第37話 6-4.


 陽介が自分の上官としてこのオフィスへやってくる事をアマンダが知ったのは、異動内示が幹部へオープンにされた着任予定日1週間前だった。

 その日朝一番、週1回定例の係長連絡会議の席に、普段滅多に顔を見せないアジア統括センター長の瑛花えいかが姿を現したのである。

 会議冒頭、当時のセンター長である香坂の目礼を受けて、瑛花はまるで女優のように優雅な微笑を返し、いとも簡単にメガトン級の爆弾をアマンダの前に放り投げた。

「後任は向井陽介三等艦佐、前職は外幕艦総第52輸送艦隊特殊兵装輸送艦TWS01鳥羽の艦長……。防大では輸送補給作戦幕僚課程を副課だけど選択してるわね」

 瑛花の落とした爆弾の威力は、アマンダにとっては強烈で、その爆風を浴びた瞬間、身体は勿論、胸の内に秘めた想いまでもが激しく揺さぶられ、一瞬で何も考えられなくなってしまった。

「陽介っ? 」

 無意識のうちに、思わず叫んで立ち上がったアマンダを、出席者全員が恐いものを見るような目で注視する中、書類から顔を上げた瑛花だけが、アイシャドウとマスカラに彩られた目を細め、お洒落なフレームレスの眼鏡越しに微笑んだ。

「7番~艦隊マークでの7係長の俗称だ~。お座りなさいな」

 隣の席に座っていた、唯一係長クラスでは友人と呼べる8係長、ジャニス・ウィーバー一等艦尉に上着の裾を引っ張られて崩れ落ちるみたいに椅子に座った瞬間から、アマンダにはその日の記憶が、ない。

 会議が終わった後、酷い顔色だよちょっとアミー大丈夫なのと抱きかかえられるようにして自席まで戻り、次に気がつくとマンションの万年床の上でジャージに着替えて天井を眺めていた。

 夢みたいだ。

 そう呟きかけて、慌てて両手で我が口を塞ぐ。

 言ってしまうと、夢から醒めてしまいそうで、ひょっとして未だ係長会議の席上かも知れないとまで考えてしまい、恐かった。

 いつまでも夢みていたい、と心の底から祈った。

 何かに祈るのなんて、ばあちゃんが病気になった時以来だ、と思い出して、やっと笑えた。

 次に、このまま夢から醒めないなんて、まるで生殺しだと気付き、泣きたくなった。

 一体自分が、夢か現実か、どちらを望んでいるのか判らなくなって、胸が苦しくなってきた。

 陽介が傍にいれば教えてもらえるのに、そう思うと、だんだん腹が立ってきて、陽介馬鹿野郎いつだってお前はタイミングが悪すぎるんだこの役立たずと罵ると、少しだけ楽になった。

 その後は、陽介、陽介、ようすけヨウスケ陽介YOUSUKEと口の中で繰り返し、気がつくと遠くで始発電車の走る音が聞えてきて、長い夜が明けた事を知った。

 2日目は、寝不足のまま出勤したものの、昨日自分が耳にした情報が本当なのかどうか、確認したくてたまらなくなり、仕事が手につかなかった。

 昼前、総務の志保がデスクの傍にやってきて、どうしたの貴女酷い顔よ寝不足じゃないのと余計な事を言いながら「ああそうだ、これ新センター長の職務経歴書、目を通しておいてね」と書類を差し出し、その顔写真を見て漸く夢ではないのだ、本当に陽介がやってくるのだと判った。

 判ったが、やっぱり仕事は手につかなかった。

 写真の陽介の顔を指で撫でつつ溜息を落とす、それを何百篇と繰り返してその日は終わった。

 3日目、陽介が着任早々「来週には艦隊に戻るんだ」と嬉しそうな顔で告げる夢を見て、わあっと叫んで目を醒ましたら、灯りを消して未だ2時間しか経過していないと知り、夢かと溜息を吐きながら再び横になって初めて、枕が涙で濡れているのに気付いた。

 UNDASNの幹部、特に防大出の幹部は普通半年から1年、長くても2年で別れが来ることは避けられないのだと改めて気付き、いっそ陽介の着任なんて夢だったら良かったのにと声を上げて泣いた。

 やっぱりそのまま朝が来て、ふらふらと出勤して初めて、今日が日曜だと知った。

 昨日配られた書類の陽介の写真をそっと切り取り、手帳に挟んで帰宅した。

 4日目、フラフラになって出勤したら、余程弱っているように見えたのだろう、ジャニスや部下達から口々に大丈夫か病院へ行ったのかもう早退した方が良いのではと言われて、これじゃ駄目だ気合を入れ直してしっかり仕事せにゃと皆を蹴散らし唇を噛み締め書類や端末に向かったら、思ったよりも捗ったので自分でも驚いた。

 なんだやっぱ仕事だけはきちんとしねえとなぁどんなもんだい陽介ザマァみやがれエロガッパと胸を張った瞬間、取引先や部下、関連部署からちゃんと仕事しろ間違いだらけだとクレームが殺到し、ますます落ち込んだ。

 5日目、さすがに体力の限界だったのか、夢も見ないでぐっすり眠り、始発電車で出勤して捻り鉢巻で端末に向かい、朝昼食事も取らずに溜まりに溜まった仕事をガムシャラにやっつけ、深夜漸く全部片付けたと端末から顔を上げた瞬間、陽介が目の前で微笑んでいた。

 あれなんでテメエいるんだ着任は明後日じゃないのかよ? と問うと、陽介はチェシャ猫のようにふ、と笑顔だけを残して掻き消える。

 あれと首を捻っていると今度は隣で微笑んでいて、お前ストーキング随分上手くなったじゃねえかと声をかけるとまた消える。

 次に端末に開いたポップアップ・ウィンドウの中で微笑む陽介をみつけた途端、さすがに幻だと気付いて慌てて洗面所へと駆け込み、蛇口の水を頭から被って鏡に映る自分を見た刹那、このまま狂ってしまうんじゃないかと恐くなり、顔を伏せ、ずぶ濡れの自分を自分で抱き締め肩を震わせていたら、心配でついてきたのだと言うジャニスに後ろから抱きつかれ、そのままタクシーで自宅へ送り届けられた。

 目が覚めると6日目で、どうやら泊まり込んで様子を見ていてくれたらしいジャニスが布団の横に座り込んでいて、ほっとした表情で微笑みを浮かべていた。

 なんか悪ぃなマジすまねえと言いながら起き上がるのを、ジャニスは無理矢理押さえ付けて、今日は病欠って明石さんに連絡しといたどうせ無理して出勤したって香坂センター長の送別会だものロクに仕事になんないわそれより今日は1日ゆっくり休んで気分転換しなさい明日は新センター長との初顔合わせよアンタその酷い顔で出るつもりなの? と言いたい事だけ言って立ち上がり、じゃあねいいこときちんと休んでるのよわかったわねとドアを閉めて出て行った。

 ジャニスの心遣いは本当に嬉しかったけど、それよりアタシそんな酷い顔かと気になって、ドアが閉まる音と同時に跳ね起きて洗面所へ駆け込み、鏡を見て驚いた。

 目の下にクマ、寝不足で肌はボロボロ、髪の毛はくしゃくしゃ。

 どうした酷い顔だぞともしも陽介に言われたら確実に死ねる、そう真剣に思った。

 とてもこの姿で彼と再会する気になれなかった。

 お前変わったな立派になったよ見違えたと言わせたかったけれど、それももういいやと諦めた。

 変わってないなお前こそ変わり映えがしねえぞお互い様だと言い合えたならば、もうそれで充分だと思った。

 せめて、先週の自分に戻りたかった。

 そう考えたら居ても立ってもいられなくなり、その場で服を脱ぎ捨てて熱いシャワーを浴びた。

 石鹸でごしごし、痛くなるくらい手当たり次第に身体中を擦りまくった。

 手が疲れたので、最後にはボケッと突っ立って熱い湯に打たれるうちに、哀しくなった。

 なんでアタシは、こんなに不器用なんだろう。

 なんでアタシは、上手くやれないんだろう。

 なんでアタシは、陽介に逢いたいんだろう。

 なんでアタシは、陽介じゃなきゃいけないんだろう。

 どうせ、結ばれないのに。

 どうせ、抱いてもらえないのに。

 どうせ、別れが必ず訪れるのに。

 それでも、陽介に逢いたいのは何故なんだろう。

 それでも、陽介の笑顔を見たいのは何故なんだろう。

 それでも、陽介でないと駄目なのは何故なんだろう。

 助けて。

 もう、どうして良いか判らない。

 助けて、誰か、助けて。

 ねえ陽介、助けてよ。

 お前は、いつだって助けてくれたじゃないか。

 お前は、及ばずながらだけど、いつだって助けようとしてくれたじゃないか。

 お前は、間は悪かったけど、ちゃんと手を伸ばして助けようとしてくれたじゃないか。

 お前は、あの時だって、潰れそうになっていたアタシを助けてくれたじゃないか。

 そこまで考えて、遂に、思い至った。

 そうか。

 アイツは、アタシのヒーローなんだ。

 か弱き美女の運命は風前の灯火、その刹那、危機一髪で悪漢の手から救い出し、抱き締めて颯爽とハッピーエンドに導いてくれる、ヒーローなんだ。

 だったら、アタシのやるべきことはただひとつ。

 ヒーローが助け出して然るべき、ヒーローが助け出すシーンが絵になる、せめて上っ面だけでもそう見えるように。

 バスタオルで身体を拭くのももどかしく、街に出て近所で一番高級そうな美容院に飛び込んだ。

 お嬢様本日はどのようなと揉み手に笑顔の優男の猫撫で声に顔を引き攣らせながらも、いやあのそのまあなんだ明日ちょっとありましてと自分でも訳の判らぬ言い訳を口にした後これじゃ駄目だと開き直り、にーちゃんパーマはいらねえ毛先をちょいちょいとやってもらって後はシャンプーとそうヘアトリートメントとかいう奴をガッツリそうだついでに顔やら肌やらパックでもなんでもにーちゃんが美容にいいぜと思う事ぁ全~部やってくれああ金なら持ってる心配すんなさあ好きにしやがれコンチクショウと椅子に座って、気がつくと5時間が経過していてお疲れ様でした御代は10万円と言われて漸く現実へ帰還した。

 久し振りに感じた空腹がなんだか嬉しくて、美容院を出た後近所の牛丼屋に飛び込み、ネギ玉牛丼特盛サラダおしんこ豚汁セットを頼んで10分で平らげ、餓鬼共に占拠される前の児童公園のベンチに座り一服吸い付けた。

 煙草が旨かった。

 久々だなあと何気なく天を仰ぎ見るとまだ夏の匂いが残る青空が目に沁みた。

 ミハランの老いぼれた太陽も、地球から見る太陽も、大して変わらないと思うと、不思議な気がした。

 この1週間、うじうじしていた自分が、急に腹立たしくなった。

 きっと陽介も変わってない、アタシだってそりゃ成長してねえのかも知んねえけど、変わってもいない、そうも思えた。

 いや、今日の大枚10万円の投資でアタシは奇跡の大変身、きっと陽介の馬鹿野郎目ン玉引ん剥いてビックリしやがるぞ、そう考えると明日が楽しみになった。

 部屋に戻って今度は湯船に熱い湯を張ってゆっくり風呂を楽しみ、冷蔵庫にあったエビスのロング缶5本全部資源ゴミにしてそのまま布団にもぐりこみ灯りを消してぐっすり眠った。

 7日目、目が醒めて、自分が途轍もないくらいの馬鹿だと思い知った。

 今日なんか来なくていいのにと、何処かの誰かを真剣に恨んだ。

 怖かった。

 出逢った時から、ひとつになる事など諦めていた筈の陽介に再び逢うことが。

 必死になって手を差し伸べてくれたあの日、彼の手を握り、その温かさに痺れながらも、ひとつになる事など諦めていた筈の陽介に再び逢うことが。

 ミハランでの訣別のあの日、笑顔で手を振る大好きだった彼の後を追いかけたくなる衝動と必死に闘い、不貞腐れた表情のままラフな敬礼を贈った相手、ひとつになる事など諦めていた筈の陽介に再び逢うことが。 

 二度と逢う事もないかも知れない、しかし奇跡が起きて再会の日が訪れたその時には、せめて立派になったなと言わせたかった、ひとつになる事など諦めていた筈の陽介に、再び逢うことが。

 怖かった。

 諦めたはずの自分が、どのツラ下げて彼に逢えるというのか? 

 諦めたはずの自分が、逢ってどんな台詞をまともに吐けるというのか? 

 諦めたはずの自分が、何を浮かれて美容院などへ行きトリートメントや美肌エステなんぞに金を注ぎ込んだのか? 

 もう、どうして良いか判らない。

 この1週間、何度繰り返した言葉だろう。

 しかし、今度こそ本当にどうして良いか判らなかった。

 こんな無様で不器用でお調子者で馬鹿で役立たずなクソ餓鬼のままの自分を見られるくらいなら、死んだ方がマシかも知れないと、半ば真剣に考えた。

 いっそ、ミハランで戦死でもしていれば今頃あの世から浮世のスラップスティックを鼻糞ほじりながらノンビリ眺められて楽だったかも、ああでも戦死は痛そうだしなあそうだ陽介が戦死してりゃあいっそ諦めもついたのに、そこまで考えて陽介が死んだりしたらアタシも死ぬと、もう思考は暴走し唯の妄想と成り果て、自分でもパニックに陥りかけた。

 その刹那、携帯端末の呼び出し音が鳴り響いて、我に返った。

 助かったと思う反面、本当に助かったのかV1を過ぎVRはますます近づいてきているぞとビクビクしながら、手は反射的に応答ボタンを押していた。

「あらアマンダおはよっ! 」

 ジャニスだった。

「どうやら昨日休んだのは正解だったようね」

 今となっては、彼女の笑顔が眩しかった。

 気付くと、画像送受信は両方ともONになっている。

 感情を制御できず、却って無表情になるしかなかった自分を放ったらかしにしておいて、ジャニスは悪戯っぽく画面の中で笑って見せて、言葉を継いだ。

「カットしたのね、髪。とっても綺麗。今日のアミーは最強ね」

 それじゃ後ほどオフィスで会いましょう楽しみだわ待ってるわよじゃあねとジャニスはUNDASNの通信符号規則をキレイに無視して女子高生の暇つぶし電話のような通信を切った。

 毒気を抜かれた気がして、ふらふらと洗面所の鏡の前に立つ。

 言われてみれば確かに、欠勤する前とは違う自分がそこにいた。

『今日のアミーは最強ね』

 今日の? 

 馬鹿言っちゃいけねえ。

 アタシはいつだって最強だ。

 胸の特A級レンジャー徽章は伊達じゃねえ。

 そうさ。

 陽介なんざ、陸に上がって干上がりかけてる、死に損ないのカッパじゃねえか。

 待ってろ、陽介。

 アタシがテメエなんざ完膚なきまでに叩きのめしてやる。

 考えてみりゃあザマぁねえ。

 この1週間、なんであんな腑抜け野郎にビクビクしてたんだ? 

 一度は確かに、諦めることが出来たんだ。

 そして、もしも再会する日が来るならば、驚かせてやると誓ったんだ。

 その為に今日まで、頑張って来たんじゃねえか。

 今のアタシにゃ、ちゃんと『宝物』だってある。

 金でもない、暴力でも銃でもない、そしてアンタでもない『宝物』だってあるんだぜ? 

 そうさ、アンタを諦める、諦められる、そんな気にさせてくれる『宝物』が、アタシには、ある。

 そんなアタシがアンタ如きを怖れる理由なんざ、これっぽっちもありゃしねえんだ。

 待ってろ、陽介。

 アタシが行くからよ。

 目ン玉飛び出るくれえ、驚かせてやるからよ。

 参った降参負けましたと言わせてやるからよ。

 待ってろ。

 逢ったら逢った時のことだ、出会い頭の遭遇戦なんざ、これまで腐るほどやってきたアマンダ姐さんだ、なんとでもならあ。

 そうさ、ジャニス、見てな。

 アタシは何時だって最強だってこと、証明してやる。

 待ってろ、陽介。

 そして、最強のアタシを見て、陽介、アンタはこう言うんだ。

 立派な大人になったな、アマンダ。

 うん。

 そう言って欲しいな。

 お願い。

 そう、言って。

 ううん、言わなくてもいい、せめて。

 あの日のような、大好きな笑顔を見せて。

 あの日のように、温かい手を差し伸べて。

 頼むよ、陽介。

 待ってて。

 行くから。

 アタシは、この瞬間のために、生きてきたんだから。

 知らぬうちに、アマンダの両手は、まるで祈りを捧げるように、しっかりと組まれていた。


「沢村一尉。新センター長着任の臨時幹部会議は1530時から30分の予定で第一会議室。出席できるかしら? 」

 出勤した途端、志保からカウンターパンチをくらう。

 頭から冷や水を浴びせかけられたように感じた。

 せっかくここまで陽介への怒りを燃料にして上げてきたテンションが、マニュアル・リペリング並みのスピードで底の見えない暗い穴へと落ちていく。

「どうしたの? 」

「や、な、なんでもねえ。ちょ、ちょいとその時分来客あるから、そのえと、駄目かも知れねえ」

 胸の内を覗き込まれまいとして、慌てて言ったでまかせがオウンゴール。

 良い知らせ。陽介が横浜へ来るのは本当だった。

 悪い知らせ。陽介との再会が30分遅れた。

 本当か? 

 逆じゃないのか? 

 どっちも悪い知らせじゃないのか、それともどっちも良い知らせか? 

 ああ、来るんじゃなかった。

 地獄みたいな1週間だったけど、これなら地獄が永遠に続く方がまだマシだ。

 頭を抱え崩れるように椅子に座り込んだ直後、誰かが肩に手を置いた。

「ジャニス……」

 ごめんな、ジャニス。

 折角あんなに気を遣ってくれたのに、アタシはアンタの優しさを活かせなかった。

「……ご」

 めん、と言う言葉は、唇の前に立てられた彼女の人差し指で簡単に塞がれる。

「さっきも言ったでしょ? ……アミー、今日の貴女は最高に素敵、最高に最強」

 人差し指は舞うように、唇から目尻へと移り、アマンダの目尻に溜まった涙を軽々と拭い去って行く。

「綺麗で、格好良くて、可愛くって、クールで知的で野性的で魅力的で魅惑的で、今日の貴女は最高に素敵」

 早朝のオフィスに、ジャニスの囁く声が、まるで幻聴のように響く。

「でも、今の貴女にはたったひとつ、足らないものがあるわ」

 足らないものだらけの心を抱き締め、足らないノーミソを庇いながら精一杯突っ張って今日まで生きてきた。

 今更、何が足らない? 

「貴女に足らないのは、覚悟よ」

「覚悟……」

 鸚鵡返しに言った言葉に、ジャニスは優しく笑って頷いた。

「逃げるのは何時だって出来るわ。問題は、どう闘うか。何がどうでも闘い抜くんだって言う、覚悟」

 そう言って、ジャニスはポン、と背中を叩いた。

「休養は完全、戦闘態勢は万全、リングに上がったチャンピオンは天然で棄権、ギャラリーは呆然。韻はキレイに踏んでるけど、だらしないわよ」

 猛烈に腹が立った。

 ジャニス、テメエにアタシの何が判る? 

 この1週間、悶え死ぬかと思うほど苦しみ抜いた、アタシの何が判るんだよっ! 

 陽介殴り倒す前に、テメエ殴ってやる! 

 歩み去ろうとするジャニスを椅子を蹴倒しながら後を追い、肩に手をかけこちらを振り向かせ、胸倉を掴んで華奢で軽い身体を易々と引き寄せる。

 泣き喚かれる前に殴っちまう、そう思った刹那、ジャニスがニヤ、と笑った。

「ほら、もう殆ど完璧ね」

 ドキリと、心臓が跳ねた。

「その意気よ、チャンピオン。でも相手が違うわ」

 ジャニスのドレスブルーの襟を掴んだ手から力が抜ける。

 が、ジャニスは今度は自分からアマンダに抱きついてきて、頭2つ分も背の高いアマンダの黒髪を優しく撫でながら言った。

「私が貴女のセコンドよ? 私がついてる、大丈夫、頑張って。……そして、どうしても駄目だと思ったら」

 堪え切れずアマンダの頬を伝う涙を、ジャニスはペロ、と可愛らしい舌で舐め取った。

「ダウンする前に私がタオルを投げてあげる」

「馬鹿……、野郎」

 ジャニスの、華奢な身体を抱き締め返す。

「お前にそんな真似、させねえ」

「……そう言うと思ったわ」

 胸に顔を埋めているジャニスの微笑みが、直接心に響いて、擽ったかった。

 くすぐったい感触、というものを20年ぶりに思い出した。


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