8. ひまわりとチョコレート
第49話 8-1.
横浜着任から既に5ヶ月、季節は晩夏から秋を過ぎ、冬も真っ盛りだ。
豚肉をあれこれ選んでいるアマンダの後姿を、ショッピング・カートに凭れ掛かってぼんやりと眺めつつ、彼女と再会してからの日々を思い返していた陽介は、聞き慣れぬメロディを耳にして我に返った。
然程、複雑なメロディではないのだが、優しげな、そしてどことなく切なさと懐かしさを感じさせる、そんな曲がハミングで、静かに耳を撫でる。
「? 」
ここは、JR山手駅近くにある、馴染みの24時間営業スーパーで、既に
店内は客達の低いざわめきや、店内放送、鮮魚や青果、菓子等の各コーナーに流されているCM曲や『広告の品』案内等、様々な音が溢れ返っているのだが、そのハミングは、それらの合間を縫って陽介の耳に心地良く響いてくる。
いったい、どこの誰が?
まるで、天空の彼方で歌う天使の声が、雲間を縫って、地上に慈雨のごとく降り注ぐような。
陳腐だけれど、しかしそんなイメージがぴったりくる様な透明な歌声、その声の主を探して陽介はきょろきょろと店内のあちこちに視線を飛ばした。
「……どうかしたか? 」
聞き慣れた声で我に返ると、アマンダが訝しげな表情を浮かべ、その鋭い視線でこちらをじっとみつめているのに気付いた。
「耳日曜か? 」
アマンダが一歩近寄って、重ねて問う。
お前、この歌、聞えてないのか?
そう問い返そうとして口を開きかけて、さっきまで流れていた歌が、嘘のように聴こえなくなっていることに気付いた。
「……あ、や」
訳の判らない呻き声を上げる陽介に苦笑を見せて、アマンダは豚ばら肉のパックを陽介の押すショッピング・カートに放り込んだ。
「気持ち悪ぃ奴だな」
そしてクル、と踵を返して歩きながら独り言のように呟く。
「後は、薄揚げに玉葱、人参、ジャガイモ……、青葱と人参はまだあったな、確か」
そう言えば帰り道、アマンダは昨夜のカレーを使って美味い豚カレーうどんを食わせてやる、と言っていた。
陽介は西日本の出身で、カレーや肉じゃがの肉は牛、と言うのが彼の中の常識だったが、アマンダから出されたカレーや肉じゃがが豚肉だったことに驚くと、逆に彼女が驚いていた。
アマンダは横浜生まれの横浜育ち、アタシん家じゃ肉、って言えば豚だったんだがなぁ、それじゃあ他人丼も牛と卵ってことかよ、そいつぁたまげた贅沢だねぇと言って笑っていたことを思い出す。
それからは素直に牛肉を使ってくれるようになったが、時折、思い出したように豚肉の素晴らしさを熱く語ってくれる。
今夜の豚カレーうどんも、その流れからだ。
いやまあ、それはどうでもいい話である。
それよりも今は、この天使の歌声、の件だ。
本当に、プロの歌手でもこれほど美しい歌声を響かせるなんて滅多にいないのではないか、これまで聞いたこともない、聞いたこともない筈なのに、心を擽るような懐かしさを感じさせる声。
そう、懐かしいという表現がぴったりな。
懐かしい?
「え? いや、まさか」
陽介はアマンダの背中を見つめながら、胸の内に湧き上がる『ある』予感を打ち消すように頭をぶるんと振ると、慌ててカートを押して後に続く。
いやしかし、ひょっとすると。
数歩も行かぬうちにもう、陽介の脳裏に打ち消した筈の考えが再び首を
初めて出会ってから今日まで~空白の期間の方が多いとは言え~、よくよく考えてみれば、日々、彼女の新しい一面を発見し、新鮮な驚きを感じ続けてきたのではなかったか?
と、すれば。
そこまで考えて、さっきのメロディが再び、耳に届き始めているのに気付く。
甘く、透明な、涼やかすぎて、儚さすら感じさせる、美しい歌声。
陽介は今度こそ迷わず、真っ直ぐにアマンダへ五感を集中させた。
アマンダは先程同様、陽介に背中を向けて油揚げを選んでいる。
ショッピングカートから手を離し、一歩、アマンダに近付く。
ますます、自分の予感が正しい気がしてきた。
そっと、手を伸ばす。
知らぬうちに、伸ばした手が震えているのに気付いて、手を引っ込める。
落ち着け、落ち着け。
別に、例えそうだったとしても、驚くほどの事じゃないし、驚いちゃあ彼女にあまりにも失礼だ。
そっと、深呼吸する。
もう一度、引っ込めた手を伸ばす。
とん、とん。
食料品売り場特有の明るすぎる照明を受け、一層華やかに煌いている美しい黒髪に触れぬよう~何故か、陽介には直接触れてはいけない宝石のように感じられた~、肩をそっと叩いた。
「ん? 」
刹那、耳に、心に沁みるように響いていた『天使の歌声』が、途絶えた。
アマンダが、首を捻って肩越しに自分をみつめている。
美しい黒髪よりも、一層深くて神秘的な黒い瞳で。
「……お前」
「……? 」
陽介は思わず、アマンダを抱き締めそうになり、慌ててありったけの自制心を動員したその結果、彼女の両腕をガッシリと掴んでいた。
「な、なん、なんだぁ? 」
アマンダが素っ頓狂な声を出す。
パサ、と軽い音がして、床に油揚げが一袋、落ちた。
「て、テメエッ、い……」
アマンダは、言いかけた怒声~だろう、たぶん~を飲み込んで、口を噤んだ。
衝動で動いてしまったが、とにかくアマンダが黙っているうちがチャンスだ、そう考えることにした。
「お前」
そうだ、そうしよう。
いや、最初からそうしようと思っていたのだ、俺は。
2週間ほど前のバレンタインデー、1泊2日の出張から直帰、アマンダはオフィスからと、珍しく別々に帰宅した深夜、日付が変わる直前に彼女から「2月14日にチョコとくりゃバレンタインに決まってんだろこのトーヘンボク! 」と言わずもがなのキャプション付きで渡されたチョコレートの、お返しが気になっていた。
それは確かだ、だけど。
だが、それは如何にも後付けの『設定』臭かった。
だから、そんな理由は、もうどうでも良い。
そうしようと思っていた、それだけは本当だ。
「3月14日、木曜日だけど、休め」
ただ、無性にアマンダを誘いたかったのだ。
予想の斜め上を行く、突拍子もなくオモシロイ奴だから、か?
全ての悩みや苦悩を、綺麗に拭い去ってくれるような、天使の歌声の持ち主だから、か?
違う、違う。
いや、それは正しいのかもしれない。
と言うより、正しいのだろう、おそらく。
それが全てではない、という意味で、違うのだ。
乱暴なところもガサツなところも優秀で有能な士官ぶりも照れ屋なところも料理が美味くて家事が万能なところも世話好きなところも無口だがそれでいて淋しがり屋なところも、そして天使のように美しく甘い声で切なく懐かしいメロディを口ずさみ、疲れた身体も心も柔らかく、優しく癒してくれるところも。
全てをひっくるめて、言いたかったのだ。
『出逢えて、良かった』と。
だから、誘った。
誘ったからにはもう、切なげな、儚げな歌などハミングさせない。
その優しげな歌声を、空しく虚空へ捧げる為だけに歌わせない。
そして、気付いた。
自分が、何に背中を押されたのか、を。
ただ単に自分は、アマンダに笑顔で、自分の為に歌って欲しい、それだけなのだ、と。
その魅力的な歌声を、普段の罵詈雑言と同様、自分だけに捧げて欲しいと願っているだけなのだ、と。
なんだ。
アマンダにエラそうな事なぞ言えやしない。
どこまで利己的で欲張りな餓鬼なんだろう、自分は。
けれど、それでいいと思えた。
だから誘ったのだ。
今は、それでいい。
刹那主義だと、笑うヤツは笑え。
”……ん? ”
論理が破綻しているような、気がした。
しかし、一度空気を震わせた言葉は、もう消せはしない。
いや、消す気などこれっぽっちも、ない。
アマンダは、暫くの間、陽介の言った言葉の意味が判らなかった。
頭を捻って、必死になって頑張って考えてみたけれど、どうも怒られているような感じでもない。
陽介に肩を掴まれた時、正直、怖かった。
知らぬうちにまた、何か仕出かしてしまっていたか、そう考えて大急ぎで今日一日を再生してみたが何も思い当たらなかった。
そのうち、何度か口の中で彼の言葉を繰り返すうちに、だんだん意味が判ってきた。
しかし、『何故』彼がそんなことを言い出したのか、それが判らなかった。
「……へ? 」
我ながらマヌケな返事だ、とは思ったし、問い返したい、とも思ったが、何故か、それしか言葉が出なかった。
「だから! 来月、3月14日、平日だけど休め、と言ってるんだ! 」
「……な、なんで? 」
漸く、絞り出すようにして問うた質問を、陽介はいとも簡単に、バッサリと切って捨てる。
「2月14日、お前、バレンタインだからって、チョコくれただろ? だから今度は俺にお返しさせろって言ってんだ! 」
後から思い直せば、とてもお返ししたいようには思えない口調だったが、その時は驚きのあまり、呆然としてしまった。
「どっか遊びに行こう! 弁当は俺が作る。な? 遠くじゃなくてもいいし、アトラクションやイベントでなくたっていいじゃないか。とにかく、どっか行こう、お返しさせろ! 」
アマンダはたっぷり30秒、陽介の上気した顔~再会して以来、これほど興奮している彼を見るのは初めてだった~を睨むようにみつめた後、取り敢えず、爆発しそうな喜びを知られまいと、いちばん心の上っ面にある感情を口にした。
「痛え」
「……え? 」
思わず問い返す陽介に、低い声で言葉を投げつけるように返す。
「腕が痛えっつってんだよこのスットコドッコイ! 」
「あ! ……す、すまん! 」
慌てて陽介が両手を離すと、アマンダはさっと俯いて手を伸ばし、床に落ちた油揚げを拾い上げてカートにポン、とシュートする。
「行くぜ」
「ア、アマンダ……」
踵を返した背中に届く陽介の声が、不安そうだ。
アマンダは立ち止まり、振り向かずに言った。
「弁当作るのは、アタシだ」
振り向けなかったのだ、本当は。
「じゃあ……! 」
喜色が滲む陽介の言葉を遮って、言葉を被せる。
「折角休んでも、テメエの弁当で体調崩しちゃ、モノ笑いのタネだ」
そして肩越しに横顔を見せた。
「それ以外は陽介、お前に任せてやらあ。全部お前の奢りな? 」
そこまで言ってアマンダは、小走りにレジを駆け抜け、外へ走り出た。
もう、これ以上、誤魔化せそうになかった。
アマンダは、店の前の薄暗い自転車置き場まで一気に駆け込み、そこで立ち止まって、誰の物かも知らないスクーターのシートに両手をついた。
闇の中、白い吐息がいくつもいくつも、速いペースで舞い上がる。
心臓がバクバクなる。
頭に血が昇って、がんがん響く。
まるで、頭全体が心臓になったように。
喉がカラカラに渇き、ひりひりする。
シートについた右手をそっと離してみた。
まるで何かの中毒患者のように手が細かく震えているのを、アマンダは暫くの間呆然とみつめていたが、やがてその震え自体が恐ろしいものでもあるように、ぎゅ、と固く目を閉じ、震える手をそっと自分の胸元へ当てる。
「……誘われた」
陽介に。
仕事を休んで、どこかへ行こうと。
遊びに行こうと。
陽介に、誘われた。
さそわれた。
サソワレタ。
「こここここれって、デ、デート……? 」
口に出して言ってみたら現実感も湧くかと思ったが、まるでそれが夢から醒める切っ掛けのように思えて、慌ててもう片方の手で口を塞ぐ。
高鳴る胸を拳で押さえ、洩れる疑念を口元で抑えたら、その代わりと言う訳でもあるまいに、ポロポロッと涙が零れた。
嬉しい。
周囲から自分達がどう思われているかはともかく、少なくとも陽介が自分を『相棒』として接してくれていたのは、確かだ。
そして、それ以上を望む自分を叱りつけ、宥め賺し、叶わぬ夢など犬にでも喰わせておけとばかりに、今日まで自分は、自分なりに堪え続けてきたつもりだった。
だが、思いがけなく陽介の方から、事もあろうか、仕事など休め、どっかへ行こう、と誘ってくれたのだ。
「嬉しい。嬉しいよぉ、畜生ぉ」
涙は後から後から湧き出して、頬を次々と伝い、冬の冷たい風に吹き散らされていく。
その風すら、今の自分には温かくさえ感じられるのだ。
刹那、黒い感情が鎌首を
楽しい思い出など、やがて必ず迎える筈の破局の衝撃を増幅する装置にしか過ぎないのだ、と。
『幸せ』など、知らなかった方が幸せなことがあるのだ。
『幸せ』を知れば知るほど、不幸せになる確率も大きくなるのだ。
『幸せ』の記憶さえなければ、不幸せもどうにか遣り過ごせるだろうに。
そんな呪いを投げつけてくる『黒い、もうひとりの自分』を、力任せに捩じ伏せ、叩きのめし、形而上の奥にある暗い沼の底へと錘付きで沈めてしまう。
例え、『黒い、もうひとりの自分』の言う通りだとしても、いや、それはおそらくは正しいのだろう、だけど。
据え膳上等、食ってやる。
だって、嬉しいから。
こんな嬉しいことなど、これまでの人生にはなかったから。
こんな嬉しいことなど、多分、この先の人生にはないから。
最高の幸せを知った故に叩き込まれる、最悪の地獄のような不幸せ、最高の幸せを知らぬが故の、なだらかな遠浅の不幸せ。
決まってる。
どっちを選ぶのかなんて、決まってる。
アタシは、今、確かに嬉しい。
幸せだ。
刹那主義だと、笑う奴は笑え。
多少後ろ向きではあるが、開き直ってしまうと、少しだけ落ち着いた。
やっぱり、あの日、チョコレートを贈っておいて良かった。
つい2週間前に体験した、生まれて初めてのバレンタインデーをアマンダは思い出し、それでも未だ涙は堰を切って溢れ続けていた。
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