第50話 8-2.
2月14日。
この日アマンダは、どうにも仕事が捗らない、下らないミスを連発してしまうと言った、自分の不調の原因を掴み切れずにいた。
「陽介がいねえから……、なんてことはねえか」
転がり出てきた子供の言い訳みたいな言葉に、思わず苦笑を浮かべてしまう。
陽介は2月13日から1泊2日の出張に出ていた。
昨日は、早朝、彼と一緒に新横浜まで行き、見送ってから出勤して、どことなく頼りない日常をなんとか埋めようと、仕事をパテ代わりにして心の空白を埋めつつ大車輪で働いたアマンダだったが、今日は昨日と違い、朝からなかなか調子が出なかった。
どうにも仕事に集中できないのだ。
いつもの営業用の愛想にもキレがなく、普段なら鼻歌交じりで書き上げる検収遅延報告書や入札結果報告書も、イマイチ筆が走らない。
ブラインドタッチも今日に限ってミスタッチが多く、簡易DB言語で組み上げた調達予実対比レポートに致命的なバグを発見した
陽介の不在が、自分の不調の原因だとは思いたくはなかったが、完全に否定し切れない自分がいることも、また確かだ。
ただ、ここまで仕事に打ち込めない、打ち込んではいるが調子が出ないことは珍しい。
陽介が仕事で不在などというシチュエーションは、特に珍しいことではない筈なのだが。
不思議に思いながらも、取り敢えず気分転換でもするかと、アマンダはラッキーストライクを口に咥えながら席を立ち、喫煙コーナーへ行こうと振り向いた。
と、丁度背後の通路を歩いていたジャニスと肩が当たった。
「お、悪ぃ」
「あ、ごめんね」
お互い言葉を交わしたところで、アマンダの視線はジャニスの手元に注がれた。
彼女の手元には、キラキラと輝く包装紙に包まれ、色艶やかなリボンや造花で美しくラッピングされた、プレゼントらしき箱が抱えられていたから。
「? 」
アマンダの無言の問い掛けに、ジャニスが答えた。
「え? ……ああ、これ? 」
そして、悪戯っぽい表情を浮かべて声を顰める。
「貴女も用意してるんでしょ? 」
「……ん? 」
一旦首を捻ったアマンダの半眼が、ゆっくりと見開かれる。
同時に口がゆっくりと開き、唇から煙草が音もなく床に落ちた。
「……今日、何日だ? 」
「え」
ジャニスの笑顔が凍りつく。
「2月14日……、ってちょっとアミー? 」
アマンダは返事もせずに、大股でセンター長室に向かって歩き出した。
「畜生! それで、今日は背後がガタガタと落ち着かなかったのかっ! 」
そうだ、今日はセンター長室は無人の筈なのに、背後の通路の往来がヤケに多いと、気にはなっていたのだ。
集中できなかった原因に思い至るも、いや今はそんなことどうでもいいとアマンダは、無人の筈のセンター長室のドアを、バァンッとフロア中に響き渡るほど激しい勢いで開いた。
「なっ……? 」
「なにしてやがるっ? 」
怯えたようなか細い声と、迫力ある誰何する声が交叉した。
「ちょ、ちょっ! アミーってばぁっ! 」
ワンテンポ遅れて、後を追ってきたジャニスの声に、アマンダは我に返った。
「明石……」
「さ、沢村係長……」
アマンダの前で薄い肩を震わせているのは、総務会計係長の志保だった。
色白の整った顔が今は青褪め、主の居ないセンター長のデスクに両手をつき、仰け反らんばかりである。
その様子を見て、流石に申し訳なく思い、アマンダは肩の力を抜いてペコ、と頭を下げた。
「や、すまねえ、怒鳴っちまって……」
志保も、その言葉で漸く緊張を解き、半分お尻が乗っていたデスクから離れ、きっちり着込んだ第1種軍装の乱れを直しながら言った。
「い、いいけど……。どうしたの、一体? ウィーバー係長まで一緒になって、血相変えて……。緊急事態でも? 」
問われて言葉に詰まり口をパクパクさせているアマンダに気付いたジャニスが、ぎこちない笑顔を浮かべながら一歩前に出て、子供じみた口調で答えた。
「じゃじゃーん! これだよこれ! バレンタイン・ギフト持ってきたの。明石さんは? 」
志保も、この際ジャニスの笑顔に乗らずにいられるかとばかりに、同様のぎこちない笑顔を浮かべて答えた。
「ウィーバー係長も? 私も、ほら」
そう言って指さすデスクの上には、ジャニスの派手やかなものとは違って、シックな包装紙と黒いリボンの小振りな箱。
リボンの隙間には、上品な花の絵柄のカードが挟み込まれている。
よく見ると、陽介のデスクの上は、志保のギフト以外にも、様々な色や大きさの『プレゼント』が山積みになっていた。
「やだ明石さん、GODIVAじゃない! 」
黄色い声を上げたジャニスは、刹那、チラ、とアマンダに視線を向け、再び取ってつけたような笑顔を浮かべて言葉を継いだ。
「日本でGODIVAと言えば、マジチョコって言うんじゃなかったっけ? やるわねえ! 」
ジャニスは、『マジチョコ』という単語だけ、流暢な日本語で言ってのけた。
「マッ……? 」
「ちょ、ち……、違うわよそんなんじゃないわよちょっとやめてよいえ私チョコと言えば普段からGODIVAなもんだからそのだってほらあんまり甘くないし美味しいでしょだからこれもついでに」
頬を真っ赤に染めた志保の、放っておけば際限なく続きそうなしどろもどろの言い訳が、思わず洩れたアマンダの悲鳴にも近い声を遮る。
アマンダと志保、双方の反応に満足したのか、今度はジャニスが志保の言葉を遮った。
「そうよねえ、GODIVAって高いけど美味しいもの、判るわぁ。でも、私は今回、コレにしたの」
そう言ってジャニスは、志保のそれとは対極に位置する派手やかな包みをデスクに置いた。
「桜木町の駅前にある『森のオーケストラ』のトリュフ! 日本では一番のお気に入りのお店なの」
「ああ、知ってる! あのザッハトルテが美味しい、2階がカフェになってる」
志保が手を打ってジャニスの言葉に反応する。
「うんうん、確かにあのお店も捨て難いわねえ」
「そうでしょう? 今回は『森のオーケストラ』にしようか、高島屋地下の『ポップアイ』にしようか、迷ったのよねぇ」
「『ポップアイ』もそうね、確かにあそこのチョコバナナケーキは絶品だもの。でも、トリュフと生チョコだったら、『森のオーケストラ』が正解だと思うわ、私」
「そうよねえ、そう思ったのよ、私も。明石さんが保証してくれたなら、安心だわぁ」
何時の間にか2人は、まるでそこらへんの女子高生のようにキャイキャイ言いながら、周囲へ
「やだ、その『サルバドール』の包み、誰? 」
「ええと、1係の金三曹だわ」
「サルバドールってクドいのよねえ。なんかあの後を引く甘さ……、うわ、そっちの瑚月堂、あれ高いわよ! 」
「つかバレンタインで瑚月堂贈る、フツー? ……あー、やっぱり。窓口のホーナー艦士長だわ」
「あの娘、見栄っ張りだから。……あれ? これはいい趣味してるわね。気に入った! 」
「あ、ほんと。ラ・シエールだわ。ここのワインチョコ、美味しいの! 」
「そうそうそ! 私も大好き! へえ、4係のメグよ、バルドー三尉! 結構研究してるのねぇ」
「でも、こうして見ると」
志保は陽介のデスクといわず椅子といわず、処狭しと置かれたチョコ、チョコ、チョコの山を見て、溜息交じりに言った。
「去年のワイマン三佐の時と較べると、一挙に倍、更に倍! って感じねえ」
「そうねえ。前任の香坂三佐は上期だけだったからこのイベントは無関係だったけれど」
ジャニスも1年前を思い浮かべるような遠い目をして応える。
「もし香坂三佐だったら、ワイマン三佐の半分……、や、1/4もなかったかもよ? 」
アハハハハッと志保の言葉に、2人は同時に高らかな笑い声をあげた。
「その点、曹士はゲンキンなもんよねえ。興味ない、ってなったらチロルチョコの1個も贈らないんだから」
「その点、私達幹部は、そうはいかないもの。私もワイマン三佐にはあげたわよ」
「私も」
そして、互いに真顔で向かい合い、相手の顔を指差して、殆ど同時に口を開いた。
「不二家ハートチョコ」
数瞬の後、先程以上の爆笑が部屋に響いた。
が、それもほんの数秒の間のことで、ジャニスも志保も、唐突に口を閉じた。
アマンダがさっきから念を込めて送り続けている視線に、漸く気付いたからだ。
「あー、ええと……。沢村……、さん? 」
「んと、アミー? ここは笑うトコロよ? 」
殆ど同時に、2人はアマンダに声を掛けた。
「……可笑しくもねえのに笑えるかよ、アホ」
ボソ、と呟いてポケットから煙草を抜き出し、火を吸いつけながら、アマンダは冗談めいた口調に聞こえるよう、明るめの声で言葉を継いだ。
「中学生や高校生じゃあるめぇしよぉ、チョコだバレンタインだって騒いでどうすんだ、お前ら? 」
酢を飲んだような表情の志保が、次に不満げな表情に切り替えて口を開きかけたのに気付いたのか、ジャニスは素早く先んじる。
「そうは言ったってアミー、女子としてはある程度はイベント好きでなきゃ」
「イベントったってよ、騒ぎすぎじゃねえの? そりゃ確かに前任の香坂のオッサン相手じゃハートチョコどころかチロルチョコでも勿体無いくらいだけどよ。だけど陽介だって、確かに独身だが、そんな売るほどチョコやんなくったって。……だいたい明石、よぉ? 」
突然名前を呼ばれた志保は、眉間に皺を寄せた。
「な、なによ」
「その……、なんだ? ゴリラだかゴメスだか、……そんな高級そうなの、やる必要あんのか? 」
「ゴディバよ、ゴディバ! 」
「ええと……、高ぇんだろ? 」
探るような表情と口調になったかも知れないと悔やんだが、幸い志保はそれには気付かなかったようで、アマンダは内心で胸を撫で下ろした。
「そ、そりゃあ安くはないわよ。で、でも、ここのはホント美味しいし、向井センター長が甘党じゃなくっても充分、お口に合うくらいのビターさだし、そ、それに……」
更に言い募る志保の口を封じるようにアマンダは押し被せて、唯一点、本当に、心の底から訊きたかった質問を、投げる。
「マジチョコ、なのか? 」
「ばっ……! 」
頬を染めて思わず口篭る志保から顔を逸らし、天井を見上げて煙を吐き出す。
「よーく考えなよー、明石。そりゃあヤツぁ、A幹で防大卒、あの歳で佐官ってんだから、そこそこエリートなんだろうけどな。まあ、ルックスだってあの程度なら桜木町あたりにゴロゴロ転がってるだろうし、お前くれえのベッピンでおツムも上等なお嬢様なら、国連本部あたりの高級官僚くらいすぐ引っ掛かるだろうに。その方が未亡人になる率も低くていいと思うぜ? 」
「だ、だから、マジチョコとかそんなのじゃないって! 」
もう、爆発寸前まで顔を真っ赤にして地団駄踏んで否定する志保を尻目に、ジャニスが冷静に突っ込んできた。
「まあまあ、私達のことはいいじゃない。それより、アマンダは? チョコは何処? 」
「うっ! 」
今度はアマンダが言葉に詰まる番だった。
「まあ、貴女の言うとおりハイスクールでもあるまいし、チョコくれた貰ったで何がどう変わる訳でもないだろうけどさ。……でもまあ、センター長だってネイティブな日本人なんだし、そこら辺りのお国柄は身に沁みてるだろうし、いくら義理でも……」
そこでジャニスは一旦言葉を区切り、一歩踏み込んで背の高いアマンダを見上げるように、意味ありげな笑みを浮かべて、芝居がかった口調で念を押す。
「ねぇ? 」
これ以上、正面から受け止めるのは、無理だ。
そうと決まれば、時期を逃さず戦略的撤退、これしかない。
いや、とっくに撤退のタイミングなど、逃していたのだ。
志保の慌て振りを見た瞬間、気付いたのだから。
ただ、気付かぬ振りをしていただけだ。
「だからアイツに義理なんざ、ねえっつってんだよ。だいたい、義理があるっつーんなら、アイツがアタシにチョコ持ってこいってんだ! 」
叫ぶようにそう言うと、アマンダは陽介の灰皿に力任せに煙草を捩じ伏せ、ドアに向かって歩き出した。
「おめえらも、いつまでもチョコチョコ言ってねえで、
そう言い捨てて室外へ出た途端、肩が落ちそうになるのを、情けなく思ったけれど、自分ではどうしようもなかった。
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