第85話 13-4.
賑やかな食卓、美味しい食事で腹も気分も満ち、デザートは甲州名物だという巨峰で作ったぶどう餡饅頭に、それこそひまわりの種を使った代用コーヒー、すっかり寛いで4人で談笑しながらご馳走になった後、陽介はアマンダが台所へ後片付けに立ったのを切っ掛けに、高崎夫妻にことわって煙草を吸おうと庭へ出た。
長い夏の陽もこの時間にはすっかりアルプスの向こうへ沈んで、入れ替わりに満天の星、月齢2だったがその分、天の川が良く見えた。
地球へ戻って10ヶ月、冬から春を経て夏になって、久々に見る夜空の星々は、今の気分もあってか、殊更優しく足元を照らしてくれているようにも思えた。
「横浜じゃ、こうはいかんよな……」
ひとりごちて、陽介は煙草を咥え火を吸い付ける。
アマンダが、普段、どれほど仏頂面の無愛想であっても、周囲の人々へは誰よりも細やかな気遣いを向けることの出来る性格であることは知っていた。
しかし今日、数日振りに再会した彼女は、彼の知る良い面はそのままに、見た目さえ同一人物とは思えないほどで、陽介は『アマンダに似た、知らない誰か』のような錯覚さえ覚えたほどだ。
確かに、今夜食事を共にして、高崎夫妻が魅力ある人物であることは充分に理解できたし、それに絆されたアマンダが、知らぬうちに普段隠れた一面を引き出された結果なのかも知れない。
けれど、陽介には、彼女の『変貌』の激しさの理由は、それだけではないように思われた。
そう思えるのだが、ならばその理由はいったい何か、それは未だ判らない。
判らないことは確かに気持ち悪いが、けれど今、陽介にとってはそれさえも重要ではないとも思える。
何故なら。
アマンダが、幸せそうに笑っている。
アマンダが、幸せそうに喋っている。
アマンダが、幸せそうに汗を流している。
アマンダが、幸せそうに陽光を浴びている。
アマンダが、幸せそうにひまわりに囲まれている。
「……それで、いいじゃないか」
そう思えるのは、ここへ来て、はっきりと判ったことがあるからだ。
それは、陽介の望み。
自分は、こんなアマンダを見たかったのだ。
あの夜のような、哀しげな、切なげな、苦しげな、戸惑いに瞳を泳がせるアマンダは、二度と見たくない。
彼女に、二度とそんな表情をさせたくない。
そうだ。
今夜の団欒の前、幸次郎が呟くように言った言葉に、自分の胸は肉を抉られた程の痛みを感じたではないか。
判っていた、筈なのだ。
自分が、アマンダを傷つけ、哀しませ、苦しめたのだ。
自分のいったい何が、彼女を傷つけたのか、それは、未だにはっきりとこれだと自覚できてはいないが~それがまた、我ながら情けない~、けれどそれは、きっと自分のせいに違いないのだ。
それだけは判る。
それだけは判っているからこそ、今日、幸せそうなアマンダを見ることが出来て良かった。
それだけは判っているからこそ、今後、二度とアマンダに辛い想いをさせるまい。
今なら俺はアマンダに、素直に詫び、誓うことができる。
今夜なら。
「おーい。こんなトコにいたのか」
振り向くと、そこだけは普段通りのジャージ姿で、アマンダがニコニコ笑って~そう、ニコニコと、何の屈託もなく笑っているのだ、アマンダが~立っていた。
「どうだった? 美味かったか? 」
陽介は、彼女が肩を並べるのを待って、笑顔で答える。
「ああ。いつも以上に美味いのは、素材が良いから? それとも奥さんが手伝ってるから? 」
「どっちもだ、どっちも」
アハハとまるで男の子のように笑うとアマンダは、陽介がさっきまで見上げていた天の川に顔を向ける。
「あーあ。今年も来て良かったぁ……、ん? 」
アマンダは何気なく陽介が差し出したラッキーストライクの箱に気付き、暫くそれをじっとみつめた後、クスクスと~まるで内緒話をしている女子高生のように~笑い出した。
「なんだよ? 」
「ああ、や、すまねえ」
アマンダはクスクス笑いを続けながらも、彼の差し出した箱から1本抜き取りながら答えた。
「毎年、ここへ来るとさあ。なんか、あんまり煙草吸いてぇって、思わねえんだよな。なんでかな。やっぱ、空気が美味しいからかな」
差し出したライターの火を吸いつけて、おどけた仕草でフゥッ、と銀河へ向かって煙を吐いて見せるアマンダの姿は、確かにあの夜までの普段の彼女が戻ってきたような錯覚を覚えたが、しかしそれも一瞬のことで、咥え煙草があれほど似合っていた彼女の姿も、今はまるで、親の目を盗んで悪戯心と好奇心だけで煙草を吹かしている子供の様にも見えるのだ。
「……ご主人や奥さん、心配してたぞ? 」
刹那、アマンダの瞳が切なげに輝く。
浮かべていた笑顔も、どこか淋しげな、そして照れ笑いのようなそれへと変り、彼女は視線を銀河から彼の顔に移した。
「うん。知ってたよ。悪いと思ってる。ちゃんと、謝るよ」
「謝る必要は……、ないんじゃないかな。いつも通りに笑っていれば」
陽介の言葉にアマンダはコクン、と頷いて見せる。
「……でも、もう大丈夫だ。だって」
アマンダは一旦口を閉ざし、ゆっくりと、頬を赤く染めながら目を細めて笑って見せ、それから視線を自分の足元に落としてポソ、と呟くように言った。
「陽介が、来てくれたからな」
アマンダの呟きを聞いた途端、凪いでいたと思っていた胸の中で、抑え難い衝動が沸き上がってきた。
雰囲気に流されて、このまま日常に再び戻ってはいけない、と。
いや、再び日常へ回帰することは出来るのだろう、けれど、それで良いのか?
何のために陽介、お前は先日まで意識の表層にもなかったこの高原に足を運んだのだ?
このまま微温湯に浸るように、彼女との関係を続けていけるのか?
いや、違う。
彼女との関係を、彼女との距離を、このままで済ませられるのか?
済ませて良いと、思っているのか?
違うだろう?
陽介は思わず手を伸ばし、彼女の肩を掴んで振り向かせた。
「な、なんだよ? 」
驚くアマンダを放置したまま、陽介は心に浮かんだ言葉をそのまま口に出した。
「すまなかった。許してくれ」
「……え? 」
訳が判らないと言う風に、ぽかんと口を開いて小首を傾げる彼女は充分すぎるほどに可愛くはあったが、今の陽介には苛立ちの種でしかない。
「だから! ……だから、誓うよ。神でも仏でもなんでもない、アマンダ、お前に誓う。俺は、お前に、もうこれから先、あんな哀しそうな顔は絶対に、させない」
「陽介……」
アマンダの表情が驚きへと変り、それもやがてフッと力が抜けて、再び笑みが浮かぶ。
「嬉しいよ、陽介。ありがと、な? 」
アマンダは目を細めて笑って見せるが、その目尻は星明りにも濡れているのが、よく判った。
勢いよく洟を啜り上げると、アマンダは静かに、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「……あの夜のこと、気にしてくれてんだろ? あれはお前が悪いんじゃあねえ。気にすンな。それより、今、お前が言ってくれた言葉が、アタシ、ホントに嬉しいよ」
アマンダは人差し指で目尻をそっと撫でると、照れ臭そうに言葉を継いだ。
「やっぱり、陽介。お前はアタシの、ヒーローだ」
「え? 」
思い掛けない言葉に、陽介は驚く。
何を言ってるんだ?
ヒーローって、なんだ?
俺がヒーローな訳がないじゃないか。
俺は、お前を泣かせてしまった。
俺は、お前を哀しませ、苦しませ、そのせいで高崎夫妻も心配させてしまったんだぞ?
お前がどんな想いで、あの夜、あんな行動に出たのか?
俺はまだ、その理由すら判っていないんだ。
結局俺は、お前を理解できないままだと言うのに。
結局俺は、お前を救ってなんてやれていないのに。
結局俺は、お前を抱くことすらしてやれなかったのに。
そのくせ、恥も外聞もなく、判らない『なにか』を教えてもらう為に、のこのこやってきた無能だというのに。
アマンダはしかし、そんな陽介の戸惑いに気付いているのかいないのか、エヘヘと照れ笑いを浮かべながら一歩下がって彼の腕から自然に逃れ、肩越しの誰かに手を振る。
「おっちゃん、おばちゃん! 」
彼が振り向いたそこには、高崎夫妻が食卓と変らぬ笑顔を浮かべて立っていた。
「アタシ、もっぺん風呂沸かしてくるよ。焚けたら呼ぶから」
照れ臭がるのは横浜と同じらしい、アマンダはそう言いながら小走りに陽介の脇を抜け、夫婦の横で足を止め「おっちゃん、煙草吸いすぎちゃあ駄目だよ! おばちゃんも甘やかしちゃ駄目だかんね! 」と、ふたりに声を掛けて、母屋に向かって走っていった。
そんなアマンダを高崎夫妻は、優しい眼差しと静かな微笑で見送って、ゆっくりと陽介の方に向き直り、そのまま空を見上げた。
「どうです、隊長さん。ご覧になった通り、まぁ、なーんにもない田舎だが、星空だけは一級品でしょう? 」
自慢げな幸次郎に続いて、富美子も空を見上げながら言葉を継いだ。
「お隣の乙女高原も、都会に較べれば綺麗ですけど、やっぱり観光地になってからは、ネオンやら照明やらでここほどの鮮やかさもなくなりましたわ」
陽介も夫婦に釣られて星空を見上げる。
「確かに、すごい星ですね。……宇宙でも、最前線でも、いやと言うほど星空を見上げてきましたが、やっぱり、地球の大気の底から見上げる星空は、違います。なんというか、うん、優しく感じられるって言うのか……」
いつのまにか夫婦は陽介の横に立っており、気付くと幸次郎が懐から煙草を抜き出し、火を吸いつけていた。
「でも隊長さん。貴方の様ないいひとが、雪ちゃんの恋人でほんとによかった」
「え? 」
思わず目を点にする陽介を置き去りに、夫妻は顔を見合わせて頷きあっている。
「ほんとだわ、雪ちゃん、あんないい娘だもの、そうそう釣り合う男なんかいないんじゃないかって、心配してましたのよ」
「それがはあ、まさか職場恋愛だなんてなあ」
「台所であの娘にそう言うと、そりゃあもう照れちゃって、こっちまで恥ずかしくなるくらいさぁ」
「あの娘はそこらへん、初心だわなあ」
「雪ちゃんったら、おばちゃん馬鹿言うなって。隊長さんはなんだっけ、その幹部学校……、でしたっけ? それ出身でおまけに大学まで出たエリートで、アタシみたいな不良出身の叩き上げとは釣り合わない、なんて言っちゃって」
富美子の言葉を聞いて、途端に幸次郎は真面目な表情を浮かべた。
「そりゃ、かあさん、違う」
富美子もまた笑顔を収め、少しだけ哀しげな表情になって頷いた。
「そうですとも。だから私言ったのよ。そんなこと言っちゃ駄目よ、って。貴女は、とても素直で明るくて働き者のいい娘なんだから。なんたって、まだ3年目だけれど、私達自慢の娘なんだから、って。私達の許可なく、自分を貶めるようなこと言っちゃ駄目よ、って」
放置していたら、いつまで続くわからない夫婦の会話に、漸く陽介は割り込むクリティカル・ポイントを発見して、慌てて口を挟んだ。
「待って、ちょっと待って下さい」
この人の好さそうな夫婦は、自分とアマンダが恋愛関係にあると、勘違いしている。
いや、何もそれを生真面目に否定するのも大人げないというか、アハハと笑っていやいや違うんですよとサラリと流してもいいのだろうが、何故だか、それを高崎夫妻にするのは違うように思えた。
このふたりは、まるでアマンダを本当の娘のように、大切に想い、そして彼女が幸せを手にすることを心の底から望んでいる、それがはっきりと判るから、だから。
だから、誠意を持って、自分とアマンダの、今現在の微妙さも含めた関係を知っておいてもらいたい、そう思ったのだ。
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