11. 哀しみの夜更け

第67話 11-1.


「……あっつ

 食後、卓袱台~布団を取った炬燵だが~に脚を突っ込んだまま仰向けに寝転がり、ぼんやり天井のLED灯を見上げながら呟いたアマンダの耳に、ピピッという軽い電子音が届く。

 音もなくエアコンの優しい風が、頬を撫で始めた。

”けっ! ……相変わらずお優しいこって”

 そんな細やかな気遣いが出来る癖に、なんでアタシの気持ちに気付かないのかとふと思い、同時に自分の身勝手さに呆れる。

 気持ちを隠しているのは、自分の方だと言うのに。

 そう考えた刹那、眩しいくらいに優しく柔らかな部屋の灯りが、不意に遮られた。

「……ん? 」

 いつの間にかアマンダの側に立っていた陽介が、上から覗き込んでいたのだった。

「ストーキングの練習か? 」

 アマンダの軽口には乗らず、陽介は手に持っていたマグカップを天板に置き、よいしょと言いながら腰を下ろした。

「7月も中旬になって、ホットってのもなんだかな……。しかもクーラーつけながら」

「アイスは趣味じゃねえ」

 言いながらアマンダは上半身を起こし、マグカップを両手で包むように持ち上げた。

 鼻腔を擽る上品でふくよかな香り、ゆっくりとカップの中で回る褐色の液体。

 いつもの、コーヒー。

 『陽介がアタシのために淹れてくれる』、いつもの、コーヒー。

 その温もりに幸せを感じ、同時に、あと何度、こんな幸せな瞬間を得られるのかと思うと、もうそれだけで切なさがこみあげる。

”ホットだろうがアイスだろうが関係ない。アタシは『陽介の淹れてくれたコーヒー』がいいんだ……”

 堰き止めようとして適わず、堰を切って溢れる根源の水、一筋。

 隠すようにマグを持ち上げて口につけた刹那、アマンダの表情の変化には気付いていない様子で、陽介が口を開いた。

「……アマンダ、お前」

 きた。

 自分でも、顔色がサッと変わったのがわかった。

「ゴールデンウィーク明け……、いや、5月の下旬か6月頃くらいから……、なんかあったのか? 」

 やっぱり。

 陽介に対してポーカーフェイスでいられる自信などなく、アマンダは気取られないようにとマグを置いてゴロンと仰向けに寝転がる。

「……なんかって? 」

 不機嫌そうな声に気圧されたのか、陽介は一瞬口篭った後、ゆっくりと答えた。

「あれから1ヵ月半程……、毎週水曜日には一緒に帰らなくなったろ? 」


 四季に中間報告を行った後も、アマンダは調査を継続していたが、有力な情報を掴んだのは5月も残すところ後数日となったある夜のことだった。

 その日たまたま流していた伊勢佐木のラブホ街で捕まえた酔っ払いの中年サラリーマンが、蓬莱町プリンスホテル別館の路地裏で数回、軍服売春婦を目撃したと白状したのだ。

『いや、暗くて顔とかそんなのは覚えてないな』

『ん、ああと、そう、映画とかでよく見る、そうそう、黒のダブルに金ボタン、袖に金筋! 髪? ……黒っぽかったような、うん、とにかく金髪じゃなかった。ええと、帽子は着てなかったな、確か』

『ええー? 平日なのは確かだけど曜日までは……・。いや、ちょっと待てよ? 確か……、そうそう、営業ミーティングのある日は退勤がいつも7時くらいで、軽く一杯引っ掛けたその帰りに目撃した気がするな。だとしたら、水曜日だ。うん、水曜の9時過ぎってとこかな』

『声なんて掛けてないよ! その日はちょいと会社の連中と一杯引っ掛けた帰りだったから、つい、アルコールの勢いで。出来心だよ、出来心! 勘弁してよー』

 蓬莱町プリンス本館は横浜大通り公園に面しているが、別館はその道を渡った向かい側、町名で言うと伊勢佐木長者町になる。伊勢佐木界隈と言えばひとつ裏道に入れば有名な歓楽地であり、殊、別館の裏はラブホテル街の入り口とも言えるポジションだ。

 翌週からは、止むを得ないと腹を括り、これまで陽介のスケジュールを睨みつつ行動していたのを止め、毎週水曜日にはこの界隈を流すことに決めたのだ。

 しかし、巡り合わせが悪いのか、向こうが毎週出没する訳ではないのか、2ヶ月近く経った今日まで、遂に捕捉できていない。


「それは……、前にも言ったじゃねえか」

 アマンダは動揺が声に出ぬよう、慎重に、そして不機嫌さでコーティングした台詞をゆっくりと吐き出す。

暴走族ゾクん時のダチがよ、職業訓練校に通ってんだけど、その家庭教……」

「嘘だろ? 」

 言葉を遮る陽介の、けれど普段通りの穏やかな口調が、今は心に突き刺さるよう痛い。

 そちら方面の才能はからっきしらしい脳味噌をそれでも必死に捻くり回し、備えあれば憂いなしと用意したプアな想定問答集は、やはり、呆気なく役立たずのクズ知識と成り果てる。

 となると、残る手はたったひとつ。

「……んだと? 」

 寝転がったまま尖った口調で答えるアマンダに、陽介は今度は臆せず言葉を返す。

「馬鹿にするな、アマンダ。こんだけしょっちゅう顔突き合わせてりゃ、お前の言葉の中身くらい判るさ。お前は頼りないけど相棒って認めてくれてる俺に対して、そんなに上手に嘘を吐ける程、器用じゃない。……違うか? 」

「っせえ! 判ったようなこと言ってんじゃねえっ! 」

 大声をあげるアマンダの怒気を肩透かしするように、陽介はフッ、と微かに笑ってみせた。

「尖がるなよ、アマンダ。別に責めてる訳じゃない。それこそ、子供じゃないんだから」

「え? 」

 責めて、ない? 

 意外な陽介の言葉にアマンダはゆっくりと上半身を起こす。

 陽介は煙草の煙を、ふぅっ、と天井に吐き出したところだった。

「前も言ったと思うが、お前は俺の相棒だ。別に、お前がどこでなにをしてようが関係ないってことじゃなく、さ? 基本的に俺はお前を信用してる。お前は、俺を裏切らない」

『その証拠に、お前はこうして俺の前にいる』

 忘れもしない、以前陽介から貰った言葉が胸に甦る。

 じゃあ。

「……じゃあ、なんで? 」

 俯いて、すっかり醒めてしまったコーヒーをじっとみつめながら、アマンダは搾り出すような声で問う。

「お前は俺を裏切らないから。……だから、裏切るまいとして、却って困り事まで抱え込んじまってるんじゃないか? ……そう、思ってな」

 俯きっぱなしだった頭に、暖かい掌の感触。

「俺の、気の回し過ぎならいいんだけどな」

 ああ。

 陽介。

 やっぱりアンタは、アタシのヒーローだ。

 アタシが助けて欲しい時、颯爽と駆け付けてくれる。

 でも、さ。

 惜しいんだよな。

 だって大抵、アンタはドジ踏むんだもんなぁ。

 だけど。

 だけど、さあ。

 やっぱりアタシ、嬉しいんだ。

 こんなアタシでも、きっちり手を差し伸べてくれる、アンタが『相棒』でいてくれて、さあ。

 『相棒』ってトコロは、ちょっと哀しいし淋しいけれど、それはまぁ、今はいいや。

 とにかく、アタシは嬉しくって、物凄く嬉しくって。

 それだから、アタシは今、苦しんでるんだけどな。

 それもまあ、いいや。

 ちゃんと、アタシを見ててくれたんだから、チャラってことにしといてやらあ。

「けっ、カッコつけてんじゃねえよ馬鹿野郎アタシん事心配するなんざ百年早ぇやこのスットコドッコイ! 」

 だから、今は。

 せめて、アタシらしく。

 眉がハの字のヒーローは、カッコワルイからな。

 いやまぁ、お前の掌、頭の上に乗っけたまんまのアタシも、他人のことは言えねえけどよ。

「ちょいと、慣れねえ考え事にノーミソ使ってただけだ、お前に心配されるほど落ちぶれちゃいねえや」

 一瞬、驚いた表情を見せた陽介だったが、すぐに微笑を浮かべた。

「ん。判った」

 きっぱりとそう言うと、陽介はアマンダの頭に載せた手で、艶のある黒髪をゴシゴシと乱暴に撫でる。

「……だけど、なんかあったらすぐ、俺に言うんだぞ? 」

 まるで子供扱いされている様で、照れ臭くもあり、先程同様『自分らしく』を実践するなら、即座に彼の手を振り払うべきだったのだろう。

 しかしアマンダは、髪を梳くようになでる掌の動きがあまりにも心地良くて、どうにも身体が動かなかった。

 辛うじて、こくん、と縦に振った首は、きっと頭をゴシゴシやっている彼には伝わらないだろうな、とぼんやり思った。


 その後はどうにか普段通りを装うことに成功し~少なくとも、自分ではそのつもりになって~、自室へ戻ったアマンダは、暗い部屋の真ん中に立ち尽くして呟いた。

「よし。……明日こそ、決着をつけてやる」

 明日、廻ってくるのは、もう何度目になるのか、水曜日だ。

 いくらシフトがズレていようが~相手が軍人だったとして~、水曜日に出没することが確定だとしたら、明日こそはその『X-Day』であることは、相手同様~いや、まだ相手が軍人だと決まった訳じゃないけれど~軍隊生活の長いアマンダには確実なことに思えた。

 幸い、と言ってはなんだが、明日はたまたま陽介も横浜商工会議所だかなんだかの主催する講演会だったかセミナーだったかへゲストで出席する為に、夕方から出掛けて夜は遅くなると聞いている。

 せめて、陽介に嘘を吐いて別々に帰らねばならないあの罪悪感~というよりも、寂寥感の方が近いだろうか? ~を覚えずに済む筈だ。

 陽介の言葉は、図星だ。

 夜の捜索活動を続けるうちに、陽介に吐かなければならない嘘が、ゆっくりと、静かに、けれど確実に胸の奥に降り積もっていく。

 積み重なった嘘は、何時の間にか自分の視界を塞ぐ程で、陽介が視えない。

 それはまるで、陽介と自分の距離が徐々に離れていくような、不安感、焦燥感をも同時に積み上げていくようで、それが辛くて、苦しくて、哀しくて、たまらない。

 ミハランで初めて出逢った時のふたりのような、互いの生きてきた道程、これから歩んでいく未来、全てが掛け離れた、けっして交わることのない直線が、2本。

 そんなイメージが、嘘を重ねる度に、その輪郭を顕わにしていくように思えてならない。

 けれど一方で、それがずっと以前から、初めて出逢ったあの日には既に決まり切っていた運命の様にも思えて、そしてそれを受け入れてしまっている自分が胸の奥で育っているように思えて。

 四季のくれた温かい言葉も、もう、冷めてしまっているようにも思えるのが、哀しくて仕方なかった。

「風呂入って、寝よ」

 ふぅ、と入れていた気合を溜息とともに抜き、バスルームへ向かおうとしたアマンダの瞳は、仕事以外では滅多に使わない私費で購入した携帯端末のコンソールに留守電のマークが光っているのを発見した。

「……おっちゃんか」

 刹那、アマンダの瞳が優しげに細められる。

 メッセージを再生すると、果たして予想通りの、懐かしい声が流れた。

『雪ちゃんかい? 明野村の高崎です。忙しそうだが、身体はどうかね? 無理してないかね? ああ、ええと、30秒しかなかったんだな。じゃあ、手短に。そろそろシーズンなんだが、今年はどうするかね? 女房が楽しみにしてて……、ああ、勿論私もなんだが。忙しいんじゃ仕方ないが、まあ、声も聞きたいし、一度電話下さい。女房も待っ、あ? ああ雪ちゃん留守電だ。ああ、30秒し……』

 言葉を無情にも途中で遮ったトーン音も、アマンダの心に点った『もうひとつの灯り』の暖かさと優しさで、気にもならない。

 もちろん、『最初の灯り』は陽介の差し伸べてくれた、手だ。

「……順番から言えば、おっちゃんの方が先だけどよ」

 クスクスとひとり笑って、アマンダは携帯を胸に抱き瞼を閉じる。

 目の前に広がるはずの暗闇はしかし、あの懐かしい、青と黄色と緑の溢れる、『大切な宝物』が繰り広げてくれる筈の眩いばかりの風景で溢れている。

「明日決着をつけるよ、おっちゃん、おばちゃん。そしたら、そろそろ……」

 届かぬ筈の陽介の、せめてもの代わりにと漸く見つけた『もうひとつの宝物』ともうすぐ出逢えるのだ、シャワーを浴びながらそればかり考えているアマンダの瞼の裏に広がる原色の風景が、いつの間にか陽介の笑顔に変わっていることには気付いたのは、布団に寝転んでからだった。


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