第60話 10-2.
四季の瞳は、アマンダの憧れでもあった。
アタシがもしも、あんな綺麗な瞳を持って生まれていたら、アタシの子供時代もほんの少し、優しかったのかもしれないな、と。
けれど、今、自分を真っ直ぐに見つめる翠の瞳は、微かにアマンダの不安を煽ってくるような気がしてならなかった。
「綺麗な……、可愛らしい、イヤリングだね? 」
「……ん? 」
言われて、思わず指が耳朶に触れる。
「向井君に貰ったんだろ? 昨日、ホワイトデーに」
一瞬で、顔が真っ赤に染まったのが、自分でも判った。
「や、いやそのえと、それはその……」
今度はアマンダがしどろもどろになる番だった。
「うふふ、相変わらず照れ屋さんは治ってないみたいだね、雪姉」
四季は、今日逢ってから初めての笑顔を見せた。
いつの間に形勢逆転されたのか?
悔しい思いと同時に、何故今日に限ってこれほど思い切りが悪いのか、四季の心の
その重石は、優しくて柔らかな思い遣りに溢れていて、やっぱり四季らしい、それがとても嬉しかったのだけれど。
「ごめんね、カマかけだったんだけど……。昨日、瑛ちゃん先輩……、統括センター長から二人揃ってオフだって聞いたんだ。だから、もしやと思って、ね」
そっか、ホワイトデーのプレゼントってことはバレンタインデーは雪姉からチョコあげたんだね。
独り言のように呟きながら四季はポケットから煙草を抜き取り、火を吸い付けて言葉を継いだ。
「……でも、イヤリングとかなくっても、瑛ちゃん先輩からの情報がなくっても、雪姉の顔を見たら気が付いたと思うよ? うん、……そうだな。なんか、優しく、柔らかく笑うようになったもんね。以前から美人だとは思っていたけど、今は、可愛いって感じの方が大きい、かな」
四季は、自分の吐いた煙を目で追いながら、続けた。
「……正直、それが、気懸りでね。言い難かったんだ。雪姉と向井君が、その……、つまり、なんとかなってたんなら、こんな余計な任務、ふたりの間に水を注す様なもんなんじゃないか、って……」
気付かれていたのは意外だったけれど、その反応は確かに、気付いたのならば如何にも、四季が見せそうなそれに思えた。
「今回の事件、単純に売春ってだけなら、きちんと向井君に仁義切るつもりだったし、裏社会のアドヴァイスだけ貰って後は日本の警察に投げるつもりだった。……でも、テロ絡み、しかも一方の相手が米軍かもしれないとなってくると、事情が違う。この手のケースは、情報の無意味な拡散は命取りになる。そして、危険度は倍以上に跳ね上がる。……そんな危険な任務、情報部でも警務部でも、ましてや国際部でもない雪姉に頼みたくなかったんだ」
四季の想いはありがたい。
涙が出るほどに、温かくて絆されてしまいそうになる。
けれど、現実には自分と陽介は『そう』ではないのだ。
そうなりたい、胸を焦がすような欲望は抑え切れない程で、だから余計に、四季の優しい思い遣りは胸を貫くほどに、痛い。
「よ、陽介は関係ねえよ。あのボンクラが何言ったって、そんなの……」
痛みに堪えかねた挙句、口から転がり出た言葉は、けれど情けなくも尻すぼみになって虚空へ消えてしまう。
「確かにそうかも知れない。でも、知ってしまった向井君が、雪姉を黙って行かせるとは、私には思えない」
今度は四季が、アマンダの言葉を塞ぎ止めた。
「そういうひとだと……、思うだろ? 」
思わずアマンダはコクン、と頷く。
「それに、雪姉だって向井君にはどんな小さな隠し事だってしたくないだろ? 」
再びアマンダが首を縦に振ると、四季は満足そうな笑顔を浮かべた。
「……そういうことさ。やっぱ、頼めないや、私には」
言葉とは裏腹に、妙に嬉しそうな表情を浮かべて四季は立ち上がり、伝票に手を伸ばした。
「ごめんね、雪姉。この話、忘れてよ? ……お詫びと言っちゃなんだけどさ。今度お二人さんをどっか料理と酒が美味い店に招……」
アマンダは、思わず、伝票を掴んだ四季の手首を握って引き止めた。
四季の勘違いを正したかった訳ではない。
これは、アマンダ自身の心の、自覚の問題だ。
だって、どう足掻いたって、どんなに望んだって、現実、自分と陽介は『そんな関係』ではないのだ、哀しいことに。
そしてやっぱり、今目の前で柔らかく微笑んでいる彼女もまた、意味合いは違っても大切なひとには違いないのだ、陽介同様に。
とにかく、このまま四季を返す訳にはいかない、そう思って、脳裏に浮かんだことを後先考えずに言葉に乗せた。
「アタ、アタシ、その……、陽介がその、YSICの連中からチョコい、いっぱい貰ってんの見て、んで、焦っちまって、だから、アタシも、って……。そ、そしたらあのヤロー、ホワイトデーだからお返ししたいんだ、14日は仕事休んでどっか行こうって……、そう言ってくれて、だから、パンダと象が見たいっつったら、連れて行ってくれて、帰りにその、これプレゼントだって……、だから……」
軽い振動を感じて顔を上げると、いつの間にか四季が、アマンダの隣に腰をおろしていた。
四季の温かい体温を感じて、何故だか不意に、泣きそうになった。
「ア、アタシ、嬉しくってさ。こんなキレーなの、は、初めて貰って手にして、んで、陽介も似、似合うって言ってくれて、んで、だから、アタシ……、でも、だけど……、きっとアタシなんか、陽介の重荷……」
「もうそれ以上言っちゃ駄目! 雪姉、駄目! 」
四季はアマンダを抱き締め、耳元で囁くように、けれど力強く、言った。
「過去がどうだろうと、現在がどうだろうと! 例えこの先どうなろうと! 自分の言葉で自分を縛っちゃ駄目だ! 」
「でも……! だけど、アタシなんか……っ! 」
「雪姉! 」
両手で顔を掴まれ、アマンダは無理矢理四季の方を向かされる。
吐息が頬を撫でるほどの近くにある四季の翠の瞳が、刹那、ふわりと蕩けるように微笑んだ。
甘い香りが鼻腔を擽る。
あの砂漠の惑星、敵機甲部隊が迫りくる塹壕の中。
あの時と同じ甘い香りだと思い出して、声を上げて泣きそうになった。
野戦特科の、地面を耕す激しい面制圧砲撃、文字通りのアイアンシャワーの中、『鋼鉄の土砂降り』から身体を張ってアマンダを庇いながらそれでも微笑んでいた、切なげな表情が浮かんだ。
「人殺しだって泥棒だって……、どんな拭い切れない罪や過去を背負って生きてる人間だって……。叶うかどうか、許されるかどうかはともかく、幸せを願っちゃいけない人間なんか、ひとりもいないんだよ、雪姉」
「姐……」
アマンダの瞳から、耐え切れずに零れた涙を、四季は啄ばむ様なくちづけで拭い取り、照れたように微笑んで漸く顔から手を離した。
「だから、今を……。刹那主義かも知れないけど、まずは今を大事にしなきゃ。自分から捨てちゃ、駄目だ」
ね? と言うように小首を傾げた四季に、アマンダもまた、コクンと子供のように頷いてこたえる。
嬉しい。
祖母を亡くしてから向こう、ここまで腐臭を放つ泥の海にも似た暗闇の中を、のたうつように、這いずるように生きてきた、自分の人生。
陽介、そして四季という、これほどまでに真っ直ぐで優しくて温かな、大きな愛情を自分に向けてくれる人間が現れるなんて、思ってもみなかった。
だからこそ。
だからこそ、自分は、やらなければならない。
そう、
「判った。判ったけど、姐。……これは、やる。引き受ける」
「え? 」
アマンダは両手の甲でゴシゴシと目元を擦り、短い吐息を落とすと、新しい煙草を咥えて言った。
「姐の言ってることはよく判るし、嬉しいよ。だからアタシ、もう自分から明日を捨てるような事はしねえし言わねえ、約束する。……でもな、姐。……いや、でもって言うよりも、だからこそ、かな? 姐はアタシにとっても陽介にとっても、大恩人だ。引き受けなきゃあ、義理がたたねえ。……なにより、姐がそう言ってくれたこと、それだけで、アタシが引き受けるには充分な理由なんだ」
「で、でも、雪姉……」
「これで断ったと知れちゃあ、それこそ陽介に怒られちまうよ。……だから、やる。任せときなって。アタシなら上手くやれると思うぜ? 」
泣きそうな四季に向かって投げた笑顔は、自分でも結構イケてたんじゃないかな、そう、思った。
「まずは、陽介と一緒に帰れねえ夜は、アタシが心当たりを回ってみるよ。なんてったって、アタシがここら辺りでのさばってた時から、10年以上も経っちまってるからな。ま、リハビリみたいなもんさ」
3杯目のコーヒーを啜りながらアマンダは、明るい調子で言った。
おそらく心配そうな表情を浮かべているのだろう、こちらの胸中を慮ってくれているのが理解できて、その心遣いに感謝しながら、今は彼女に甘えておこうと、四季は話を進めることに決めた。
「10年以上……。やっぱり情勢はその頃と今とじゃ、変わってるのかな? 」
「まあ、小さな組が潰れたり、上位組織に吸収されたり、ってのはあるらしいが、大まかな枠組みは変わってねえらしい。この街へ舞い戻って、昔馴染みと何回か呑みに行ったとき、そう聞いたよ」
昔馴染み、それはたぶん、暴走族時代の仲間のことだろう、少しだけアマンダが懐かしむように目を細めたのが、彼女らしいなと思って、四季は黙って頷くに止めた。
「ハマん市内でリーマン相手の
自分の知らない横浜の裏の顔を聞かされて、四季は思わず感嘆の吐息を零してしまう。
「ふーん、なるほど……。でも、普通の売春婦なら、やっぱり裏で暴力団がついてるんじゃないのか? 」
「だな。……まあ、改正暴対法が使用者責任以外にグループ企業連帯責任を盛り込んでから、ヤーさん達ぁ店を構えた風俗系の商売もヤバイってんで、一本釣りに鞍替えしたって
アマンダはそこまで言って、少し笑って見せた。
「だから、逆にUNDASN売春ってヤー公のシノギをハネてウッてる、なんてのが噂になってるなら、奴等、血眼になって捜し回ってると思うぜ? あの業界ってのは
「ちょっと雪姉、危ない真似はやめてよ? 何かあったら……」
「ハハハッ! 『私が向井君に殺される』って言うんだろ? オーライ、姐。大丈夫、ここらを縄張りにしてる組は、だいたい判ってるから。今夜陽介は仕事で直帰って言ってたから、取り敢えず、関内辺りを流してみるさ」
最後は再び調子を取り戻してウインクして見せるアマンダに、四季は弱々しげな笑みを浮かべて頷いてみせはしたものの、どうにも踏ん切りがつかず、店を出たところで堪らなくなって再び声をかけた。
「ねえ、雪姉。ほんっとに……、本当に無理してない? 嫌なら嫌って言っても」
「姐」
アマンダは振り返って、ピシャリと四季を黙らせた。
「アタシはな、姐。……正直、ほんっとに今、幸せなんだ。世の中にこんな幸せがあるなんて、この歳になるまで知らなかったし、ましてや、自分がそんな幸せを味わえるなんて思っても見なかった」
アマンダは恥ずかしそうに頬を染め、柔らかく微笑んでみせた。
彼女のそんな表情は、何度見ても四季には新鮮な驚きだったし、またそれ故に、彼女にこんな依頼をしてしまったことを改めて後悔してしまう。
「姐、言ってくれたよな? 『優しく笑えるようになった』って。あはは、自分でもビックリだけどな。……でも、嬉しいよ。それもこれも、陽介のお陰だって真剣に思ってるし、勿論、姐のお陰でもある」
アマンダは傾きかけた夕陽に、その美しい黒髪をキラキラと輝かせながら、静かに言葉を継いだ。
「もちろんこの先、御伽噺みてえなハッピーエンドが待ってる……、なんてそこまで能天気にはなれねえけどな。……でも、この瞬間、アタシがこうして笑っていられるのは、やっぱり陽介のくれた幸せのお蔭なんだ、心からそう思ってる」
四季は、その憂いを含んだ美しい横顔に魅入られたように、言葉も失くしてアマンダをみつめ続けた。
「だから次は、姐、アンタの番だ。アタシが充分な役どころかどうかは判んねえけど、この役引き受けることで、姐に少しでも笑って貰えるんなら、アタシはやっぱ引き受けるし、陽介だって嫌だとは言わさねえさ」
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