第57話 9-5.
「うおお……」
小さいけれど、それでもはっきりと『慄いている』ことがひしひしと伝わってくるアマンダの声が背後から聞こえた。
ついさっきまで、まるで遠足に行く小学生みたいに燥いでいたのに、と陽介は首を捻った。
ミハランで着ていたというデザート・パターンの第三種軍装~D3Mi、ミハラン・カモと呼ばれるミハラン星砂漠用迷彩だ、もちろん階級章やらインシグニアは外しているが~に身を包んで~映画やテレビの影響か、巷ではミリタリールックが流行っていたから、別に浮いているようには感じられなかった~、出発予定の1時間前には陽介の部屋のドアを叩いたアマンダのお陰で、結局ふたりは上野動物園の正面ゲートに開園45分前に到着してしまい、しかしそんな事などこれっぽっちも気にしない様子で、自宅からついさっきまで喋り詰めに喋っていた彼女の姿は、傍で見ているだけで陽介の心を明るくしてくれた。
けれど、開園して入場後すぐに、今日の二大目的の内のひとつ、パンダをまず見ようと陽介が提案した途端、アマンダは表情を硬くして貝のように口を噤んでしまった。
かと言って、見たくないと拒否する訳でもない。
平日とはいえ既に春休みに入っており、予想以上の人出だったので、人気のありそうなパンダから先に、と言う軽い気持ちだったのだが、予想外のアマンダの反応を陽介は不思議に思いながら、案内表示に従いパンダ舎へと足を運んだ。
何世紀か昔は、パンダを見るのに行列が出来、何時間も待って漸くパンダ舎に入れても、ゆっくり立ち止まってパンダを眺める、なんてことも望外だったそうだ。その頃はパンダという珍獣は外交手段の一つとして扱われていて、最恵国には『パンダを贈与』、何かしら関係に問題がある国には『パンダのレンタル』と、レア度を武器に使い分けていたとか、なんとか。
そう考えると、行列なしでゆっくりパンダを眺めていられる現状は、パンダの個体数が増えたことも相俟って、歓迎すべきなのだろう。
それでもやはり子供達には人気の高いパンダだが、開園早々ということもあるのか、まだ空いているパンダ舎に足を踏み入れた途端、アマンダは陽介の背後にまるで隠れるようにピタリと身を寄せ、恐る恐ると言った風に顔だけ肩越しに覗かせ、あろうことか両手で陽介の春物ジャンパーをぎゅ、と掴んだのだ。
「おい」
どうしたんだと声をかけようと首を捻った途端、目が合った。
「……大丈夫」
震える声でアマンダはそう言うと、視線を真っ直ぐに前方、ガラス張りのパンダの檻へと向ける。
そりゃあ、大丈夫だろう。
相手は子供達の人気者、パンダだ。
しかもそいつは強化硝子の向こう側で、暢気に座り込んでムシャムシャと笹を齧っているのだから。
訳が判らなかったが、どうも何か事情がありそうだ、なにより彼女の性格を鑑みると、クドクド突っ込んだら逆にこっちが『大丈夫』じゃなくなると、陽介はアマンダに張り付かれたまま、ガラスに近寄ってみることにした。
何か幼少時のトラウマでもあるのだろうか? 子供の時、野良パンダに咬まれたとか。
んなワケないか、などと考えながら、腕に背中にしがみ付くアマンダを引き摺るようにしてガラスの前に立ち止まった陽介は、思わず「おおぉ」と声を上げてしまった。
そして、冒頭のリアクションへと話は繋がる。
パンダが4匹。
中国から贈られた番いの2匹、タンタンとトントン。
その間に生まれた雄と雌の兄妹、ロンロンとミョンミョンである。
どれがどれかは判らなかったが、とにかくモシャモシャと笹を食っているのが1匹、木に凭れてぼーっとガラスの外を眺めながら股間をぼりぼり掻いているのが1匹、その周りでじゃれあっている2匹を見ていると、そのぬいぐるみのような愛らしい動きに、思わず引き込まれてしまう。
「ほら、アマンダ」
陽介は背中に隠れて片目だけだして覗き込んでいるアマンダに声をかけた。
「ご要望のパンダだぞ。なぁ、可愛いもんじゃないか」
そう言って腕を回し、アマンダを前に押し出そうとした。
「み、見えてるってばっ! 」
掴んだジャンパーを離そうともせず、それでもゆっくりとガラスに近づいたアマンダは、4匹に真剣な視線を向けた。
まるで、喧嘩を売ってるような鋭い表情を浮かべて。
「パンダにガン飛ばしてどうすんだよ」
呆れる思いで呟きながら、陽介はじゃれあっている2匹を指差した。
「あれがタンタンとトントンの子供じゃないかな? ロンロンとミョンミョン。よく遊ぶなあ」
「……ん」
硬かった表情が少し解れたように思えた時、股間を掻いていた1匹が徐にガラスに向かって歩いてきた。
「お、こっち来た」
陽介の言葉にアマンダの肩がビクッと震える。
「あ……」
まるで真っ直ぐアマンダを目指して歩いてくるように見えたそれは、ガラスから1mくらいのところに転がっていたゴム製のボールを抱いてその場に座り込んだ。
「こいつらも、もう大人だろうに、よく遊ぶねえ」
陽介が笑いながらそう言った瞬間、アマンダはサッと再び陽介の背中に隠れてしまった。
「お、おい? 」
驚いた陽介が声をかけると、背中からか細い声が響いてきた。
「怖ぇー」
「え? 」
「怖ぇー。……目ぇ、超怖ぇ」
「ん? 目? 」
言われて陽介は、改めて正面の1匹をじっと観察した。
確かに、彼等を垂れ目に見せている周囲の黒い毛に埋もれた黒い目は、よく見ると何やら尖った鋭い気配の野生の熊のように油断なく、人間達に向かって、ある種の気迫を込めた視線を飛ばしているように思われた。
そう言えば、昔テレビのドキュメンタリー番組か何かで、パンダは元々肉食だったが、生存環境が厳しくなった影響で、手に入りやすい笹を已む無く食べるようになったのだと言っていた記憶が蘇ってきた。
「アマンダ? 」
今やアマンダは顔すら陽介の背中に押し当てており、身体の震えが陽介にも伝わってくる。
「どうする? パンダはもう、いいか? 」
がく、がくと背中に当てた頭が二回ほど揺れるのを了承の意思表示と受け取って、陽介はアマンダの肩を抱くようにしてパンダ舎を後にした。
柔らかな陽射しが2人を包んだ途端、背中から細く長い吐息が漏れるのを聞いた陽介は、アマンダを振り返った。
「大丈夫か、アマンダ? 」
額に浮かんだ汗を、アマンダは手の甲で拭った。
「……怖かった」
「目が? パンダの? 」
陽介の問いに、アマンダはこくんと頷き、漸く真っ直ぐにその視線を彼に向けた。
「死んだ親父が言ってたんだ。『パンダさん可愛い、って言うけど、本当はお目目は怖いんだよ』って」
言葉とは裏腹に、アマンダの表情は柔らかく、それどころか薄っすらと微笑さえ浮かべていた。
「アタシが『そんなの嘘だ』っつったら、『じゃあ、今度一緒にパンダさんを見に行こうね』って」
まるで、迷子の幼子と話しているような錯覚に捉われてしまう。
優し気な微笑みを浮かべ、懐かしさを滲ませながら静かに語るアマンダの瞳に、ほんの少しの哀しみの光が見えたような気がして、陽介は、それとなく悟った。
「じゃあ、象は? 」
「『じゃあ、お目目が優しい動物はなに? 』って聞いたら『象さんだよ』って。『嘘よ、象さんは大きな身体で長い歯が生えていて怖そうだわ』、アタシがそう言ったら『じゃあ、パンダさんと一緒に象さんも見ようね』って、だけど……」
陽介は途中で尻すぼみになってしまったアマンダの声と表情から、聞かせるつもりはないのだろう『話の結末』を理解してしまった。
アマンダが父親と~母親も一緒だろうか、ともかく家族で~『パンダさんと象さんを見に行』く機会は、きっと果たされなかったのだろう。
理由は、判らない。
判らないけれど、それを詮索する気も今は起きなかった。
幼いアマンダとその家族にどんな事件が起こったのか、知りたくはあったけれども今は、それ以上に。
陽介は驚きを通り越して、目の前の『姉御』の知らない素顔をまたひとつ知ったことに、不思議な感動さえ覚えていたから。
そして、父親とは来る事の出来なかった彼女の傍に、今自分が並び立っていられることが、大袈裟に言うと奇跡のように思えて、自己満足かもしれないけれど素直に、嬉しかったから。
「よし……。じゃあ、象のところ、行くか? 」
頬を染めてコクンと頷くアマンダを見て、陽介は思う。
意外と彼女は、幼い頃から然程、変わっていないのではないだろうか。
「うおーっ! 」
文字にすればパンダを見た時と同じだが、今度のそれはまったく違う響きを持っているのが陽介には判った。
横顔を見るだけで、はっきりと判る。
いつもは鋭すぎる程の輝きを放つアマンダの瞳は、今は純粋な喜びで煌いていた。
「……すげぇ。デカい」
そう呟いたきり、普段はキリッと引き結ばれて容易なことでは開かない彼女の唇は、今はぽかんと開いたままだ。
子供のような純粋な笑顔、ってのはまさにこんな顔のことを言うんだろうな。
使い古された言い回しだけれど。
陽介は、滅多にお目にかかれないアマンダの笑顔を眺め、続いて彼らの正面で長い鼻をゆっくりと振っているアフリカ象に視線を移す。
身体に比して、優しさとある種の知性の輝きを点したつぶらな瞳を見て、さっきのアマンダの話を思い出した。
「親父さんの言うとおり、優しい瞳だな」
そう言ってやると、彼女は漸く陽介の方を振り向いた。
「うん。親父の言ってたの、ホントだった! 」
アマンダはそう言うと、今度こそはっきりと判る笑みを浮かべ、優しげな光を湛える潤んだ両目を一層細めて見せ~いつもの迫力のある半眼ではない、正に、目を弓にする、と言う表現はこういう時に使うんだ、と思い知った~、すぐに象に視線を戻した。
象はちょっとした小学校のグラウンドほどもある敷地に、見える範囲で4頭確認できる。
腰まである鉄製のフェンスと幅2mほどの堀に隔てられ、春の暖かな陽射しに誘われたのか、象達は自由気儘に、ゆっくりと歩き回っていた。
ふたりの正面にいた象が、ゆっくりと頭を振りながら歩くと、アマンダは隣の陽介を押し退けるように横歩きで象について歩く。
象が足を止めると、アマンダも移動をやめて、フェンスを乗り越えるのではないかと思うくらいに身を乗り出して、飽かずに象を眺めている。
象が身体を傾げる様に右を向くと、アマンダも釣られて首を傾げる。
反対側を向けば、アマンダもまた反対へ。
10分ほども陽介はそんなアマンダに付き合って隣に寄り添っていたのだが、幼稚園児らしい数人が「象さんだー」と叫びながら柵に走り寄ってきたのを言い訳に、彼女の隣を子供達に明け渡して、5m程離れた木陰のベンチへ腰を下ろした。
陽介自身、動物園など久し振りで~高一の時、クラスの女子と初デートで行った近所の動物園以来だった~、今日もそれなりに楽しんでいたのだが、今は『象を見ているアマンダ』を見ているほうが何倍も楽しい、そう思うようになり、彼は彼で飽かずに彼女の後姿を眺めていられる。
象が鼻を伸ばす、大きく振る、草を食べる、耳をバサバサと動かす。
その都度アマンダは、手を叩いたり首を振ったり小さく跳ねてみたり肩を震わせたり、本当に見ていて飽きない。
堀越しに鼻を伸ばしてきた時など、両脇の幼稚園児と一緒になって柵から身を乗り出して手を差し伸べたりしているのだから。
「ほんとに、今日は誘って……、いや、動物園は正解だったなあ」
そんな後姿を見ながら、しみじみ思う。
本当に、今日はアマンダを楽しませることが出来て。
いや、アマンダとふたり、予想以上に楽しい時間を過ごすことが出来て、本当に幸せだと。
けれど陽介は、この時はまだ、本当の幸せの意味に気付けてはいなかったと、後に知ることになる。
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