第62話 10-4.
松田の兄貴に向かって馬鹿とはどこの命知らずだと、拓也は闇の奥を見極めようと目を凝らして、声の正体を視認した途端、思わず「おおー……」と呻き声を上げてしまった。
嘲るような言葉を放ったのは、今日までテレビや映画、グラビア以外では
これほどの美人は、今日まで出逢ったことがねえ、いや、テレビや映画でもこんな上玉、いねえんじゃねえのか? これはきっとハーフに違いねえ、こんな別嬪、見たことがねえ。
声の主の姿に見惚れながら、やっぱり場違いな感想を拓也が思い浮かべていると、徐に彼女の履いているカーキ色のアンクルブーツが、『浮き上がった』。
浮き上がったブーツは、いきなりトップスピードに乗って宙を舞い、そのヒールが女の方を振り返る途中だった松田の側頭部へ綺麗にめり込んだ。
めり込んだまま動きは止まらずスピードも落ちることなく、そのまま彼をビルの薄汚いコンクリートの壁に叩きつけ、ヒールをもう一段深く頭にめり込ませて尚、ブーツは彼の頭から離れなかった。
松田は壁に頭半分をめり込ませ、そのままブランと、まるで壁に縫い付けられたようにぶら下がっていた。
安物臭い音を立てて、彼の手から
ブーツから視線を、長く美しい脚線に添って移動させると、その女が恐ろしく素晴らしいスタイルの持ち主で、そしてどこまでも不機嫌そうなその表情さえも美しいことに、拓也は却って恐怖を感じた。
「テ、テメェッ! 」
路地の一番奥にいたチンピラ~番場と言う、拓也より3歳上の準構成員に、彼は昔ビンタを食らったことを思い出した~は、叫ぶや否や短刀を抜き放ち、彼に背を向けている女に襲い掛かろうとしたが、女は番場をチラリと見やることすらなく、その団子鼻に裏拳をめり込ませた。
鼻の骨が折れた音が意外とはっきりと耳に届き、そのまま膝から崩れ落ちようとした番場は、けれど彼女の許可を得られなかった。
即ち、裏拳を見舞った右手が舞うように翻り、崩れる彼の顎を下からガシッと掴むと、そのまま片手で頭を掴み寄せ、もう一方のビルのレンガタイルを張った壁面に思い切り叩きつけたのだ。
女は、今度はすぐに手を放して番場をリリースしたが、地面に後頭部から落下した瞬間、鈍い音がして、死んだんじゃないかと拓也はハラハラしてしまった。
「ひぃっ! 」
アマンダの正面にいた残りの2人~倉田と持田には昔女を回してもらった事があったな、と拓也はぼんやり思い出す~が悲鳴にも似た叫び声を上げ、殆ど同時にバタフライ・ナイフを取り出した瞬間、彼女は松田の頭を踏みつけていたビルの壁面をステージにして、舞った。
松田の頭を壁に押し付けている左足を軸足にして、壁を駆け上るようにして身体を捻って彼等に向き合い、両手を伸ばして倉田の頭を鷲掴みにして手前に引き倒し、ここで漸く松田の頭から離れた左足の膝をそのまま彼の顔面ど真ん中にお見舞いした後、まるでバスケの試合中にパスを出すように頭を放り出した。
倉田の顔は、本当にバスケットボールみたいに腫れ上がり、鼻やら口から血を撒き散らしながら地面に転がった。
ナイフを突き出す姿勢で硬直し、呆然とその様子を眺めていた持田に、女はその手を伸ばし、ナイフを持った腕を掴んで引き寄せると、ボキッと派手な音を鳴らして逆関節を極め、ぎゃあと叫んで仰け反った顎にアッパーカットを食らわせた。
やはり血を吐きながら崩れ落ちた持田の頭が地面と接する直前、今度はサッカーみたいな綺麗なキックを顔面に決めて、2m程も向こうへ飛ばして見せた。
4人が4人とも地面に沈むまで、1分も経過していないように拓也には思えた。
人間業とも思えない、いや、その華麗な動きはひょっとして何かのダンスなんじゃないだろうか?
女は、クルリと、再び黒田と拓也の方に向き直った。
無言で、短い吐息を零しただけだったけれど、その静寂が『次はお前だ』と言っているようで、拓也は震え上がって、思わず黒田の背中に隠れるように
「え……? 」
黒田は、顔を服よりも白くして、ただ呆然と立ち竦んでいた。
その顔の前に、まるでドラマみたいに掌をパンパンと叩いている美女が立っていた。
「『え? 』じゃねえよ、オッサン」
彼女は静かにそう言うと、その醜く膨らんだ下腹部に、目にも止まらぬ素早いパンチを叩き込んだ。
「ぐふっ! 」
奇妙な呻き声を上げて黒田は腹を両手で押さえて膝をついた。
苦しげな唸り声をあげながら胃の中身を派手にぶちまけて、黒田は自分の作った反吐の海にうつ伏せに倒れこんだ。
白いスーツがみるみるうちに、ボロ雑巾のように薄汚れていくのを見て、ああ勿体ないと惜しく思った。
「アンタにゃ、ちょっとばかり、啼いてもらわにゃあならねえからねえ」
歌うようにそう呟きながら、彼女はチラリと壁に埋もれている松田のほうに目をやった。
が、松田は頭を壁にめり込ませたままで地面に臥してはおらず、どれだけの力で蹴りを入れたのか、松田は死んではいないだろうかと拓也はそれだけが心配だった。
「なんだ、根性あるじゃねえか。……役に立たなかったけど」
嘲るように短く笑い、彼女は漸く視線を、その場にへたりこんでいる拓也へ向けた。
「よう。あんちゃん。腰でも抜けたか? 」
圧倒的な強さだった。
最初に松田を倒してから、ここまで2分も経っただろうか。
拓也だって、組に入って何度か鉄火場を経験しているし、先輩達~松田を筆頭に、今は血の海に沈んでいる4人だ~は、それなりに喧嘩慣れしており、まさかこれほど簡単に、しかも女ひとりにやられる筈はないと思っていた。
それなのに、この美女は。
とても敵わない、いや、敵わないどころか殺される。
「ひいいっ! 」
か細い悲鳴を喉の奥から上げて、座り込んだまま後退さる拓也を見て、彼女は足元に落ちていた松田の短刀を蹴り上げて左手で受け止め、そのまま手首のスナップだけで拓也に向けて投げ付け、見事彼の太股に突き立てて見せた。
「ぎゃああああっ! 」
脚を抑えて転げ回る拓也を一瞥すると、冷たい声を放つ。
「うるせえ馬鹿。アタシぁ、このオッサンにちょいと話があるんだ、黙ってな」
逆らったら、殺される。
拓也は自分の泣き声を抑えようと、着ていたジャケットの裾を自分の口へ押し込んだ。
その様子を見て、女は満足そうに頷き、視線を足元で蹲っている黒田へ向けた。
彼女はゆっくりとした動作で、地面に沈んでいる白スーツの襟首を片手で掴み上げ、露骨に顔を顰める。
「臭せえなあ。腐ってんのはハラワタだけかと思ったら、食いモンまで腐ってんじゃねえか? 」
そう言って襟から手を放し、黒田を投げ捨てるようにして地面に転がすと、彼女は煙草を口に咥えて火を吸い付け、旨そうにふーっ、と煙を吐き出し、倒れたまま震えている黒田に再び一歩近づいて、いきなり右足を上げ、彼の頭を踏み付けた。
「ぐえっ! 」
潰れた蛙のような声をあげた黒田の顔が、再び反吐の海に押し付けられた。
「おう、オッサン。ちょいとばかり質問に答えてもらおうか」
女はそう言うと、少し声を低めた。
「返事はどうしたよ? 」
「く、くそアマ……、め……。こ、こんなことしやがって、タダで済むとはお……」
ドガッ、と鈍い音がして、彼の頭を踏んでいた脚が素早く動き、負け惜しみを並べていた彼の顔に爪先がめり込む。
「……が、はぁっ! 」
呻く黒田の顔が血塗れになり、口から折れた歯が2、3本転がり出た。
「それがテメエの返事かい? 」
女は楽しげな口調でそう言うと、しゃがみこんで、黒田の顔を覗き込んだ。
「テメエらの探してる、もぐりの軍服売春婦の情報だ。洗い浚い、吐いちまいな」
「ぐ……。テメエ、いったいなにも……、ぐおっ! 」
立ち上がった女の脚が、今度は黒田の横腹を蹴り上げていた。
仰向けに引っ繰り返った黒田を上から覗き込み、女はニヤニヤ笑う。
「やっぱ、ヤクザなんぞやってるだけあって、相当頭悪ぃなあ、オッサン。もう1発、イッとこうか? 」
言いながらも既に彼女の脚は動き、彼の右太股を思い切り踏み付ける。
ボキッ、と音がして、右足が不自然な方向へ曲がる。
「ほれ、早いとこ歌いなよ、オッサン」
子供のようにぼろぼろと涙をこぼし、口から涎を垂らしながら、弱々しい声で黒田は喋り始めた。
「……俺達もよく知らねえんだよぉ。勘弁してくれよ、ホントだって……。先月、この辺りの武蔵野帝都義侠会の連絡会で、市内の歓楽街に軍服着た外人の女がもぐりで商売してるって話が出て、調べてみると、
「大国恵比寿も莫大小街道も……? って事は、伊勢佐木一帯だけじゃなく、横浜全域ってことか? 」
黒田は首をがくがく振る。
「そ、そうだ……。俺が知ってんのは……、ぎゃあ! 」
今や凶器にしか見えないアンクルブーツは、今度は黒田の下腹にめりこんでいる。
「余計なことはいいんだよ。その外人ってのは? 白人か? 黒人か? 米軍じゃねえのか? どんな軍服だ? 」
「判らねえよ、判んねーんだよぉ! もう、勘弁、勘弁してくれぇ……」
涙声で譫言のように繰り返す若頭補佐を呆然と見つめていた拓也の前に、長く美しい脚が降り立った。
「ひいっ! 」
思わず悲鳴を上げた拓也のジャケットの襟に彼女の手が伸び、恐るべき力で彼の身体は持ち上げられる。
「わああっ! おおおお俺、俺は知らねえっ、知らねえんですよおっ! 勘弁、勘弁して下さいっ! 」
「喚くな馬鹿」
一言で黙った拓也を満足そうに見つめる整った顔が、彼の目の前にある。
見れば見るほど、美しかった。
「このオッサンが言ったこと、嘘じゃねえな? 」
「はいっ、はいっ! そそそそうです嘘じゃねえですホホホホントっすよおっ! 」
「いつから探してんだ? 」
「せせ、せ、先月の頭からっす……。ウウウチは関内の北側がな、縄張りなんすけど、き、今日まで、な、な、なん、なんの手掛かりも……」
「なんか目印つか、手掛かりみてえなもん、ねえのか? 」
「こここ黒人か白人かは判らねえけど、髪はパツキンじゃなくて、くく、黒かちゃちゃちゃ茶色らしいって……。ぐ、ぐん、軍服っても、多分ア、UNDASNだろう、横須賀と違ってここらにゃアメさんは滅多にいねえからって……」
美女は自分のコートの前を開いて見せる。
「こんな色か? カーキ色か? それとも、黒のスーツっぽいのか、オリーブドラブっぽいのか? 」
「わ、判んねえっす……。なななんとなく、そんなカーキ色かなって思って探してて、あん、アンタを見かけたから……、ちち、ち、違いねえって」
「髪の色だけは、ネットの情報と同じか」
女の溜息交じりの独り言が耳に届く。
「じゃ次の質問だ、テメエ」
迫力のある、けれど途轍もなく艶っぽい声が再び拓也に向けられた、刹那。
澱んだ闇が垂れ込めた、血と反吐と生ゴミの臭いが充満する路地が、突如として鮮やかな赤い光に染められた。
「全員動くなあっ! 警察だ、そのままじっとしてろっ! 」
「チィッ」
女は舌打ちすると、素早く拓也の腹に膝蹴りを食らわせた。
声も出せず、涙をボロボロ零す拓也を、ゴミでも捨てるようにポイと路地へ転がして、美女は両手を上げた。
「Dumn,shit! What kind of excuse should be carried out to Yosuke? (クソ! 陽介になんて言い訳すりゃいーんだ? )」
銃を構えて恐る恐る近づいてきた若い警官が、驚いたような顔で呟いた。
「貴様……、外人か? 」
拓也は地面でのた打ち回りながら、今日ほど、警察をありがたいと思った事はなかった。
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