第73話 11-7.


「まだか……」

 ベランダから隣を覗き、念の為、玄関へ回って隣室のドアノブを回す。

 もう、何度繰り返しただろうか。

「アマンダ……」

 ゴロンと畳の上に寝転がり、待ち人の名を声に出してみた。

 空気を震わせた彼女の名はしかし、確かに耳に届いた筈なのに、まるで夢のように虚空へ吸い込まれ消え去ってしまう。

 そう。

 数時間前、あのラブホテル街で、思いもかけず姿を見かけた、あの場面のように。

 目と目があった刹那、まるで夢のように闇へ溶け込んで見えなくなった彼女。

 あれは、本当に夢ではなかったのか? 

 しかし、衝撃を受けたあのシーンは、それが現実だと力強く主張を繰り返していて、さっき呟いた彼女の名前のように時間を経てもあやふやに消え去ってはくれず、それどころかその時には気付かなかった、どうでも良いディティールまで今は鮮明に思い出すことが出来る程だ。

 なあ、アマンダ。

 あんなところで、何をしていたんだ? 

 あの男は、誰だ? 

 あの男と、一体何があったんだ? 

 判っている。

 判っているのだ。

 その少し前に耳にした、UNDASN士官の売春の噂など、アマンダとはなんの関係もないことくらい。

 確かに口も態度も悪く、昔は本物の不良だったかも知れないが、アマンダと呼ばれる、ある種面倒くさい、だけどどこまでも優しく真っ直ぐで性格の美しいあのひとは、売春などと言う行為とは、一歩、違うところに……、いや、ある意味、対極に位置する存在なのだ。

 だから、疑ってなど、いない。

 ……ごめん。

 正直に言う。

 一瞬、脳裏を横切った。

 だけどそれだって、言い訳が許されるなら、あんな噂を聞いたから、そして志保と直前までその噂について話をしていたから~主に、どれほど下らない噂かということを~、だから一瞬、脳裏を過っただけだ。

 志保はどうやら、耳にした噂と目撃シーンを直結してしまったらしいが、彼女はそれを黙っていると言ってくれたし、いずれは解ける筈の『誤解』だろう、だからそれは大きな問題ではないのだ。

 問題は。

 何故、彼女は今日まで、自分になにも打ち明けなかったのか? 

 本人に訊けばいいことだ。

 だいたい、それ以前に、俺は彼女を信じているのだ。

 そして信じているということを、彼女にも宣言している。

 だから、訊かなくたって、いいくらいだ。

 身体を捻ってうつぶせになり、ボソッ、と呟く。

「……これだって、嘘、だよなぁ」

 灰皿と煙草を手探りで炬燵の上から取ってきて、1本咥えて火をつける。

 どうしても、気になる。

 傍で見ていて、ああなんてメンドウクサイのだコイツはと、イライラさせられはすれど、それでも彼女は、真っ赤に染まった顔を隠し(切れず)上手く喋れない台詞を罵詈雑言でカバーし(切れず)、揺れる眼差しにわざとらしい理由をつけ(切れず)、結局、誤魔化しきれない心の動揺を誤魔化せているつもりで、それでも懸命に、『本当に伝えたい何か』を自分に伝えてくれていたのだ。

 これまでは。

 だからこそ、気になる。

 アマンダが、隠しておきたい『なにか』。

 アマンダが、話せない『なにか』。

 その『なにか』よりも、気になる。

 アマンダが、隠しておきたいと思った『理由』。

 アマンダが、話せなかった『理由』。

 もしくは。

 アマンダは、『俺だから』隠しておきたいと思ったのか。

 アマンダは、『俺だから』話せなかったのか。

「もしも、そうだとしたら」

 俺の何が、彼女にそうさせたのだろう? 

 思い出すままに、過去の出来事を記憶の抽斗から引き摺り出してみる。

「うーん……」

 心当たりがなくて、思わず声に出して唸った途端、唇の端に引っ掛かっていた煙草の灰が、ポロ、と灰皿に落ちた。

 火を吸い付けてから、殆ど咥えていただけだったのに気付いて、自分が腑抜けと化していたことを改めて自覚する。

 畳に焼け焦げを作るのは、無用心だ。

 いや、それ以前にUNDASN幹部としてなってない、『常在戦場』の4文字をなんと心得ている。

 いやいや。

 そんな格好を付ける前に。

『イイ歳コいた独身男が焼け焦げだらけの畳に寝そべってる図なんざ、情けなくって涙も出やしねえぜ! 』

 痛烈なアマンダの罵倒が聞こえた気がして、陽介は苦笑交じりに煙草とライター、携帯灰皿を手に廊下へ出る。

 静まり返った住宅街の中、電車の走る音が響いてきて、下りの最終だなとぼんやり考える。

 今日はもう、戻ってこないかも知れないな。

 まあ、仕事だけはキッチリする奴だから、明日になればイヤでも逢える筈だが。

 ……イヤでも? 

 イヤな訳じゃない、俺は。

 むしろ。

 ……それじゃ、アマンダの方はどうなんだろう? 

 廊下の手摺に凭れ、煙草を吸い付ける。

 肺一杯に苦い煙を吸い込むと、それが埋めきれない心の空白を少しだけ埋めてくれたような気がして、10%の満足感と90%の背徳感の絶妙なバランスに複雑な気持ちになる。

「もう、サブマリナーとしては失格だよなあ」

 思えば、この苦い煙もアマンダに教えられて以来の、付き合いだ。

 あの頃の、出逢った頃の彼女は、まるで鞘のないナイフのような人間だった。

 鞘がないことで、周囲を、そして自分を傷つけ、苦しみのたうちまわり、見えない涙を流しながら、助けて、と叫んでいた。

「そんなアイツが、なぁ……」

 言葉とともに吐き出された煙が、風に攫われてたゆたい、どこかへ流れていくように、陽介の思考もふらふらと、突然の自由に戸惑うように脈絡もなく溢れ出る。

 あの、常に『何か』に苛立ち、早く大人にならねばと強迫観念にも似た焦りで、前のめりに歩き続けていた彼女が。

 この街で再会した、あの日。

 不器用ながらも、溢れ出る情感を優しすぎる印象さえ与える美しい両手一杯に抱えた、『いいおんな』になっているのを知った時の、驚きと喜び。

 暗く辛い過去を背負い~助けを求める彼女に手を差し伸べた刹那、握ったその手の痛いほどの冷たさに、驚き戸惑いを覚えた~、背負った過去の重さ故の『アマンダらしい性格』を抱き締めながら、歯を食い縛り、顔を真っ赤にしてウンウン唸り、涙を堪え、時には悪態を吐きながらも、一歩一歩、今日まで彼女は歩いてきたのだ。

 他人には軽々と話せぬ、辛く、苦しい過去。

 傷ついてから今日までずっと、塞がることなく血を流し続けている、心に開いた大きく、深い穴。

 自分などには判らぬ程の痛みを覚えさせる~彼女の言葉通り、温室育ちの坊ちゃんだ、確かに俺は~大きな傷痕は、きっと今もアマンダを苦しめているに違いない。

 完全に克服する事などできないだろう、忘れたふりをして、平気なふりをして、過ぎたことだと笑い飛ばしたふりをして、周囲を、自分を誤魔化しながら、彼女は生きてきた。

 いつかきっと、完全に塞がりはしないだろうけれど、気にもならない程度には、慣れてゆく、馴らされてゆく筈。

 そう、信じて。

 アマンダという女性は、実に泥臭い、けれど己の隅々まで磨き上げるような生真面目な丹念さで、陽介との再会までの長い歳月を、如何にも不器用な彼女らしく、今日までの1分1秒を息を切らしながら、漸く凌いできたに違いない。

 『クソッタレ、メンドクセエ! 』とボヤキながら。

 ならば、今。

 俺が、彼女に出来ることは。

「まずはきちんと、話を聞かないと……」

 うん、と独り頷いた拍子に、廊下に煙草の長い灰が落ちた。

 今回も火をつけてから、煙草は唇の箸に唯引っ掛かり、無駄にエントロピーを増大させていただけのようだった。

「そう言えば、アイツもこうして、毎朝ここで待ってくれてるんだよなぁ」

 毎朝、ドアを開いた瞬間、微かに匂う煙草の香りと朝陽を受けて煌く豊かな黒髪が、今朝もそうだったはずなのに、何故か、遥か遠い昔のようにも思える。

「……明日の朝も、同じ風景を」

 見ることが出来るのだろうか? 

 胸を衝いて沸き起こる不安を紛らわせようと、新たな煙草を口に咥えた刹那、近くで車のドアが開く音が聞こえた。

 視界には見えなかったが、アマンダだ、と何故か確信できた。

「明日の朝も、同じ風景を」

 見るために。

 ゆっくりと煙草に火を吸い付け、陽介は凭れていた手摺から身体を離し、階段の方に向き直った。


 タクシーから降り立ち、住み慣れたマンションを見上げる。

 陽介のことだ、きっと起きて自分の帰りを待っているに違いない。

 それは好都合だ。

 万が一寝ていたとしても、アマンダは叩き起こしてでも部屋に上がり込むつもりでいた。

 明日から2週間、逢えない、だから話すなら今夜のうちだ。

 ……ここまでは、何十回と繰り返した思考だった。

 だが。

 だが、この先が思い浮かばない。

 何を話すのか? 

 いや、自分のことはいいのだ。

 正直に、これまでのことを、今夜のことを、話しさえすればよい。

 陽介は、判ってくれる筈だ。

 しかし。

 自分から一方的に話すだけで、事足りるのか? 

「訊きたい……」

 今夜のこと。

 自分を見たときのこと。

 志保のこと。

 いや。

 いや、そんなことよりも。

 これから、ふたりは、自分と陽介は、いったい、どうなっていくのか。

 だけど。

「どう訊きゃあ、いいんだよ……」

 これもまた、何十回と繰り返した台詞が、溜息とともに空気を震わせる。

 暫く、呆然とした表情でマンションを見上げていたアマンダだったが、やがて、諦めたようにエントランスへ向かって歩き始めた。

 毎日毎日、来る日も来る日も、あれほど早く帰りたいと、まるで小娘のように胸をときめかせた『My Sweet Home』へ向かうという行為が、こんなに苦痛になる日がくるとは、思ってもみなかった。


 鉛が詰まったみたいに重い足を引き摺るようにして階段を上がってアマンダは、あと3段ほどで自室のある3階、というところまで辿り着いて、ピタリと歩みを止めた。

 嗅ぎ慣れた、タバコの香り。

 そう、ラッキーストライクだ。

 自分が吸っている銘柄。

 初めて煙草を吸ったのは、小学校5年くらいだったか、それとも中学に入学~名簿上だけだったが~していたか。

 近所のワル餓鬼から1本貰ったのが切っ掛けだった。

 たいして旨いとは思えなかったが、何故か咽たり咳き込んだりすることもなく、すんなりと煙を受け入れられたのが、まるで大人の証しのように思え、それ以来の付き合いだ。

 UNDASNに入って一番キツかったのは、煙草が自由に吸えないことだった~昔の煙草と違い、ニコチン等の習慣性の強い有害物質はとうの昔に禁止されていた筈なのだが~。

 当然だ、『UNDASN特別専種学校生徒課程~いわゆるCコース~』は日本で言えば、中卒者を生徒課程で高校卒業資格を与えつつ、陸上マークの各兵科下士官を養成するのが目的だ~21世紀初頭の安保理決議、少年兵の徴兵徴用の終結の推進、パリ原則から始まる国連児童基金UNICEF国際労働機関ILO赤十字国際委員会ICRC世界保健機構WHO等を巻き込んだ活動は、数世紀を跨いで23世紀には『18歳以下の少年兵はいなくなった』筈で、だからUNDASNも勿論、未成年兵士なんて『生徒としての雇用』しかしていないのだ、『原則』では~。

 幸い、Cコースの教育棟は、高卒者を対象とする防衛学校Nコースや大卒短大卒を対象とするSコースと同じ兵営内に位置していた為、隠れ煙草には不自由しなかったが。

 親しくなったSコース生徒~親しい、というより、アマンダとお近付きになりたい、という下心が丸見えだったが~に頼んで手に入れたのが、一番安くて人気のあった、ラッキーストライクだった。

 この銘柄は、それ以来の付き合い。

 その香りが、風が吹き込まず生暖かい空気の澱む、階段スペースにまで漂ってくる。

 誰かが、廊下で吸っているのに違いないが、一体? 

 最前線ならともかく、今の配置では圧倒的に少なくなった喫煙者の中でも、たったひとり、自分と同じ『匂い』を身体に、服に、染み付かせている人物。

 陽介。

 ゴクン、と知らぬうちに生唾を嚥下している自分に気付き、アマンダはそんな自分に腹を立てる。

 けれど。

 仕方ない。

 このまま、踵を返す訳にもいかない。

 自分で決めたことなのだ。

 今夜のうちに、話す、と。

 アマンダは再び、ゆっくりと階段を登りはじめる。

 一段。

”……だけど”

 一段。

”まだ、なんて……”

 一段。

”なんて話すりゃいいか……”

 目の前に登らねばならない段差は既になく、アマンダはその場で立ち竦む。

”判らねえ……”

 その角を曲がれば、陽介が待っているに違いない。

 ああ、愛しいひと。

 愛しく思うひとが、待ってくれている。

 角を、曲がる。

 彼が、微かに微笑み、ゆっくりと煙草を指に挟んだまま、手を上げて見せた。

「よぅ。お帰り、ご同業」

 ああ、アタシは、とアマンダは今更ながら気付く。

 アタシは、コイツを、愛してる。

 好きで、大好きで、堪らない。

 判らない、なんて、嘘。

 ずっと。

 ずっと昔から判ってた。

 判った上で、錘をつけて心の底に沈めていたのだ。

「……う」

 上手く挨拶できず、慌ててそっぽを向いてしまう自分に、再び腹を立てた。


 愛想のなさは今に始まったことではない。

 だが、陽介は見逃さなかった。

 ああ、そうだ。

 思い出した。

 友軍機の墜落現場、不気味な静けさに包まれたクレーターの底。

 ミハランの兵站本部、アマンダから、銃をつきつけられた、あの日、あの場所。

 助けてくれと、ここから連れ出してと、瞳が叫んでいた、あの日のアマンダと同じだ。

 だから、迷うことなく言葉が自然に転がり出てくれた。

「ちょっと、寄ってかないか? 珈琲、淹れるけど」

 イヤだと言ったら、力尽くでも部屋へ引っ張り込むつもりだった。

 もちろん、言葉のアヤだ。

 アマンダ相手の『力尽く』は、さすがに自信がない。

 だけど、力尽くが無理なら、彼女の部屋へ押し入る覚悟だったのだ。

 が、アマンダは陽介の予想を裏切って、素直に首肯した。

「……着替えたら、行く」

 待ってるぞと言おうとして、念押しはやめておこうと言葉を飲み込んだ。

 アマンダは、来る。

 1回だけ頷いて、踵を返す。

 自室のドアを開く安物臭い金属音と、隣室のドアが閉まる音が、重なった。


 部屋に入り、陽介はそのまま台所に向かってコーヒーメーカーのスイッチを入れた。

 途端にサーバーにぽたん、ぽたんと水滴が落ち始める。

 豆は帰宅して直ぐに挽き、セットしておいた。

 たっぷり5杯分がサーバーに溜まった頃に、廊下にドアの開閉音が響き、踵を踏んだスニーカーが床を磨く音が続く。

 開いてるよ、どうぞ、と言う暇もない。

 アマンダは無言のまま勝手にドアを開き、後ろ手で鍵を捻ると、黙ったまま炬燵の方へ向かう。

 脱ぎ散らかされた古いコンバースを台所から眺め、陽介は安心感を覚えた。

 そう。

 ここまでは、いつもの通り。

 だから、自分も『いつもの通り』に行動しなければ。

 用意しておいたアマンダのマグカップに珈琲を注ぎ、クリープをティ・スプーンに山盛り2杯。

 自分用に、ブラック。

「……よし」

 陽介は両手にカップを持って、茶の間の方に向き直る。

”よし、よし……。ここまではいつもの通りだ”

 手順は、ともかく。

 話す内容だけが、白紙のままだった。


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