第75話 12-2.


「へ? 」

 生まれてこのかた、これほど間抜けな声を上げたことは前になく、後にもないだろう、と冷静なもうひとりの自分が独りごちる。

 普段のアマンダなら即ギレしてドロップ・キックを繰り出しかねないバッド・タイミングの筈だったが、彼女は澄んだ瞳を微かに伏せただけで、もう一度、同じ言葉を繰り返した。

「アタシを、抱いて、欲しい」

 微かに、語尾を震わせて。

 待て。

 抱け、と言ったか? 

 アマンダを抱くのか? 

 抱くと言っても色々あるが、この場合は『ハグ』ではないだろう。

 そこまで俺も野暮ではない。

 ……となると、抱く、とは。

 ……うん。

 裸の女と抱き合う。

 ん。

 セックス……、だろうか? 

 誰がだ? くそ、羨ましい。

 しかし、この部屋には今、アマンダと俺しかいない訳で。

 アマンダがアマンダを抱くと言うのは、そのナルシストだとかパントマイムだとか、そんなこと以前に、物理的に、と言うか生物学的にあり得ない、ミミズじゃあるまいし。

 ということは、俺、か? 

 俺が、アマンダを抱くのか? 

 つまり、その。

 どうなんだ、それは。

 アマンダは、俺と、セックスを、したい、そう言っている。

 ……のか? 

 うん。

 そうだと仮定しよう。

 そうだとして、だ。

 それじゃあ、俺は、どうしたい? 

「へ……? 」

 もう一度間抜けなリアクションでもすれば、アマンダのクリティカルなキックで現実に帰還できるか、とも考えたが、いつまで経っても痛みを伴った衝撃が陽介を襲うことはなく、代わりに心臓が急に激しく動悸を打ち始めた。

 これは、拙い。

 何故なら、俺は。

 俺は今、アマンダを抱きたがっている。

 この胸のうちを、心臓が破裂するほどの動悸を、自分の雄としての本能を、しかし彼女に知られてはいけない。

 何故かは判らないが、とにかくそうなのだと決意した刹那、アマンダの頬が薄っすらと染まり、視線がツイ、と外された。

「……別に厭じゃなさそうだな」

 言われて、ハッと気付く。

 激しくリズムを刻んでいるのは、心臓だけではなく、下半身もだった。

 今更手遅れではあったが、少しでも目立たないようにと、陽介は慌ててジャージのポケットに両手を突っ込んでやたら不自然にズボンのその辺りを膨らませて見せた。

 誤魔化しようなどないと判っていながらも、なんとかしなければと口が開く。

「……なんで、急に、そんなこと」

「い、いいじゃねえか、細けぇ事言うな! 」

 ますます頬を赤らめて小さく怒鳴るアマンダが、漸く彼のよく知る彼女が一瞬戻ってきたように思えて、陽介の気持ちに幾許かの余裕が生まれた。

「いいわけ、ないだろう! お、お、おかしいだろ、こんなのっ? 」

 余裕が生まれたのは気持ちだけだったらしい。

「アタ、アタシ、アタシがいいっつってんだから、いいんだよ馬鹿っ! 」

 アマンダは苛立ったように自分の腰の辺りをバシバシ叩きながら怒鳴り返す。

「だ、だって、ひ、必、必然性が……」

「ヒツゼンもブツゼンもあるかっ! ア、アタシにこれ以上、恥掻かせんじゃねえっ! 」

 陽介の言葉を遮るように怒鳴ると、アマンダは無理矢理口の端を歪め~たぶん、彼女なりに『皮肉な笑み』を表わしたつもりなのだろう、とても成功とは言えなかったが~、つっかえながら言葉を継いだ。

「へ、屁理屈捏ねんじゃねえよ。ほら、か、身体は正直みたいだぜ? 」

 カッと頭に血が昇った。

 視界がピンク色に染まる。

「バッ……! 」

 図星を刺され、そんな権利などないと知りながらも、恥ずかしさのあまり抗議の声を上げかけた途端、アマンダがその攻撃を交わすかのように、微笑んだ。

 思わず、息を呑む。

 言葉通り、アマンダは微笑んでいた。

 陽介以外の、誰が見てもそうと判る~そして、美しいと評するであろう~、笑顔だった。

 嫣然と……。

 いや、違う。

 美しいアマンダの魅力を~本人が自覚しているか否かに関わらず~、更にアップさせる表情ではあったが、けれど、嫣然、と言うのとは違う。

 淋しげな、儚げな、切なさを秘めた。

 そんな哀しげな響きを持つ言葉がピッタリとくるような笑顔だったからこそ、陽介は息を呑む。

 アマンダの唇が、ゆっくりと、艶めかしく、動いた。

 まるで陽介を催眠術にかけようとしているかのように、柔らかそうな、まるで見たこともない小さな果実にも似た唇がゆっくりと動き、ハスキーな、しかし眠気を誘うほどに甘い声が、室内に響く。

「別に、お前をからかってる訳じゃねえんだ。マジで、アタシ……、嬉しいよ」

 微笑が、一層、明確な笑みへと遷ろう。

 もはや陽介は、指一本も動かせず、掠れた声すらあげられない。

 本当に催眠術に陥ったのか、と陽介は、自分とアマンダを一瞬、疑った。

「こんなアタシに、その……、よ、欲情……? ……し、してくれてさ? 」

「『こんな』とか、言うなよ」

 漸く~そして、これだけは譲れないと思った~搾り出した陽介の言葉に、アマンダは笑顔のままで小首を傾げて見せた。

 その仕草により、幼さを加えたアマンダの笑顔はしかし、何故か彼女が胸に秘めているだろう何らかの想いを一層深い霧の中へ閉ざすスモークのように思えて、陽介の中に残った一欠片の冷静さはますます困惑の度合いを深めていく。

 いったいアマンダは、どうしたいのだろう?

 いったいアマンダは、何を考えてこの行動に至ったのだろう?

 いや、それよりも。

 彼女の、この切なそうな、そしてどことなく思い詰めたような、それでいて開き直ったようにも思える、この『ある種の、歪な』笑顔は、一体、なんだ? 

 アマンダはしかし、陽介の困惑を他所にして、言葉を継いだ。

「ま、まあ……」

 アマンダは照れ臭そうにガシガシと頭を掻いて、そこで漸く視線を外した。

「そんな、綺麗じゃないんだけど、さ? 」

「待っ……! 」

 陽介が喉に絡みつく苦い唾を嚥下しつつ口を開くよりも一瞬早く、アマンダの細くしなやかな指が、胸の谷間に伸び、その身体を覆った布切れを静かに、剥ぎ取った。

 剥ぎ取って、しまった。

 全裸よりエロティックなバスタオル1枚の姿は、いくら朴念仁の陽介と謂えどもその想像力を逞しく働かせる効果を持っていたが、現実に眼前に現れた彼女の『生まれたままの姿』は、今や彼のイマジネーションの遥か彼方で煌き輝いていた。

 ここでもアマンダは『陽介の予想の斜め上』を行っていた。

 水平垂直の縮尺率を1:2とデフォルメして表現する海底地形図を人体で立体化させたかのような、形良く突き出した、それでいて見ているだけで柔らかな手触りを容易に想像させる両の乳房、その頂には、これまた予想を裏切る、褐色の肌に薄いトーンを貼ったようなささやかな乳輪とこれも適度な大きさの乳首。

 ピンセットがなければ掴むことが出来ないのではないかと思わせる、無駄のない腹部にはひっそりと形の良い凹部が佇んでいる。

 『健康』をイメージして具現化すればこうなるであろうと頷ける腰周り、その秘部を覆っている、豊かな頭髪からは想像出来ない、控えめな、しかししっとりと濡れた黒い茂みは灯りを消した薄暗い部屋の中でも、不思議と妖艶な存在感を放っている。

 さっきまでバスタオルで覆われていた部分は、『自然界の美を司る黄金率』からは懸け離れた~無理矢理単純化すれば、2:1:2とでもなろうか~アンバランス・ゾーンであったが、そのアンバランスさが緩やかな曲線で首から肩、胸、腰から脚と無理のない優雅な輪郭を描き、それこそが万人の認める『黄金率と呼ばれる陳腐な”美”』と一線を画す、それこそ陳腐な表現だが『天空から舞い降りたビーナス』と見紛う情景を単身者向け2DKマンションの一室に出現させていた。

 彼女の足元に落ちた安物の草臥れたバスタオルが、今や陽介の目には、ボッティチェリの名画『ビーナスの誕生』にある阿古屋貝にも感じられる程だ。

 これは、夢、か? 

 ゴクン、と生唾を嚥下して、真っ白な陽介の脳内に漸くポツンと浮かんだ言葉はしかし、目の前に誕生したビーナスの美しさだけを指しているのではなかった。

 『それ』に気付いた瞬間、陽介の視線は釘付けになってしまい、アマンダがどれほど魅力的な裸体を目の前にさらしていても、どう足掻いても瞳が動かせない。

 陽介の視線を引き付けている、『それ』。

 『それ』は、アマンダの左の乳房の下、柔らかな脇腹に、微かに盛り上がる直径1cm程の円形の傷痕。

 まるで、何かの機械部品のように綺麗な真円に見える『それ』は、鞣革のような光沢を放つカフェオレ色の彼女の肌とは違って、ところどころ白っぽい部分が残るベージュに近い色をしていた。

 『それ』は、彼女の眩いほどに美しい裸体に較べれば、全く気にならない程の小さな瑕疵、小さな、古い傷痕だった。

 いや、逆に見事すぎる肢体だからこそ、目についたのかも知れない。

 けれど陽介には、その小さな、しかし妙に目立つ傷痕が、アマンダの美貌に嫉妬した美の女神が意趣返しに貼り付けたシールのようにさえ思われた。

「ああ、コイツ? 」

 アマンダは、彼の視線が脇腹から離れないことに気付き、笑顔のままで再び口を開いた。

「お前にゃあ、一目瞭然だろうけど、こいつはドンパチでついた傷じゃねえ。見ての通り、子供の頃の古傷だ」

 陽介の無言の首肯に、彼女はゆっくりと、言葉を継いだ。

「昔、話したかも知れねえが、両親は子供の頃死んじまって、アタシはばあちゃんに育てられた。確か、小学校1年の時だったかな……。親父はスペイン人の船員で、この街で母親と知り合い、そのままこの国に居ついたんだけど、ご多分に漏れず生活は苦しくってよ。それでも親父は頑張って、なんとかアタシが小学校に上がった頃にゃあ、人並みらしい生活も出来るようになった……。だからってんで家族揃って動物園にでも行こう、そうなった訳さ」

 言葉は重く、その内容もまた苦いものだったが、話すアマンダの表情は、一種悟りを開いたかのように、穏やかな微笑みを湛えたままだ。

 美しい裸体の彼女は、それだけでもう、この世の人間ではないような美しさと儚さを醸し出している。

「その道中の路線バスのドテッ腹に、居眠り運転の大型トラックが突っ込んで、グシャッ、ってな……。何の因果か、丁度アタシら一家の座っていた後部付近に、さ。親父は二目と見られぬ肉の塊、母親もご同様だったんだが、オフクロの身体を突き抜けたエンジンの部品かなんかが、咄嗟に抱き締めたアタシのココにグッサリ……」

 穏やかな笑みは一瞬、悔しげな表情へと変る。

「悪く考えりゃ、オフクロが抱き締めなきゃあ、アタシに部品が突き刺さる事もなかったろう。良い方に考えりゃあ、母親の身体で勢いが鈍ったが為にアタシは重篤ながらもこうして生き永らえることが出来ました、と。……や、別にふざけてる訳じゃねえし、真実なんて判りゃしねえ。オフクロありがとよと手刀切っときゃ丸く収まる。現にアタシは、こうして生きてんだからな」

 陽介は、言葉を挟むことも出来ず、ただ彼女の傷痕を凝視する。

「脾臓やら肝臓半分腎臓1個、後は腸やら何やら、偶然子宮とかは助かりはしたけど、腹ン中、空になるほどの大怪我で、即死にゃ至らなかった親父がくれた腎臓や人工脾臓、バイオなんたらで再生できた肝臓のお陰で1年後にゃなんとか退院。まあ、救命措置優先、それにアタシが餓鬼過ぎたこともあって、形成の方は見ての通り、今日まで手付かずだけどな。お陰でシャバじゃあ……、っと、こっから先はお前も知ってる通りだ」

 照れたようにアハハと笑うと、アマンダはフッ、と短い吐息を落として、陽介に再び微笑みかけた。

「まあ、とにかく、アタシの身体はこんなんだ。で、話は最初に戻るがよ、こんな身体でも良けりゃあ、陽介……」

 急に声に湿り気が混じった……、ような気がした。

「アタシを抱いて欲しいんだ」

 アマンダは陽介の反応を待たず、ツ、と視線を外してゆっくりと、まるで流れるように畳の間へ移動する。

 一瞬、明るい光を浴びてアマンダのカフェオレ色の肢体は、ハレーションを起こしたように煌いて、陽介は思わず目を細めた程だったが、彼女の手が室内灯の明度を落とすと、一層暗くなった筈の室内で、彼女の肌は先程以上に艶めいて、輪郭が浮き上がるように見えた。

 アマンダは炬燵の天板にゆっくりと腰を下ろすと、再び陽介の方に首を捻り、顎をしゃくってみせた。

「なあ……。来いよ」

 まるで、音声指示入力のロボットのように、陽介はフラ、と足を踏み出した。

 踏み出しながらも、頭の隅から理性という名の陽介が待ったをかけている。

 待て。

 こんなの、おかしい。

 俺は、据え膳は食わない主義じゃなかったか? 

 だけど。

 息が上がる。

 胸が苦しい。

 まるで頭が心臓になったみたいだ。

 身体中が熱い。

 歩き難い。

 実際、どうなのだろう?

 俺は、アマンダを抱きたいのか? 

 勿論、いい歳だし、童貞でもない。

 他人と較べてそんなに多くはないだろうけど、複数の女性と関係を持った。

 はて、そう言えば一番最後にセックスしたのは、いつのことだったか? 

 思い出せないけれど、理性で抑えられないほど欲求不満ではない筈だ。

 そうとも、もっと若い時分、潜空艦勤務だった時だって、半年以上の禁欲生活にも耐えられた。

 だけど、俺の『雄の身体と本能』は、今、間違いなく『雌であるアマンダ』の身体を求めている。

 格好をつけた、もって回った言い方などヤメだ、こんな美人を、しかも全裸の彼女を見て、抱きたいと思わぬ方が異常なのだ。

 傷痕だって大して気にならない。

 然程大きくもないし、何より、アマンダは彼女の全身全霊、全てを持ってして、壮絶な程に美しいのだから。

 高熱に浮かされたようにそんなことをぼんやり考えていた陽介は、爪先が何かに当たる感触を覚えて現実へと帰還する。

 たったの2DKだ、それほど広い訳ではない。

 気が付くと、目の前にアマンダがいた。

 炬燵の上に座った彼女の顔は、丁度陽介の下腹部の前にある。

”しまったっ! ”

 陽介が思わず一歩下がろうとする直前、気が付いた。

 アマンダが、暗い室内でもはっきりそうと判るほど、真っ赤に染まった顔を、捥げるのではないかと心配してしまうほどに横に背け、ご丁寧に瞼を固く瞑っていることに。


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