第35話 6-2.


 特借宿舎マンションから駅まで、普通、自転車なら5分と少しだ。

 それを、陽介はいつも10分近くかけて漕ぐ。

 別に体力がない訳ではないし、アマンダが重い訳でもない。

 身長こそ陽介より5cm程低いが、ボリュームのある髪のせいで背は少し高いくらいに見え、その溌剌として美しい四肢や、バランスの取れた健康的なスタイルは、見ようによっては彼よりも体格が良さそうにも見えるのだが、初めて彼女を後ろに乗せたとき、その儚いほどの軽さに、陽介は驚いたものだ。

 回想に耽っていると、後ろからハスキーボイスの一喝が飛んできた。

「もうちょいスピード上げろよ! 真面目に漕げ、真面目に! 」

「あいよー」

 陽介の返事に、後ろからクスクス笑う声が聞える。

 長い付き合いだが、アマンダは普段、殆ど笑顔を見せない。

 だから、彼女の笑い声を聞くたびに陽介は、いつも顔を見たくなる。

 陽介にとって、毎朝の『サイクリング』は密かな楽しみだったが、唯一の不満は、アマンダのくるくるとめまぐるしく変わる表情を~あくまで想像だ~見られない事だった。

「アマンダ。お前、さっきからいったい、何がそんなに可笑しいんだ? 」

「うっせえ馬鹿。何でもねえよ。前向け、前」

「いいじゃないか、教えろよ」

「邪魔くせぇ奴だなあ。思い出し笑いだよ、お前には関係ねえ」

「思い出し笑いぃ? スケベな奴だな」

 途端に背中が熱くなる。

 次の瞬間、ゴツンと鈍い音がして、本当に目から火花が飛び出した。


 慌てて頭突きをお見舞いしたのだが、少しやり過ぎたようだ。

 アマンダは自分の後頭部を思わず撫で擦っていると、陽介の噛み締めるような声が聞こえてきた。

「……シャレにならないくらい痛い」

「ばっ、馬鹿なこと言うお前が悪いんだぞ! エッチって言う奴がエッチなんだ! 」

 慌てて口をついて出た悪態は、陽介がクスクスと笑うネタにされた。

「て、てめえ! 何で笑ってやがんだ、あぁっ? 」

 毎朝の『お約束』。

 小学生だってこれはないだろうと言うくらい、幼い会話、会話とも言えぬ程の遣り取りなのだが、アマンダはこの駅までの10分間に、いつしか至上の喜びを感じるようになっていた。

”アタシ、楽しい。コイツといると、ほんと、楽しい”

 『楽しい』事とは縁遠い、子供時代。

 殺伐とした、身も心も渇く砂漠のような凄絶な思春期。

 強がって、楽しみをわざと遠ざけるようにして、生き延びる事と大人になる事~その証は、金と力だった~だけを考えて闘ってきた、下士官兵時代。

 アマンダは、今日まで心の底に押さえ込んできた『話す』と言う行為~まるで密教の修行僧が自ら禁欲を課し、悟りを模索する、そんな姿をトレースするようにそれを避けて来たのだ~、その『心地良さ』に目覚めてしまい、今ではこの10分間で、陽介と出会うまでの1日分の会話ほど喋ってしまうのだった。


 コンビニと24時間スーパー以外、まだシャッターの開いていないささやかな商店街を抜けると、JR山手駅が見えてくる。

 横浜寄りのお隣の石川町駅などは、近くに女子高が多く『乙女駅』という異名もあり、また副名称『元町・中華街』が示す通り華やかなイメージ、反対側のお隣、根岸駅は海側に日本最大級の製油所、山側は高層マンションが立ち並び、駅自体も貨物ターミナルや製油所専用鉄道があるなど、生活産業両面で重要な駅だ。

 そんなふたつの駅に挟まれた山手駅は、根岸線の駅の中で、最も乗降人員数が少ない、『普通の住宅街にある小さな駅』だった。

 ただ、国公立や私学の小中高校の最寄り駅でもある為、朝は結構混雑する、それが陽介達が早朝出勤する理由のひとつにもなっていた。

 少し寂れたベッドタウン、といった風情の街の駅へと、毎朝、陽介はアマンダを載せてペダルを漕いでいる。

 駅地下の市営駐輪場へのスロープの手前に到着すると、アマンダは荷台から軽々と飛び降り、陽介はそのまま地下へ、アマンダは煙草を吸いつけて駐輪場の連絡エレベータの前で待つ。

 全て無言で行われるのがふたりの『儀式』だった。

 早朝、駐輪場も空いているので、2分もすれば陽介はエレベーターから出てくる。

 いつもエレベーターに背を向けて立っているアマンダが、ケージ到着のチャイムを聞いてこちらを振り返る時の表情が、陽介は好きだった。

 ファサッ、と言う擬音が聞えてきそうなくらい、彼女の豊かな黒髪が、その日の天気に応じて様々な煌きを放って、優しく、揺れる。

 刹那、彼女が柔らかく微笑む。

 ほんの、一瞬。

 もっと見ていたい、と知らぬうちにのぞむその願いは、けれどガラス張りのケージのドアが開くいた途端、数瞬前の微笑がまるで幻のように、いつものクールな表情に戻った彼女に拒否されてしまうのが常だった。

 短い吐息を落とし、気を取り直して陽介は声をかけた。

「お待たせ」

「別に」

 プイ、と横を向く彼女の背中に肩を竦め、陽介は彼女について歩く、日常。

 そのまま2人は、駅前の売店へ足を向ける。

「うーす」

「あら雪ちゃん、おはよう。今日も寒いねえ」

 売店のいつものおばちゃんが、顔全体が口になったような豪快な笑顔を見せる。

 どんな経緯があったのか知らないが、おばちゃんはアマンダがお気に入りらしく、毎朝立ち寄る彼女を「雪ちゃん」と呼んで可愛がり、よく賞味期限の切れた牛乳やアンパンをサービス? してくれていた。

 軍服を着ているからまだしも、そうでなければ何処の不良か、と思わせるくらいに無愛想なアマンダだが。

「不思議なもんだ」

 何故、これほど周囲の人々に慕われるのか、陽介には疑問だった。

 自転車で通う道々、すれ違う近所の主婦や老人達からも、アマンダは『雪ちゃん』と呼ばれてよく声をかけられている。

 尤も、ふたりで通勤するようになってからは、もっぱらその間柄を冷やかされることもあって、アマンダは嫌がっているのだが、それにしてもこの人気の高さの理由が、陽介には未だによく判らない。

 だけど陽介の中に、アマンダは当然そうあるべきだ、というような、一種信仰にも近い確信が最近は生まれつつある。

 思えば、ミハランでもそうだった。

 不良兵士が徒党を組むような行為、アマンダは自ら画して派閥を作る事はなかったが、特に部下達を中心に「アマンダ姐さん」「姉御」と常に人々が彼女の周りを取り囲んでいたし、上官達にしても、さすがにそこまではしないものの、大抵は憎からず思っているようで、例え手の付けようのない不良兵士だったとしても~実際そうだったが~、「またアイツか」「しょうがない奴だなまったく」と苦笑で終わらせる事が殆どだった。

 いい例が四季であり、またミハランのMP大隊長である。

「寒いにゃ違いねえが、まあ、冬来たりなば春遠からじ、って言うだろ? 」

 独り言のように呟くアマンダを、おばちゃんはガハハと笑いながら差し出した新聞でピシャリと張り倒した。

「ってえな、何しやがる! 」

「似合わない事言ってんじゃないよ、雪ちゃん」

 そして、アマンダの後ろでその遣り取りを眺めている陽介に豪快なウインク~目にゴミが入ったのかと思うほどの~を贈って、言葉を継いだ。

「アンタ、折角お似合いの彼氏をめっけたんだから、言葉も選ばないと! 」

 どうやらおばちゃんは、アマンダが言った言葉を何やらイカガワシイ言葉と勘違いしたようだ。

 どう勘違いしたのか聞きたい気もするが、聞かない方が良いような気もする。

 だが、アマンダはそこよりも違うトラップに引っ掛かって足掻いている。

「だっ、だから違うってばっ! コイツは関係ねえんだ、ア、あたアタ……」

「『アタシの彼氏にこのウスラトンカチは役不足だ』ってんだろ? はいはい、他のお客さんの迷惑だぞ」

 そう言って、後ろからアマンダのコートの襟を猫のように摘み上げるのも、陽介の『日課』だった。

「ごめんね、おばさん。コイツ、メンドクサい奴だから」

「だから面白いんじゃないのよ! ……じゃあね、雪ちゃん。今日も1日頑張んな! 」


 改札を抜けてホームに立つと、しかしアマンダはピタリと普段の彼女に戻る。

 戻る、と言うよりも『仮面を着ける』と言った方がぴったりだと思える。

 近頃、陽介はそう感じるようになった。

 彼女が極度の『照れ屋』である事は、ミハラン時代から知っている筈だったのだが、逆に言えば当時の彼女は、普段は人目など蚊に咬まれた程も気にしない、そして照れる『必然性』のある時だけ、徹底的に照れるタイプであるとも言えたのだ。

 だが、今の彼女は『常に周囲を気にして』無表情を装っているように思えるのだ。

 それは、アマンダがそれだけ彼女が常日頃気にしているように『大人になった』と言うことなのかもしれない、けれど。

 しかし、それだけではないような気が、陽介にはするのだ。

 陽介がそこまで考えたとき、不意に甘い香りに鼻腔を擽られ、我に返った。

「……なにボーッ、としてんだ? 」

 目の焦点が戻ると、アマンダが不思議そうな表情でほんの鼻先まで顔を近づけて覗き込んでいるのだった。

 彼女の手には、さっき売店で買った日経産業新聞。

「あ、や、なに、ちょっと考え事だ」

 あたふたしながら答えると、アマンダは胡散臭いモノを見る目つきでジッと睨んだ後、日経産業で陽介の胸板を叩いた。

「ありがとう」

 アマンダの提案で、日経と日経産業、2紙を1週間交替でどちらかが購入し、2人で回し読みすると決めたのだ。

 もちろん、2人が基本的に毎朝一緒に通勤する、と決めた後の事である。

「……さっき、なんか馬鹿みてえだったぜ? 」

 そう言うと、アマンダはニィ、と笑って元の姿勢と表情に戻った。

 未だ陽介の身体に纏わりつく不思議な彼女の匂いは、入線してきた電車の起こす風に儚く散っていった。


 この時間、電車は未だ空いている。

 この日もやはり、アマンダが見渡した車内には乗客は10人前後、サラリーマンやOL風の女性が乗っているだけだった。

 公共交通機関を制服着用で利用する際には、どんなに席が空いていてもひとりでも立っている一般人がいるなら、決して座らないと言うのがUNDASN幹部の暗黙のルールなのだが、アマンダは知ったこっちゃねえと、空いていれば必ず座る~もちろん、混んで来れば必ず立つのだが~。

 アマンダにしたって、目的の駅は山手駅からたった二駅、別に座りたい訳ではない。

 けれど。

 真の目的は、別にある。

 陽介と隣り合って座りたい。

 それだけ。

 それだけだけれど、でも、そう願うのは。

 何事にも素直になれない、陽介に関わる事柄では自分でも信じられないくらいドジで臆病な自分が、唯一、自然に陽介を感じられるシチュエーションだから。

 陽介の隣に自分がいる、唯その一点だけを確認する為だけに。

 たった二駅の短い時間、嫌がる陽介を隣に座らせる。

 最初は抵抗していた陽介だったが、やがてふたりの無言の応酬の方が座るよりも周囲に迷惑な事に気付いたのだろう、翌日からは、アマンダが陽介の裾や袖を軽く数度引っ張るだけで、黙って隣に腰を下ろしてくれるようになった。

 この朝もそうだった。

 ベンチシートが1列、丸々空いているのをみつけてサッサと腰を下ろし、日経を顔の前で広げて。

 前に立つ陽介のドレスブルーの裾を、ちょい、ちょい、と2回引っ張った。


「? 」

 裾を引っ張られて、座っているアマンダに顔を向けると、表情は新聞で見えないが、彼女の手が、ポン、と空いたシートを叩いていた。

「……」

 新聞の端から覗くアマンダの切れ長の瞳は、自分を見てはいないけれど活字も追っていない事に気付き、陽介は思わず苦笑を浮かべて隣に腰を下ろす。

 ドアが閉まる音、身体を揺らす発車時の振動に混じって、アマンダの安堵したような長い静かな吐息が陽介の耳に届く。

 何に、拘っているのだろう、コイツは? 

 その日に限って、陽介は妙にそれが気に懸った。

 今朝、玄関のドアを開いたとき、普段と違ってアマンダの驚いたようなレアな表情が待ち受けていた、からかも知れない。

 チラ、とアマンダの横顔を見ようかと首を動かしかけた刹那、ボリュームのあるウェーブヘアが音もなく顔に被さってきて、こつん、と軽いショックが陽介の肩に響いた。

 そうだったな、と陽介は口の中で呟き、数瞬前の些細な企みを諦める事にした。

 たった2駅を、陽介の肩に頭を預けて静かな寝息を立てるのは、アマンダの日課だ。

 本当に寝ているのかどうかは、判らない。

「かんないー、かんないー。地下鉄線お乗換えー。横浜スタジアム、市役所旧館、中華街へ御用の方はこちらが便利でーす」

 妙に間延びしたアナウンスが聞えてくると、アマンダはすぐに目を覚まし、姿勢を戻して、やはり陽介など知らない知りたくもないと言った表情で勝手に立ち上がりドアに向かった。

 これだって、普段通りだ。

 今朝はどうかしてるな、やっぱり昨夜の様子が普段と違った、それが原因なのかなと思いながら、陽介は立ち上がりアマンダの後に続いた。

 関内駅のホームに降り立ち、陽介は言った。

「お前、たった2駅なのによくまあ、熟睡できるなあ」

 アマンダは火のついていないラッキーストライクを咥えて、振り向きもせずにボソ、と答えた。

「レンジャーは、機会を逃さず何処でも熟睡、寝起き爽やか。お前にも仕込んでやったろ? 」

「それにしたって限度ってモンが」

「レンジャーは、常に己の限界に挑戦せよ」

 煙に巻かれるのも、いつもの日課だった。

 日課ではあったけれど。

 それでも今朝が、なんとなくいつもと違うふたりに感じられるのは、ひょっとしたら、昨夜久し振りに、あの砂漠の惑星での日々を思い出したせいかもしれないなと、陽介は思った。

 この横浜での日課、ミハラン星とは似ても似つかぬ生活をしていながら、それでもあの頃と変わらぬ安心感を感じられるのは、全てはあの始まりの惑星での日々があったから。

 陽介は、そう思っている。

 けれど、今朝は、何故だか普段以上に、見慣れた筈のアマンダの後ろ姿が儚く見えてしまうのが、陽介には気懸りだった。

 ようやく明るくなり始めた冬の朝、まだ弱々しい陽光に包まれている彼女が、不意に、淡い光に溶け込み、静かに消え去ってしまうかのように思えて。

 昨夜、最前線の惑星での出逢いを不意に思い出したせいかも知れないな、と、陽介はそっと苦笑を浮かべた。

 気のせいだ、気のせい。

 不安を感じてしまうのは、きっと。

 この街での奇跡のような再会が、あの砂漠の惑星で彼女と別れた瞬間から約束されていたような運命のように、感じているからかもしれない。

 そんなあやふやな、説明できないスピリチュアルに頼ることなく、せっかく掴んだ温かな日々を、守りたいという確かな意思で守らなければいけないのだ、と陽介は己を戒めるように、そう思った。

 昨夜の不意の回想は、それこそ、そんな見えざるものからの警告だったのかもしれない。


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