第41話 7-2.
「おはようございます、センター長」
陽介が出勤すると、センター長秘書業務を職掌としている志保は、その日のスケジュール確認の為に一番でセンター長室を訪れるのが日課だ。
「ああ、おはよう、総務」
赴任してきて5ヶ月、未だに名前を呼ばずに『総務』と呼ぶ陽介を、志保は密かに不満に思っていた。
けれど、それを億尾にも出さず、にこやかな笑顔を浮かべるのは自分でも偉いと思う。
「本日のスケジュールですが」
「うん」
陽介はと言うと、志保が入室した時は大抵、持ち込んだ私物のコーヒーメーカーをセットしている最中だ。
以前、コーヒーがお好きなんですかと聞いたら、艦隊マークはコーヒー好きと言うより大抵はコーヒーメーカー好きなんだよ、何せ艦内は娯楽が少ないから部屋でぼけーっとドリップされる一滴一滴を見つめてる、まるでドモホルンリンクル作る人みたいにね、と聞かされた事があった。
「
陽介はいつの間にか自席に戻り、自分の携帯端末を見ながら頷いていた。
「了解……、ああ、そうだ、すまんがウチの上期の調達実績と予算の比較グラフ、送っておいてくれないか? 」
「アイサー」
「それと、今月の調達事務センター連絡会議はいつだったっけ? 」
「来週火曜日、アジア調達情報センターの第2会議室でJST
3週間先の予定までは端末を確認せずとも打てば響くタイミングで回答する、それが志保の密かな秘書・副官業務でのポリシーだった。
それを聞きながら携帯端末に何やら入力していた陽介の返答に、志保は引っ掛かりを覚えてしまった。
「ええと、連絡会にはアマンダを同行するから、第1種軍装用意、スケジュールを空けておくように伝えてくれ」
僅かな心の漣が、微妙な、数瞬の間につながったのだろうか、小声で「アイサー」と答えると、陽介が端末から顔を上げた。
「……どうした、総務? 」
問われて志保は、迷ってしまう。
陽介なら大抵の事は大目に見てくれるだろうし、後をひくこともないだろう。
しかし、口に出せば、自分の心の内まで晒してしまうことになりそうで、それが迷いの大きな原因だった。
「なんだ? 困りごとでもあるのか? 」
志保は、普段の歯切れのよいキャリアウーマンとは程遠い、まるで人見知りの激しい少女のような口調で言った。
「あの、ええと……。せ、センター長はその……、7係長とはお親しいようですけど……、その……」
陽介は、ああその話かという風に表情を緩め、椅子の背凭れに上体を預ける。
「アマンダとは、ひょんな事から半年程、一緒の部隊にいた事があってね。知っての通り、何かと面倒臭い奴なんだが、腐れ縁とでも言うのか……。結構、世話になったんだ」
もっと他にも訊ねたい事があったのだが、陽介が先回りして話し始めた為、続きをなかなか切り出せなくなった。
「どうしたの、それで? ……アイツひょっとして、なんか仕出かしたのか? 」
何故センター長は、他の幹部達は~艦隊マーク風だかなんだか知らないが~職掌名や苗字階級で呼ぶのに、何故彼女だけ名前で呼ぶのですか?
何故センター長の着任当日、彼女はあんな無謀な行動に及び、そしてセンター長は何故、彼女を抱き締められたのですか?
訊きたいことは山ほどあった。
けれど、それを一旦口に出してしまったら、未だ隠しておきたい自分の胸の内に溜まった想いまで溢れ出してしまいそうで。
「や、ち、違います! そ、そうじゃないです」
志保は慌てて顔の前で手を振り、照れ笑いを浮かべて見せた。
「な、なんとなく、です、なんとなく! 」
そして表情を引き締め、姿勢を正した。
「どうぞお忘れください。明石、戻ります」
「……ご苦労、戻ってよし」
「アイアイサー」
余計なことを言わず済んだ、よく我慢した、私。
部屋を出てドアを閉めた志保は、思わず目を瞑り溜息を吐いて胸を撫で下ろした。
志保は、ジャニスと同時期の着任で、アマンダより半年ほど遅れての着任である。
着任直後、辞令を持って7係を訊ねた時のことを思い出した。
「国連防衛機構より出向、総務会計係長を拝命しました志保・ジャクリーン・明石一等艦尉です。今後とも宜しくお願いいたします」
つい先日までの1ヶ月間の速成教育で習った通り、緊張しながらそう告げて敬礼した志保に、アマンダはギロ、と眼光鋭く見上げてから、ゆっくりと立ち上がった。
「……ん」
ラフな敬礼~まるで招き猫みたいに、クニャッと曲げた手で額を叩くような~で呻くように言った後、鋭い視線を隠すように目を細めた。
「アマンダ・ガラレス・雪野・沢村。7番仕切ってる」
ぶっきらぼうにそう言うと、アマンダはドスン、と再び椅子に腰を下ろし、AFLディスプレイに視線を向けて仕事を再開した彼女を見て、志保は思った。
”な、なによ、こいつ。無愛想にも程があるわ”
その後、別に志保に対して『なにか』思うところがある訳ではなく、誰に対してもそうなのだと判って幾分気持ちは和らいだものの、それでも第一印象は最悪だったと言えるだろう。
しかし普段の彼女は、特に乱暴な訳ではなく、目立つほど規則を破る訳でもなく~煙草だけは閉口したが、それも直ぐに規則を守るようになった~、仕事振りに関しては確かに『やり手』で、頼んだ資料や計数も真っ先に提出してくれるし、しかもミスは殆どない。
総務から各係へ依頼する事務処理事項や伝達事項に関しても、完璧なまでに7係内に指示徹底してくれて、どちらかと言うと、他の係長連中に彼女の爪の垢でも煎じて飲めと言いたいくらいなのだ。
「……だけど、第一印象って重要よねぇ」
第一印象だけだと明らかに、志保の中では彼女は『不良士官』に類別されるべき人物だった。
今日は朝から憂鬱だわと溜息を吐いて顔を上げると、気付かないうちに憂鬱の原因、アマンダが目の前に立っていた。
「きゃっ! 」
思わず叫ぶと、さすがにアマンダも驚いたのか、ピク、と片方の眉が上がる。
「……ん? 」
ニュアンス的にどうしたのだと問われていると察して、志保は少しだけ頬を染める。
「ご、ごめんなさい! ちょ、ちょっと考えごとをしてたものだから……」
アマンダは微かに目を細め、志保の真意を探るかのように数瞬、彼女の顔をみつめていたが、やがて視線をそらして口の中でもごもご言った。
「別に、謝んなくていいよ」
志保は無言でコクンと頷いて踵を返したが、さっき陽介から伝言を頼まれていた事を思い出して振り返った。
アマンダはセンター長室のドアに向き直って、ノックをしようと右腕を上げたところだった。
「そ、そうだ、沢村一尉! 」
アマンダは気勢を殺がれたようにカクン、と肩を落とし、振り返った。
「……ん? 」
初対面のときの視線を思い出し、思わず一歩後退さりかけるのを何とか留まって、
「セ、センター長からその、で、伝言よ。えと」
記憶を手繰ろうと言葉を一旦切ると、アマンダはドアを指差して先に口を開いた。
「本人から聞くよ」
そう言うと、志保の返事も待たず再び彼女に背を向け、拳でドンドンドン、とドアを叩いた。
とてもノックとは思えなかった。
「7番、沢村」
「入れ」
「……ッエッサ」
アマンダが室内へ消えた後も、呆然とその場に立ち尽くしていた志保は、ガラス越しに、陽介の顔が綻んでいることに気付いた。
なんとなく納得しかねる思いが、再燃した。
陽介が出勤すると、真っ先に志保がセンター長室へ入っていく。
それが志保の任務だからと理性では理解しているものの、アマンダにとっては何となく心が騒めく時間である事もまた、確かだった。
ひょっとして、自分は彼女に妬いているのだろうか?
自分の席からは、志保の姿は死角に入っていて見えないが、彼女に向かって微笑を浮かべながら話している陽介の表情が、胸に痛い。
一瞬の後、首を強く振って自分の想いを振り切る。
なんだ情けない。
自分で決めたことだろう。
陽介とは、おそらくこの世で結ばれることはない、だからせめて、この一瞬、一瞬を楽しもうと。
無理矢理押さえつけても、油断するとぽっこり心の表層に浮いてくる想いを持て余している癖に、ガラス越しの陽介が笑顔を収めて敬礼をする姿を見た途端、数瞬後には志保が部屋から出てくる事を素早く察知して、まるでそれまで立ち込めていた心の靄など忘れたかのように席を蹴るようにして立ち上がり、ドアの前へ歩き始める自分の浅ましさ、子供っぽさに、少なからず自己嫌悪を感じるのが最近のアマンダの日課になっていた。
「丁度いいや、コーヒー出来たとこ……、どうした? 」
志保と入れ替わりにやってくるアマンダと、始業までの暫くの間をコーヒーを飲みながら過ごすのも、ふたりのルールだ。
だが今朝の陽介は、振り返ってアマンダの顔を見た途端、いつものセリフを中断してそう問いかけてきた。
「ん……」
アマンダはチラ、とドアの方を振り返り、肩越しに総務のパーティションを指差しながら、答えた。
「なんか、明石がよ……」
「ん? ……総務? 」
暫くして陽介は、思い当たったように表情を緩めた。
「ああ、さっき頼んだ伝言の件だろ? 」
「え? ……ああ、それもあったな」
アマンダは自分の定位置となっている、センター長のデスク横に置かれている面談用の予備椅子に腰掛け、陽介からマグカップを受け取りながら言葉を継いだ。
「って言うか明石の奴、部屋から出るなり、ドアん前で溜息ついてボーッとしてたぜ? 」
陽介は自分の椅子に座りながら、暫く虚空を睨んでいたが、やがて口を開いた。
「……別に心当たりはないけど、なあ」
アマンダはじっと、自分の手の中にあるマグカップをみつめる。
陽介が毎朝部屋を訪れる彼女用にと買ってくれた、どこにでもある、けれどアマンダにとっては大切な宝石にも思える、可愛い黒猫のイラストが描かれたマグ。
その中で湯気をたてているコーヒーには、黙っていてもクリープがスプーンに2杯。
少なくとも、陽介は自分を判ってくれている、『それなりに』大切にしてくれているという、思わず涙ぐんでしまいそうな、温かな実感が湧き上がる。
けれど、それは小さな自己満足でしかなく、本当にそうなのか? と改めて自問すると、自信がない。
自分が言ってない事は当然判らないだろうし、自分が居ない場所でも彼は大切に思ってくれているかどうかも判らない。
それは当然の事だし、それをわざわざ拾い上げて心配したり大騒ぎするほど、子供ではないつもりだ。
だけど、そのことを無性に淋しく思ってしまうのもまた、アマンダの心の中では事実だった。
その『事実』が、唇を開かせる。
「……なんか、あるんじゃねえのか? 」
「んー……」
再び記憶を辿る表情を見せる陽介の横顔を、アマンダは祈るような想いで、食い入るようにみつめる。
陽介、アタシになんか隠してるんじゃねえのかな?
陽介、あの女になんか言われたんじゃねえのかな?
陽介、あの女になんか言ったんじゃねえのかな?
陽介、あの女に言い寄られたんじゃねえのかな?
陽介、あの女に言い寄ったんじゃねえのかな?
陽介、アタシのこと……。
どう、思ってんのかな?
「そう言えば……」
陽介の声がアマンダを一気に『現実』へ引き戻す。
「……ん? 」
喉が渇いて、上手く声が出せなかった。
「なんか、俺とお前、親しいようだけど、とかなんとか言ってたような……」
一瞬、全ての音が消え去った。
そう見えるんだ……。
アタシと、陽介。
次に、自分の心臓の音が蘇る。
その音は急激にボリュームを上げ、思わずやかましいと叫びそうになった瞬間、視界が滲んで自分でも驚いた。
嬉しい。
そう、見えてたんだ。
嬉しくて、死んでしまいそうだ。
いや、今死んだら勿体ねえ、死なずにこの幸せを胸に抱き、喜びをオカズに丼飯5杯だって食って見せる。
少なくとも、アタシと陽介は、他人の目からはそう見えているのだ。
所詮、この世で結ばれる事などないと、とっくに諦めていた筈なのに。
だからこそ、せめてアンタに抱かれる代りにと、『宝物』を、『あの子達』を抱き締めた筈なのに。
今、隣で温かい笑顔を見せてくれるだけのコイツが、こんなにも愛惜しい。
「お、おい、アマ、アマンダ! 」
突然、陽介は半ばパニック気味で慌てて椅子から立ち上がり、手を差し伸べてきた。
「どうしたんだよ、おい! 」
言いながら頬に手をかけ、親指で優しく涙を拭ってくれている陽介の仕草で、アマンダは漸く、自分が知らないうち泣いていたことを悟る。
「……なんでもねえよ」
そう言って、照れ臭さも手伝い、邪険に陽介の手を払い除けた刹那、後悔と幸福感が綯い交ぜになってアマンダを襲う。
その結果、浮かんだ表情は、何故か笑顔だった。
「……そうか」
陽介も、アマンダが滅多に見せない笑顔を浮かべた事で、安堵したように微笑んで椅子に腰を下ろした。
クソッタレ格好の悪いところを見られちまったと、ゴシゴシ拳で涙を拭っていると、陽介はAFLディスプレイを覗き込む振りをしながら話しかけてきた。
「……ま、難しい事考えずに、馬鹿みたいに笑ってろ。そっちがお前にゃ、お似合いだ」
陽介のおどけたような台詞の裏にある、自分だけを~少なくとも、この瞬間は~思い遣ってくれている気持ちが感じられて、アマンダは安心したようにコーヒーをひとくち啜った。
「そだな。……って言うか、馬鹿は余計だ、馬鹿っ! 」
今朝に限って、砂糖抜きのコーヒーが、妙に甘く感じられた。
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