第42話 7-3.
センター長室でふたり、コーヒーを飲みながら30分も過ごすと、ぼちぼちと出勤する者が増え始め、1/3ほど席が埋まり始めた時点でアマンダは自席へ戻る。
毎朝
厚生労働省の昨年度版白書では日本籍企業の87%がフレックス制を採用したとあるが、やはり基本的に午前9時始業という実態が実感できる。
特に、大企業が中心となる1係から6係までと違って、中小企業や農協と言った取引先を多く持つアマンダ率いる7係は、8時半頃からが本格的な業務開始だった。
因みに7係には、1班(糧食調達)、2班(衣料その他装備品調達)、3班(燃料エネルギー)、4班(什器事務日用雑貨消耗品)、5班(書籍AV系ソフト)、6班(福利厚生)の6つの班があり、各班長は二尉または三尉が配されている。
現在糧食調達担当の7係1班長は空席となっており、アマンダが兼務している状態だったから、彼女は他の係長達に比べて多忙だと言えた。
それは、陽介の席からもガラス越しながらよく理解できた。
音声こそ届かないが、50人近い7係メンバーのうち、1/3は常に外線電話の受話器を握っていて、他の1/3は席に姿が見えず、その席を外しているメンバーもひっきりなしにオフィスを出入りしている。
そんな慌しいオフィス内で、どっしり落ち着いた雰囲気を醸し出しているアマンダの姿を見るのが、陽介は好きだった。
尤も、彼の名誉の為に付け加えるならば、暇を持て余してストーカーの如く始終眺めている訳でもないし、陽介自身会議や外出で部屋にいる方が少なく、たまに自席に居る時も溜まっている事務仕事やら報告書作成やらで結構多忙なのだが。
もうひとつ、もののついでに余計な事を書き足すのなら、陽介評するところの『落ち着いた雰囲気』のアマンダも、なんの先入観も持たない第三者が感想を述べると『勤務態度が悪い』と評するかも知れない。
確かに外見だけ捉えると、勤務態度は最悪に近いと言ってよいだろう。
ジャニスの注意により、さすがに禁煙のオフィスで煙草を吸う事こそなくなったものの、火のついていないラッキーストライクを口に咥え、だるそうに黒髪を掻き揚げながらディスプレイを睨む姿、殆どの場合デスクに正対する事はなく、時に肘を机について頭を支えながら仕事する姿、美しく長い脚を惜し気もなく曝し、脚を組むのは当たり前、大股を開いたり、椅子の上に胡坐をかいたり、酷い時など机にどっかと両脚を投げ出したり。
だが、その仕事振りは実際、目を見張るものがあった。
着任して数日後、陽介はちょっとした打合せ、と言うより、担当者からのヒアリングの為、外出者の席に座って6班長の陽気な若いメキシコ人、UNから出向してきたリカルド・カスティージョ二等艦尉と話をしていた。
途中リカルドに外線が入り、彼が電話に出ている間、何気なく陽介はアマンダに目を向けた事があった。
実際、気にはなっていたのだ。
ミハランでの彼女を知っているから、勤務態度の悪さは予想範囲内だったものの、しかし7係の調達実績を見る限りアマンダはYSICのトップ調達担当者である事を引継ぎ資料から知った時は、陽介は我が眼を疑ったほどだった。
だが、陽介の知る、あの『アマンダ姐さん~クールで迫力のある表情、無愛想で無口で態度が悪い~』が、営利企業の営業マン相手に仕事をする事が本当に可能なのか?
このリカルド待ちの時間は、それを確かめる良い機会と言えた。
今もアマンダは、椅子に斜めに腰掛けて、だるそうに髪を掻き揚げたりペンでポリポリ額を掻いたりしながら、端末に向かっている。
但し、そのキーボードの上を動く両手は、恐ろしく早く、しかも優雅で、勿論ブラインドタッチである。
そう言えば、確かに彼女の作った書類は、綺麗に判りやすく纏められていて、誤字脱字もなかった事を思い出した。
それがどんな種類のペーパーであれ、要点は簡潔に纏められ、アピールしたいポイントは実に判りやすく、しかも読む者が自然と誘導されるような構成であり、参考になりそうなコンテンツもさりげなく添付されていて、図やグラフの配置も効果的で、それは即ち、作成者の図抜けた頭の良さと光るセンスが、誰にも感じられる出来栄えだった。
しかも提出はいつも期限内であり、誰よりも早い。
それを見せつけられただけで、もう陽介は嬉しくなってしまったものだ。
だが、渉外、交渉の分野はどうなのだろう?
何せ、口を開けば悪態が飛び出す、『あの』アマンダの事だ、心配が先に立つのも当然ではないだろうか。
「係長、トーハンから外線8番です」
「ん」
アマンダはディスプレイを見つめたまま、片手を上げて返事し、そのまま受話器へ手を伸ばした。
早速のチャンス到来だ。
陽介が内心そう思ううち、アマンダは受話器を取り上げ、そのまま上半身をだらしなく背凭れに預け、あろう事か両脚をデスクの上に放り投げた。
予想通り、と言えば予想通りだ。
思わず陽介が顔を顰めた次の瞬間、彼の予想の斜め上を行く光景が展開された。
『最高』のコミュニケーションだった。
「お電話代わりました、7係沢村でございます。……あらぁ、これは谷川課長、おはようございます、いつもお世話になり、ありがとうございます」
トーハンと言えば、日本で一、二を争う出版一次取次大手である。
とすると、現在外出中の5班長、デミオ二等艦尉の代わりで受けたようだ。
「あら、やだもう! 谷川課長、いやですわ、ほんとに! ……ええ、
アタシ、ではなく『ワタクシ』と言っているだけで目ン玉が飛び出るほどなのに、オホホホ、と来たもんだ。
「……本当ですわねえ。いえ、私共なんか……。それに較べまして御社のようなお仕事は、この戦時中の荒んだ生活に癒し、と言いましょうか潤いとでも言うんですか、大切な文化的事業ですから……。ええ、本当に重要なお仕事だなぁと、私みたいなガサツな人間でも、よく理解しているつもりですのよ? ……いえいえ、本当ですとも」
お世辞を言っている。アマンダが。
きっと今の俺の顔は、途轍もなくマヌケな表情だろうと、ふと思う。
「あら、そうなんですの? ……困りましたわ、ええ、ええ。……私共のPXでも予約殺到ですのよ? 内緒ですけれど、横浜センター内でも大評判でして。近年稀にみるベストセラーですものねえ……。ああ、でも困りましたわぁ……。激しい戦闘に明け暮れる最前線の将兵達にとって、明日の勝利を掴む一服の清涼剤になると思いまして、今回はニッパン様よりお優しいお心遣いを毎回して頂ける御社へ指名入札させて頂きましたのに……」
アマンダはこれ見よがしに深く長い溜息を送話口へ送り込む。
「どうしましょう……。ああ、これならニッパン様にもデポジットを打っておけば……。ええ、そうなんですのよ、上司がそうしろと無理強いしますのを、私が折角御社の誠意と気配りを見せて頂いた後でそれを裏切るのは心苦しくて出来ないと……、ええ。……ええ。……ああ、困りましたわ、責任を問わ……。あ! いえ、こちらの独り言でございます、お気になさらないで。……いえ、本当に何でもありま……、ええっ? 」
アマンダは送話口を押さえて首を2回、大きく横に振ってゴキバキと派手に音を鳴らした。
「助かりますわ! ……ええ、もちろん! ……ええ、ええ。……そんなに回して頂けるなんて、ああ! なんとお礼を言えば良いのか……。本当に御社、いえ、谷川課長を信用させて頂いて良かった! 」
アマンダは、部下が回したメモをチラ、と眺め、面白くなさそうな表情でコクン、と頷いて見せると、メモ用紙を掌で玩びながら言った。
「でも、課長にご迷惑を……。ほんとうに、私に何か出来る事がありましたら、どうぞご遠慮なく仰って下さいませね? 」
アマンダの掌の上で、いつの間にかメモ用紙から生まれた折鶴が、可愛らしいダンスを見せていた。
「あーん、私も大好きなんです! あのお店のザッハトルテ。いいですわね、今度ご一緒いたしませんこと? ……ええ、ええ、勿論ですわ! 」
陽介の視線に気付いて、アマンダはニヤ、と微かに笑って折鶴を自慢げに見せた。
「今後とも宜しくお願い致します。……あ、はい、それは是非! ええ、判りました、その件は私共も充分に……、はい、はい。では、失礼いたします、ご免下さいませ……」
受話器を置くなりボソ、陽介にも聞えるように呟く。
「けっ! 手間取らせやがる」
その台詞は、ただのボヤキではなく、陽介にはアマンダの照れ隠しのように思えてならなかった。
その証拠に、アマンダの迫力ある、何事にも動じない鋭い視線は、今は陽介だけを避けて、慌しく虚空を彷徨っている。
「おう、デミオの馬鹿何処行きやがった? ……戻ったら、ニッパンに電話して『保健室のお姉さまは僕のモノ殺人事件』1000程、デポ打ってる奴至急取り寄せろって伝えとけ! トーハンのケツ穴野郎、しくじりやがった! 」
『社会人電話応対マナー』のマニュアルに模範として載せたい程の、見事で完璧な電話応対だった。
ハスキー・ボイスは、もちろんそのままだったが、確実に声は普段より高く、そして明るめのトーンで、喋り方もテンポが良く、テキパキぶりが印象付くよう計算されているのである。
だが、まあ、その手のトークテクニックだけだったら、『見直した』と言う感想程度が関の山だっただろう。
陽介にしても、もしかしたらと、ある程度贔屓気味ながら予想範囲内の結果だったのだ。
だが、陽介が予想したポイントよりも、アマンダは遥か斜め上を行って見せた。
何より、愛想をふりまくのだ、アマンダが。
しかも、それが媚びるでもなく、厭味でもなく、実にさりげなく、しかし相手のツボ(であろうポイント)を的確に狙った、『ナイス愛想』なのである。
それに加えて衝撃だったのは、そんな感じの良い、所謂『可愛いオンナ』を口で演じている最中でも、彼女の目は笑っていなかった。
どっしりと座った半眼で、口の端だけを台詞に合わせて形だけ微笑んで見せている為に、一層、不気味な迫力が増しているのだ。
そして、更に~これは、陽介にとっては予想的中だったのだが~巧みな話術で、全ての交渉事をサラリと素早く解決してしまうのである。
要求を聞く。ひたすら聞く。全てを言わせる。
その後で、
その日、これ以外にも何度となく彼女の話術を聞く機会があった。
時には宥め、脅し、騙し、誤魔化し、持ち上げ、絶望を突き付け、バーターを持ち出し、YesとNoをはっきりと使い分け、念を押し、確約を取り付け、挙句交渉を100%我に有利に運び、締結してもなお、相手が怒り今後没交渉を心に誓う事無く、末永くUNDASNとビジネスを友好的に継続させたいと思わせる、希望を与えるのだ。
そしてその間、彼女は徹底して無表情なのである。
オホホホと笑っていても、目は、顔は、口は笑っていない。
だが、声は確かに『笑っている』のだ。
女は魔性と言う言葉は、本当だなぁ。
そんな感想を真っ先に浮かべた陽介だったが、しかしそれ以上にアマンダの立派なオフィサー振りを見て、彼は嬉しかった。
そして次の疑問が湧いてきた。
今回は、画像送受信なしの外線用電話だったから、声だけの演技だったけれど、実際、取引先とのフェイス・トゥ・フェイスなら、彼女はどんな仕事ぶりを見せてくれるのだろうか?
それを自分の目で確認する機会は、翌日やってきた。
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