第70話 11-4.
今、自分は、数ヶ月に渡って探し続けてきたターゲットを漸く
いや、仕方ないことなのかもしれない。
だって。
これまで、陽介のあんな表情を見たことなどなかったのだから。
いや、違う。
あの日、ミハランで、見た。
兵站部へ重MATを受領しに行った、あの日。
陽介が、自分に救いの手を差し伸べてくれた、あの日。
哀しみに満ちた瞳で、彼はあの日、自分を『静謐な地獄』から救い出してくれたのだ。
あの日と同じ表情で、自分を見つめてくれたと言う事は。
アマンダは夜の裏通りを駆けながら、考え続けた。
陽介に、さっきの場面を見られていたに違いない。
陽介だって、UNDASN売春疑惑の噂くらい、知っているかもしれない。
陽介が、噂とさっきのシチュエーションを繋げて考えることくらい、想像に難くない。
そして、それは隣に立っていた志保だって同じだろう。
いや。
そうじゃない。
そうかもしれないが、今はそうじゃないのだ、それは問題なんかではない。
だって、アタシは『無実』だから。
それは、四季だって証明してくれる筈。
確かに、陽介に疑われるのは悲しかった。
『お前を信じている』、いつかそう言ってくれた陽介に、今夜そう疑われるのは、苦しくて、悔しかった。
だが、それも止むを得ない。
実際、自分が『見知らぬ男とホテルから出てきた』ことは、紛れもない事実なのだ。
だけど、その事については、説明すれば済むことだ。
悲しいけれど。
哀しみや痛みは、いつかは小さくはなるだろうが、けれど、決して消えないだろうけれど。
だけど、それは自分が我慢すればよいことだ。
そうだ。
そんなこと、今日まで生きてきて、山ほどあった。
大丈夫。
だから、大丈夫。
耐えられる。
きっと耐えられるし、耐えてみせる。
だから、それは今、問題ではないのだ。
それより、問題は。
志保だ。
今日、陽介は、商工会議所だかなんだかのセミナーに出席すると言って、『ひとりで』出掛けて行ったのだ。
セミナー会場が何処なのか、知らない。
蓬莱町プリンス別館から出てきたのだから、そこだったのかも知れない。
セミナーの後、飲みがあるだろうから晩飯はいらない、夕べはそう言っていた。
だから、呑んでいたのかも知れない。
誰と?
志保と?
何故、志保が一緒にいた?
セミナーの出席者とおぼしき人影が、周囲にいなかったのは何故だ?
そもそも、何故、裏口なのだ?
調達各係長やアジア統括センターの連中ならともかく、総務会計班長という、謂わば裏方である志保が、何故陽介と一緒に、表舞台であるパーティに?
ひとりで出掛けた陽介が、後から志保を呼んだからではないのか?
何故?
なんで、志保なんだよっ?
心の中で叫びながらも、どこかでそれを納得している自分が居ることに、アマンダも気付いている。
そりゃ、そうだろう。
中卒でゾクのヘッド張ってた、頭もガラも見た目も悪い自分と、お嬢様で美人で国立大卒で本来はUN高級官僚の志保。
どんなハンデを貰ったって、どんな色眼鏡で見たって、100人居れば100人ともが、志保に軍配を上げるだろう。
判ってた。
判ってたさ。
だけど。
やっぱり、哀しんでいる自分が居る。
やっぱり、口惜しがっている自分が居る。
やっぱりと諦めて尻尾を巻く、見っとも無い自分が居る。
息が妙に上がって、苦しかった。
最前線にいた時代に比べたら鈍っちゃいるとは思っていたけれど、これほどとは思わなかった。
死にそうに苦しくて、何度も走るのをやめかけた。
もう、死んじゃってもいいか、とさえ思った。
いくら走っても、ターゲットに追いつけない。
そこまで考えて、初めて自分は『任務中』なのだと思い出した。
「しまったっ! 」
どこだ?
どこ行きやがった?
失尾か、クソッタレ!
姐は何処で、何してやがんだ?
なんで背中すら見えねえんだ?
ひょっとして、見えないのは自分が泣いているからかも知れないと考えて、漸く自分が本当に泣いていることに気付いた。
「ああクソ、みっともねえっ! 」
喘ぎながら、吐き捨てるように言葉にした途端、目の前に突然、ギラリと凶悪なほどに眩しく輝くヘッドライトが現れ、その前に人型のシルエットがふたつ、浮かび上がった。
みつけた!
そう思った途端、ふたつの人型は左右に別れ、それぞれが闇に紛れた。
次の瞬間、四季の声が耳に響く。
耳に差し込んだイヤホンと喉元に張り付けた骨振動マイクの存在を、たった今まで忘れていた自分に呆れた。
『姐! 大通りに向かった男、確保! 』
呆れつつ、慌てて骨振動マイクに声を吹き込む。
「10-4! 」
左足で地面に蹴りを入れ、路地へ飛び込む。
背中でアスファルトの路面を派手に鳴かせるタイヤの音を聞きながら、表通りに向かって駆けた、その先。
光溢れる表通りを背景にして、細身の後姿が今度こそハッキリ見えた。
指示を出されれば心の中がどうであれ、自動的に反応する身体を持っていたことが、今は有難かった。
男は、リーチを活かした走りっぷりもさることながら、午後10時、歓楽街のラッシュアワーとも呼べるこの時間帯の人手を逆手に取った、見事な逃げっぷりである。
「クソッタレ! 野郎、筋モンに違ぇねえっ! 」
歯噛みしつつ必死で追い縋るが、距離は離れる一方だ。
右手に持ったままの
「うわっ! 」
駅まで徒歩3分、という一層混雑の激しい付近の、歩行者信号が点滅し始めた細い交差点を走り抜けようとした瞬間、突然左折してきた目の前の黒い物体にアマンダは行く手を阻まれた。
左折で横断待ち、歩行者の切れ目を見つけて鼻先を突き出してきたタクシーのボンネットだと判ったのはずっと後だ。
止まり切れず、片手をついてボンネットに飛び乗ったところまでは良かったが、タクシーが急ブレーキをかけたお陰で振り落とされて、そのままアスファルトの上で前転で受身を取った。
「クッ! 」
慌てて立ち上がり、何事かと周りを取り囲んだ野次馬を乱暴に押し退け突き飛ばし、辺りを探すが、ターゲットは既に雑踏に紛れてしまっていた。
「だ、大丈夫か? 」
振り返ると、
「んなワケねえだろっ! 早く乗れ! 」
「えっ? えっ? 」
戸惑う初老の実直そうな運転手を運転席へ押し戻し、自分も続けて助手席へ乗り込む。
「走れっ! 次の角を右! 」
訳も判らないままタクシーがスタートすると、アマンダはさっきまで自分が駆けていた裏通りを走るように指示し、フロントガラスを凝視しつつ、喉に貼り付けた骨振動マイクを指で押さえた。
「姐、すまねえ、男は
『雪姉、戻って! さっきのところまで! 』
「10-4! 」
つい数分前、ターゲットが二手に分かれた交差路の中央でタクシーを止め、女が走り去った方向を見ると、どんどん近づいてくる赤いテールランプとバック・フォグに映し出された人影が視界に飛び込んできた。
ドアを開いて飛び降り、立射の姿勢でCzを構えて、アマンダは無言のままトリガーを3度引き絞った。
タタタンッ、と乾いた音が響き、続いて、薬莢が地面で跳ねる可愛らしい金属音が続く。
バック・フォグの灯りに照らされ、地面から微かに立ち昇る薄い煙の傍で、尻餅をついた女が口と瞳を大きく開いて呆然とこちらを見上げていた。
「フリーズ! でねえと鼻の穴がみっつになるぜ? 」
女から1mほど離れて、ブレーキランプが輝き、バックで走ってきた車から四季が降りてきた。
運転手付きのいつものセンチュリーではなく、今日はひとり、武官事務所のランドクルーザーを転がしてきたようだ。
「雪姉、ご苦労さん」
逆光でもはっきりと判る微笑を浮かべながら、四季はヒップアップホルスタからSIGを抜き取り、未だへたり込んでいる女の後頭部にマズルを突き付けた。
「UNDASN駐日武官事務所の者です。日米安保条約に照らして貴官の行動は任務外行動と看做されます。よって日本政府との間で締結されたUNDASN基本条約第5章第8条及び第9条、UNDASN作戦行動許諾条約第3章第2条に基き、本職は免責特権を宣言するとともに、貴官の行動をUNDASN作戦任務行動撹乱行為として拘束致します」
諦めたようにガックリと肩を落とした彼女の手を取って立たせると、四季はアマンダに向かって言った。
「雪姉、運転頼めるかな? 」
「お、おう」
運転席に向かう時、四季が擦れ違うアマンダに囁いた。
「大丈夫? なんかあったの? 」
思わず歩みが止まる。
「雪姉……」
気付かない訳はないだろう。
ただでさえ、敏い女性だ。
そして大馬鹿野郎なアタシは、素人でもしないミスを仕出かした。
背後から無言のまま、足音高く駆けてくるドレスブルーの人物がいれば、やましいところがなくたって、誰でも逃げる。
第一、あれは『追跡した』のではなかった。
自分が陽介から『逃げ出した』だけなのだ。
ミス以前の問題だ。
どうせなら、もっと非難がましい口調で言えばいいのに。
それより、真正面から、怒鳴ってくれればよかったのに。
だが現実に四季の綺麗なグリーンアイに浮かぶのは、心の底から自分を気遣い、心配してくれている、優しい光。
苛立つ気持ちを抑えようと、煙草を咥え火をつける。
「なんもねえよ」
煙とともに言い捨てて、運転席におさまると、後部座席に女性士官、四季の順番で乗り込んできた。
「どこまで? 」
ドアをロックしてルームミラー越しに訊ねる。
「ナビ見て。近くにコイン・パーキングないかな? 」
「……ある。100m程先だ」
運良く1台分だけ空いていたスペースに車を滑り込ませてエンジンを切り、アマンダは斜に座って背中をドアに凭れさせ、リアシートに顔を向けた。
「乱暴な真似をしてごめんなさいね? 私は、UNDASN駐日武官の鏡原・四季・エリザベート・ラングレー一等艦佐。彼女はアマンダ・ガラレス・雪野・沢村一等陸尉」
綺麗な英語でそう挨拶して、四季はニコ、と微笑むと言葉を継いだ。
「怪我はないかしら? 大丈夫? 」
未だ緊張しているのだろう、そしてまた、これから自分がどうなるのか、不安と怯えを顔や身体全体で表わしながら、女性士官はふたりの顔を交互にみつめた。
アマンダがラッキーストライクを差し出すと、「Thanks」と震える声で言って、1本抜き取った。
リアシートのシガーライターで火を吸い付けると、彼女は2人を交互に見ながら、漸く、微かに笑って見せた。
鳶色の大きな瞳が優しげな、頬に微かにそばかすの後が残る、幼い笑顔だった。
「ええと、じゃあ、名前を教えて頂こうかな」
覚悟を決めたように、彼女はコクン、と頷くとゆっくりと口を開く。
「合衆国海軍中尉、ジェニファー・ウッド。第7艦隊司令部法務官。認識番ご……」
「それはいいわよ、ウッド中尉。貴女も法務官だったら判ると思うけれど、これは正式な取調べじゃないしね」
四季が言葉を被せて言った内容に驚いたのか、ジェニファーは目をパチクリさせている。
アマンダもジェニファー同様、驚いた。
四季が何故、そんな悠長な扱いをするのか、理解できなかった。
男は取り逃がしたものの、片割れは確保したのだ、彼女から可能な限り情報を吸い上げるのが筋ではないか?
「ならばラングレー大佐、貴官もお判りだと思いますが、本職がこの制服を着用している限り、例え非番時であろうと本職は合衆国海軍勤務令を遵守すべき立場にあり、これから大佐や大尉がお尋ねになる全ての事柄については回答する義務もなく、また、このような拘束を拒否する権利が本国及び日本国政府より与えられています」
思わずカッとなり、アマンダは凄んでみせた。
「ご大層な念仏だが、ねえちゃん。アタシの拳で訊ねたら、どんなキレイな声で歌ってもらえるのか、試してみたっていいんだぜ? 」
咥え煙草でニヤリと凶悪な笑顔を浮かべるアマンダに、ジェニファーの顔色は一層白くなる。
「やめなさい、雪姉! 」
舌打ちしながらアマンダが伸ばしかけた手を引っ込めると、四季はジェニファーにペコリと頭を下げる。
「ごめんなさい、中尉。私が手を出させないから、安心して」
怯えた目でアマンダをチラ、と見て、ジェニファーは四季に向かって頷いてみせる。
「さて、本題なんだけど」
四季もまた、上着のポケットから煙草を抜き出して口に咥えながら言った。
「貴女の会っていた男性、あれは誰? 貴女が知る限りの彼の個人情報、所属する組織名、そこでの地位。そして、彼とは何の目的で会っていたのか? 彼と会うように貴女に命令を下したのは誰なのか? その上級者は? 正式な命令書があるのか? 一番肝心なこと、彼と会ってどんな情報の授受が行われたのか? ……ああ、もちろん、今日までに彼以外にも会った人がいるのならば、同様の内容を答えて欲しいの」
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