第51話 8-3.
「ああ、なるほど、了解しました。もう一度、そのセンで交渉してみます」
3班長のボロディン・ゴルバチフスカヤ二等艦尉が、如何にもスラブ人らしい髭に埋もれた彫りの深い顔に納得の表情を浮かべ、椅子から立ち上がった。
「……ん。西日本電源開発公社は第4四半期の業績予想、下方修正してたからよ。九州地区でこんだけ需要増だってんだからヨダレ垂らして飛びつかぁ」
ボロディンに続いて立ち上がり、ラッキーストライクを1本箱から振り出して唇に咥えながらアマンダはダルそうに言った。
「なんなら、来期の第2四半期、長崎で2発ほど波動エンジンの換装工事があるとか耳元で囁きゃあ、イッパツで転ぶさ」
アマンダは国際機関公正取引条約スレスレの台詞を吐きながら、フロアの隅にある喫煙コーナーに向かった。
普段通りのスカル・フェイスでいるつもりだったが、その実、アマンダの胸中では嵐が吹き荒れていた。
しくじっちまった……。
完っっっっっ全に、忘れちまってた……!
クソッタレ陽介の野郎、欲しけりゃ欲しいで催促なりなんなり、アピールってもんがあるだろうがっ!
アタシがこんな人間だってことくらい、判ってるだろうに!
アタシはこんな軟弱で甘々なイベントなんざ、ハナッから興味ねえんだ。
だけど、お前がちょいと匂わせさえすりゃあ、いくら硬派のアタシでも、よ?
安物で良けりゃあ、チョコの1個や2個、やらねえって訳じゃ、ねえんだからよ。
金がねえ訳じゃねえんだからさぁ?
そりゃ、連中みてえに恥ずかしげもなく、オフィスなんかで渡したりなんかしねえけどよ。
晩飯ん時でもホレッてな感じで渡してやっても良かったんだ。
ええと……。
うん。
……嘘だ。
……嘘。全部、嘘。
……ほんとは、気付いてたんだ。
ずっと前から。
でも、アタシなんかが浮かれて、お前にチョコなんざ渡せる訳、ねえじゃん……?
お前の困る顔なんて見たかぁねえから、さ。
お前に迷惑、かけたくないから、さ。
アタシのことでお前が困るなんて、そんなの、アタシ自身が許せねえから、さ。
だから、仕舞い込んでたんだ。
心の奥の、そのまた奥へ、仕舞い込んでたんだ。
だって陽介、お前にゃいつだって、ニコニコ能天気に笑ってて欲しいから。
だって、アンタはヒーローなんだもん。
ちょいと頼りないけど、アンタはいつも一所懸命、アタシを助けてくれるヒーローだもん。
だから、なんもかんも納得済みで、今日のことは心の奥底へ仕舞い込んだ。
……その筈だったのに。
こんなに心が騒めくのは、何故なんだ?
こんなに不安で泣いちまいそうになるのは、何故なんだ?
いや。
そんな疑問すら、実はずっと以前から判っていたことだと、今更ながら気付いたのだ。
「……アレだ」
そう呟いて、両手で抱え込んでいた頭を上げると。
目の前に、優しげな微笑を浮かべたジャニスがいた。
「ジャニス……」
吸煙機の組み込まれたカウンターから慌てて身体を起こし、ひょっとして知らないうちに泣いてはいないかと拳で両目をゴシゴシ擦りながら、適当な言葉で煙幕を展張してみた。
「め、珍しいじゃねえか。ヤニ、嫌いなんだろ? 」
掠れてはいたが、思ったより湿っぽい声ではなかったのでまずは一安心だ。
「嫌いだけど」
ボソ、とそう言って、ジャニスは急に悪戯を思いついた小学生のような表情を浮かべ言葉を継ぐ。
「火のついてない煙草は嫌いじゃないよ? 」
言われてアマンダは、口に咥えたままになっていた煙草を指で摘み取り、決まり悪い思いでクシャ、と指の間で潰して灰皿へ落とした。
「何の用だよ? 」
ぶっきらぼうなアマンダの言葉に怯む様子もなく、ジャニスはニコニコと微笑みながらメモ用紙を1枚、差し出した。
「……ん? 」
受け取らぬまま、アマンダはジャニスの顔を見た。
「ハードボイルドで、クールなアミーに、バレンタインなんて確かに似合わないと思うけど」
「わ、判ってんなら」
このままジャニスを放置しておくと取り返しのつかない事になりそうで、慌てて口を開いたアマンダだったが、あっさりとジャニスに封じられてしまう。
計画的犯行と出来心の差だ。
「黙って他人にセンター長をイジらせておくアマンダは、もっと、らしくないわよ? 」
思わず顔を振り向け、口を開きかけたアマンダを、ジャニスは再び、ビシリとフリーズさせる。
「あの、素手で防弾ガラスを叩き割った貴女の想いは何処へ行ったの? 」
ざあっ、とどこかで音がした。
暫く経ってそれが、頭から血の気が一気に足元へと下がる音だと気付いたのは、カウンターについた指先が妙に冷たく感じられたからだ。
「あの娘……。明石さん、本気だよ? 」
そう。
ソレ、だ。
納得済みで重石をつけて心の奥底へ沈めた思いを、苦い滴を垂らしながら力任せに引き上げさせたのは。
「別に、私は貴女をけしかけてるつもりはないの。勿論、愛の告白をしなさいって言ってる訳でも、ない」
不意にジャニスの口調から力が抜ける。
「貴女に……、貴女とセンター長の間に、今日までに何があったのか、私は知らない。ひょっとしたら貴女、このまま何のアクションも起こさないまま、そっと離れていこう……、そう思っているのかも知れない」
図星を指されてアマンダは、思わず拳をぐっと握り締める。
どれだけ力を込めて握り締めても、冷え切った手は暖まらなくて、心が悲鳴をあげているような気がした。
「それは貴女が決めた事だから、私がとやかく言うことじゃない、それくらい私だって子供じゃあるまいし判ってるつもりよ? ……でもね」
ジャニスの笑顔が、フ、と曇ったように思えた。
「想いの欠片だけでも投げ掛けたって、いいじゃない? バレンタインのチョコってのはね、そんな女のギリギリの表現なの。『
そうだ。
アタシは、あの日から、今日まで、この瞬間まで、ずっと。
陽介、アンタに『想いの欠片』を渡したい、心の何処かで、ずっとそう願ってきたんだ。
「想いを届けて、受け入れられずに泣くのと……。想いを届けられずに泣くのと……。私は絶対、後者は嫌。バレンタインのチョコってのはね? そんな臆病者の魔法のアイテムなの」
ジャニスは手に持ったメモ用紙を、そっとアマンダの握った拳の下へ差し入れる。
「明石さんは、それを使った。……だったら? 」
言葉を切って、ジャニスはゆっくりとその場を離れながら言った。
力一杯握り締めても感覚さえ戻らなかった冷たい手が、指が、たった1枚のメモ用紙でじわじわと温もっていくのが判る。
「後は貴女が、考えなさいな」
「お、お前がそこまで言うなら、よぉ」
少し湿っぽいが、さっきよりは余程しっかりした声が出せた。
「買ゃいいんだろ? 買ゃあ! 」
「貴女らしい言い草、だわ」
苦笑交じりに呟いて去っていくジャニスの背中に、アマンダは首を折るように頭を下げた。
毎日
もちろん、その背後で笑いを抑えかね、身を捩じらせて酸欠状態に陥っているジャニスの姿があったことなど、アマンダは気付けなかった。
表通りまで一気に走り、まるで当たり屋のように車道へ飛び出して無理からタクシーを捕まえた。
運転手の抗議と後続車のクラクションの嵐を遮って、後部ドアを手で開けてシートに転がり込み、前席のヘッドレストを両手で掴んで行き先を叫ぶ。
「横浜高島屋だ! 急げ! 」
迫力に押されて走り出した車の中で、アマンダは握り締めたメモ用紙をそっと開いた。
それは、横浜高島屋地下食料品街、GODIVAショップの地図だった。
『マジチョコなら断然ココ、オススメ! 明石さんのはたぶん5個入りだよん! 』
「すまねえ、ジャニス、恩に着る」
たぶん自分ひとりだったら、そんな小洒落た店など探すことさえ出来ず、挙句の果てはコンビニかいつもの24時間スーパーで買うしかなかったろう。
思わず溜息を零した途端、運転席から声が届く。
「ええと、横浜高島屋のJR側……、西口ですか? それとも、3号線側、高架の辺り? 」
「これだこれ! 地図! 」
差し出されたメモを見て、運転手は暫く無言だったが、ゆっくりとそのメモをアマンダに返しながら憮然と言った。
「お客さん。いくらなんでも、地下にはいけませんよ」
アマンダはグッと唸って唇をキュッと噛み、それからヤケクソのように叫んだ。
「いいから、急げ! 」
アマンダの叫びに押されるような勢いで、ITSの呪縛を抜け出したタクシーは通常10分近くかかる行程を6分半程で走り切り、JR高架下の高島屋前に横付けた。
万札を叩きつけるように前席へ投げ込んで飛び降り、夕方の雑踏を掻き分けながらB2食料品(菓子・酒類・贈答品)フロアへ走り込んで、アマンダは思わずその場で立ち竦んだ。
女性平均身長よりも頭二つほど背の高いアマンダが見渡した広大な地下食料品売り場は、その1/3程の一角に来店客の90%が集中して、阿鼻叫喚の地獄絵図(? )のような様相を呈していて、逆にその他の売り場は閑散としていたからだ。
ゴクリと生唾を嚥下して握り締めたジャニスからのメモ用紙を見ると、その『地獄絵図』の辺りがどうやら洋菓子のコーナーであると知れた。
いつものアマンダなら、ほぼ100%の確率で『回れ右』をしているところだろう。
だが、彼女の黒い瞳は、まるで何者かに取り憑かれた人間のそれのように、じっとその人だかりをみつめて動かない。
アマンダの脳裏には再び、後悔と情けなさ、あまりにも間抜けな自分への呪詛が渦巻いていた。
『バレンタインのチョコってのはね? そんな臆病者の魔法のアイテムなの』
今、自分の足を竦ませているのは、苦手な混雑と喧騒があるからではない。
今なら、理解できる。
あの女性達から立ち昇る、魔法のアイテムに縋りたくなる程の、切なく、そして甘くて熱い『想い』が、迂闊にもそれが抜け落ちていた馬鹿な自分には眩しすぎるのだ。
小さな、小さなチョコレートに込められた想いに、だから男達は振り回される。
口ではなんとでも言える、菓子業界の陰謀、バレンタイン商戦における経済効果、乗せられて浮つく男と女、薄っぺらな価値観。
だが、それを買い求めようと、イベントを素敵なものにしようと目の色を変えている目の前の彼女達が心に秘めた想い。
そして、大して食べたくもないそれを貰えるのか貰えないのかと一喜一憂する男達の、辺りを窺うような無様にも見える姿の裏に潜む、淡く切ない、しかし真摯な希い。
99%の義理に紛れるほどの、しかし、その時点での己の全てを賭して問う、1%の本気。
『想いを届けて、受け入れられずに泣くのと……。想いを届けられずに泣くのと……。私は絶対、後者は嫌』
再び脳裏で囁くジャニスの眩しい笑顔に、アマンダは頷き、応える。
やってやる。
握り締めたメモ用紙に視線を落とす。
いやジャニス、お前の為じゃねえ。
勿論、バカ陽介の為でもねえ。
アタシの、自分自身の為に。
アタシが後悔しない為に。
アマンダは眦を上げ、ゆっくりとメモ用紙に記された場所へと歩いた。
通勤ラッシュのJR車内よりもひどい混雑をすりぬけ、一際熱気のある女性達の壁の向こうに、網膜に焼きついたロゴが見えた。
思わず、ゴクリと生唾を嚥下する。
聞えたわけでもあるまいが、徒ならぬ『殺気』でも感じたのであろう、アマンダの目の前でショウケースを覗き込んでいたOL風の若い女性達が振り返り、彼女の顔を見た途端、一様に怯んだ表情を見せておずおずと身体をずらす。
自然と開かれた道の向こうに、ショウケース越しで見事な営業スマイルを浮かべた若い店員が、アマンダに向かって明るい声を上げた。
「御注文、お伺いいたします! 」
いいのか、並んでたんじゃねえのか、と目で問われた先客達が無言で首を横に振るのを確認して、アマンダはすまねぇと口に出しながら一歩ショウケースに歩み寄り、甘い、ハスキーな、しかしよく通るアルトで言った。
「ねえちゃん、マジチョコ、くれ。6個以上の、だ」
店員の笑顔がフリーズした。
周囲の客達が一斉に自分の顔をみつめているのに気付いたアマンダは、自分が勢いに任せて、これ以上ない程恥ずかしいミスをしたことを悟った。
”うわっ! アタシなんてこと言っちまったんだ! ”
途端に頭に昇る血で目の前が真っ赤になり、居た堪れずに背を向けようとした彼女の腕を取ったのは、さっきまでフリーズしていた若い店員だった。
思わず顔を上げたアマンダに、彼女は変わらぬ明るい声でこう言った。
「お選び下さい、お客様」
そして、ふと、声を顰めた。
「マジチョコでしたら、こちらのプラリネやプレーンを中心としたアソートメントで、ハートミルクを必ずおひとつ、どうぞ? 」
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