10. 幸せと憂鬱の狭間

第59話 10-1.


 耳朶が、気になる。

 アマンダは朝から、暇さえあれば、いや無意識のうちにも、自分の耳元を触り続けていた。

 付け慣れない、と言うよりも生まれて初めて付けたイヤリングは、5cm前後のそれぞれ異なる長さのホワイトゴールドのカットボールチェーンが3本、ゆらゆらと揺れる様がとてもお洒落で可愛らしい造りだ。

 箱を開いた途端、その繊細で可憐な美しさに思わず「ふわぁあ……」と吐息を漏らしてしまった。

 陽介は似合うと言ってくれたものの、鏡の前で首筋を違えるほどに捻くり回して眺めても、どうにも違和感が拭えなかったのだが、「明日から毎日、何があっても外さねえっ! 」と啖呵を切ったのは売り言葉に買い言葉、「付け慣れなくて気になるんなら、無理しなくてもいいぞ、安物だから」と陽介に言われたからだ。

 今朝も陽介に「手前みそだがよく似合ってるよ」と言われ、「馬鹿野郎! 」とローキックをお見舞いして照れを誤魔化したものの、出勤直後に「あら、良いわね? どこで買ったの? 」と声を掛けたのがくだんの志保だったことから、漸く自分でも「そうかな? 」と思い始めたのだが、その後出勤してくる部下達全員、揃いも揃って、まるで申し合わせた様に口々に「いいですねえ、係長」「どういう心境の変化です? 」「誰に貰ったんです? 」「珍しく休んだと思ったら色気づいちゃって、もう! 」等々姦しいことこの上なく、30分持たずに堪忍袋がオーバーフロー、「人を珍獣扱いするんじゃねえっ! 」と集るギャラリーを蹴散らし大きな溜息を零した刹那、普段なら真っ先にからかいに来る筈のジャニスがこの時になって初めてそっと近寄り、柔らかな笑顔を浮かべて「綺麗よ、アミー? 」と囁いたことで、とうとう頭に血を昇らせてしまい言葉も返さず手洗いに駆け込んで、改めて鏡に映った自分の顔を眺める羽目になった。

「……嬉しい」

 確かに、生まれてこのかたジュエリーの類は勿論、アクセサリーと呼べるものなど遂に手に取ることもなく、また別になくたって構うこたぁねえやと、唯一のお洒落のつもりが、四季の言葉を切っ掛けに右手首裏へと付け替えたG-SHOCK、それだけ。

 レストラン予約しておいたんだがお前の今日の格好じゃあなあまぁドレスコードがあるような店じゃないんだけどもうちょい入りやすい店に変えようかと陽介に連れて行かれた山手駅裏の居酒屋で「弁当まで手作りして貰ったら、とてもホワイトデーのお返しなんて言えないし、かと言って、お菓子って訳にもいかんだろ? 」と言いながらポケットから出してきた小さな、しかしアマンダが見た事もないような、美しいラッピングにリボンを掛けた小箱~『4℃』のロゴに見覚えがあったのは、7係の取り扱い品目の仕入先だったからだ~を見た瞬間、それまでの心地好い酔いがいっぺんに醒めてしまった。

 しどろもどろになりながら、掠れる声で「あ、ありがと……」と言った声が届いたのかどうかも判らないまま頭に血が昇り、まるで20倍率のテレスコピックサイトを覗いているかのような視野狭窄の果て、狭く赤暗い色彩の支配する世界に現れた、煌く小さな装飾品を見た途端、思わず涙がポロッと零れてしまった。

 こうなると却って陽介の方が焦りまくりの照れまくりで、結局前述の言葉の売り買いになったのだが、こうして落ち着いて眺めてみると、最初は戸惑うばかりだった胸の中に、ほんのり暖かい、幸福感とも呼べるものが生まれていることに気付いた。

 生まれて初めてつけたイヤリングは、実際は耳朶に然程負荷をかけないほどのささやかなものだったが、それ以上に陽介から貰った幸せの『重さ』に戸惑いを覚え、アマンダはそのチェーンに思わず指を伸ばしてしまう。

 いいのかな? 

 こんなに幸せで、いいのかな? 

 いつか消え去ってしまうだろうこの暮らしが、こんなに幸せでいいのかな? 

 こんなに幸せを貰っちまって、いざそれが消え去る瞬間、アタシは正気を保っていられるのかな? 

 ……アタシがアタシでいられなくなるんじゃ、ないのかな? 

 鏡に映る自分の顔が、不意に弱気に歪んだ刹那、ジャニスの柔らかい笑顔が鏡に浮かんだ。

『アミー。幸せを知った故の不幸せ、幸せを知らない故の低空飛行の不幸せ。……貴女はどっちをとるの? 』

「……だよな」

 アタシらしくねえ。

 鏡の中のアマンダが、淋しげな、しかしそれでも笑顔と呼べるほどの表情を浮かべた。

 後悔はとっくに済ませた筈じゃねえか。

 鼻先にぶらさがる幸せを、みすみす見過ごすほどアタシはボケちゃいねえ。

「レンジャーたるもの、機会は逃すべからず、か」

 気合を入れ直して席に戻ると、端末のAFLディスプレイにメールソフトから受信通知がポップアップされていた。

 陽介からだ。

 開いてみると、サブジェクトも本文もなく、1枚の画像データが添付されている。

 選択して開くと、象の前でピースサインを出して、照れ臭そうに微笑んでいる自分がいた。

 その幸せそうな、柔らかな笑顔が、まるで自分だとは思えなかった。

 アタシってこんな表情も出来たんだ、我が事ながら、結構感動した。

 背後の、微笑むように優しげな象の瞳が、今朝、自分を見て目を細めて誉めてくれた陽介の表情と重なって、次の瞬間、滲んで、流れた。


 昼食の時、今日は新宿で臨時会議がある、長引くだろうから先に帰っていてくれと耳打ちされた通り、陽介は新宿に出掛けて行った。

「アテンション! センター長、出掛けられます、お気をつけて」

 志保の号令に起立して敬礼を送る部下達を尻目に、アマンダは「お早いお帰りー」と生返事で答えて視線はディスプレイから離さず、指を滑らかにキーボードの上で躍らせていた。

 陽介と一緒に帰れないことなど、別に珍しいことではない。

 が、昨日の楽しかった記憶が、今日は幾分、彼女の機嫌を悪くさせていた。

 それでも、耳朶にぶらさがる幸せがリミッターとなって、周囲にそれを悟られることもなく、仕事は順調に進めることが出来た。

 ふと時計を見ると、1500時を過ぎていた。

 1時間以上、仕事に没頭していたことになる。

 アマンダがウン、と両手を机について凝った筋肉を伸ばし、煙草を咥えて立ち上がった、その瞬間。

 デスクの隅に放り出していた携帯端末の音声通信のコールランプがチカチカと点滅し始めた。

「なんだ? 珍しいな」

 出てみると、懐かしい声が耳に響いた。

「あ、雪姉ゆきねえ? 私。四季だよ」

「おう、ねえ! 久し振りじゃねえか」

 そう言えば、1月下旬に2人で飲みに行って以来、顔を合わせていないことに気付いた。

「今、忙しい? いいかな? 」

「ん。構わねえ」

 アマンダは携帯端末を片手に持って、喫煙コーナーへ移動しながら言った。

「どうしたよ? そっちこそ忙しいだろうに、なんか用か? 」

「う、うん……。や、その……」

 アマンダがその端正な眉を微かに顰めたのは、煙草の煙のせいだけではない。

 四季にしては珍しく、言い難そうに言葉を詰まらせている。

 厚かましさや差し出がましさ、調子の良さ、そんなものはこれっぽっちも感じさせない四季だが~アマンダが彼女に淡い憧憬を憶えるのも、そんな育ちが滲み出る品の良さにだった~、いざ口を開くと、こんな風に奥歯にものの挟まったような言い方は、普段はしない筈だった。

「姐、今どこ? 」

「え……? あ、か、神奈川県警本部を出たとこなんだ。……えと、その、つまり」

「判った」

 アマンダは少し厳しめの声で、ピシャリと四季の言葉を遮った。

 相手がこんな時は、こちらからシャキシャキ進めてやった方が向こうも気が楽だろう。

「どっかで逢おうや。ええと、そっちは車だろ? じゃ、日本大通りを関内駅へ向かって走らせると、左側にファミレスがある。『ガトーズ』って店だ。メシは餌レベルだが、コーヒーだけは結構イケる。駐車場あるから、丁度いいだろ。じゃあ、10分後に」 


「べ、別に無理にって訳じゃないんだ。雪姉だって忙しいだろうし、勿論、本来の任務じゃないし……」

 ファミレスにしてはマシな珈琲をアマンダが2杯お替りする間に、しどろもどろになりながら一通りの話を終えた四季は、小さな吐息を零した後で慌てて付け足した。

「こんなあやふやな状況じゃ、正式に人員も割けないし、今はまだ売春と武器闇流出の両面で考えなきゃいけない。雪姉だったら、そこらへんの裏事情も詳しいだろうし、何より腕っ節がたつし……。や、だからその、アドヴァイスというかサゼッションだけでもいいんだ、それだけでも助かるし、わざわざ現場に出て調査してほしいって訳じゃないんだよ、だから、その……、嫌なら嫌って」

「姉ちゃん、コーヒーだ! 」

 突然アマンダがあげた大声に、四季はビクリと肩を窄めた。

「お、お待たせしました……」

 へっぴり腰でコーヒーを注ぎにきたウェイトレスの方にカップを押し遣りながら、アマンダは四季を真っ直ぐに見つめたまま、口を開いた。

「アタシだって阿呆じゃねえんだぜ? マジもんの売春か、NATO余剰銃器の裏社会、もしくはテロリストへの流出か……。どっちにせよ、UNDASNとしては早いうちに芽を摘んでおきたい、唯でさえこの国じゃ、ウチらはここんところスキャンダルだらけで評判悪ぃからな。それに、確かに売春ウリでもチャカでも、地元のヤクザが絡んでる可能性は高いだろうし。ウチの情報部や警務部の連中は人探しや情報集めはプロだろうが、ハマの裏通り、闇の世界の内部事情までは暗くてお手上げ。……そこで、昔はここらで燻ってた、アタシの登場、って訳だ。……違うかい? 」

 図星を突かれたのか、四季は一瞬顔を真っ赤にしてペコ、と頭を下げた。

「その通り。……あの、ごめん雪姉、そんなつもりじゃ……」

「判ってるって、んなの」

 四季が再び、しどろもどろの言い訳を紡ぎ始めるのを、アマンダは言葉を被せて阻止した。

「なあ、姐? 」

 一転して優しげに囁くと、四季はおずおずと顔を上げた。

「いいよ、やる。姐の頼みじゃ断れねえだろ? ……って言うより、憶えておいてくれ。アタシは姐の頼みは絶対、断らない。今後も、だ」

「雪姉……」

「それよりアタシが知りたいのは、なんで姐、アンタみたいな思い切りのいい人間が、なんでこんな簡単な事が言い難いのか、だ」

 四季という人間が、任務に対して、と言うよりも自分が任され、責任を持たされた事項に対しては誰よりも誠実に、そして一所懸命になる、そんな人間だということはミハラン時代で思い知っている。

 そして、その為には持てる全てのスキル、全ての利用可能な人間関係も、有効活用して解決しようとする姿勢も。

 何より、協力を求めた全ての人間に対して、徹底的にその身を守ろうとし、もしも傷つけば自分が受けた痛みよりも優先して癒しフォローし、そして自分を責めて涙を零す人間だということも。

 それだからこそ彼女は、慕われているのだから。

 だからアマンダは、今更のように、何故彼女が自分に対しての協力依頼を、これほどまでに躊躇っているのか、それこそが知りたかった。

 だってアマンダは、四季が困っているならば、どんなときでも助けてやりたい、心の底からそう思っているのだから。

 そう、思い続けてきたのだから。

 それほどに、四季は、アマンダにとって、陽介と同じくらいに大切な人なのだから。

 そう思いつつ問い掛けたのだ。

 問われた四季は、数度口を開きかけて、チラ、とアマンダの耳朶に視線をやり、唇を噛んだ。

「……そんな、頼りねえか? それとも、それほど疎遠になっちまったか、アタシら? 」

 四季は子供みたいにふるふると首を横に振った。

「じゃあ、なんで? ……それともこの任務、なんか裏でもあんのか? 」

 四季がそんなことを、少なくとも自分に対して真の意味を隠した依頼の仕方などしないことは、ハナから判っていることだ。

 そして、案の定、四季はアマンダのブラフに飛び付いた。

「違う! ……そんな、そんなことしない」

「判ってる、すまねえ、姐。ちょいと、意地が悪かったな」

 彼女らしくもなく、そこで漸く自分が罠にかかった事を悟ったようだった。

 暫くはじっと、テーブルの上のコーヒーカップをみつめていた四季だったが、やがて覚悟を決めたかのようにふぅ、と吐息を吐いて、顔をゆっくりと上げた。

 先程までとは違う、普段通りの、澄んだ、綺麗な翠の瞳だった。

 翠の綺麗な輝きが、アマンダをほんの少しだけ、不安にさせた。


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