第78話 12-5.


 そこにいる筈がないと理性では判っていながら、目が、心が、アマンダの姿を無意識のうちに探し求めているのに気付き、陽介はがっくりと肩を落とした。

 身体も心も、疲れ果ててしまっていた。

 実際、昨夜は、殆ど眠ることができなかった。

 元々寝付きはいい方だし、狭い潜空艦内、まるで人間なんて乗せないことが前提みたいな設計で、そこら中にパイプや電路が縦横無尽に張り巡らされ、装備の駆動音や電装品のモニタ音、スイッチの切り替え音等のノイズと呼ぶには大きすぎる様々な騒音が満ち溢れた中、折り畳み収納の棺桶みたいなベッドに潜り込んだって、10分もあれば穏やかな眠りに入り込めたのだけど、そんなスキルなどまるで無かったかのように、この夜は眠りが、遠かった。

 騒めく胸の内をどうにかこうにか落ち着けて、寝床にもぐり込んだのが0200時マルフタマルマル、精神的にも肉体的にも疲れ切っていたから、瞬く間に眠りに落ちるだろうと思っていたのだが、いざ部屋の照明を全て落として目を閉じると、自分の呼吸音や心臓の鼓動が頭の中で徐々に大きく響いてきて、どうにも気になって瞼を開く。

 すると中空、天井と畳の丁度中間辺りにふわふわと浮かんだ全裸のアマンダが、融けてしまいそうに儚げな笑みを浮かべて『アンタは悪くない、悪いのは全部アタシなんだ。だから勘弁して』と言いながら、大粒の涙を零すのだ。

 涙の滴が本当に頬に落ちた感触に驚いて飛び起きると、何時の間にかウトウトしていたらしく、額にビッシリ、まるで結露したかのごとく汗が噴き出ていた。

 こんなことを何度繰り返しただろう、気が付くと始発電車の走行音が遠くに響いていて、夜が明けたことを知った。

 疲弊し切った身体を無理矢理布団から引き剝がし、身支度を整え、部屋のドアを開く瞬間まで『今日はアマンダは休み、帰宅後話する。今日はアマンダは休み、帰宅後話する』と念仏のように口の中で唱えていた筈なのに、ドアを開けた途端、まるで魔法にかかったように彼女の姿を追い求めている自分がいて、無性に腹が立った。

 朝、部屋の前で煙草を燻らせ待つ、アマンダ。

 二人乗りで駅へ向かい、売店で新聞を買う、アマンダ。

 電車の中では、必ず2人並んで座ることを『強要』する、アマンダ。

 並んで歩くことを照れ臭そうに、だけど微かに頷いて受け入れた、アマンダ。

 朝食はオフィスの食堂で、中華朝粥定食かタンメンセットを頼む、アマンダ。

 可能な限り、昼食を2人で食べようと様々に『陰謀』を巡らせる、アマンダ。

 帰宅時は、喫茶店で待ち合わせ、夕飯の食材を24時間営業のスーパーで買い込む、アマンダ。

 勝手知ったる他人の台所とばかりに、毎日夕食を作りにやってくる、アマンダ。

 食後、経済ニュースを眺めつつ、少ない筈の口数を懸命に、彼女なりに増やそうとしてくれる、アマンダ。

 掃除洗濯繕い物、頼みもせぬのに、せっせと自ら仕事を探し出してまでやってくれる、アマンダ。

 再会してから9ヶ月、日々、ゆっくりと積み重ねてきた、2人だけのルール。

 今はただ、取るに足らないちっぽけな、だけど温かく優しいそれらが、無性に懐かしい。

 今日一日、どのような状況でも、何処へ行っても、どんなタイミングでも。

 一体、どれほどの時間を、彼女の姿を追い求める為に割くのだろう? 

 そんな自分の情けなさと未練の深さに、そして自分をそこまで追い詰めた昨夜のアマンダに~いや、追い詰めたのは自分の方なのかも知れないと、すぐに猜疑心が首を擡げる~、7割の腹立たしさと3割の恨めしさを込めた視線を、静寂を保ったままの隣室のドアへと向ける。

「アマンダは、昨夜、ちゃんと眠れたのかな? 」

 無意識のままインターフォンのボタンに伸ばしていた手を陽介は慌てて引っ込め、大きな溜息を吐くと、いつもより大股で歩き始めた。

 今日まで、仕事の都合やシフトのズレで、一人で出勤することなんて珍しくもなかったというのに。

 今朝に限って、まるで永遠の別れの朝を迎えたような、暗鬱たる気分になるのは何故だ?

 二人乗りではない自転車のペダルがこんなに重いとは思ってもみなかった。


 食欲も湧かず、食堂には寄らずに事務室へ足を踏み入れた時刻は、何故か普段通り、アマンダと朝食を採って事務室入りする時間とそう変わらなかった。

 思い返せば、歩く速度、自転車を漕ぐ速度も遅かったように思えるし、ぼんやりと立ち止まってしまう回数も多かったように思える。

 俺はどれだけアマンダに依存していたのかと、思わず苦笑が漏れた。

「アテンション! センター長配置に就かれます、おはようございます」

「おはよう」

 深夜シフト明けとは思えないアグネスの元気な声が、今朝は少し鬱陶しく感じられ、返す挨拶も投槍になってしまう。

 足早にフロアを横切ろうとして、総務会計係のトップに座る志保に気付き、陽介は思わず脚を止めてしまった。

「お、おはようございます! 」

「あ、ん、うん、おはよう」

 志保も困惑を隠しきれない表情で、今朝の敬礼姿も普段のキレの良さは感じられない。

「昨夜は、ありがとう。助かったよ」

 誤魔化しきれないのは判っていたが、それでも理性は表面だけでも取り繕おうと頑張ってくれて、大して意味のない言葉をスラスラと吐いたことに、自分でも驚いた。

「い、いえ。こちらこそ。そ、それより……」

 志保は言葉の途中で、ハッとした表情を浮かべ口を閉ざす。

「どうした? 」

「え、えと、その……。あ、後ほど伺いますのでその際に」

「……判った」 

 陽介は再び歩を進め、自室に入る。

「昨夜の件……、だろうな」

 きっと志保は、アマンダとUNDASN売春疑惑を繋げて考えているのだろう。

 昨夜のシチュエーションを見てしまったからには、そう考えてしまうことを責められないし、第一、陽介の中ではこの問題については既にケリがついている。

 説明すれば志保も、理解してくれる筈だ。

 彼女は、それ程『俗っぽく』はないと思う。

「ただ、昨夜の今朝で、説明しなけりゃならんのが……」

 ちょっとばかり、キツいよな……。

 台詞の後半を口の中で呟きつつ、デスク上の端末を起動し、コーヒーメーカーのスイッチを入れていると、ノックの音が響いた。

「明石一尉、参りました」

「入れ」

 今朝、自室を出てオフィスへ着くまで、顔馴染みの人々から発せられる『あら、今日はおひとり? 雪ちゃんは? 』という問いに、『ああ、今日はアイツ非番で』と答えるだけで、自分はどれほど神経を摩り減らしたことか? 

 これで食堂へなど立ち寄ったら、あの話好きでアマンダファンのおばちゃんのお相手をしなければならないなんて、どんな罰ゲームなんだ? 

 無論、これまでだって、独りで出勤することなど山ほどあった。

 その都度、今朝同様の問いが投げ掛けられたが、それは別にどうと言うこともなかったのに。

 だが、今朝は正直、キツかった。

 非番というのは、本当だ。

 嘘は、自分の中にある。

 今朝は非番、けど明日からはまた一緒ですよと言えない不安を隠して愛想笑いを浮かべているけれど、本当は昨夜の自分の対応が間違っていたのではないかと言う恐怖心と、ひとり部屋に篭っている筈のアマンダは本当に大丈夫だろうかという不安で気が狂いそうで、それをひた隠しに隠して、いや大丈夫、本当に大丈夫なんだと自分自身を無理矢理納得させているだけにすぎないのだ。

 ましてや、さっきドアを開いて入室し、今は作法通りにこちらに背を向けてドアを閉めようとしている志保は、昨夜、陽介の目の前で起きた一連の『事象』を共に目撃している人物なのである。

 事情を知らぬ他の人間みたいに、ただ、誤魔化すだけでは済まないだろう。

 我知らず眉根に皺を寄せている陽介に、志保はキチンと敬礼して見せると、彼の答礼を待たずにデスクへ小走りに近寄ってきた。

「あ、あの! セ、センター長! もうご覧にな……」

 切羽詰った調子で、声を低めて喋り始めた志保の言葉は、その半ばで唐突に途切れた。

「どうした……、あ」

 陽介は志保の視線を辿って、気付いた。

 両手に、マグカップ。

 自分のものと、アマンダの。

 もはや隠そうともせずに盛大な溜息を落とし、陽介はアマンダのカップを元に戻した。


「え? 」

 志保の言葉を聞いて陽介は思わず声を上げる。

「だ、だけど……! 」

 更に言い募ろうとするところへ、志保が言葉を被せた。

「ワークフローのご確認を」

 承認ワークフロー上、もちろん承認権限者は上官である陽介だが、殊、勤怠や経費精算等に関する申請は、総務会計係である志保にも回付される、加えて昨夜の『疑惑』の目撃者でもある志保は、だからこそ慌てて陽介にご注進となったのだろう。

 立ち上げっ放しの端末を操作しようとマグカップを机に置いた拍子に、コーヒーが少し机上にこぼれてしまった。

「あ」

 ティッシュで拭こうとして初めて、机に置かれたメモと封筒に気付いた。

 もどかしそうな手付きで封筒から引っ張り出された中身を見た陽介の顔色がサッと変り、覗き見た志保もまた、顔色を変えた。

「予備役……、引き入れ申請……」

 呆然と呟く志保の声を聞きながら、陽介はアマンダのメモを読み下す。

 読み進むにつれて陽介は、今すぐどうこうということはないと知れて、思わず深い溜息を吐いてしまう。

 取り敢えず、ワークフローを立ち上げてメモに書かれていた未読文書2通を画面上に開き、もう一度、今度は短い吐息を吐いた。

「ふぅっ」

 思わず、あの馬鹿と口の中で罵ってしまう。

 昨晩のあの状態異常、アマンダは最初から2週間のインターバルが控えていることを承知の上で行動に及んだのであり、明日休むという宣言は嘘ではないものの正直な内容でもなく、そして彼女の不可解な行動は、やはり昨夜の伊勢佐木での謎に基づくものだったのだ。

 いや、しかし昨日の一件は、まさか売春行為などではないだろうことは、ほぼ確かだ。

 そして、陽介に『言えない何か』をしていたのもまた、どうやら確かなようだった。

 急いでワークフローで休暇期間を確認した。

 志保の話通り、今日から2週間となっている休暇願を確認し~自分の手で承認はしたくなかった、放置したってどうせ、1日経てば『承認者不在、代理者決済』で自動承認だ~、最後の1通~メモによると引継ぎ指示書が添付されているらしい~は未読のままで、陽介はドサ、と背凭れに身体を預けた。

「あ、あの? ……沢村一尉は? 」

 陽介は無言のままで、アマンダの書いたメモ用紙を志保に差し出す。

「……本気で辞める気はないらしいですね。……ええと、あの、センター長、私、そんなに日本語のスラングには詳しくないのですが、この『色々とヤバそうな匂い』云々って……、まさか……」

 陽介はゆっくりと上半身を起こし、この日初めて、正面から真っ直ぐ志保を見据えた。


「昨夜も言ったが、俺はアマ……、沢村をどうこうするつもりは全くないし、あの夜聞かされた下らない噂話とは何の関係もないと確信している」

 志保は陽介の言葉に、返す言葉もなく、黙り込み、俯いてしまった。

 アマンダと売春疑惑を裏付ける確たる証拠は何もなく、けれど状況証拠はと言えば昨夜二人が目撃したことで充分な筈で、それでもまだ揺らがない二人の絆が、今はただ悔しく、そして哀しかった。

「……ただ、昨夜の行動には、なにか裏がありそうだけどな」

 独り言のように呟いてから、陽介は少しだけ口調を緩め、続けて言った。

「心配させてすまんな、総務。とにかく、俺は静観するつもりだ。2週間経てば、アマンダも戻って来るんだし、あ、もちろん君の行動をどうこうするつもりも、俺にはないから」

 自分に向けた言葉の筈が、まるで陽介が自身に言い聞かそうとしているように思えて、それが何故だか悔しくて、志保は黙って椅子から立ち上がり、敬礼もせずに部屋を出た。

 チラ、と振り返り、室内をガラス越しに伺うと、陽介は志保が最後に見た姿勢のまま、視線を虚空に彷徨わせていた。

 陽介とアマンダの特借は同じマンション、部屋も隣同士であることは、総務担当の志保は重々承知していることであり、そんなふたりが昨夜、顔を突き合わせて何らかの話し合いに及んだことは容易く想像できる。

 だから、陽介が昨夜のアマンダの行動について『確信している』と言ったのはその話し合いの結果からだろうし、取っ付き難くて不愛想だけれど、一人の人間として信用出来るように思えるアマンダと売春行為は無関係であることも志保には理解できる。

 けれど。

 折角、昨夜は自分を役職じゃなく名前で呼んでくれた陽介が、今日は再び『総務』と呼んだこと、そして『沢村』と苗字呼びだった彼女が『アマンダ』に変わっていたことが哀しくて、志保はそのまま手洗いに駆け込んだ。

 彼女が目を赤くして席に戻ったのは、それから30分後だった。


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