第63話 10-5.


 水橋美知みずはし みちは、国家公務員Ⅱ種に合格して警察庁に採用された所謂いわゆる、準キャリアである。

 帰国子女で、その英語力、仏語力を活かして、警察庁の外事担当を志望していたのだが、そこは国家公務員Ⅰ種のキャリア組との哀しき違い、準キャリアには明確なキャリアパスが用意されていない。

 取り敢えず警部補の階級を頂戴して、桜田門勤務を密かに期待していたものの、フタをあければ神奈川県警預かり、しかも所轄の警務課に配置され、当直夜勤はあるわ、かと言って現場に出てスキルを積む機会もない、いい加減うんざりし始めた2年目の今日この頃だった。

 伊勢佐木署の警務課当直に当たった今夜も、夜食出前のメニューを睨みながらそんなことを考えていた。

 やっぱ、安定性なんて考えずに民間企業に就職した方が正解だったかしら? 

 とにかく、焼きうどんはヤメタ。

「今夜は、和風ちゃんぽ」

「ああ、水橋警部補、いてくれて良かった! 」

「ん? 」

 メニューから顔を上げて自分を呼んだ声の方を見ると、地域課のちょっとイケメンだなと以前から思っていた巡査が、部屋へ駆け込むなり敬礼して言った。

「申し訳ありません! 二見警部が現場まで至急、ご足労頂きたいと」

「え? 私? 」

 外国人と暴力団の抗争の果ての傷害事件。

 退屈な当直、どうせ警務課に緊急の用などないだろうし、あっても当直はあと2名いる。

 どんな事件かは判らないけれど、現場に出て上手くいけば実績も積めるかも。

「了解、案内してくれる? 」

 そんな皮算用を弾きながら、美知はパトカーに乗り込んだのだが。

 この夜、彼女は現場到着後、三度、息を飲むことになった。


 一度目は、現着後、阻止線を越えて足を踏み入れた薄汚い路地の、あまりの凄惨さに。

 脳髄を直接攻撃するような血と吐瀉物の臭いに、思わず胃液が逆流するところを、なけなしの根性でゴクンと飲み込んだ。

「夜食の前でよかったぁ……」

 もっとも、この後署に戻っても食欲など起きないだろうけど。

「ええと、それで、確保した容疑者の外国人って? 」

 パトカーを運転してきた警官の後を追って路地の奥へ進んだ美知は、すぐに二度目の息を飲まされる。

 そこには、豊かで艶やかな髪と魅惑的な肢体を持ち、鋭い目を暗闇で光らせている、まるでしなやかな黒豹を思わせるような、壮絶な美女がいたからだった。

「この女性が……? え? 」

 足元に転がる、如何にもヤクザっぽい6人の『ガイシャ』と黒豹に、視線を忙しく交互に送っていると、彼女は長年フィラデルフィアで暮らしていた美知も驚くほどの美しい米語を発した。

「Not seen narrowly. A few should withhold.(じろじろ人んこと見てんじゃねーよ。ちったぁ遠慮しろ)」

 少し女声にしては低めのハスキーなその声は、違う意味でやっぱり直接脳髄を攻撃してくるように思えて、美知は知らぬうちに自分の腕で自分の身体をぎゅっと抱き締めてしまっていた。

 今日から2週間、この声思い出すだけで、私、イケる。


「困りましたなあ」

 ドギマギしながらも通訳についた美知の隣で、地域一課の警部、二見ふたみが困惑の表情を浮かべていた。

 この10分で、彼女が喋ったのは『UNDASN、一等陸尉、作戦任務遂行中』、それだけだった。

「おいっ、いい加減にしないか! 」

 隣の若い警官が怒鳴りつけるが、容疑者は知らん振りで、その美しい顔をぴくりとも動かすことはない。

「Do‘nt dodge! (いいかげんにしなさい! )」

 美知は半ば彼女の美貌に見惚れつつも、生真面目に横から通訳する。

 無表情のまま、しかし言われた通りに両手を後頭部で組んで壁際に立っている黒豹は、美知の言葉にコクンと頷いてみせる。

 その仕草が、まるで別人のように幼く見えて、美知は思わず頬を赤らめてしまった。

 別に美知の様子を見ていた訳ではないだろうが、二見は溜息交じりに彼女に声をかけた。

「判りました、身体検査と所持品検査は諦めましょう」

 UNDASN、と聞いた時点で彼が尻込みしているのは明らかだった。

 何にどれだけ時間をかけたとしても、最後は外交特権がヒマラヤよりも高い壁となって立ち塞がるだろうことは、明らかなのだ。

 だが、後に残された『書類』の空白を埋めなければならないこともまた、彼にとっては避け難い事実だろう。

 そんな思いを横に退けて、美知は慌てて通訳する。

「I understand. Physical examination and a body search are given up.」

 黒豹は美知に顔を向け、満足そうに頷くと漸く口を開く。

「It's a good aim. May I go home soon? (いい心がけだな。んじゃ、そろそろ帰ってもいいか? )」

 美知の和訳を聞いて、若い警官が叫ぶ。

「警部、コイツッ! 」

 気持ちは判るけれど、そんなに怒鳴りまくらなくても、ちょっとコイツ、ウザい。

 美知と同じ思いだったのか、二見は激昂する若い警官を目で抑え、容疑者に向かって口を開いた。

「せめて、官姓名所属部隊と、この事態の顛末だけでも話してもらえんかね? 」

 今にも銃を突き付けんばかりの勢いで詰め寄る若い警官に対し、両手を頭の上で組んで見せたものの、後は『軍機』を楯にして何を言っても拒否の一点張り、IDカードも見せず認識番号すら話そうとはしなかった彼女の事だ、今更それで喋るとは美知ですら思わない。

 それは二見も同様だろう。

「警部、救急車後2分で現着。機捜は後5分ほどで現着、署から4係、出ます」

 地面に倒れてピクリともしない~どうやら生きてはいるようだが~血塗れ反吐塗れの男達を見て、この界隈に根を張る港青光興業の構成員と察した二見が、マルボウの4係を呼んだのだ。

 酔い客やホステス達の野次馬が膨れ上がり、一層騒然としてきた凄惨な現場の中で、容疑者だけが唯一人、超然としている。

 通行人からの110番通報で、おっとり刀で駆けつけた最寄りの長者町交番の警官は、現場のあまりにも惨たらしい状況と不敵に英語だけを話す『容疑者』にビビッてしまって、自分では碌に対応しないまま応援を呼んだせいで、ちょっとした『警官隊』が集まる騒ぎになってしまった事が、辛うじてこのまま退けぬと粘りを見せる二見の『最後の拠り所』となったのは皮肉だよなぁと、美知はまるで他人事のように思っていた。

機動捜査隊機捜が先着じゃなかった分、まだ助かったな……。あ、これは訳さなくていいぞ」

 溜息を吐く上司の心労も知らず、若い警官は血管がブチ切れそうな様子で怒鳴り声を上げ続けている。

「聞こえただろう、貴様UNDASNなんだろうが! 官姓名所属を名乗れ! 」

「It can't say. They are military secrets.(言えねえなあ。軍機だっつってんだ)」

 何度も聞かされた『military secret』に、美知が通訳する前に警官は怒鳴り返し、黒豹の襟首を掴んだ。

「貴様っ、なめるな! 本当は日本語、わかってるんじゃないのかっ? 」

 襟首を掴まれたまま、彼女はニヤ、と笑って見せた。

「ひっ! 」

 若い警官の紅潮した顔が一瞬で蒼白に変わり、同時に、喉が悲鳴の様に鳴った。

 美知も、その余りにも迫力のある眼光に、口を手で押さえて怯えた表情でその美しい顔をみつめた。

 これまで、向けられたこともない、見たことすらない、突き刺さるような鋭い視線だった。

 現場からの叩き上げである二見も、顔面を蒼白にしながら、それでもじっと彼女から視線を逸らしはしなかった。

 蛇に睨まれた蛙のようにフリーズしてしまった若い警官は、どうやら襟から手を離そうにも離せないようだった。

 と、不意に、彼女の形の良い唇がゆっくり開いた。

 ハスキーな声が、路地に甘く響いた。

 ああ、もう1週間、追加。

「煙草、吸っていいか、ダンナ? 」

 突然の流暢な日本語は、若い警官をフリーズさせていた『呪文』を解いた。

「貴様あっ! 」

 警官のもう一方の手が、彼女のコートの襟を掴んだその瞬間。

 女性にしては低い、しかしどこかしら懐かしさや優しさを感じさせる声が響いた。

「そこまで」

 その声は、サイレンや警官達のやりとり、ノイズの乗りまくった警察無線、野次馬のざわめきを、一瞬にして静寂に変えた。

 そんな錯覚を、その場にいた全員にもたらした。

 薄暗い路地を照らすパトカーのヘッドライトや赤色灯を背景に、何時の間にか警官の阻止線をスルリと通り抜けて現れた、その人物のシルエット。

 髪が赤く輝くのはパトランプのせいだと思っていた美知は、やがて、そのシルエットの顔の辺りに、神秘的な、それでいて懐かしく優しい翠の光が灯っているを見て、不思議に感じた。

 髪は、本当に綺麗な紅茶色だった。

「誰かね……? 」

 警部が我に返って急き込むように尋ねるのに、そのシルエットの人物は質問で返した。

「この場の責任者はどなた? 」

「だ、誰だと聞いてるんだ! 」

 掠れた声でどもり気味に叫んだ若い警官を、警部は一睨みして黙らせる。

 その横で、美知は三度目の、息を飲んでいた。

「……私、知ってる。この女性ひと、知ってるよ」

 昨年から、マスコミでちょっとした旋風を巻き起こした、美しく凛々しい、そして何処となく儚さを感じさせる、この女性。

 顔が、熱い。

 いや、身体中が熱い。

 このまま死ぬんじゃないかと心配になるくらい、心臓がバックンバックンと暴れまくっている。

「私が責任者だが。伊勢佐木署地域一課の二見警部だ」

 翠の光が、微笑んだように細められた。

「関連条約並びに貴国関連法令により定められた要件を持って、特別職国際公務員免責特権を宣言いたします。本職は、国際連合防衛機構地球防衛艦隊統合幕僚本部政務局国際部アジア室アジア2課日本国駐在首席武官、鏡原四季かがみはら しきラングレー一等艦佐です」

 そう言って綺麗な、艦隊マーク出身者特有のコンパクトな敬礼をして見せた四季に、美知は思わず答礼してしまった。

 四季は、美知に気づき、にこりととろけるような優しい笑みを向けた。

 美知は真っ赤な顔を見られるのが恥ずかしくて思わず顔を逸らし、ふと気がついた。

 容疑者である黒豹は、まるで四季が助けにやってくるのを知っていたかのように、唇の端で微笑んでいた。

 UNDASNって、面接が厳しいのかしら? 

 美知がそんな事をぼんやり考えている間にも、四季はゆっくりと二見の前まで進み、チラ、と救急車を待っている6人のヤクザに視線を投げた後、すぐに彼と相対した。

「……この者は、小官の命令に従い、作戦行動に従事しておりました。軍機により任務についてのご説明は致しかねますが、彼女の身許は小官が保証致します。貴国政府と国連及び我が軍との間に締結され発効されたUNDASN基本条約第3章第5条及び第7条第2項、UNDASN作戦行動許諾条約第1章第7条及び第8条に基き、小官は免責特権を宣言いたしました。……恐れ入りますが、宣言を受けた事実を認められますか? 」

 呆気に取られたように口を開いて四季の顔をみつめていた二見は、やがて苦々しげに、呻くように首を縦に振った。

「判りました、認めます」

「ありがとうございます」

 四季は腰を折って一礼すると、傍らの若い警官に微笑みかけた。

「申し訳ありません。さぞお腹立ちとは存じますが、それ以上の貴官の『実施行動』は、UNDASN基本条約に定められた『作戦行動妨害』に抵触する行為と思われます」

「……は、はあ……」

 若い警官は今更ながら自分が女性の襟を掴んでいるのに気付き、慌てて手を下ろした。

「綺麗……」

 美知が思わず洩らした、溜息交じりの掠れる声が聞こえたのか、四季はこちらを見ると、ニコ、と微笑んでみせた。

「ありがとう、美しい警部補さん」

「まあ! 」

 美知は一瞬で朱に染まった頬を見られるのが恥ずかしくて、両手で顔を隠し、しかしそれでも指の間からじっと四季を見続けた。

 隣で渋面を作る二見など、彼女は脳内で遥か彼方へ転勤させていた。

 四季は再び、二見に顔を向けた。

「なお、ご承知かとは存じますが、この相手方6名の身柄に付いては、貴国司法警察に第一次捜査権がありますし、私共は第二次以降に発生する筈の私共の有する権利をこの場で放棄いたします。どうぞ、ご自由に。また、こちらからは貴国外務省国連局を経由して警察庁外事局より報告書並びに必要エビデンス一式を後日、貴職宛にお届けする事をお約束致します」

「は……、あ」

 不承不承と言った感じで頷く二見の耳元に、四季はそっとその美しく輝く唇を寄せて囁いた。

 隣で立つ美知の耳にも届くその声は、まるで心を蕩かすように甘く、彼女は一言一句聞き漏らすまいと神経を聴覚に集中させる。

 これ、別口で2週間。

「厚かましいお願いで、恐縮なのですけれど。……出来ましたら、本日の件、彼等の事情聴取結果をご報告頂けると非常に嬉しいのですが」

 さりげないが捜査秘密をバラせと迫る彼女の台詞の重大さに、二見は、そして美知も、思わず四季の顔を見つめてしまう。

 うに記憶が薄れ始めた『国連関与犯罪捜査に関する特別内規』のページを脳内で慌てて繰りつつ美知が二見に視線を向けると、彼も本能的に危険を感じたのか、顔の前で両手を振っていた。

「い、いや……、しかし、そ、それは……」

 渋る二見に、しかし四季はニコ、と微笑みかけて、もう一段声を落とした。

「私共駐在武官事務所のリエゾンとしていつもお世話になっている方で、警察庁公安局参事官の坂崎正明と言う警視正がおりまして……。坂崎警視正を通して正式にお願いしても良いのですが、それでは余りに貴官にご迷惑かと思ったのですけど……」

 一瞬、二見の細い目が倍ほどに見開かれ、やがてゆっくりと瞼を閉じた。

「……判りました。ですが」

「内密に、ですわね? 承知しております。誓って、貴官にご迷惑はお掛け致しません」

 四季はそう言いつつ、ポケットから名刺を出して二見の手に押し付け、微笑んでみせた後、傍らに立つ『容疑者』に顔を向けた。

「A captain! 」

 打って変わって厳しい四季の口調に、キャプテン黒豹は感電したようにピシリと姿勢を正した。

「Thank you for your work. It collects from this.(一尉、ご苦労だった。撤収する)」

「イエス、マム! 」

 満足げに四季は頷くと、二見に再び敬礼した。

「では、お手数をお掛けして申し訳ありませんでした。我々は、これで失礼致します」

 さっと身を翻して路地を出て行く四季と、その後を足早に追う黒豹を、二見達は暫くの間、微動だにせず見送った。

「私も、UNDASN、受けてみようかな……」

 美知は、苦々しげに自分を睨んでいる二見には気付かないで、知らぬうちに声に出していた。

 面接が厳しそうな印象だけが、彼女の気懸りだった。


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