第39話 6-6.


「おっと」

 再会した日の記憶を辿りながら歩いていたからか、ボンヤリしていたのだろう、陽介は、気付かないうちに立ち止まっていたアマンダの背中に行き当たってしまった。

 刹那、顔に纏わりつく彼女の黒髪から、得も知れぬ香りが立ち昇る。

 ああ。

 アマンダの香り。

 再会の日、まるで天女のように軽々と防弾ガラスをすり抜けて胸に舞い降りて来た時と、同じ香り。

 一瞬、陶然としてしまうが、慌てて我に返った。

「あ、すまん」

 だが、アマンダは振り向きもせず、立ち竦んでいる。

「? 」

 改めて周囲を見渡したけれど、そこは何でもない歩道の真ん中で、信号待ちでも障害物がある訳でもなかった。

「おい、どうし……」

「……るけよ」

「え? 」

 ハスキーな甘い声は、今は震えているように聞える。

「アタシの前を歩けっつってんだよこのトンチキ! 」

 アマンダが前、陽介がその後を歩くのは、いつの間にかそうなっていた2人の『ルール』だ。

「どうしたんだ? 」

 思わず陽介はアマンダの肩に手を置いて、軽く力を入れてこちらを振り向かせる。

 予想外の儚さで、アマンダは簡単にこちらを向いて、勢い余って一周しかけた程だった。

 普段ならパンチかキックでも繰り出す筈が、しかし彼女は肩を震わせ顔を伏せたままだ。

 思わず絶句する陽介に、アマンダは震える声でゆっくりと言った。

「……もうすぐ3月、異動の季節だ。お前だって頼りねえけど、生粋のA幹、しかも防大卒のエリートだ。横浜ハマにもそろそろ半年、どうなるか判ったもんじゃねえ。……そだろ? 」

 ゆっくりとこちらに顔を向けたアマンダの目は、少し充血しているように思えた。

「べ、別にテメエがどこへ飛ばされようが、アタシにゃあ関係ねえけどよ? まあ同じ配置になったのも何かの縁だ、このままじゃあ影の薄いお前の事なんざ、忙しいみんなはアッという間に忘れちまうかもしれねえからよ? だ、だから、よ……」


 怖いんだよ、陽介。

 いつも後ろから聞えるお前の足音が、急に聞えなくなりそうで、さあ? 

 お前が、急にいなくなっちまいそうで、さあ? 

 今までは、お前と並んで歩きたいと思いながら、ますますお前に溺れちまいそうな……、いや、きっと溺れてしまう筈だから、そう思って、怖くて前を歩いていたけれど。

 でも、もうアタシは耐えられない。

 耐えられそうに、ないんだよ。

 お前がいない、お前が手の届くところにいない、そんな暮らしが、アタシには耐えられそうにないんだよ。

 だから、せめて、お前の後姿だけでもこの目に焼き付けておきたいんだ。

 なんでか昨夜は、妙な加減でお前との再会の日を思い出しちまってさ……。

 あの日、決めた筈の覚悟が、あっさりと崩れちまってる弱いアタシに、アタシは匙を投げたんだ。

 だから、せめて。

 今日から、アタシの前を歩いて欲しいんだ。

 アンタが去ろうとしても、引き止められないアタシだから。

 アンタが去ろうとしても、泣き言ひとつ言えない馬鹿だけど。

 せめて、アンタの消え去る最後の一瞬まで、アンタをみつめていたいから。

 せめて、アンタの消え去る最後の一瞬まで、全てを心に刻み付けておきたいから。

「お前がそうしてほしいって言うんなら、そうするよ」

 陽介の声が耳元で響く。

 気付くと陽介は、アタシに息が届くほど近寄って、アタシの顔を覗き込むようにして微笑んでいた。

 ありがとう。

 言いたくて言えない自分を叱りつけようとした刹那、陽介が先に口を開いた。

「でも、俺……、お前の前を歩くのは、もひとつ、気が乗らないんだよな」

 え? 

 問い返す前に陽介は言葉を継ぐ。

 変わらない筈の微笑みが、一瞬哀しげに揺れたように見えたのは、錯覚だろうか? 

「お前の姿が見えないと、なんだか淋しいし、さ? ……それに、知らないうちにお前が居なくなっちまいそうで、それは、嫌だ」

 もう、堰き止められない。

 なんて事言いやがる、この馬鹿野郎。

 なんでそんな事、さらっと言えるんだよ? 

 それを聞いたアタシが、どんなに喜ぶかテメエ、知ってんのか? 

 それを聞いたアタシが、どんなに幸せかテメエ、知ってて言ってんのか? 

 それを聞いたアタシが、どんなに有頂天になって、どんだけ調子に乗るか判ってんのか? 

 堰き止められない想いは、堰を切って溢れる。

 泣いてない。

 泣いてなんかいない。

 アタシが、テメエみたいなカッパ野郎に泣かされる訳にゃいかねえんだよ。

 優しすぎるのも罪だってこと、まだ判んねえのか、この馬鹿は? 

「だから、さ? 」

 さっき陽介の微笑みに垣間見えた哀しげな翳は今はなく、ただいっそう柔らかく、輝いて見えた。

 くそったれ、涙でちゃんと見えねえや。

「これは提案なんだけど……。今日から、並んで歩かないか? 」

 そう言うと陽介は、アタシの横に立つ。

「な? 」

 何が、な、だ。

 ああ、もう。

 やっぱりクセになっちまう。

 お前の香りが、心に沁みる。

 お前の優しさが、心を震わせる。

 お前の悪気のない残酷さが、アタシの想いを揺さぶるんだよ。

 ええい、もうヤケだ。

 なるようになれ。

 刹那主義だろうがなんだろうが、アタシは身も心も蕩けちまいそうな幸せで、今は腹一杯なんだよ! 

「て……」

「なに? 手、繋いで欲しいのか? 」

「ばっ! ……て、テメエ変態かっ? あ、朝っぱらからな、なに言ってんだ馬鹿野郎! そ、そんなもん、繋ぐか! 」

 直後、後悔に苛まれて唇を噛み締めるアタシに気付かず、隣の馬鹿は優しい笑い声を上げた。

「判ってるって。……さあ、それより、行こうぜ? 」

 言葉もなく、漸くコクンと頷いて見せたアタシに満足したのか、陽介は歩き始めた。

 慌ててアタシも隣に並ぶ。

 再会のあの日、アタシの心臓を急加速させた陽介の足音に、今日はアタシの足音が寄り添っているのが信じられなかった。

 漸く、並んだ。

 夜のアタシが、昼間の太陽に並んだ瞬間だった。

 もっとも、アタシは未だ夕闇だったかもしれないけれど。

 そんな事はもう、どうでも良かった。

 ただ、嬉しかった。

 大声で叫び出したくなるくらい、アタシは幸せだった。


 並んで歩く。

 横浜で積み重ねてきたふたりだけのルールが、またひとつ、増えた。


「おはようございます! 」

 701師団から派遣されているYSIC警衛分隊の分隊長、ディック・チャップマン一等陸曹がArms to tササゲhe presentツツで挨拶してきた。

 通用口は、正面ロビーとは反対側、裏通りにあり、ここは唯一、都市迷彩の第3種軍装にAKを提げた警備兵が一般からも見える軍隊らしいところだ。

 通用口以外では、ビル内の要所に警衛立哨が配置され、民間人の立ち入りが普段から多い1階受付と2階商談コーナーについては、ハンドガン携帯の第2乙姿の警衛がガードマンよろしく目立たぬところを行き来している。

「おはよう、ご苦労」

「う……」

 アマンダは呻き声のような挨拶を、招き猫みたいないい加減な敬礼と共に返すが、それはまあ、いつもの事だ。

 ディック達警衛も慣れたもので気にも留めていない。

 というより、彼自身103師団時代にアマンダの部下だったとかで、彼がBクラスレンジャー試験の前に世話になったからと、未だに彼女を「姉御」と呼んでいる。

「今朝はお珍しいですね、三佐」

 陽介が振り返ると、ディックは真っ黒な顔に真っ白な歯を剥き出して笑っている。

「いつもお二方ご一緒なのは知ってましたが、今日は仲良く並んで歩いて来られたじゃないですか」

「ばっ……! 」

 ずっと頬を赤らめていたのは横顔からも充分判ってはいたが、今度こそ爆発するんじゃないかというくらい瞬間的に顔全体を真っ赤にしてアマンダが顔を上げる。

「テ、テメエッ! よ、余計な事言ってんじゃねえっ! いい加減にしねえとその貧相なタマ握り潰して」

「こらお前下品な単語を天下の公道で叫ぶな」

 陽介は慌ててアマンダの口を手で塞ぎ、2人の間に割って入った。

「一曹も茶化してやるな。貴様もこいつが面倒な性格なのは知ってるだろうに」

「は、もちろん知ってますが、揶揄うとオモシロい事も知ってましたんで、つい」

「てめえ! もう許さねえ表出ろ表このスットコドッコイッ! 」

「や、ここ表なんですが」

「上等だこのトンチキ! 」

「どうどう」

 慣れたもので陽介はそのままアマンダを抱えて通用口からビル内に入り階段の手前まで連れ込んだ。

「Fuck! あの野郎、下手に出てりゃ調子こきやがって……」

「お前、反応が過敏すぎるんだよ」

 陽介は漸く手をアマンダから離して、苦笑混じりに言った。

「もうちょっと、さらりと聞き流すって事覚えろ。そんなだから、余計皆に揶揄からかわれるんだぞ? 」

 罵詈雑言でも返ってくるかと思っていたが、予想に反してアマンダは無言である。

「? 」

 昇り始めていた階段の途中で振り返ると、アマンダは未だ1階でじっと自分の足元を見ながら突っ立っていた。

 見下ろしているから、と言うこともあるのだろうが、陽介には、アマンダが妙に小柄に見えた。


「なあ、陽介……、さ」

「どうした? 」

 暫く躊躇った後、アマンダは思い決して顔を陽介に向けた。

「揶揄われても……、お前、なんとも思わねえのか? 嫌じゃねえのかよ? 」

 なのに陽介は、けろっと答えたものだ。

「別に」

 なんで? 

 は、恥かしいだろ? 

 こんなアラサーの、ガサツで乱暴者で不良で学がなくて口が悪くてキズモノで……。

 アマンダが口をぱくぱくさせているのを見て、陽介はニコ、と笑った。

「別に嫌じゃないから何言われてもスルーしてたんだ。けど、お前が嫌なら俺が言ってやるが……。お前、嫌なのか? 」

 嫌じゃない。

 んな訳ねえじゃん。

 だけど。

 だけど、本当の事じゃないから。

 実際、アンタとアタシはそうじゃないから。

 それが哀しくて、切なくて、遣り切れなくて、苦しいから。

 言葉が見つからず、視線を足元に落としたアマンダの目の前に陽介の手がス、と伸びてきた。

「なら、いいじゃないか。さ、それより朝飯だ。行こう? 」

 拘りすぎて、拗れてしまった自分の想いを、陽介はいつだって、優しく、柔らかく、解き解してくれる。

 それが嬉しくて、こくんと頷いた途端に、身体中に溜まっていた余計な力がス、と抜けていき、アマンダはそっと自分の右手を陽介の手に重ねた。

 陽介の手、やっぱ、暖かいな。

 意外とゴツゴツしてて、たくましそうで、安心しちまう。

 引き上げられるままにアマンダは、階段の途中に居た陽介の隣に並ぶ。

「さて、腹減ったよ。早く行こう」

「ん、ん……」

 刹那、2人の視線が絡み合い、どちらともなく微笑みを交わす。

 今日のアタシは、どっか、おかしいな。

 でも、いいや。

 陽介がいるから。

 陽介が優しいから。

 陽介が微笑んでいるから。

 アタシの隣にいてくれるから。

 早朝の階段に、2人の足音が揃って木霊するのが、アマンダには何だか照れ臭く、けれど楽し気な音楽のようにも思えて、そんな自分がとても可愛く思えた。

 今朝はなんだか、昨日までとは違って、陽介と距離が少しだけ、ほんの少しだけ縮まったように思える。

 それは昨夜から何故だか思い出される、温かく優しい、過去の記憶のせいかもしれない、とアマンダは思う。

 温故知新、という言葉が不意に思い出されて、いやなんか使い方が間違ってるような気がすると、彼女は恥ずかしさに頬を染めた。


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