12. てのひらから零れ落ちたものは
第74話 12-1.
ずずっ、と、コーヒーをすする音だけが、六畳間に響く。
陽介の好きな、キリマンジャロの芳醇な香り。
自分が好む、微かにミルクの甘さの混じる、どこか懐かしい香り。
ふたりがともに慣れ親しんだ、ラッキーストライクの、煙草にしては優しい香り。
何の飾り気もない普段通りの、けれど涙が滲んでしまいそうになるくらい、温かく優しい空間に包まれている今の暮らしを、アマンダはなんと幸せな時間を自分は手に入れたのだろうかと、今更ながら自覚し、大袈裟なほどの驚きと感動を覚えた。
だが、言えない。
いや、言えないのではない。
何も言うべきではないのでは、と思ってしまう。
『あの日』以来、その内容は違えど、常に地獄の中でただ『生き延びる』ことだけを目標にして、己の指先さえ見えぬ真っ暗な夜の底を這いずり回っていた自分を、例え夕闇とは雖も、少なくとも自分の四肢、周囲、そして遥か彼方ではあったが溜息交じりに見上げることの出来る『星』が見える場所まで導いてくれた陽介に、こんな自分がいったいどんな言葉をもって向き合えるというのか。
陽介はけれど、黙ってコーヒーをすすっているだけだ。
多分、頭にバカがつくほどお人よしの彼のことだ、きっと自分を、無条件に信じてくれているに違いない。
となると、まず口火を切るべきは自分の方なのだろうと、アマンダは改めて覚悟を決める。
けれど。
今、何を言っても嘘になってしまいそうで。
今、何を言っても彼を責めてしまいそうで。
今、何を言っても泣き言になってしまいそうで。
万が一、心の底に渦巻く『真実とやら』を吐き出すことに成功したとしても、その行為自体、単なる我儘にしか過ぎないような気がして。
志保とあのホテルで、何やってたんだ?
なんでセミナーに行ったお前が、志保と一緒にいたんだ?
志保とは、どういう関係なんだ?
もしもそういう関係だったら、なんでアタシに言わなかったんだ?
これから志保とお前は、どうなっていくんだ?
いや、それよりも、アタシとお前はどうなっちまうんだ?
もう、アタシを助けてくれないの?
もう、アンタはアタシのヒーローじゃないの?
もう、アタシはこの夕暮れにすら、いられないの?
お願いだから、志保と別れて。
後生だから、アタシを捨てないで。
せめて、アタシの前では、今のままでいて。
一度でいいから、アタシを愛して。
頼むよ、たった一度きりでいいんだ。
アタシを、愛して欲しい。
そうしてくれたなら。
そうしたら、アタシはこの先、独りで生きてゆけるから。
アンタに愛してもらった、その記憶だけで、アタシはこの先、生きてゆけるから。
アタシが愛した、アンタに貰った幸せの刻印だけで、これから先、アタシの人生に横たわる暗い夜の底は、地獄じゃなくて煉獄に変わる筈だから。
アンタの優しい笑顔が一瞬だけでもアタシだけのものだった、そんな勘違いの記憶と『もうひとつの、夏だけの宝物』だけを抱いて、アタシは短いか永いかも判らないこれからの人生を、這ってでも生きて往ける、そんな気がするから。
うん、そう。
生きていく。
独りで。
永遠なんてクソくらえだ、刹那の幸せの記憶だけを抱いて、アタシは生きていく。
ゴトン、と音を立ててカップを置いたアマンダに、陽介はチラ、と視線を飛ばした後、マグが空になっていることを確認して、ゆっくり顔を上げた。
「もう1杯、どうだ? 」
アマンダは陽介の方を見ずにフルフルと首を横に振り、やおら立ち上がって、言った。
「……ちょいと、シャワー浴びてえんだが」
思いもかけない申し出に、陽介はさすがに驚きを顔に出してしまった。
「……いいけど」
「出てから、2杯目を貰う」
「あ、ああ……」
アマンダが何も話さないまま帰るのではないか、と言う不安が払拭されて、ひとまず胸を撫で下ろして煙草に火をつけかけて、陽介は今度こそ半分立ち上がるほどに驚いてしまう。
「ま、待て! こ、ここで入るのか? 」
アマンダはバスルームに向かおうとしていた歩みを止めて、首だけで振り返る。
「……駄目か? 」
これまで、まるでどちらの部屋か判らない程、陽介の部屋に馴染んでいたアマンダだったが、さすがに風呂だけはいつも自室で入っていた。
改めて正面からダメかと問われると、どこまでが良いのか悪いのか、境界線の引き様は果てしなく微妙で心許なく、グレーの霧に覆われていることに気が付いた。
「い……、いや、べ、別に……」
言いながら再び腰を畳に落ち着ける陽介に、アマンダは微かに頷いて見せると、今度こそ真っ直ぐバスルームへ消えた。
「……ま、いいか」
アマンダは、常に予想の斜め上を行く。
判り切っていたことではないか。
陽介は首を振ると、煙草に火をつけマグカップの残りを飲み干す。
耳に、シャワーの水音が聞こえてきた。
今夜は、長期戦になりそうだ。
陽介は考えながら、苦笑を浮かべる。
が、その予想もまた、大きく斜め上方向に裏切られたと判るのは、シャワーの音が途切れてからのことだった。
7月の深夜、乾燥しているせいか、然程夏らしい暑さは感じられない。
だから、思い切って普段より湯温を熱く設定した。
「つっ! 」
思わず舌打ちしてしまったのも最初だけ、じきにカフェオレ色の肌を叩くシャワーの勢いは、アマンダの切れ長の瞳を閉じさせる。
我知らず洩れる溜息とともに、ついさっきまで頭の中で渦巻いていた纏まりようのない思考が溶け出していくような気がして、ゆっくりと瞼を開ける。
肌が弾く湯の滴が、湯気で曇ったガラスを綺麗に拭い、生まれたままの姿を映し出していくのが視界に浮かび上がる。
「もう、どうでもいい」
志保のことも、売春疑惑のことも、これからのことも、なにもかも。
大切なことは、たったひとつ。
それ以外は全部、どうでもいい。
どうでもいいことは全部、この浴室で、熱いシャワーで洗い流す。
そう。
大切なことは、たったひとつ。
「アタシは、陽介を、愛してる」
口に出した言葉は、シャワーに流され、切なさだけが残る。
その残った想いだけを、アタシはこれから陽介に捧げる。
受け取ってくれるかどうか、それは判らないけれど。
どちらかと言うと、陽介は受け取ってくれそうにないけれど。
だけど、この想いだけは本当だと、洗い流せず胸の底に残った切ない気持ちが叫んでいる。
だから、せめて。
こんなアタシだけど。
今から、磨く。
嘘や見栄、余計な全てを洗い流し、そしてこの痛いほどの切なさだけを残して。
ああ。
陽介。
アタシが、本当に、真剣に、心の底から欲しかった、宝物。
シャワーが流していくから、という訳ではないだろうけれど、アマンダは自分がずっと涙を流し続けていることに最後まで気付けなかった。
「このバスタオル……、借りていいかぁ? 」
浴室からアマンダのくぐもった声が響いたのは、シャワーの水音が消えて数分後だった。
「ええと、掛けてあるのじゃなくて、洗濯機の上の棚に」
「わーった」
陽介は摺りガラスの方に向こうとする視線を無理矢理引っ剥がし、立ち上がって台所へ向かう。
「ドライヤー、使ってもいいぞー」
コーヒーを温め直しながら声を掛けたが、返事は返ってこなかった。
いつものことだ、別にそれを気にもせず、マグカップを台所で洗っていると、ガラッと扉の開く音が聞こえた。
シンクに向かっていると、冷蔵庫とその上の電子レンジで浴室の方は死角になる。
「なんだ、早いな。女性ってのは、髪乾かすのも時間がかかるんじゃないのか? 」
「ん……、まあな」
漸く返ってきた生返事に、何故か力の入っていた肩が楽になったように感じて、陽介はマグカップをコーヒーメーカーの横へ置いて、何気なく浴室の方を振り向いた。
「夏とはいえ、風邪ひく……、ん、じゃ……」
まるで時間が止まったように、言葉だけではなく、指一本、動かすことが出来なかった。
振り向いたそこに、『異質』が現れていたから。
キッチンと浴室の間のフローリングに立つ、この部屋には『異質な』『それ』を、陽介はたぶん、一生忘れることはないだろう。
『異質』とは言ったが、それは決して貶している訳ではない。
むしろ『それ』は、あまりにも夢のように美しくそして儚く、陽介の脳が、なかなか自分の置かれた状況を現実と認識することが出来なかった故の、『異質さ』だったのだ。
いや、そんなことすら、実は全てが終わってからの後付けの想い、だったのかも知れない。
それほどに、陽介は『それ』に心も視線も、なにもかも奪われて、自分自身を意思の力でコントロールできない状況に陥っていた。
それほど。
「アマ……、ンダ……」
異質の正体、陽介の相棒、アマンダ。
彼女は、美しかった。
いつの間にか灯りの消されたフローリングのダイニング・ルームは、さっきまでコーヒーを啜っていた畳敷のリビングとキッチン、双方の灯りをその床に反射させ、まるで計算され尽くしたグラフィック・アートのように、彼女のバスタオル1枚巻いただけの肢体を美しく、そして妖しげに浮かび上がらせている。
いや、そんな照明効果など不要だと思えるほどに、彼女は美しかった。
そのバスタオルは確かに洗濯したばかりだったけれど、アマンダが身体に巻き付けると、それはまるで、優雅で気品溢れる艶やかさに彩られた、極上のパーティ・ドレスにも見えるのだ。
勿論、そんな錯覚を陽介に引き起こさせるのは、アマンダ自身が放つ美の煌き故だ。
これがリアルな八頭身か、と思わず唸ってしまうその長い脚は、今は未だ濡れているせいか、肌理細やかな肌は一層煌びやかな光沢を放っていて、決して太くはないが優しさを具現化したような柔らかそうな太股、けっして細くはないが無駄のない均整のとれた脹脛、触れば折れてしまいそうな細く絞まった足首、手の指先同様に、まるで真珠を思わせる綺麗な形の爪をのせた爪先へと続いている。
バスタオルに包まれた身体は、その真のラインを隠しているけれど、豊かに存在を主張している胸の双丘と、健康的な張りが母性を感じさせる脚の付け根付近、その中間辺りのタオルの空虚な皺が、彼女のウエストラインが理想の曲面で構成されているであろうことの証明のように思えた。
そして、普段、殊ある毎に感じさせられる、細く柔らかな腕と薄い肩、細い首、纏わりつく豊かで長い黒髪は、まるでそれ自身が意思を持った別個の生物のようにうねり、フローリングの光の反射を受けて不思議な煌きを見せている。
陽介は、その壮絶なほどの美しさに、瞬きすら忘れたように暫くの間、立ち尽くしていた。
だが。
不意にずらした彼の視線が、アマンダの顔を捉えたその瞬間。
陽介は、今度こそ、息が止まりそうになるほどの衝撃を受け、一瞬、足をよろめかせる。
いつもなら、その先にあるもの全ての本質を貫く程の鋭い視線を放つ切れ長の眼は、今は伏し目勝ちでまるで空想世界の妖精の如く儚くそして切ない輝きで煌き、気に入らなければ梃子でも開かぬ不機嫌そうに閉じられた口元は、今は薄っすらと開かれてピンク色の柔らかそうな唇がよく見ると微かに震えている。
嘗て見た、絶望の底から必死で助けを求め続ける悲しげな表情、心の底で煮え滾る暗い怒りの見え隠れする表情、時折見せる幼ささえ感じさせる懸命な表情、近しい者数名しか知らぬであろう、微かな、しかし優しい微笑、近所の子供達と戯れているときの少年のようなあどけない表情、周囲の者へ向けるクールな、だけど実はなんの駆け引きもない純粋な気遣いの表情。
そのどれでもない、陽介が初めて見るアマンダが、そこに居た。
”今のアマンダから、俺は……”
なにも読み取ることが出来なかった。
陽介は困惑の度合いを深める自分の心を叱咤し続けるうち、漸く、今目の前に居るアマンダを表現するのに相応しい言葉を、たったひとつだけだったが、探し出す事が出来た。
このアマンダは、おんな、だ。
そう、まさしく、おんな。
手を伸ばせば直ぐにでも触れそうな距離で静かに息づく、この見慣れぬ『異質』の存在は。
紛れもなく、ひとりの『女性』~生物としての『雌』と言う方が感覚的には近いか? ~として存在しているのだった。
今更ながらそれに思い当たると言うことは。
ひょっとして自分は今まで。
アマンダのことを、女性として見たことがなかったのか?
もうひとつの『衝撃的』な事実に行き当たり、陽介は思考停止を余儀なくされ、膝から力が抜けて崩れ落ちてしまい……、そうになる瞬間。
それまで、ただ無言のまま、じっと佇んでいたアマンダが~まるで天空から遣わされた美の女神が、地上の言葉が判らぬまま困惑しているようにも見えた~、なにかを決心したように小さく頷き、ス、と視線を陽介に向けた。
「! 」
その夜よりも冥い瞳に捕らわれて動けなくなった陽介の視界の中で、夜桜のように艶やかに輝く唇がゆっくりと動き、甘い声が室内の空気を震わせた。
「……陽介。アタシを、抱いて欲しい」
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