第66話 10-8.
最近、優しい雰囲気すら時折見せてくれるようになったアマンダが、今日は顔を合わせるなり、まるで初対面時に戻ったような切れ味鋭いナイフみたいな鋭さを纏っていることに、四季は秘かに戸惑っていたのだが、つさっきまでは。
けれど今、目の前にいるアマンダは、静かで、柔らかな空気を再び纏っている。
抜いたナイフを
アマンダは、微笑みを浮かべて、言葉を紡いだ。
「確かに、こっから先の危険度は、今までとは月とスッポンほども違うってのは判ってんだ。なんせ、ヤーさんやそこらで
アマンダの微笑みの中に、ぽつんと落ちた墨のようにゆっくりと広がる孤独の香りが、だったら、と開きかけた四季の唇を無理矢理閉じさせた。
「だけどさ……」
アマンダが溜息混じりにそう言った途端、淋しさがその美しい顔一杯に広がったように、四季には感じられた。
「まあ、アタシも士官になってさ。ケツで椅子磨く時間が増えたけど、それでも前線でいる時ぁまだ良かったよ。……けど、一尉の3年目で
四季は、言いたいことは言ったとばかりの表情で新たに煙草を咥えるアマンダを見ながら、思った。
嘘だ。
雪姉、嘘吐いてる。
けっして彼女は、この任務を喜んでなんかいない。
怖いから?
危険だから?
面倒だから?
違う。
全部、違う。
雪姉に関しては、全て当てはまらない。
当てはまらないのは確かなのだ、けれど。
じゃあ、何だと問われたら。
判らなかった。
だが、彼女が今、『けっして喜んでなどいない』感情を持つに至ったその原因を作ったのは、紛れもなく自分なのだと言う事だけは事実に違いなく、その事実が痛いほどに心に爪を突き立てる。
思わず自分の胸を押さえて顔を歪めた四季に気付いたのか、アマンダは火をつけたばかりの煙草を灰皿で揉み消し、その手でシュークリームをひとつ取り上げた。
「美味そうだな、これ。カスタードクリームかな? 」
子供の拳ほどの大きさのシュークリームをパクリと一口で食べ、唇についたクリームを舌で舐めとってから、アマンダは微笑んで見せた。
まるで、子供を安心させようと無理にでも笑って見せる大人みたいに。
「んな不景気そうな顔しなさんなって。さっきから言ってるけど、姐、アンタのせいじゃねえんだから」
コーヒーをずず、と啜り、言葉を継いだ。
「3月、15日だったな、ホワイトデーの次の日だから。姐から言われた言葉、阿呆なアタシだってちゃんと憶えてる。『自分の言葉で自分を縛るな』、『どんな人間だって幸せを望んではいけない人間はいない』……。嬉しかったよ、心に沁みた。……正直、な」
アマンダは遠い眼をして、透明な微笑をその端正な顔に湛えた。
「逆に言えば、そう言ってくれた姐だから、アタシは断らないんだ。だから、これはアンタのせいじゃねえ」
「だったら……、やっぱり原因は私じゃないか! 」
四季の叫びにも似た言葉に、けれどアマンダは微笑みを消すことなく、ゆっくりと首を左右に振って見せた。
「切っ掛けではあったかも知れねえ。だけど、けっして原因じゃあ、ねえよ」
四季はその言葉に気付いた。
アマンダは、きっと。
きっと、覚悟を決めたのだ、と。
「……まあ、姐はああ言ってくれたけど、あの日から今日まで、久し振りにハマの裏通り歩いて見て、さ」
アマンダはそこで言葉を区切ると、ゆっくりと視線をテーブルに置かれた皿の上のシュークリームに落とす。
今にも破裂しそうな水風船を連想させる、哀しげに揺らめく四季の、翠の瞳を正視していられなかった。
言わなければ良かった、こんな余計なことを言っちまうから、アタシは。
いつまで経っても、餓鬼のままなんだ。
そして、ふと、ひとつの『確率の高い』『哀しい』可能性に行き当たる。
やはり、そうだったのか。
バニラの粒がちゃんと入っていて、さっぱりとした上品な甘さだが、少し喉にからむカスタードクリームの味が口腔に甦り、その味が、無意識のうちに心の底へ沈めていた『異物感』をゆっくりと浮上させた。
「……思ったほど、甘くはねえな」
ポツリ、そう呟いて唇についたクリームをペロリと舐め取り、そのまま黙り込んだアマンダの穏やかな表情~まるで何かを『諦めた』ような~を見て、最後の呟きがシュークリームの味についてではないことだけは確かだ、と四季は思った。
武官事務所を出て直ぐの信号を渡ると、もうJR渋谷駅だ。
ここからなら、湘南新宿ラインで40分も掛からず特借最寄りの山手まで帰れるだろう。
同じ渋谷駅前と言っても、
煙草に火を付けた喫煙コーナーの周囲も、まるでエアポケットのように人影はなく、アマンダは深呼吸するように大きく煙を吸い込み、そしてゆっくりと吐く。
さっきまで心配そうな表情をしていた年下の美しい上官がくれた優しい言葉が甦る。
『幸せを願っちゃいけない人間なんか、ひとりもいないんだよ、雪姉……』
そうなのだろう。
だが、幸せを願うことと、願った幸せが叶うことは、当たり前のことだが、違う。
やはり、陽介は。
『向こう側の人間』だと、しみじみと思う。
陽のあたる場所を真っ直ぐに生きてきたのであろう、彼。
陽の射さない、暗闇ばかりをのたくるようにして生きてきた、自分。
本来、交わるはずのない二本の線が、何の悪戯か、一瞬交わった。
「たった、それだけのこと」
なんでもないような、偶然。
それを勘違いしてしまった、自分が悪いのだ。
「確かに、こんなアタシに勘違いさせちまったのはあのバカだけど」
だからと言って、彼に責任を背負わせるのは、流石に酷であることは理解していた。
それさえも、結局は自分が餓えていたからだ。
暗闇を這いずり回る人間らしく、そこら辺に生えている雑草を食み、泥水を啜っていればよかったのだ。
どんなに足掻いたって、アタシは『向こう側』、太陽の当たる明るい世界で暮らせる人間じゃない。
たまたま、薄明るい夕闇に脚を踏み入れただけ。
それは決して朝焼けなどではなく、やがて恋焦がれた太陽は水平線の向こうに姿を消し、住み慣れた暗闇に包まれてしまうだろう。
2本目の煙草に火をつけて、目に沁みる煙を嫌って仰ぎ見た都会のブルー・グレイの空、スカイラインの谷間に窮屈そうに、薄ぼんやりと浮かんでいる白昼の月に、同情の色濃い微笑を、人知れず贈る。
思えば、自分が勘違いしてしまった夕闇だって、あの薄ぼんやりとした昼間の月と同じだろう。
所詮は、太陽の光を受けて、輝いているだけに過ぎない。
よくよく考えれば、初めから判り切っていたことだった。
陽介だけではない、四季だって、ジャニスだって、志保だって、さっき出逢ったあのエースボンバーの彼女も。
皆、向こう側の住人達であり、自ら光り輝くことのできる『恒星』なのだ。
だからどうした。
それは、別に問題ではない。
別に自分は運命論者ではないし、ペシミストでもない。
彼等彼女等を羨んだことなどないし、自分を哀れんだこともない。
(本当に? )
だけど、ただ。
彼等『向こう側』の住人達と、闇の住人である自分との、どうにも埋められぬ『違い』を実感しただけだ。
この数ヶ月に及ぶ夜の横浜探索行は、それを己に実感させるための、旅だった。
一瞬交差した二本の線は、再び距離を縮めてやがては撚り合わされるように1本の線となり、まるで最初から別々だったなんて思わせぬほど、ひとつになって歩いて往く。
勿論そんな筈などなく、ただこれからは互いにどんどん遠ざかっていくだけだと、思い知らされた。
いや、判りきっていたことだけれど、判っていないふりをしていた、だけ。
そしてそれは、彼等のせいでは、けっして、ない。
ここ数ヶ月、久し振りに横浜の裏社会を渡り歩いて感じたことだ。
それは、確かに四季の頼みだったかも知れないが、引き受けたのは自分。
途中で放り出して、降りる事だって、出来た。
いくら、ここ数年『ケツで椅子を磨く』仕事が多くなって、ストレス発散のつもりで引き受けた、とは言え。
「だけど、アタシは……」
暗闇に自ら引き返したアタシは、ひょっとしてその行為を、『楽しい』と感じてはいなかったか?
ヤクザやチンピラ達と向かい合った瞬間、口の中に広がった苦いアドレナリンの味を、懐かしんではいなかったか?
生ゴミと饐えた古い油の匂い立ち込める、澱みの様な薄暗い路地に立ち、何故か心落ち着いた気分にはならなかったか?
歯の折れる音、骨の砕ける音、ヤクザ達の悲鳴と許しを乞う懇願、咽返るような血と反吐の匂いの中で、アタシは確かに笑っていたのではなかったか?
思い知った。
醜い傷痕と落ちない汚れを纏った心を持つ自分に、どうしようもないくらい、暗闇は似合うのだということを。
『人殺しだろうと、誰だろうと……。幸せを願っちゃいけない人間なんか、ひとりもいないんだよ、雪姉……』
そうなのだろう。
四季が、ジャニスが、志保が、そしてバレンタインの夜、デパート地下で魔法のアイテムを求めていた大勢の彼女達が。
呼吸するような『当然さ』で幸せを願い~成就するしないは別として~、笑い、喜び、怒り、怯え、泣き、哀しみ、そしていつの日か再び、いとも簡単に『次の幸せ』を願い、脳裏に描いて生きていく。
そんな『簡単なこと』すら、脚が震え、視線が泳ぎ、心臓の鼓動すら乱れ、思うように進めない。
知らぬうちに、そんな彼女達を憎むほど羨んでいる自分に気付き、アマンダは生まれて初めて、自分を可哀相だ、と思った。
おそらく、暗闇に慣れ過ぎた自分は、そんな『明るい夢を見る機能』が退化してしまったのかもしれない。
そしてそれすら、己の責任であるということも理解していて。
そんな臆病な自分を、例え……。
大それた、自分勝手な、身の程知らずな想像だけれど、例え、陽介が『陽のあたる場所』へと引っ張りあげてくれたとしても。
それじゃあ、アタシは、陽介に何をしてやれる?
陽介を幸せにすることができる?
いや、それよりも、アタシは『そこ』で生きてゆける?
答えは、判り切っている。
せいぜい、今度のように、暗闇の側から陽のあたる向こう側を、支えることしかできない自分なのだ。
知らぬうちに3本目の煙草を吸っていることに気付き、アマンダは口の中に広がる苦い味に顔を顰める。
そんな彼女を慰めるつもりでもなかろうに、刹那、吹き渡った五月の風が耳朶を飾るホワイト・ゴールドの鎖を揺らし、微かな音をたてた。
もちろん、自分は、陽介から貰った幸せを忘れた訳じゃない。
そう。
出逢って今日まで、血と垢に塗れた両手だと言うのに、その手に持ち切れぬほどの、支えきれないほどの喜びと幸せを、自分は陽介から貰ってきた。
それは今、この瞬間だって、これっぽっちも目減りなんかしていない。
ただ。
ただ、目減りせず、永遠に温もりと優しさを失わないこの幸せの煌めきが、一層自分の立っている暗闇を際立たせる。
それだけだ。
どうにも堪えきれずに3本目の煙草を未だ長いまま灰皿に捻じ込み、アマンダは再び空を仰ぎ、真昼の月を視界に捉える。
そう。
アタシは、月。
夜よりも黒い真空、絶対零度の宇宙に浮かび、自らは輝くことなく、それでも月は太陽の光をその半球で受け止めて、遥か38万kmを隔てた下界の夜を明るく照らす。
この先、たぶん一生『向こう側』へ出ることなどなく、遂には暗闇のぬかるみで泥に塗れて野垂れ死ぬのだろう自分は、その最後の一瞬まで、陽介という太陽から授かった幸せで輝くことが出来るだろう。
月の、地球には見せない半球が、地上から見れば永劫闇に囚われているのと同じで、自分もまた、陽介から貰った幸せを抱きつつ暗闇で生き続ける。
そうさ、月の暗闇の半球は、太陽に照らされないことをこれっぽっちも、羨んでなんかいないだろうさ。
そう思えば、陽介と再会する前に、自分が何故、あれほど『もうひとつの宝物』に執着していたかが、不意に理解できたような気がした。
自分が、闇に囚われた囚人であることを、確かめたかったのかも知れない。
翳と対である光を求め、そこに自分のレゾンデートルを見つける。
そうすることに、果たして意味があるのか?
抱いた光が、いっそう己の翳の暗さを深めるという、自傷行為にも似た『それ』に?
意味なんて、ない。
これっぽっちも、ありゃしない。
その証拠に。
「……今夜もアタシは、闇の中に立つんだから」
太陽のくれた光を抱いて。
陽介のくれた幸せを抱いて。
昨年まで、せめて陽介の代わりにと必死に求め、抱き続けた『もうひとつの宝物』との関係も、そろそろ潮時かも知れないな、と、ふと思った。
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