第79話 12-6.


 毎朝の国連旗掲揚のルーティーンを終えた後も、仕事はこれっぽっちも手につかず、陽介はアマンダの残したメモと封筒、そしてこれが最後なのかもしれない小さな折り鶴を掌で弄びながら、考え続けていた。

 一昨日の夜、アマンダは何故、唐突ともいえる『あんな行動』をとったのだろうか? 

 いや、理由は判っている。

 陽介が、あの夜あの場所で不審なアマンダを目撃したことが、切っ掛けなのは間違いないだろう。

 もっと言えば、数ヶ月前より、彼女がどう考えても嘘だと思える理由を付けて、時折陽介と別行動をとるようになったのは、あの前振りだったことは明らかだ。

 だから判らないのは、その考え得る『理由』と、その結果彼女がとった『行動』の間に、想像だけでは埋め切れない大きな空白があることだ。

 素直に考えれば、アマンダは自らの『身体』を代償に『口封じ』をしたかったのではないか、というのが最初に思い浮かんだ。

 だが、アマンダの反応から見て、彼女が口封じをしたくなるような『行為~平たく言えば、売春行為~』を行っていないのは明白である。 

 万一、あの見も知らぬ中年男との間にあったかも知れない『とある行為』が、『合法的な男女関係~それは、陽介には何故だか不愉快極まりない想像に思えた~』だったとして、言い触らされたくないのであれば、そんな『口止め』をするまでもなく、陽介とアマンダの間柄だ、『ワリぃが黙っててくれねえか? 』の一言で、陽介は決して他人に漏らさないし、それに、どちらかと言うと口止めが必要なのは志保の方だ。

 と、すると。

 うん、演繹法では正しい推論を導出することは困難であると思われる。

 となれば帰納法、それも防衛大学の作戦幕僚課程や戦略戦術課程の導入カリキュラムでくどいほど教え込まれた、狭義のそれ、即ち『枚挙的帰納法』の出番であろう。

 味方の倍する勢力を持つ優勢な敵艦隊、虻蜂の如く来襲する敵機やミサイルを前にした味方艦隊の指揮官が、枚挙的帰納法だの演繹における純粋理性批判だの考えて指揮を執る訳がないだろうと思っていたのだが、ここへ来て役に立つとは思わなかった。

 まずは前提、だ。

 『アマンダは、自分の部屋にやってきて、シャワーを使い、美しすぎる裸身をさらし、抱いてと言った』。

 うん。

 穴のない、完璧な前提だ。

 枚挙的帰納法は、前提をアナロジーとして『枚挙』し、そこからアブダクション、結論を導き出す。

 ここで留意すべきは、斉一性の原理に従って進むべきアブダクションへの道が、グルーのパラドックスでも謂われている通り、『前提が正しくとも、導出される結論が正しいとは限らない』事。

 心配なのは、確証性の原理が説くように、サンプルとすべき観察対象がこの場合、あまりにも少ない事だ。

 ここで陽介は、帰納法ではなく演繹法でよく使用される三段論法に推論方式をスイッチすべきかと、ふと考える。

 即ち、『アマンダは、全裸を曝し、抱いてと言った』→『アマンダは、ジェンダーとして紛うことなき女性である』→『女性が、男性の前で全裸を曝し、抱いてと言った』、ここで改めて、帰納法に切り替える。となると、確証性の原理が適用可能となる。

 だが陽介はこれを、思考を乱す悪魔の囁きであると受け取り、激しく己の首を横に振った。

 落ち着け、落ち着け、俺は馬鹿か、と。

 こんな愚にもつかない横道に思考が反れるのは、俺が未だに夢のように美しいアマンダの魅惑的な裸身に惑わされているからだ、と。

 陽介は、大きく深呼吸をし、胸を押さえて動悸の沈静化を確認した上で、思考を再開した。

「……」

 判らない。

 再開したところで、陽介の思考は結局は袋小路に迷い込むだけのことだった。

 考えれば考えるほど、目撃した事実とその後アマンダのとった行動には、何ら関連はないのではないかとすら、思えてくる。

 いったい、アマンダは、どうしたかったのだろうか? 

 陽介に、どうして欲しかったのだろうか? 

 アマンダは、陽介に何を求め、そして陽介は彼女の求めに応えることが出来たのだろうか、応えることが出来るのならば、どう応えるべきだったのだろうか? 

 陽介は、アマンダの行動の意味や、彼女にそうさせた理由よりも何よりも、本当は『自分はアマンダの求めに応じることが出来ているのか? 』、ただ、その一点のみが、気になっているのだということに気付いていた。

 アマンダとのこれまでの関係は~空白期間は長かったが~、要約すれば『自分が、どれだけアマンダの無言のサインに気付けるのか? 』と言い換える事が可能な気さえするのだ。

 自分が、もしも。

 もしも、アマンダの助けを求める声に気付かなかったら。

 そう考えると居ても立ってもいられなくなって、アマンダ休暇初日は、結局仕事に手がつかないまま定時で退勤、ひょっとしたらと淡い期待を抱いて急いでマンションへ戻り、彼女の部屋のインターフォンを立て続けに数十回鳴らした挙句、漸く彼女が留守である事を渋々認めて自室に戻って、案の定、食欲も湧かず睡眠も取れないままに長い夜を乗り越え、陽介は二日目の朝を迎えた。


「おはようございます」

 ぼんやりとアマンダと採るいつもの朝食風景の記憶に浸っていた陽介は、爽やかな声に現実へ引き戻されて慌てて顔を上げた。

 気付けばそこは、通い慣れたYSIC2階の職員食堂の入り口横、食品サンプルが並んだガラスケースだった。

 そう言えば、こんなことじゃいかんどう思い悩んでもアマンダは2週間の休暇中だ取り敢えず仕事は給料分しっかりとその為にも食事だけはきっちり採らねば、と昨日は抜かした朝食を今朝からは普段通り食べようと、食堂へと重い足を引き摺るように向かったことを思い出し、続いて、誰かが自分に朝の挨拶をしてくれた事実に辿り着いた。

「あ、8番か。……おはよう」

 横を見ると、8係長のジャニスが、不思議そうな表情を浮かべて立っていた。

「どうされたんです? 顔色があまりよろしくないように見えますが……」

 そう言って首を傾げ、続いて、ニヤ、と意味深な笑みを浮かべる。

「さては、沢村係長に置いてけぼりを食ったショックで……、とか? 」

 悪気はないのだろうが、それだけに、キツかった。

「……ん、いや、まあ、な」

 ジャニスのリアクションが戻ってくる前に、と陽介は足早に食堂へ入り、カウンターへと向かう。

「あら、おはようございます、センター長さん」

 おばちゃんはいつものニコニコ顔で言葉を継いだ。

「聞きましたよ、雪ちゃん、一足早く夏休みですって? 」

「ああ、2週間だって」

 陽介の口調が弱々しいのに気付かなかったのか、変らぬ口調でおばちゃんは続けた。

「あの娘も、ハッキリ割り切ってるよねえ。昨年も一昨年も、1週間か10日だったか、きっちり休暇をとってたもんねえ」 

 驚いた。

 初めて聞いた情報だった。

 盲点だった。

 陽介は、アマンダが休暇を取った理由を、一昨日の夜の出来事が影響して2週間もの長期休暇取得に至ったのだと思い込んでいたのだ。

 だが、今の話によると、アマンダは『事件』があろうがなかろうが、毎年夏にはキッチリ休暇を取ることが慣例なのだ。

 よくよく考えてみれば、少なくとも一昨日の自室での『出来事』は、この休暇とは関係ない筈だ。

 アマンダは先に休暇届けを提出してから、陽介の部屋に来たのだから。

 ただ、伊勢佐木の件は関係しているとも、考えられる。

 ワークフローの申請データのタイムスタンプは、確実に伊勢佐木の出来事よりも後だった。

 やはり、陽介の部屋に来てからのあの行動は、予め計画していたことだったように思えた。

 再び思考がループに陥りかけた陽介を、おばちゃんの声が現実に引き戻した。

「で、今朝は? 中華粥定食でいいですかね? 」

「あ、ああ……。それよりも、さ? 」

 陽介は疑問を口にした。

「アマンダは毎年、こんな長期休暇を取ってたの? 」

「ええ、確かそうだったよねえ」

 おばちゃんの言葉は、自分自身の記憶への問い掛けに聞こえたが、陽介に続いて並んでいたジャニスが、それに応えた。

「そうですよ。私が知ってるのは去年だけだけど、確かにアミー、1週間ほど休んでました」

「……どこへ行ってたんだ? 今年も同じとこへ行ってるのか? 」

 噛み付くような口調に、さすがのジャニスも驚いた様子で口篭ったことで、陽介は気付いた。

「……あ」

 すまないと言おうとした刹那、おばちゃんがタイミングよく声をかけた。

「はい、センター長さん、おまたせ」

「あ、ありがとう」

 陽介はトレイを受け取り、続いてジャニスに頭を下げた。

「悪かった、驚かせてしまったようだ」

「い、いえ」

 ジャニスは続いてトレイを受け取りながら、気を取り直したように言った。

「昨年どこへ行ったのか、今年も同じ場所なのかは判りませんけど、でも、昨年休暇明け、彼女、『ああ、今年も楽しかった。来年も絶対、行くんだ! 』って言ってましたから……」

「なるほど……」

 やはり、恒例行事のようだ。

 少なくともアマンダは、YSICに配置されてから『毎年この時期、長期休暇を取って、同じ場所へ出かけて』いるのだ。

 とすれば、然程、心配する必要はないのか? 

 いや、待て。

 恒例行事としての長期休暇を取るのを前提に、あんな行動を取ったのだとしたら? 

 やっぱり、何の解決にもならない。

 もちろん、直接訊けば良いことだ、個人持ちの携帯電話の番号だって知っている。

 実際、昨夜は思い余って発信だってしてみた。

 結果は『電源が入っていないか電波の届かないところ……』。

 別に違反ではない。

 UNDASNの携帯端末だって持っている筈、これは服務規程にきちんと上番非番に関わらず常時携帯電源オンと記載されている。

 とは言え、プライベートな用件で使用するのは躊躇われ、実行はしていないが。

 一瞬、携帯端末を持っているのなら監視衛星団に依頼して現在地把握ができるじゃないかと考えて、慌ててその案は脳内から抹消した。

 それじゃストーカーと変わらない。

「一体、アイツ……」

 思わず口をついて出た言葉に、ジャニスがますます困惑を深めたような表情で、生真面目に答えを返してくれた。

「申し訳ありません、なんだか中途半端な情報で混乱させてしまったようで……」

「いや、いいんだ。気にしないでくれ」

 この調子だと今日も仕事にならん、仕事にならんだけならまだマシだが、このままでは大きなミスを仕出かしてしまう。

 陽介は気を取り直すように、漸く笑顔を浮かべて言葉を継いだ。

「さ、食うか。腹、減っちまったよ」

「はい」

 ジャニスもようやくホッとした様子で、ニコ、と笑って陽介の後を着いてきた。

 別に、一緒に食べようと言うつもりではなかったんだが、まあいいかと陽介は気を遣って、いつもの喫煙席ではなく禁煙席へ腰を下ろした。

「あれ、いいんですか、お煙草……」

 却って、ジャニスが気を遣ってくれた。

「いいんだよ。元々煙草なんて、アイツに仕込まれたんだからね」

 そう答えながらキョロキョロと視線をトレイの周りに飛ばしている陽介を見て、ジャニスがクスクス笑いながら席を立ち、水の入ったコップに箸と蓮華を持って戻ってきた。

「あ……。す、すまん」

 いつもはアマンダが用意してくれていたことに気付き、陽介は相棒の『長き不在』が始まったばかりであることを改めて思い知った。

「センター長は、アミーにべったりですものね。まるで依存症」

「……え? 」

 何気ないジャニスの一言が、陽介を凍りつかせる。

「……あらやだ、お気に障ったのなら申し訳ありません」

「い、いや、別に構わないけど……」

 陽介は少し声を落とし、向かい側に座ったジャニスに身を乗り出すようにして訊ねた。

「ぶっちゃけてくれていいんだが、そう、見えるかな? 」

 ジャニスはモーニングサンドイッチセットを手に持って、コクン、と頷いて見せた。

「ええ。アミーの話を聞いていたら、センター長ってまるで、彼女の子供みたいな錯角を覚えますわ」

 アマンダめ、一体どんな話をしてるんだ? 

「ええと、掃除洗濯アイロンがけに繕い物、食事の用意は言わずもがな、新聞を2人で回し読みしたり自転車二人乗りで毎朝毎晩職場と特借を往復」

 そこで一旦言葉を区切り、ジャニスはニヤ、と笑って続けた。

「さっき私、子供みたいだって言いましたけど、ほんとは『なにそれどこの新婚さん』って思ってました」

「なっ……! 」

 驚愕の声を上げる陽介をサラリと無視して、ジャニスはパク、とサンドイッチを口に入れ、言葉を継いだ。

「あ、ご心配なく。彼女がこんな話するのは私にだけですから」

 いや、そんな事じゃなくて。

 と言うか、それはそれで一安心だけれども。

「ついでにもうひとつ。アミー、この話を何遍も何遍も、まるでおばあちゃんみたいに繰り返すんですけど、いっつも、最後には嬉しそうに笑ってますから」

 そう言ったきり、後は無言でサンドイッチをぱくつくジャニスの幼く見える顔を、陽介は呆然と見つめながら、思った。

 それって、イヤイヤ俺の世話を焼いてる訳でも、いい加減ウンザリって訳でもないってことだよな? 

 それはそれで目出度い……? 

 いやまあいいか、目出度いことだ、と言うより、よくよく考えれば、俺が頼んだ訳でもないんだし、ウザがられる筋合いはない。

 いやまあ、それは置いといて。

 それって、どういう意味だ? 

 アマンダは、一体……。

「セ、センター長! 」

 再び沈思しかけた陽介を現実へ呼び戻したのは、志保の慌てふためいた叫び声だった。

 陽介だけでなく、ジャニスはじめ食堂にいた全員が入り口の方を注目している。

 志保は陽介の姿を認めると、真っ直ぐ駆け足で向かって来た。

 手に、男性向け週刊誌を持って。


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