第48話 7-9.


 仕事相手が民間企業や公益法人、お役所が殆どだから、YSICの大抵の部署は1800時ヒトハチマルマル前後には店仕舞い……、とはならない。

 確実に1730時ヒトナナサンマルに業務終了となるのは1階の業者受付ロビーで、ここは堂々と5分前から蛍の光を流し、ジャスト・イン・タイムでシャッターが下りる。

 とは言え、手続き途中の業者や混んでいる日には順番待ちの民間人が業務終了後も残ってはいるが、それも1900時ヒトキューマルマル前後には大抵掃ける。

 だが、その他の部署はそうはいかない。

 なにせ、物流は24時間だ。

 調達した物資が、然るべき場所へ然るべき手段で然るべき日時に届けることが出来なければ、調達とは言えない。

 現代戦は兵站、補給戦こそ命である。

 その証拠に、例えば艦隊総群なら、保有する艦艇総トン数の25%が輸送、補給に関わる艦種で占められている。

 我々の太陽系から、遠く何百光年も離れた各方面作戦域までは、有人の輸送艦ではなく、無人のコンテナはしけが大昔の貨物列車よろしく数百杯も連結されて空間に固定されたワープポイントから途切れることなく送り出され、空荷の艀が同じように送り返されてくる基幹輸送網も確立、運用されている。

 今更、クラウゼヴィッツやクレフェルトを引っ張り出してくることもない、恒星間戦争であるこの対ミクニー戦役は、光年単位、パーセク単位にまで伸びに伸びた補給線を、如何に途切れさせることなく、そして前線の将兵を餓えさせたり凍えさせたりすることなく、弾薬が切れて銃剣突撃や投石等という原始的な戦いの手段を選ばせることなく、破壊された装備や火器を遺棄させることなく、戦闘を継続し、最終的に勝利を掴むか、その一事に掛かっていると言っても過言ではないのだ。

 その為に、調達実施本部はなけなしの金を払い~金の調達はUNの仕事だ、即ち赤字国連債の濫発で~、空になった財布に砂利を詰め込み、あるように見せかけながらも~当然、とっくの昔にバレている~、世界中から必要な物資を搔き集め、輸送本部は搔き集められた物資を巨大な倉庫に集積し、各方面作戦域の補給拠点に運び入れ、そこから主要惑星に設置されたデポジットへは無人コンテナーを何万個も連結し全長2kmを超える通称コンテナ列車と呼ばれる物資を固定ワープゲートで送り込み、デポジットからは輸送艦や輸送機、輸送トラックで敵の砲弾が雨霰と降る中を最前線へ日夜届け続けているのである。

 調達実施本部は、そんな最前線で命を的にして日々戦い続ける将兵が、喉から手が出るほどに欲しがっているありとあらゆる物資を品切れ等起こさぬように搔き集め、空コンテナなど出さないように、『欲しいときに欲しいものを、欲しいところへ、欲しくないところへも』の推進補給の実現を最終目標として、日夜『敵の砲弾が届かぬ安全な地球で』戦っているのだ。

 もちろんその輸送を請け負うのは、大元締めが輸送本部、手先となるのは輸送艦隊や輸送航空団、輸送師団と言った系内実施各部隊、それに民間物流業者なのだが、輸送すべき物資を手配するのは調達実施本部の唯一無二の任務で、その出先機関であるアジア調達実施センター、横浜調達情報センターの調達1係から8係までが実際の主役であり、彼等の真の任務である物資の手配や確認、交渉やフォローが本格化するのは、実はシャッターが下りた夕方からなのである。

 そしてここ横浜では。

 この時間帯こそが、アマンダが一番『彼女らしく』輝く時間帯であると言えた。

「馬鹿野郎、テメエ何様だぁ? ナメた口利いてんじゃねえぞこのウスラトンカチ! 」

 アマンダの迫力のある怒声が、今夜もオフィスに響き渡る。

「テメエ達ゃあ、ワッパ転がしてナンボだろーが! しかも常温ロングコンテナたかだか100本くらいでガタガタ文句抜かしてんじゃあねえ! 」

 調達先への予想外の腰の低さに比して、相手が連隊長や航空団長、艦長クラスであろうが容赦なしの居丈高外交である。

 まさか民間へ向けた愛想の良さのリコイルではないだろうが、自分の仕事の障害となる相手は殺しかねない剣幕で、相手が誰であろうが噛みつく、噛みつきまくるのが、アマンダだった。

「テメエ、これ以上ガタガタ抜かすとケツ穴もう1個増やしてやるぞっ! ……ああ上等だ、参謀長でも師団長でも大統領でも国連事務総長でも誰でも呼んでこいっ! けどよ、そんなエラいさん呼んでくるプラットフォームがあるんなら、コンテナの1本や2本、運んでほしいと思うのが人情ってもんだよなあ、ええ、違うかオッサン! 」

 この手の悪態をついてる最中のアマンダは、見掛け通りで却って違和感が感じられない。

 デスクに美しい脚を投げ出し、椅子に踏ん反り返ってギシギシとサスペンションを鳴らしている彼女の片手はイライラとデスクを叩き、もう片手はやっぱりメモ用紙の切れ端で鶴を折っている。

「ペイロードだかバージンロードだか知らねえけどよぉ、オッサン! 本星でヌルいデューティ繰り返してるうちに、ボケちまったんじゃねえか? イースト・モズン辺りのチヌークは、夏でも上空5000の気温マイナス50度をペイロード50%オーバーでミサイル避けながら飛んでるぜぇ? コンテナ1本くらいでビクつくんじゃあねえや! 」

 そんな事を言いながらも、メモ用紙で折った鶴を掌で躍らせているアマンダは、陽介の目にはどことなく穏やかで、どこか楽しんでいるように見え、時折、ミハランの砂漠を黒豹のように最前線をしなやかに 駆け回る姿とだぶって、却って落ち着いて眺めることが出来た。

 その怒鳴り声も、2000時フタマルマルマルをまわった頃には徐々に鳴りを潜める。

「おう、サハロフ。ヒガシマルの醤油2000トン、フネの手配できたか? 」

「エッサ、明2045時フタマルヨンゴー入港の9LFのカラパチアへ押し込みます。川崎の保税倉庫から横浜港までは、701師団の第1輸送連隊が引き受けてくれました」

 アマンダは満足そうに頷く。

「おし。……あ、川崎の保税倉庫って、住友か? ……アソコはペーパー流すのトロイからよ、早目に着手させろよ」

 細やかなフォローも忘れないアマンダのマネジメント振りは、担当者に煩がられる事もなく、却って見落とし易いポイントをさりげなくフォローして、且つ担当者がそのノウハウを知らぬ間に自分のスキルに出来るような知恵袋的なそれで、7係だけでなく他部署からも歓迎されていた。

「係長、お電話中に5係の朴係長から、第3輸送航空団の件、どうなったかと問合せが」

 アヴィが横から掛ける声に、アマンダは面倒臭そうに答える。

「ん、カタついた。朴のオッサンに言っとけ、これからは、府中のメーカーに近いからって、厚木定期の3輸空をアテにするなって! あそこはエンルートがシベリア・アラスカ経由だから電装関係はNGだ。特にこの季節、あのエンルートで与圧抜いた汎用輸送機C1000のオンボロ飛ばしてるんだから精密輸送はちぃとばかり不安があるからな。多少面倒でも、百里の18混成の1871輸飛使えって。あそこのディスパッチは精密機器ならちゃんとC8スカイエレファントの与圧パーティションにショックアブソーバー使ってくれっからよ」

 どこでどう仕入れた情報なのか、こういった幕僚チームでは見落としがちな、現場でなければ判らない小さなノウハウを、出し惜しみすることなく、手柄顔する事なく、頼まれればきっちりとこなしてくれるアマンダは、密かにYSICのみならず、アジア統括センター全体でも頼りにされる存在になっていた。

 もちろん、輜重輸送関連部隊や関係機関からのアマンダへのバッシングは激しいが、今のところ、それらは陽介や瑛花が全面的に受け止め、且つ跳ね返している。

「ああ、貴方んトコロにさ、ちょいと面倒臭い、タフネゴシエイター……、って言うより、喧嘩好きって言った方がいいかしら? ……まあ、そんなのがいるのよね。でもまあ、ウチらにとっちゃ、これ以上ない戦力だから、なんかあっても出来るだけ庇ってやってよ。貴方で駄目なら、私が引き受けるから。ね? 」

 陽介の着任挨拶時、統括センター長の瑛花から受けた『唯一の引継ぎ・懸案事項』がそれだった。

 今では、陽介も身を持って理解している。

「係長、お帰りですか? 」

 フローラの問いに、アマンダは少しだけはにかんで見せる。

「ん」

 言うなり、彼女は振り向いて、ガラス越しの陽介に向かって、招き猫のようなラフな敬礼をして、答礼も待たずに踵を返す。

当直先任ワッチ、誰だ? ミッターマイヤーか? ……頼んだぜ、今晩は冷えそうだから、気ぃつけな」

「ありがとうございます! 」

 部下より先に帰る時は、他の係長以上にアマンダは口数が多くなる。

「おう、サハロフ。お前、昨日も遅かったろうが。今日は早く帰ぇれ。アヴィ、グロリア! 寄り道してっと、酔っ払いにケツ触られっぞ。ああ、ジェフ。例のアジノモトの件、頼んだぜ」

 イヤミに聞えない程度にさりげなくフォローを入れて、サッとオフィスを出る。

 ジャニスが残っている時だけは、軽く手を挙げ、機嫌が良ければウインクして退勤する。

 これは、陽介が先に退勤する場合でも変わらなかった。

「アテンション! センター長、退勤されます! 」

 志保の号令で、手空きの者は起立して敬礼で見送るのが慣わしだ、艦隊における艦長の艦橋退出時のそれが地上に持ち込まれている。

 だが、10度に3度は、アマンダは無視、である。

 ただ、30分以内に必ず、退勤する。

 アマンダが先に退勤した場合も、陽介は30分以内に大抵は部屋を出る。

 以前、ジャニスがなにかの折に、陽介にそっと耳打ちしてくれたことがある。

 『YSICのメンバー、殆どが知ってますよ? 』と。

 2人が待ち合わせしていることを、だ。

 知らぬはアマンダばかりなり、別に俺は構わないんだが、と陽介はその『忠告』を、自分ひとりの胸の内に仕舞い込むことに決めていた。

 話すとまた、面倒臭いことになりそうだったから。


 職員通用口を出て、裏通りを駅とは反対方向へ数分歩くと、目立たないコーヒー専門の喫茶店がある。

 アマンダは、裏口の警衛にラフな敬礼を投げ掛けて、真っ直ぐそちらへ向かう。

 カランコロン、というカウベルの音が懐かしい、安っぽいが年季の入った木製のドアを押し開けると、左手に5人ほど座れるカウンター、右手に4人掛けのボックス席が4席ほどある、小さな喫茶店だ。

 店の表には『サイフォン・コーヒー専門:褐色の薔薇』と書かれたサインがぼんやり、薄暗い路地で光っている。

 アマンダは肩でドアを押すようにして、いつも黙って店内へ入る。

「やあ、いらっしゃい。沢村さん」

 人の良さそうな笑顔を浮かべ、初老のマスターがカウンターの中から声を掛ける。

「今日はお早いですね? 」

「ん……」

 ここでもアマンダは返事になっていない返事を返すが、その表情は柔らかい。

 真っ直ぐ一番奥のボックス席へ行き、ドアに向かって座る。

 暫くすると、サイフォンで淹れたブレンドコーヒーとフレッシュが黙って出される。

 そして、アマンダは陽介を待つ。

 有線のジャズチャンネルが低く流れる薄暗い店内で、黙って待つ。

 時折、フレッシュをたっぷり入れた、まるでカフェオレのようなレギュラーコーヒーを啜りながら。

 じっと、ドアの上部に吊られたカウベルだけを眺めて。

 この時間、客は滅多にこない。

 アマンダがこの店に通い始めたのは、横浜着任とほぼ同時。

 店の名前が何となく気になって、早上がりの出来た夜、ぶらりと入ってみたのだが、サイフォンコーヒーの芳醇な香りと主にマスターの人柄が醸し出す雰囲気が気に入って~そしてもちろん喫煙可であることも含めて~、以来贔屓にしている。

 陽介が着任した3日後、アマンダが彼をこの店に呼び出して以来、ここがふたりの待ち合わせ場所になった。


「アタシだけど」

 携帯端末の呼び出しに答えると、アマンダのハスキー・ボイスが響いた。

「おう。なんだ、さっき帰ったんじゃなかったか? 」

 陽介の問い掛けに、アマンダは答えず話を進める。

「ちょいと野暮用があるんだが。何時頃フケられる? 」

 陽介はAFLディスプレイに表示された承認ワークフロー画面の未決ボックス内の書類数とワープロソフトの編集中の報告書文面を睨んで答えた。

「あと30分もあれば……」

「通用口出て、右。100mほど真っ直ぐ歩いて右手にあるサ店、『褐色の薔薇』で待ってる」

 言うだけ言うと、一方的に通信が切れた。

「……なんだ、いったい? 」

 取り敢えず仕事を片付けようと画面に視線を戻したものの、どうにも気になって仕事が手につかず、陽介はとうとう至急指定の書類だけを決裁し、他の書類は未完のまま端末の電源を落として、15分で指定の店へ駆けつけた。

「いらっしゃいませ」

「あ、ええと……」

 マスターに訊ねるまでもなく、アマンダは店の一番奥でラッキーストライクを吹かしていた。

「ホット、お願いします」

 陽介がカウンターに声を掛けて、アマンダの向かい側に座ると、彼女は例によって判り難い微笑を浮かべ、コーヒーカップを置いた。

「早いじゃねえか」

「いや、まあ色々と……」

 気になって飛んできたんだ、と続く筈の言葉をアマンダは遮った。

「この店、さ? サイフォンなんだけど、なかなか美味いんだよ。お前、コーヒー好きだろ? 教えといてやろうと思ってさ」

 アマンダはカウンターに顔を向けて、言葉を継いだ。

「マスター、こいつ、向井。向井陽介。生意気にもアタシの上官なんだぜ、こう見えて。コーヒー好きでさ。イッパツ、いつもの美味いの頼まあ」

 マスターが微笑して頷くのを満足そうに確認して、アマンダは少し首を傾げた。

「……そう言ゃあ、さっきなんか言いかけてなかったか? 」

 陽介は呆れた表情を浮かべるかわりに、煙草をくわえて苦笑してみせた。

「お前こそ、野暮用、ってなんだ? 」

「ん」

 アマンダはずず、とコーヒーを一口啜り、ちらりと陽介を見た後、すぐにテーブルの上へと視線を彷徨わせた。

「ま、その、なんだ」

 今の今まで調子よく喋っていた~まったく、アマンダにすれば珍しい事だった~彼女は、そう言ったきり、口篭った。

「……遠慮なんぞ、お前には似合わんぞ? 」

「メシ……、とかよ」

 ぼそ、とアマンダは陽介を見ないまま、呟いた。

「ん? 」

 聞こえてはいたが、わざと問い返してやると、アマンダは即座に食いついた。

「お、お前、トロそうだからよ! アタ、アタシが今日からはメシでも作ってやろうかっつってんだよ、馬鹿っ! 」

 今にも血管が切れそうなくらい顔を真っ赤にして、叫び返す。

 その声の大きさ故ではないだろうが、ドアのカウベルが、カラン、と鳴った。

 アマンダはそのまま顔を伏せ、一転して消え入りそうなくらいのか細い声で続けて言った。

「別にお前なんざぁ、放っておいったっていいんだけどよ。栄養失調とかで身体壊したり死んだりしたら、こう、隣同士ってことで寝覚めも人聞きも悪いしよぉ……。そ、それに、迷惑だしさあ! 」

 チラ、と上目遣いに正面の陽介に視線を向けてきた。

「……イヤ、か? 」

 陽介は、暫く無言のままでアマンダの顔を見つめていた。

 驚いていたのだ。

 おや、驚いたといよりも、感動していた。

 アマンダの、実は面倒見が良いのは、ミハランでよく理解していたつもりだ。

 けれど、まさか横浜で、こうも見事に照れながらも、自分の世話を焼いてくれるとは思っても見なかった。

 その事実は、この職場が、この街が、間違いなく自分の居場所だという、アマンダと同じ職場だと言う事実を補強してくれているように思えたから。

「……お待たせいたしました」

 マスターがテーブルにコーヒーカップを置いた音で、陽介は漸く我に返った。

「や、え、イヤなんて……」

 そこまで言った時、アマンダは突然立ち上がって、ワザとらしい棒読みで言った。

「ああっと、忘れてくれ。ちょいと、でしゃばりすぎたみてえだな、アタシ」

 スカートのポケットに手を突っ込み、札をテーブルの上に置きながら、ブツブツと何かに憑かれたように喋り続けた。

「いくらお前がトロいったって、軍人にゃ違いねえんだからな。メシくらい作れるよな? それに、仕事済んでまで、ア、アタシみたいな……、アタシみたいなアバズレと一緒っつうのも、よくよく考えりゃ気詰りな話だもんな。や、ホント、忘れてくれ、な? 」

 アマンダはズズッと景気良く洟を啜り上げると、すぐに歩き始めた。

「あ、アタシ先帰っからよ。お前、ゆっくりしていけよ、な? ホント、美味いからよ、ここのコーヒー」

 陽介はアマンダの手首を握って引き留めた。

「待てよ、アマンダ」

 振り向いたアマンダに、陽介は微笑みかけて、コーヒーカップを持ち上げた。

「……慌て者だな、お前。いいから座れ。折角いい香りなのに、お前がジタバタするから落ち着いて味わえやしない」

 アマンダは、暫くの間、自分の手首と陽介の顔を交互に見比べていたが、やがて、コクン、と頷いて元の席へおずおずと腰を下ろした。

「……俺も、料理くらいは一通り出来るんだが、なにせ独り暮らしだし、毎晩作るのは面倒だなって思ってたんだ。だから、お前の申し出、ありがたくお受けするよ」

 アマンダは真っ赤な顔もそのままに、掠れた声で呟くように問うた。

「……いいのか? 」

「勿論。……なにより」

 陽介はコーヒーを一口啜り、続けた。

「ミハラン時代から俺は、お前の料理の大ファンなんだ。知らなかったか? 」

 アマンダは、まるで餓鬼大将のように、手の甲で両目をゴシゴシと擦り、ハアッ、と大仰な溜息をついた。

「し、仕方ねえなあ! やっぱり、お前は一から十まで、アタシがいなきゃ駄目だな」

「はいはい。なんとでも言ってろ」

 陽介は苦笑いを浮かべて答える。

「じゃ、じゃあよ」

「なんだよ? 」

 問い返す陽介に、アマンダは再び盛大に洟を啜り上げてから言った。

「このアマンダ姐さんに晩飯作らせようってんだ。『お願いします』くらい、ちゃんと言え! 」

 陽介はアハハハと大笑いして、素直に頭を下げた。

「これからよろしくお願いします、アマンダ姐さん」

 陽介が頭を下げたまま、チラ、とアマンダを見上げると、相変わらず真っ赤な顔で、けれど擽ったそうな笑顔を浮かべて彼女は、「ん! 」と満足そうに頷くのが見えた。

 確かに美人だとは前々から思ってはいたが、その笑顔は、まるで親に誉められた小学生のように、幼く、しかし輝いて見え、陽介の方まで顔に血が昇る感覚を覚え、已む無く頭を下げ続けた。

「よし、じゃ、早くコーヒー飲んじまえ、なっ? 買い物行こうぜ? 山手駅から特借までの途中によ、24時間スーパーあんだろ? あそこ、この時間でも結構、いいモノ置いてんだよ。今日はアタシがお前のリクエスト聞いてやるよ、な? 何食いたい? 何食いたい? 和洋中、何でもオッケーだぜ? そうだ、お前、ミハランん時ゃ、里芋の煮転がし、美味いって言ってたよな? 一品てのもナンだから、肉じゃが……、芋ばっかだな、これじゃ。あ、じゃあ鶏でも買って筑前煮にするか? 好き? 食える? あ、そだ、嫌いなもんある? ない? はっきりしねえかこの馬鹿。嫌いなモンあんなら、メモくれメモ。ちゃんと憶えっからよ、な? な? ……あ、季節外れだけどサンマでも焼くか? 大根あったな。それに玉葱の味噌汁でも……、な? どう? 」

 舞い上がったように独り喋り続けるアマンダの前で、そろそろバレないだろうと頭を上げかけて、陽介はカウンターの中のマスターと目があった。

 サイフォンを掻き回しながら、彼は器用にウインクをして見せた。

 以来2人は、出張や出先からの直帰、シフトがズレたとき等以外はいつも、この店で待ち合わせ、買出しをし、ふたりで夕食を採る。

 確かにこの店のコーヒーは美味かったし、アマンダの作る料理も美味かったが、反面、ここまでアマンダにおんぶで抱っこでもいいものか、と悩んだことも、正直あった。

 しかし陽介は、料理を誉めた時やリクエストを出した時の、子供のような純粋な喜びに溢れる彼女の笑顔を見たいという欲求の方が、ちっぽけな世間体に勝る、それに気付いてからは悩まない事に決めた。


 横浜で再会してから、ふたりだけで決めてきた、積み重ねてきた、ルール。

 それがどれほどに貴重な日常なのか、どれほどに心に安らぎを与えてくれる温かさを持っているのか。

 この時の陽介は、本当の意味での、その煌めくような大切さを、判ってはいなかったのかも、知れなかった。


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