第76話 12-3.


「ん? 」

 不意に、陽介はアマンダが見せた反応に、違和感を覚えた。

 が、その違和感の正体に手が届く前に、アマンダは炬燵から立ち上がり、顔を背けたままゆっくりと瞼を開いた。

「な、なんだよ? 嫌がってた割りにゃあ、け、結構元気じゃねえか? 」

 掠れる声は、ただ虚勢を張っているようにしか聞こえず、陽介の肩越しに届くキッチンの頼りない灯りはしかし、顔を背けたままの彼女の長い睫が『なにか』~モザイクは不要、『陽介自身』だ~を恐れているように細かく震えているのを残酷なほどにはっきりと映し出している。

 その艶っぽいアマンダの姿態とは裏腹な儚さが、数瞬前にするりと指の間を摺り抜けた『違和感』を、再び陽介の手許に引き寄せた。

「アマンダ……」

「あ、そうか! も、もしも傷痕が気になるってんならさ、絆創膏でも貼っときゃあいいじゃん」

 アマンダ自身も気付いているのかどうか、己の危うさを隠そうとするかのように、無闇矢鱈と手を振り回し周囲をキョロキョロと見回している、大人の色気と幼い可愛らしさが同居したアンバランスな美しい人を見ているうちに、陽介は、違和感の正体が掴めたような気がした。

 それが正解だとしたら。

 だとしたら、何故? 

 それが問題だったのだ。

 何故、アマンダが似合わぬ行動を~もちろん、彼女の裸体は美しいし、健康な成人男子である陽介の生理的欲求を煽動するには必要充分以上の効果を齎しているのだが~、しかもこれほど唐突に、そして必死になってまでそうしようとする、理由。

 その理由こそが、今夜、自分が心の底より知りたいことと関連があるのは、何の証拠もないけれど確実なように思えて、陽介は、ゆっくりと右手を伸ばした。

 アマンダは、絆創膏絆創膏どこに仕舞ったっけと、照れ隠しのようにブツブツ呟きながら、今は陽介に背中を見せていた。

 触れるのを躊躇ってしまうほど、その背はまるで新雪の積もったスキー場のゲレンデのように、滑らかで、美しかった。

「アマンダ……」

 言いながら陽介がアマンダの肩に手を触れた刹那、そのなだらかな薄い肩が、ビクリと激しく揺れた。

 思わず手を離しそうになるのを、ウンと下腹に力を入れて堪え、そのまま肩を掴む。

 なにをそんなに緊張しているんだと軽口が出そうになるほど、アマンダの身体は硬かった。

 同時に、彼女を震源とする細かな振動が、肩から陽介の掌を通じて、はっきりと伝わってくる。

 やっぱり、と陽介は自分の考えが間違っていないことを確信し、そのまま右手に力を入れて、クッ、と手前に引いた。

「! 」

 クル、とまるで子供のような軽さで、アマンダは180度回転して陽介に向き直る。

 普段は半眼に開かれた切れ長の瞳は、今は大きく、真ん丸に見開かれ、その瞳孔は、まるで恐怖を感じているかの様に大きく開いていた。

「アマンダ」

 少し力を込めて呼び掛けると、アマンダの白く細い喉から、ゴクリと生唾を嚥下する音が聞こえた。

 きっと無意識なのだろう、彼女の手は、彼女が本来秘すべきデリケートな部位を、抱き締めるようにして、今更ながらしっかりと隠されている。

「訊いて、いいか? 」

 失礼だろうか? もしも間違っていたら、やっぱり怒るだろうか?

 妙に下らない思いが湧いてくるのを無理矢理脳味噌から追い出し、じっとアマンダの瞳を見つめる。

 以前のように、瞳が何かを語ってくれるかとも思ったが、今の彼女の瞳は、ただ不安、恐怖、怖れ……、そんな原初的な感情しか読み取れず、だがそのことがますます陽介の考えの正しさを裏付けているように思え、覚悟を決めて口を開いた。

「お前……、未経験、なんだろう? 」

「あ……」

 アマンダは掠れた声を上げると、次の瞬間、狼狽したかのように手を振り回して肩に置かれた陽介の手を振り解こうとした。

「ば、な……っ! 」

 意味を成さないアマンダの抗議に、陽介は声を被せて黙らせた。

「聞けっ、アマンダ! 」

 途端に動きを止めたアマンダの半ば開かれた唇から、細く、長い、吐息が洩れた。

 そんなアマンダの様子を見て、今度は陽介が焦る番だった。

 待て、俺。

 聞けとは言ったが、一体俺は何を彼女に話そうと言うのか? 

 まるで雨に打たれ凍えて震えている迷い子のような、この美しい女性に。

 訊きたいことは山ほどあるのだ。

 ついさっきまでは、それでも頼もしい相方だったアマンダと自分の関係を信じて、じっくり腰を据えて彼女の話に耳を傾ける覚悟もあった。

 だが、それはまるっきり予想だにしなかったアマンダの行動で、完全に崩れてしまった。

 崩れたのは自分の計画だけではない。

 ふたりの関係、ふたりの距離、ふたりのルール、今日までゆっくりと築いてきたそれら全てが、互いに把握できない程に崩れてしまっているのだ。

 いつものふたりのステージとは思えない、暗い部屋、妖しげな魅力を振り撒く全裸のアマンダ、そんな彼女に欲情しつつも、必死にそれを抑えようとしている自分。

 数時間前までは考えもしなかった『ふたりの姿』が、それを如実に表していた。

 けれど。

 それでも。

 迷い、戸惑う心を押し退けて湧き上がる想いが、自然と彼の口を開かせた。

「お前は、綺麗だよ。傷痕がどうの、絆創膏がどうこうと、そんな面倒臭いあれこれが入り込む隙間もないくらい、お前は物凄く、綺麗だよ。もっと端的に言えば、その……」

 陽介は一旦言葉を区切って大きく息を吸い込み、顔を赤らめながら吐息とともに言葉を継ぐ。

「お前の美しさは、俺をそそる。自分でも驚いてるんだけど、正直な話……、抱きたくてたまらない。それは、お前も判ってるだろ? 」

 陽介は恥ずかしさを堪えてそう言ってから、オホンとわざとらしく咳払いし、その隙にカラカラに干上がってしまっている口腔内を湿らせた。

 アマンダはさっきから、茫然自失といった表情で黙って陽介の顔をみつめていたが、その問いにだけ、微かに頷いて、それからいっそう頬を赤らめた。

「だけどな。俺は……、『愛がないセックスはしない』とか綺麗事を今更並べるつもりもないんだが、それでもお前にとっちゃ『メンドクサイ』男かも知れない。だけど正直、俺は、お前とこんな状態で、ヤりたくない」

 視界の隅で、アマンダが両手をギュッと握り締めるのが判った。

「だってお前は、俺にとっては大事な、大切な人間だから。こんな訳も判らない……、お前の心がボンヤリとも見えてこない、深い霧の中みたいな状況で、抱きたいって思いだけは本物だけど、そんな雄の本能だけで、自分を納得させたくはないんだよ」

 アマンダの唇が微かに、震えるように、動いた。

 空気を震わせることはなかったけれど、それは『ようすけ』と呟いたように思えた。

「こんな事を言って、抱かないことが却ってお前を傷付けることになるかも知れない。女性にここまでの真似をさせておいて、明日から何もなかったような顔をして日常を続ける度胸は俺にはないし、お前ほど繊細な心の持ち主だったら、尚更だろう。そんなお前が、ここまで大胆な行動に出た事が、お前が俺に向けて送りたかった、なにかの『サイン』、そんな気がするんだ。だから、ここでお前を抱くのはいいけれど……、と言うか、もう物凄く抱きたいけれど、そのサインの意味が判らないまま、こんな綺麗で、大切なお前を抱くのは、やっぱりイヤなんだ」

 大きく見開かれたままのアマンダの目から、大粒の涙が一滴、堪えきれずに頬へ溢れた。

 刹那、アマンダは自分の両手で自分を抱いて、顔を伏せたかと思うと、膝から床へ崩れ落ち、肩を震わせ始めた。

「アマンダ……」

 陽介もまた、ゆっくりとしゃがみ、畳の上で正座した。

 顔を伏せ、嗚咽を堪えようと懸命に肩を震わせる彼女の顔を覗き込むようにしながら、陽介は続ける。

「なにがあったって、俺はお前を大切に思う。それだけは、確かだ。お前は、ミハランで、そしてこの街で、俺に心安らげる居場所を与えてくれた。だから、俺はこの、俺の居場所を大切にしたい。それは突き詰めれば、お前を大切にしたい……、そういうことだと、思うんだ……」

 アマンダの黒髪にそっと手を置く。

 抵抗もなく受け入れられたことにホッとしつつ、最後の言葉を口にした。

「だから、アマンダ……。どうしたんだ? 何があった? ……話してくれないか? 」

 堪え切れずに洩れた彼女の嗚咽は、何故か陽介の胸に突き刺さる。

 この美しい『相棒』が、こんなにも哀しげに、切なげに、苦しげに泣いているのは、こんな大胆な行動を起こさざるを得なかったのは。

 ひょっとして俺のせいではないのか? 

 アマンダは、そんな陽介の胸のうちを読み取ったかのようにゆっくりと顔を上げ、苦しげな息遣いの隙間から搾り出すように、言った。

「よ……、陽介ぇ……。ごめん、ごめんよ。だけど、今は言えねえ。今のアタシからは、言えねえんだ。でも、絶対、絶対、いつか、話すから、さあ? 今日は勘弁してくれ……、頼むからさあ? 」

「アマンダ……」

 困惑の挙句、ただ名を呼ぶ事しか出来ない陽介に、アマンダは首をゆっくりと横に振りながら、答える。

「陽介は悪くねえよ。アタシ、嬉しいよ。ほんとに、嬉しいよ? だから、お前は悪くねえ。……アタシが悪いんだよ。でもさあ、陽介」

 アマンダは手を伸ばし、陽介の手を握り締めた。

「アタシにとっても、お前は大事な……、大切な人間なんだ。だから……、だから、今夜は、それをお前に伝えたくって。だから、抱いて欲しい。そう、思ったんだ。それだけは……、それだけは、わか……、って……」

 堪え切れず再び嗚咽を漏らし、苦しげな呼吸の隙間に頼むよ、お願いだから、それだけは判ってよと繰り返すアマンダを、陽介はゆっくりと抱き締め、背中をトン、トン、と叩き続けた。

 今はそれしかない、それしか出来ないんだと、それこそ無理矢理自分を納得させながら。


 10分ほどもそうしていただろうか、案外2、3分くらいだったかも知れない。

 漸くアマンダの呼吸が整い始めたのを見定め、握られた手を慎重に離して、陽介はフローリングの床に落ちたバスタオルを拾い上げて彼女の肩にそっとかけた。

「大丈夫か? ……夏とは言え、風邪ひくぞ? 服、着てこい」

 アマンダは子供のようにしゃくりあげながらも、コクンと頷いて立ち上がり、バスルームへと消えた。

 アマンダが視界から消えて、陽介は思わず吐息を零した。

 身体から、背骨が抜け出てしまうかのような、太くて長い溜息だった。

「今夜は、ここまで、だな……」

 これ以上、時間をかけても無駄だろうと陽介は考えつつも、明日の朝、一体どんな顔で逢えばいいのだろうかと途方に暮れてしまう。

 ただひとつ判ったことは、アマンダにしても、けっして陽介との関係を終わらせよう、破壊しようと思っていたわけではなく、そしてアマンダもまた、陽介を大切な人間だと考えてくれている、それだけだ。

 それだけは安心できる、それさえあれば、時間はかかるかも知れないが、けっして打つ手がなくなった訳ではないのだ。

「陽介……。我儘ついでだけどよ……」

 いつの間にか服を着てバスルームから現れたアマンダが、俯きながらボソ、と言った。

「なんだ? 」

「悪いけど、明日、休む」

 陽介は暫く、じっとアマンダを見ていたが、やがて諦めたように吐息をついた。

「判った。……その方が、いいかも知れんな」

「すまねえ」

 アマンダは呟くように答えると、ジャージのポケットから自転車の鍵を取り出して、炬燵の上に放り出し、玄関へ向かった。

「アマンダ」

 慌てて立ち上がり、玄関までアマンダを追い掛ける。

「明日……。お前、ひとりで……、大丈夫なんだな? 」

 アマンダは、今日この部屋に来て初めて、ニコ、と微笑みを浮かべた。

 充血した瞳が、却って痛々しかった。

「ん。……イイ歳ぶっこいて、馬鹿はしねえよ。約束する。帰ってきたら、話そうや」

「判った。……おやすみ、アマンダ」

「ん」

 アマンダは、これもまた普段通りに、ボソリと挨拶と言えぬ『いつもの挨拶』を返すと、部屋へ戻って行った。

 ドアの閉まる音が聞こえたのを確認して、陽介は、ドサ、とその場にへたり込む。

「……これでよかったのかな」

 それは明日の夜には判ることだ。

 自分にそう言い聞かせながら、陽介は鉛のように重い身体を引き摺って、何の気なしにキッチンに立った。

 ふたつのマグカップが目についた。

 自分用にいれた黒い液体と、アマンダの為にいれた褐色の液体。

 少しだけ迷って、アマンダのマグカップに口をつける。

 その微かな甘みが、アマンダがついさっき披露した、夢のように美しい裸体を思い起こさせ、陽介はまだそこに彼女がいるような錯覚に捉われてしまう。

 暗闇の中、まるで陽炎のように不明瞭な輪郭のまま浮かび上がる全裸のアマンダが、哀しそうに流す涙の滴だけがヤケにリアルで、幻覚が消えた後も陽介の瞼の裏には、いつまでも鮮やかな残像が焼き付いていた。


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