第84話 13-3.
「……美味い」
アマンダが、オーバーオールの胸当ての裏に自分で取り付けたと言うポケットから出した小型水筒の麦茶を飲み干し、甘露と吐息を零しながらそう言うと、彼女はアハハハと高らかに笑いながら、自分の首に巻いていたタオルで、額の汗や土を丁寧に拭ってくれた。
「だいぶ、鈍ってんじゃねえのかぁ? ここらは標高1000m、乙女高原とタイマン張れる涼しさなんだぜ? 」
「いやまあ、そうりゃそうかも知れんけどなあ……」
陽介は苦笑交じりに答えると、地面に座り込んだまま、首を廻らせた。
「しかし、広いなあ。これ全部、高崎農園か? ひまわりばっかり? 」
「そうだよ。農園自体は、23
久し振りに出逢ったアマンダは、ずっと、笑顔のままだ。
まるで、子供のような。
そう、あのホワイトデーの日、動物園で象を眺めていた時と同じ笑顔。
声は、普段通りの甘いハスキー・ボイスなのだが、この太陽の下で聞くと、なにやら遊びすぎで声が嗄れた少年のような、溌剌さ、爽やかさを感じる。
「アタシが初めてここへ来た時は、おっちゃんとおばちゃん、二人っきりでやってたよ」
「たった二人だって? 23haもある、この広大な農園をたった二人で? 」
驚いて問い返す陽介に、アマンダはアハハと笑いかけた。
「そりゃ、一見無理そうに思えるだろうけどさ。これでもここはUNDASNのハイテク技術が詰め込まれた実験農場なんだぜ? 」
アマンダはそう言うと、目の前に広がる黄金色の海を、眼を細めて眺め渡した。
「建前は、FAOをコアに据えたモスクワ条約の追加プロトコール、ってことになってるんだけどさ。第二十一次計画からは、調実の計画局と科本の農芸化学研究センターに加えて、
陽介は、まさかと思いつつ、刹那、頭を過った疑問を口にした。
「……UNDASNの関連施設だからここに来た、って訳じゃないだろ? 」
「もちろん! 」
アマンダは陽介を向いて、力強く頷いて見せた。
「初めてここに来た時ぁ、確かに仕事だったさ。実験施設指定に関する契約更改が目的だった。でも……」
アマンダは立ち上がり、再び蒼空に向かって両手を広げる。
女王の再君臨だった。
黄金の海が、一斉に彼女を振り向いたような錯覚さえ覚えた。
「……アタシ、この風景を初めて見た瞬間、思ったんだ」
アマンダがこれから何を言うのか、陽介にはこれっぽっちも想像は出来なかったが、ただ、いよいよ核心に迫ることができる、そんな裏付けもない期待感だけが急激に膨れ上がった。
「アタシ、やっと、みつけた……、って。アタシが探してたのは……、アタシが失くしたのは、これだったんだ、って」
四季の言葉が、陽介の脳裏に蘇る。
『もし雪姉がひまわりに自分を重ねていたとしたら……、雪姉にとっての太陽って、いったい、何だろうね? 』
陽介は、正午近く、天頂から射す陽光を全身に受けて笑顔で立つアマンダを見上げ、眼を細める。
そして、女王陛下へ、問い掛ける。
それは今は未だ、口には出来ないけれど。
なあ、アマンダ。
お前の探し物って、本当にこのひまわりなのか?
確かにこのひまわり達には、俺でさえ心を揺さぶられるけれど、だからと言って本当に?
お前の失くしたものってのは、本当にこれか?
違うんじゃないのか?
そして、それは……。
ピ、ピーッ、と言うチープな、そしてこの黄金の海の波打ち際には不似合いな電子音が、唐突に耳に響き、陽介は思わず我に返る。
アマンダが、ジーンズのポケットから民需用のトランシーバーを取り出して、トークボタンを押した。
「はいはーいっ! こちら雪野、どうぞーっ! 」
まるで小学生のごっこ遊びを思わせる、軍人として持っている筈の通信スキルを欠片も感じさせない、元気の良い応答だった。
『ああ、雪ちゃん。今、どこらかね? 』
アマンダがボタンを離すと、人の良さそうな柔らかい女性の声が、ヤケに明瞭に流れてきた。
「おばちゃん? 今ね……、うんと、正門の土手」
『ああ、そうかね。今、A05にいるんだけども、コンバインのチェーンがなにやら空回りしてねぇ。クボタの修理、電話番号憶えてっかねえ、雪ちゃん? 』
「ああ、おばちゃん、アタシが見るよ。クボタはホラ、保守契約こないだ切れたっしょ? 先にアタシ、見るよ」
『でも、そっからだと遠いべ? 』
「いいっていいって。それにホラ、もうすぐお昼だし。じゃ、今から特急で行くから待ってて、通信終わりっと」
アマンダはポケットにトランシーバーを突っ込みながら、陽介を見下ろした。
「んじゃ、行こ? おっちゃんとおばちゃんに紹介すっから」
「え」
いやしかし俺なんかがと口の中でモゴモゴやっていると、不意に日陰が訪れた。
見上げると、アマンダが、手を差し伸べていた。
「いいじゃん、行こうぜ? な? 」
急かすように目の前で振られるアマンダの掌を、陽介は暫く呆然とみつめていたが、やがて覚悟を決めて上げた右手を、彼女は自然に握り、ウンと彼を力任せに引っ張り起こした。
アマンダの掌は、柔らかくて、そして少しだけ湿っていた。
「道々、色々と案内してやるよ」
あの夜と違って、握った掌は温かかった。
「ひまわりってのは、全世界の昨年度生産量が約2400万トン。第一次ミクニー戦役直前とほぼ同じレベルまで漸く戻ったとこなんだ。
「戦争前は、アルゼンチンが400万トン、ロシア、ウクライナが合わせて700万トン、アメリカと中国がほぼ同じでそれぞれ200万トン程だったんだけど、ホラ、
「それを細々と支えてたのが、日本やトルコ、ルーマニアって国々でね。ここら辺、甲信越辺りはその流れを汲んでるんだよ。
「日本の昨年度の生産高は、九州や東北といった地域も合わせて昨年は200万トン。内15%はこの高崎農園が出荷してんだ。結構、凄いだろ?
「あ、ホラ! あっちの背の高いの。あれがロシア……、あ、ロシアって品種名な? それの作付け区域。主に搾油用だ。
「その隣、背が高くって、頭状花の馬鹿でかいやつは、ジャンボリーって食用の種類。
「あ、今見えてきた、背が低いの、な? 東北八重って食用だ。
「こっち側の方、ほら、花弁が長めのヤツあるだろ? あれは太陽って切花用。ちっこいけど、一番高く売れるらしいよ。
「ああ、あの麓のちっこいのは、サンホィート101。肥料用だからね。花が萎れる直前までああやって放置、って訳さ。
「ここ全体で、140万本、10種類のひまわりが栽培されてる。切花用と肥料用は別として、搾油用や食用はいよいよ出荷、ここ1週間くらいが忙しいんだよ。
「ひまわりって、色々な品種があるんだなって、アタシ、ここに来て初めて知ったよ。
アマンダは畦道~というのだろうか? ~を歩きながら、視界に入る花々を、懇切丁寧に、しかも実に楽しそうに、誇らしげに説明してくれた。
”やっぱりこいつ、ひまわりの女王だ”
彼女の輝くような笑顔を眩しく思いながら陽介が密かに叩頭していると、アマンダはいきなり、陽介の腕を両手で抱えて駆け出した。
「おっ、ちょっ、ちょっ……! ま、待て、アマンダ、ま、待てって! 」
何度も転びそうになりながら、それでもなんとかアマンダに引き摺られてひまわりの『林』の中~さっきの説明だと、ロシアという品種だろう、2m以上もあるひまわりの中にいると、まるで、巨人の国に流れ着いたガリバーになったみたいだ~を駆けていた陽介の視界が、突然開けた。
まるでミステリー・サークルのような直径20m程の広場の中心には、大きなトラクター・コンバインと、アマンダと同じ麦藁帽子を被った初老の男女が、にこにこ笑いながら立っていた。
「おや雪ちゃん、えらく早かっ……」
女性の声は、トランシーバーから聞こえた声と同じで柔らかく、そして懐かしい声で、笑顔がぴったりとマッチしているように陽介には思えた。
が、彼女の台詞は途中で唐突に止まり、しかし笑顔はそのままで、ペコリと陽介に向かってお辞儀した。
隣の男性も、彼女に釣られて麦藁帽子を取ってペコリとお辞儀をして見せて、やはり笑顔を浮かべて陽介に言った。
「いらっしゃい。雪ちゃんのお友達かね」
「え、あ、あの、えとその……」
思わぬ切り口から攻められて、意味不明の言葉を発しながら、ともかく脱帽敬礼して見せた陽介の隣で、アマンダが陽介と夫婦の顔を交互に笑顔で見比べながら、言った。
「おっちゃん、おばちゃん。紹介するよ! コイツ、向井陽介。横浜の職場の上官で、アタシの相棒! 陽介、こちらは高崎幸次郎さんと、奥さんの富美子さん。アタシの師匠さ! 」
アマンダの紹介は、やっぱり女王が己が臣民を、来訪した国賓に誇らしげに語る口調に、聞こえたのだった。
何故か、それが心地よかった。
「いや、なんだか、ほんとに厚かましい次第で申し訳ありません」
背中を丸め、身体を縮めてみせる陽介に、幸次郎はビールを勧めながら笑顔で答える。
「とんでもない、隊長さん。こっちこそ、無理言って引き止めたのに、大したおもてなしも出来ず却って申し訳ないくらいで」
「あ、これはどうも。ありがとうございます」
取り敢えず、注がれたビールを半分程干すと、思わず声が出てしまう。
「ぷはーっ! ……美味い! 」
高原の風は爽やかだとはいえ、やはり十数年ぶりの高温多湿の日本の夏に、身体は正直に根をあげていたようだ。
冷えたビールが身体の隅々、細胞のひとつひとつに染み渡るようだった。
ふとビール瓶のラベルを見ると、飲み慣れたエビスだった。
確かに日本製のビールの中では好きな銘柄ではあったが、今日のエビスはまるで違う飲み物に思える。
暑さに負けた身体がそう感じさせるのだろうが、陽介にとっては、アマンダの訪ねて来ない自室で独り飲むエビスは苦味ばかりだったことを思い出し、それだけでも、今日暑い中を遥々高原へやってきた価値があるように感じられた。
「このエビスはね」
幸次郎は再び瓶を持ち上げて陽介のコップに注ぎ足しながら言った。
「雪ちゃんお勧めでね。騙されたと思って飲んでみろって言うから試してみると、うん、なかなか美味いもんですなあ」
「ははは。彼女、ここでも布教してましたか。私も感化された口ですが、いや、ここで頂くエビスは、また一味違います」
陽介が瓶を受け取り幸次郎に注いでいるところへ、台所からアマンダが現れた。
「ほい、夏野菜の塩麹の炒め物と鯉の洗い出来上がりー」
アマンダは両手の大皿をテーブルの上に並べながら、幸次郎に怒った顔を作って見せた。全然、笑顔を消せてはいなかったが。
「ああもう、おっちゃん、何杯目? おばちゃんに言われてるだろ、ビールはコップ3杯までって」
「まだ1杯目だよ、ねえ隊長さん? 」
いきなり話を振られ、慌てて口を開きかけたところへ、アマンダがやっぱり笑顔を向けた。
「陽介、おっちゃん血圧高めなんだからさあ。あんまり勧めちゃ駄目だぜ? 」
そして突き出しとして出された山菜のおひたしの空き皿を片付けながら、言葉を継いだ。
「さあ、こっちの野菜は全部、自家製の無農薬モノだ。おばちゃんが作ったから旨いぞー。鯉はこれ、こっちの酢味噌で食べてよ、な? 」
「雪ちゃん、もうこっちはいいから座りなさい。折角隊長さんがいらっしゃってるんだから」
幸次郎の言葉に、アマンダはコロコロと笑いながら手を振った。
「もうすぐ済むから、おっちゃん達、先ヤっててよ。今、おばちゃんと2人でメインディッシュをやっつけてっから」
エプロンをはためかせ、パタパタとスリッパの音をさせて台所に消えようとしているアマンダの背中を、陽介はぼんやりみつめながら、昼間の遣り取りを思い出していた。
「ええーっ? 」
アマンダは太陽の下、大声を上げたものだ。
「行っちゃうのーっ? だって、JA長野入りは月曜だろ? なあ、いいじゃんそんな慌てなくってさあ」
彼女は陽介の腕にぶら下がるほどの勢いで自分の腕を絡めながら、尚も言い募った。
「なあ、泊まっていけよ? な? ねえ、おっちゃんおばちゃんもいいだろ? 泊めたげても」
普段なら然程身長差を感じさせない二人なのだが、この時腕にぶら下がるアマンダは陽介を見上げて顔を覗き込んでいる姿勢で、その駄々っ子のような表情と上目遣いの艶っぽい視線のアンバランスさに、陽介は半ばパニックに陥りかけるほどだった。
幸次郎と富美子夫婦は、最初はアマンダの『甘えぶり』に驚いた様子だったが、すぐに笑顔を浮かべて頷いた。
「ああ、いいとも。ねえ、隊長さん。なんのお構いもできませんが、どうぞ泊まっていって下さいや」
「そうですよ隊長さん、だってまぁこの
アマンダも2人に負けないほどの満面の笑みを浮かべつつ、首が千切れんばかりの勢いでぶんぶん頷きながら陽介に言った。
「なあなあ、いいだろう? なあ? 泊まっていけよぅ」
そのキラキラ輝く黒い瞳に魅入られてしまい、陽介は思わず首を縦に振ったのだった。
それから。
陽介とアマンダ、2人掛かりでコンバインを修理して、収穫作業の手伝い~殆ど見学だ、確かにアマンダの説明通り、想像以上に全ての工程は機械化、自動化されていた~をして、「お客さんだから今日は早く終わろうか」との幸次郎氏の言葉に、まだ陽の高いうちに丘の裾野にある高崎邸へ4人で引き上げ~よくテレビや映画で見る、北海道の牧場にある様な、平屋だが広々とした家だった~、奨められるままに一番風呂を使わせて貰い、幸次郎氏の浴衣を借りてサッパリしたところを二十畳近くはあろうかと思われる広いダイニングのテーブル上座に座らされて……。
まるで、夢でも見ているかのような、しかしそれを吟味する間もないままに、時間はあっという間に過ぎていき、夏の働き者の太陽も疲れたのだろう、既にとっぷりと暮れて、高原は星明りの照らす薄暮となっていた。
「どうしました? やっぱり、お疲れになりましたか? 」
幸次郎の声に陽介は現実へと引き戻される。
「あ、いや、それほどは……。まあ、確かに、十数年振りの日本の夏は、確かにハードですが」
アハハと短く笑った後、陽介はコップをテーブルに置いて幸次郎を正面から見据えた。
「いや、それにしても正直、驚きました。アマンダ……、いや、沢村一尉が、貴方達ご夫婦にこれほど甘えているとは……」
幸次郎は陽介の言葉を吟味するかのように、瞼を閉じて暫く無言のままだったが、やがてゆっくりと目を開き、微笑を浮かべた。
「……雪ちゃんは、職場じゃあ、ああではないんですか? 」
逆に問い返されて、陽介は思わず言葉に詰まってしまう。
そんな彼を見て見ぬ振りで、幸次郎は優しげな表情を浮かべて台所に顔を向けた。
「……雪ちゃんは、素直で良い娘ですよ。職場ではそりゃあ、職場の顔を持ってるんでしょうが、私ら夫婦にゃ今のあの娘の笑顔が、本物です。……いずれにしたって」
幸次郎は物問いた気な視線を向ける。
「どんなあの娘だって、素直ないい娘にゃ変わりない。……違いますか? 」
陽介は思わず首肯する。
「おっしゃる通りです。私の前では、少しだけ面倒臭い性格ですが、それでもアイツは素敵です」
満足そうに頷きながら幸次郎は、再び台所へ視線を向ける。
台所からは、アマンダと富美子の、楽しげな会話が聞こえてくる。
「そろそろどうだろうかねえ、雪ちゃん」
「時間的にはボチボチだね……。蕪はもう柔らかくなってっかな? 」
「そうだねえ……。こんなもんか」
「おばちゃんがオッケーならオッケーだよ。……ねえ、山葵和え、ちょい辛過ぎかな? 」
「雪ちゃんがオッケーならオッケーだよ」
「アハハハッ! おばちゃん、ズルイよー! 」
アハハハ、オホホホと笑い合う声は、まるで本物の親子のようだ。
うんうんと、会話を聞きながら頷いていた幸次郎は、コップをテーブルに置き、笑顔を収めて口を開いた。
「一昨日ここへ来た時にゃあ、泣き腫らしたような眼で、いきなり部屋に篭ったきりで……。昨日は朝から、いつも通りの笑顔を見せてくれましたが、なんだか無理しているように思えて、家内とも心配してたんだが……」
幸次郎の言葉に、思わず陽介はテーブルに身を乗り出す。
「……ご主人、それは」
「それでも今日は、本当に安心しました。隊長さんが見えてから、もう普段通りの……。いや、普段以上の明るいあの娘です」
陽介の言葉を押し留めるように、一気にそこまで喋ると、幸次郎はカクン、と頭を下げた。
「たぶん、隊長さんはあの娘にとっては、特別な方なんでしょう。本当にありがとう」
返す言葉も見つけられず、いや、それ以前に彼の言葉を吟味して本当にそうなのかと自分を責めるように問い返していると、途端に食堂が華やいだ。
「メインディッシュ完成! 甲府牛の甲府ワイン煮、ひまわりの種ソテー添えーっ! 」
「それにここらで取れた山菜の山葵和えと蕪のシチューですよ。さあ、お待たせしました、いただきましょう」
両手にいっぱいのご馳走を抱えてダイニングテーブルの前で微笑むアマンダと富美子は、肌の色から背格好、顔容ちまで全く似ていないというのに、何故か陽介には本当の母娘の様に思えて、知らぬうちに微笑んでしまうのだった。
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