第52話 8-4.


 そしてアマンダは数時間後、白い息を薄暗い廊下に舞わせながら、安物臭いスチール製のドアの前に立っていた。

 掌の上には、今まで手にした事もないような、上品で華奢な、お洒落な細長い箱。

 奨められて、バレンタイン用の包装にしてもらったのが、今更ながら恥ずかしくて放り出したくなってくる。

 小さなチョコが6つ、一列に並んだちっぽけな箱が、あまりに重く感じられて帰り道、電車の中でもずっと両手で握り締めてきたし、自転車に乗るときさえ、片手運転だった。

 陽介が既に帰宅していることは、路上から見上げた彼の部屋に灯りがついていることで確認済みだ。

 後は。

 渡すだけ。

 それだけの、筈。

 それだけの筈が、既に10分を経過して、何ひとつ状況は変化していない。

 躊躇いつつ呼び鈴に伸ばした指先が、その周囲の空気を無意味に撹拌してまた離れていく、そんな動きをもう、何度繰り返したのだろう。

 いったい……、なんと言えばいいんだろうか? 

 ジャニスに聞いておけばよかったと悔やむが、後悔先に立たず。

 頭がクラクラするくらい振っても、例え逆立ちしたって、その手のボキャブラリは欠片も転がり出る筈もない脳味噌であることは、持ち主の自分が一番良く知っていた。

 アマンダは、まるでそれ自体が大切なお守りとでも言うように、胸にチョコレートの箱を抱き締めて、長い睫毛を伏せ、大きく深呼吸を1回、2回。

 焦るな、アタシ。

 渡すだけ。

 渡すだけじゃないか。

 よし、と口の中で呟きアマンダは呼び鈴へ手を伸ばそうとしたその刹那。

 ガチャン、とこれまた安物臭い音を立てて扉が開いた。

「なんだ、やっぱりお前かぁ」

 そう言いながら陽介が顔を出した。

 顔を、出してくれた、と言うべきなのか、出しやがった、と言うべきなのか。

 アマンダは思わず、手を背後に回す。

 しまった、隠してしまった。

 隠さず、そのまま陽介に差し出すだけで、ミッション・コンプリートだったのに。

 パニクるアマンダを尻目に、陽介は普段通りの笑顔を向けてきた。

「なんだか、さっきから廊下でブツブツ喋ってるおかしなヤツがいるなぁ、って思ってたんだよ」

「そ、それで『やっぱり』って、どういう意味だよ! 」

 取り敢えずは噛み付いてみたものの、どうにも渡し難い状況にアマンダは窮してしまう。

「で、なんだ? ……あ、俺、今日の晩飯は時間が不確定だからいらないって言ってあったよな? 」

「う……」

「とにかく、そんなトコで突っ立ってないで入れよ。寒いだろ? 」

「あ……」

「メシ食ったのか? 」

「ま、まだ……」

 ああ、駄目だ。

 アマンダはついに『戦術的撤退』を決意する。

 陽介は、当然のことながら普段通りの『ほんわか日常ムード』で、逆にアマンダにしてみれば『非日常』を持ち出し難いのだ。

「ま、また来らあっ! 」

 言い捨てて踵を返そうとしたアマンダの腕が、ガシッと掴まれた。

「! 」

 引き止めた者、引き止められた者、互いに一点をみつめフリーズする。

 陽介が掴んで自分の胸元へ引き寄せた腕の先、しっかり握られた、お洒落な小箱。

 どうしよう?

 どうすればいい?

 陽介は暫く小箱をみつめてから、徐に顔をアマンダに向けた。

「なんだ、これ? 」

 問われて初めて、アマンダは腹を据えた。

「……チョコだよ」

 不思議そうに首を傾げる陽介に、アマンダは今日1日の自分の惨めさを思い出し、瞬間的に頭に血を昇らせる。

「馬鹿野郎、2月14日にチョコとくりゃあバ、バレンタインに決まってんだろうが、このトーヘンボクッ! 」

 一瞬、陽介の顔から笑みが消えたように思え、今度は逆にアマンダが首を傾げた刹那、陽介はヒョイと掌から箱を取り上げると、いつも通りの笑顔を浮かべた。

「や、そうか! すっかり忘れちまってた。ありがとう、アマンダ」

「う……」

 あまりにもすんなりコトが終わってしまい、却ってアマンダは言葉に詰まってしまった。

 が、陽介はそんな彼女の様子に頓着せず、腕を掴んでいた手を離し、さっきまでチョコが握られていた掌を改めて握って言った。

「とにかくあがれよ。コーヒーでも淹れるから」

「あ……」

 有無をも言わさず、陽介はアマンダを室内に引っ張り込み、コタツに座らせてから、自分はそのまま台所へと立った。

 土壇場でゴタついたものの、良かった、漸く渡せたと胸を秘かに撫で下ろす。

 そして、さっきまでチョコを掴んでいた掌に、アマンダは視線を落とした。

 陽介と、手を繋いだ。

 さっきまで緊張とチョコの重みで感覚すらなくして、まるで自分のものとは思えなかった手が、今は指1本1本、爪の先まで陽介の掌の暖かさに触れて、喜びに打ち震えているように思えた。

 ジャニスの言った言葉の本当の意味が、初めて判ったような気がした。

 バレンタインのチョコレートは、本当に、魔法のアイテムだったようだ。

「お待たせ」

 炬燵の天板においた掌の横に、コトン、とアマンダ用のマグが置かれる。

「……ん」

 顔を上げると、陽介は彼のマグの横に箱を置いて、さっそくリボンを解き始めていた。

「これ、GODIVAだろ? 高かったんじゃないのか? 悪かったなあ気ぃ遣わせて」

 高島屋地下に数えられないほど居た、自分と同じ想いを抱いている何人が、今夜、無事に思いを届けられたのだろう、そう思うと目の前で今開かれようとしている包みを黙って見ていることに堪えられなくなり、アマンダは思わずゴロンと横になって炬燵布団を被る。

「……そいつがGODIVAだって、お前、よく知ってんな」

 ふと気になって訊ねると、陽介は何事もないようにそれに答えた。

「だってお前の7係だろ? 昨年の暮れ、PXのバレンタイン・セール用だって、山ほど調達してたじゃないか」

「……あ」

 そうだった、忘れてた、道理で聞いたことがあると思った。

 余計に自分の馬鹿さ加減が嫌になる。

 さすがアタシ、こんないい歳になったと言うのに、たかだかバレンタインで大騒ぎするような女だ、何処までアタシは上手く立ち回れないのだろう?

 ジャニスの言葉に絆されて、柄にも合わぬチョコレートなど買ってはみたが、想いを届けたその後に残るこの虚しさは、なんだろう? 

 理解していた筈だったのだ。

 どうせ届かぬ、想いだと。

 浮かれてたんだ、みっともない。

 天井で輝く照明に向かい吐息を吐いたその刹那、陽介の声が響いた。

「おっ、美味いな、こりゃあ」

「……高かったからな」

 気のないアマンダの返事に、陽介は構わず明るい声で言葉を継ぐ。

「おい、お前も食べてみろよ」

 アマンダは答えず、しかし陽介の笑顔が無性に見たくなって身体を起こす。

「……今は、いらねえ」

「や、ちょっと食ってみろって。ほんとに美味いよ」

 奨められてアマンダは、一列に並んだ一番端の、二枚貝を模った粒を摘み上げる。

 確か、シェル・プレーン、とか言ったか。

 口に放り込んでからふと気付くと、陽介がニコニコ笑いながら、じっとこちらを見ていた。

「……んだよ? 」

「どうだ? 美味いだろ? 」

「テメエが作ったみてえじゃねえか」

「違うけど、さ。でも、美味いだろ? 」

 そして、悪戯っぽい笑顔を見せて続けた。

「あ、ハート、戴き、な? 」

「え……? 」

 思わず口の中のチョコを飲み込んでしまう。

「お前のくれたハート、戴いた、って言ったんだよ」

 そう言うと、陽介は照れ臭そうにアマンダの顔から視線を逸らし、少しどもりながら言葉を継いだ。

「……マジチョコ、だったら感激だな」

 途端に顔が真っ赤になるのが、自分でも判った。

 嬉しい。

 が、口をついて出た言葉は正反対の言葉だった。

「ばばばばば馬鹿野郎っ! 」

 言うなりアマンダは再び畳に寝転がって、炬燵布団を頭から被る。

 布団の外から、陽介の声が響いてくる。

「あははは、すまんすまん。からかうつもりはなかったんだ」

「あったりまえだバカッ! アタシをからかうなんざ、100年早いんだよっ! 」

 言いながら、涙が零れて仕方なかった。

 マジチョコだ、と大声で答えたかった。

 アタシは、あんたが欲しい、あんたの笑顔が、心が、全てが欲しいと叫びながら、彼に抱きつきたかった。

 同時に、調子に乗るな、浮かれてんじゃねえぞと囁くもうひとりの自分の声が届いて、開きかけた唇は虚しくパクパクと開閉を繰り返すだけだ。

『そんな調子に乗ってると、最後の最後でドデカイどんでん返しを食らうぜ? ここで退いときゃ、まだ傷も軽くてすむ筈だ。踏み込みゃあ、二進も三進もいかなくなる。どだい、お前にゃあ、この程度の『シアワセ』でも望外ってヤツだろう? それともなにか? 抱かれた挙句、何れ訪れる別れの時を考えて涙のひとつでも零すのか? お前はいったい、いつからドMになったんだ? 』

 そうだ。

 それすらも、陽介と再会する前から……。

 いや、よくよく考えてみれば、あの餓鬼だった時分から、アタシは理解し、無理矢理納得して、ミソもクソも一緒くたに飲み下し、今日まで生きてきたんじゃなかったか? 

 確かにそうだ。

 この瞬間が得られただけで、アタシは充分シアワセだ。

 ジャニス、ありがとう。

 受け容れられてはいないけど、想いの欠片を届けることには、どうやら成功したようだ。

 ほんとだぜ? 

 ほんと、アタシは今のままで充分さ、もう腹一杯。

 嘘じゃねえ。

 だってホラ、涙が零れて仕方ねえんだ、さっきから。

 けど、せめて。

 許されるのなら、ほんの少し。

 今夜は、こんないい気分のまま、甘えさせてもらおうかな。

 いいよな? 

 それくらい。

 自分の物じゃねえがかまやしねえと、涙で濡れた頬をゴシゴシと布団で拭って、誤魔化しついでに我侭をひとつ。

「……腹減った」

「ん? ……そうか、お前、晩飯まだだったか? 」

 陽介はそう言うと、よっこらせと言いながら立ち上がった。

 そっと布団をずらして目だけ覗かせると、陽介は不器用そうな手付きだが、しかし丁寧に、慎重に、チョコのラッピングをし直していた。

「さて、続きは明日、また戴くとして……」

 アマンダが布団から瞳を覗かせている事に気付いているのかいないのか、陽介は呟くようにそう言うと、今度ははっきりとアマンダに視線を合わせて柔らかく微笑んだ。

「お礼もかねて、チャーハンくらいなら作らせて貰うけど? 」

 思わず見惚れてしまいそうな笑顔が眩しすぎて、アマンダは再び布団を頭の先まで引っ張り上げる。

「仕方ねえから食ってやるよ。アタシ、大盛りな」

「あいよー」

 言いながら台所へと歩いていく足音を聞きながら、アマンダは直前に見た彼の表情を思い浮かべる。

 LEDの灯りに縁取られ、影になった彼の笑顔はしかし、それ故かまるで夢のように柔らかく心に沁みこんできて、これまでの辛かった、哀しかった、苦しかった全てを忘れさせるほど、彼女の心を蕩かせる。

 まるで、『もうひとつの宝物』と一緒に受け取る、真夏の陽光のように。


「なんだよお前、そんなに慌てて。もう、買い物いいのか? 」

 のんびりとした、しかしいつもやすらぎを与えてくれる陽介の声に、アマンダは『幸せの絶頂だったあの夜』の回想から現実へと引き戻される。

 引き戻されたそこは『ほろ苦い現実』と相場は決まっているのだが、今は違う、その実感がますます、涙に濡れた頬へ、まだ足らぬとでもいうように新たな滴を溢れさせている。

「やべ……」

 慌てて両手で顔をゴシゴシと擦り、照れ隠しの足しになればと煙草を咥えて火を吸い付けてから、横顔だけを彼に向ける。

「遅ぇよ。風邪ひいちまわぁ」

 口をつく言葉は、やっぱり、想いとは真逆。

 日本は『言霊の幸いする国』だと、本だかテレビだかで言っていたけれど、だとするとアタシは今頃不幸のどん底の筈だよなあ、と頭の片隅でチラ、と考える。

「なんだよ、勝手にどんどん先行っちまったクセに……」

 なのに、幸せを感じられる今を過ごせているのは、いったいどう言うことなのだろうか。

 もそもそと口の中で唱える文句を背中に聞きながら、アマンダは緩む頬を意地でも見せまいと、勢いよく両手で顔を叩き、陽介のほうを振り返った。

「……行こうぜ。腹減って死にそーだ」

「そうだな。俺も腹減った」

 買い物袋を前籠に入れ、いつもの通り自転車の二人乗りで家路を急ぐ。

 咥え煙草のままアマンダが夜空を見上げると、冬の凍てつく、しかし澄んだ大気の底から見上げる星空は、一際煌びやかに、そして一層遠く感じられる。

「……あんな遠くから持って帰ってきた想いが」

 今夜、人生最大の幸福を与えてくれたことが、未だに信じられないでいる。

 誰に聞いた話だったか、冬、天気さえ良ければ高緯度地帯から5等星くらいの明るさでミハランの太陽は見えるらしい。

 日本、関東地方が高緯度かと言うと微妙ではあるが、それでもアマンダは、満天に輝く星々の適当なひとつをそれと決めつけ、心の中で囁きかけた。

 あん時ゃあ、電磁波嵐だの熱砂の地獄だの、散々苦労させられたけどよ。

 そのお蔭でアタシぁ今夜、最高の気分だぜ?

 普段より温かく感じられる陽介の背中が、その時ふ、と動いたように感じられた。

「……なあ、アマンダ? 」


「さっきの話なんだけどさ……」

 アマンダからの返事はなかったが、陽介はそんなのいつものことだとでも言うように、構わず言葉を継いだ。

「動物園……、とか、どうかな? 」

 アタシを餓鬼扱いするなと怒鳴られるかと思わず身構えたが、予想に反して背後のアマンダは怒鳴るどころか、身体を動かす気配すら、ない。

「……アマンダ? 」

 再び、おそるおそる呼びかけると、今度はポツンと、反応が返ってきた。

「パンダと、ゾウ」

「え? 」

 思わず訊ね返す。

「パンダと、ゾウが見てえ」

 やっぱり、予想の遥か斜め上をいくリアクションを得て、驚きつつも陽介は密かに安堵の溜息を吐く。

 怒鳴り返されなかったことへの安堵と、賛成してもらえたことへの喜び、そしてそれ以上の、新鮮な驚き。

「パンダとゾウ……。なら、上野動物園、だな」

 ん、と触れ合う背中を通じて振動で判る程度の微かな了承の返事に続いて、照れ隠しのような、不機嫌な声が今度は耳に届く。

「もっぺん言っとくけど、弁当はアタシ、な? 」

「りょーかいりょーかい」

 本当に誘って良かった、という陽介の思いが、ペダルの回転にあわせて規則的に吐き出されては後方へ飛び去る白い息と一緒に夜の街に溶け込んでいった。


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