんだ、もう腹一杯だ。……だから、アタシは、一所懸命働いて、一杯金貯めて、んで、退役したらおっちゃんおばちゃんに頼んで、少しでいいから、この農園の片隅を分けてもらって、さ……」
アマンダの顔に、優しい笑みが一杯に広がった。
「一生この丘で、ひまわりと、この子達と一緒に、暮らすんだ! 」
周囲の、どのひまわりの花よりも明るく、大きく、美しい、笑顔だった。
その笑顔に魅せられて、陽介は言葉を失くし、じっとアマンダの顔をみつめ続ける。
随分と長い時間、そうしていたような気がするし、実は一瞬だったのかも知れない。
確かに、この原色の風景はアマンダにはぴったりだと思ったし、それはそれで素晴らしい人生には違いない。
だけど、と、ほんの少しの、違和感。
だけど、アマンダ?
本当に、ひまわり『だけ』でいいのか?
ひまわりたちと一緒に、太陽に向かって微笑むお前は確かに美しく、そして輝いているが、けれど。
本当に、お前が求めているのは、それだけか?
そこに、俺はいないのか?
溢れそうになる想いは堰き止め難いけれど、今はなにも言うべきではない、いや、何かを言える資格を俺はまだ得ていないのではないか、何故かそう思えて、代わりに、向かい合うアマンダの手を静かに握る。
「……案外、似合ってるかもな」
陽介は辛うじて、それだけを漸く口にすることが出来た。
おずおずと、やがてゆっくりとだが、しっかりと力を込めて握り返すアマンダは、極上の笑顔を浮かべて可愛らしく小首を傾げて見せた。
「……そっかな? 」
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