6. 再会の花畑 ~横浜回想~

第34話 6-1.


 朝食はいつも、横浜調達情報センターYSICの食堂で採る。

 だから、と言うわけではないが、アマンダも陽介も、0700時マルナナマルマルにはオフィスへ出勤するようにしていた。

 これは別にふたりだけに限った事ではなく、兵科出身者の幹部は大抵がそうだ~下士官兵は基本的に兵舎住まいで、食堂が併設されている~。

 アマンダはいつも通り、身支度を整え、成分無調整牛乳をコップに一杯イッキに飲み干すと、ワーキングカーキの上に私物の革のハーフコートを羽織り、部屋を出た。

 官給の防寒衣は、妙に大仰なデザインが好みではなく、必須装備と言われたから買ったものの、袖を通したことはない~アマンダが幹部になって一番納得がいかないのが、幹部の服装が全て支給ではなく自費購入、という点だった~。

「寒っ……」

 口の中で呟き、思わず開いたコートの前をかき合わせる。

 自然と、視線が隣の302号室に向かった。

「野郎、まだかよ……」

 それは毎度の事だった。

 昨年10月、陽介がYSICに着任してきた事自体、想定外の驚きだったが、その夜の幹部だけの歓迎会の帰り、嬉しさの余り『神様か仏様か知らねえけどやっぱ、いるトコにはいるんだ! 』と舞い上がって2人だけの二次会を提案し、その席上で特借が同じマンション、おまけに部屋が隣同士だと判った時の衝撃は、それ以上だった。

 陽介と、壁1枚隔てて同じ屋根の下。

 マンションなのだからそれが当然なのだし、そんな事で胸を高鳴らせていたら同フロアの他人はどうなるのだとツッコまれるのがオチだが、それを聞いた直後のアマンダは、茹蛸状態の顔を見られまいと隠すようにテーブルに頬杖を突き「なんだお前、懲りもしねえでアタシんトコへ戻ってきたと思ったらさっそくストーカー行為かぁ? 」と口では言いつつ、刺身にケチャップをつけて甘いと叫びタレ焼き鳥に塩をつけてしょっぺえと怒り冷奴にソースをかけて馬鹿野郎醤油とソースはちゃんと瓶に書いとけと店員を詰り梅茶漬けに醤油をかけてもうどうしろってんだよぉと髪を掻き毟るという醜態を披露した挙句、陽介に「いつからキャラ変えた? 」と笑われてしまい、もう駄目だと椅子を蹴って逃げ出そうとした刹那、「やっぱり、お前が一緒だと安心するなあ。初めての配置なのに、俺の居場所って感じがしてさ。……そうだ、折角だから明日からは一緒に出勤しようぜ? 」と言われて、まさに地上から成層圏まで力任せに10G加速のズーム上昇を強いられ視界は瞬く間にホワイトアウト、気絶寸前の癖に「馬鹿か餓鬼じゃねえのに一緒に仲良く出勤なんて出来るかだけどお前友達いなくて淋しそうだからしゃあねえ当分の間は付き合ってやる」と震える心とは真逆の台詞を憎々しげに吐いてみせたまでは良かったが、翌朝は恐くて嬉しくて不安で楽しみで2時間も早く目が覚めてしまい、薄暗い廊下、彼の部屋の前で1箱空になるくらい煙草をスパスパ吹かしながら、底冷えする夜明け前を心の温かさと興奮した身体の火照りで凌いで待ったあの初日から既に5ヶ月近くが経ち、余程の事がない限り~どちらかの出張や直行、擦れ違いの休み等~この習慣は今も続いていた。

 いつも、アマンダが先に部屋を出る。

 陽介の部屋をチラリと見もせず、廊下の手摺に凭れて朝靄に包まれた住宅街の色とりどりの屋根を眺めながら煙草をゆっくりと吹かし、2本が灰になる頃には陽介がドレスブルー姿でドアを開く。

「おはよう、アマンダ。今日も寒くなりそうだな」

 弾む心、緩む表情、軽くなる唇、彼の笑顔を渇望する瞳。

 しかし、もうひとりの『強い自分』が、『弱い自分』を捩じ伏せる。

「遅ぇよ馬鹿」

 言いながら軽く片手を上げて見せ、そこで初めて振り向いて、ついてこいと謂わんばかりに顎をしゃくって先に立って歩き始める。

「おい、アマンダ。忘れ物だぞ」

 振り向くと、生活ゴミを入れたビニル袋。

「忘れてねえよ、お前が持つんだろうが」

「……なんで? 」

「テメエ、この凛々しいアマンダ様に似合うモン、似合わねえモン、それくらいパッと見て判断できねえか? 」

 陽介の額に、盛大に簾がおりる。

「……俺が悪いのか? 」

「早く来い、置いてくぞ! 」

 陽介はヤレヤレと言うように肩を竦め、ゴミ袋を持ってアマンダの後を追う。

 背中に聞えるビニル袋の耳障りな音を聞きながら、本当はうっかり忘れてしまったものの、それがミハラン時代のような肩の凝らない、ラフな関係をプレゼントしてくれたように思えて、アマンダは次の生活ゴミの日も彼に任せようと思った。

 以来、沢村家のゴミ出しが陽介の担当なのも、ふたりのルールだ。


 だが、今朝のアマンダは、いつもと違う行動を知らず知らずのうちにとっていた。

 昨夜の陽介の言葉が、未だ耳に残る。

『おやすみ。また明日』

 胸の中でそっと繰り返すだけで、冷たい冬の朝、吐き出した白い息が温かく思えてしまう。

『おやすみ』

 たった4文字の、しかし、今のアマンダにとっては、世界で一番破壊力のある言葉。

 アマンダは、無意識のうちに踵を302号室へ向け、インターフォンに手を伸ばしかけた。

 言いたい。

 今日こそは、陽介に『おはよう』と。

 抑えがたい衝動に駆られ、いつだったか陽介が褒めてくれた細い指の先、真珠のような綺麗な爪が、ボタンに触れようとした、その刹那。

 突然の寒風に頬を撫でられ、我に返ったアマンダは目をぎゅっと瞑り激しく頭を左右に振って、漸く思い留まる。

「深入りしちゃ……、駄目だ」

 身を焦がすほどに陽介を求めている自分と、それを必死になって戒める、もうひとりの自分がいる。

 お前、自分と陽介をまさか釣り合うとかお似合いだとか、ひょっとしたら振り向いてくれるかもなんて考えてねえだろうなと、日毎夜毎迫る、もうひとりの自分。

 そんなお花畑みてえな夢はきっぱり諦めた、だから『陽介ではない』、『自分を受け止めてくれる宝物』を見つけたんじゃなかったのかよ? 

 アタシは、アタシと『宝物』を胸に抱き締めて生きていく。 

 そう決心し、全ての後悔を済ませて地中深く埋め、漸く『素敵な大人』に一歩近づく事が出来たと実感した、あの2年前の夏、成層圏まで突き抜けるような蒼空の下。

 自分のような人間にも、こんな陽光燦々と降り注ぐ青い空、白い雲の下、思い切り笑える日が来たのだと、改めて陽介や四季、そして遠い昔に亡くなった祖母に感謝したのではなかったか。

 なのに。

 なのに今更、何故こうも、たった4文字に、心が震えるのか? 

 ひょっとして、自分は間違っていたのだろうか? 

 もしも間違っていたのなら、どこで、どう間違えた?

 ふと気が付くと、再び右手はインターフォンに向かって伸びていた。

『押せよ。押せば、今テメエが一番望むモノが手に入るぜ? 』

『自分で決めた事じゃねえのか? ……運命に、周囲の全てに流されて、傷つき涙を流した過去と訣別しようと。……なのに何故、今更になって夢を見ようとしてるんだ? 』

 心の中で、2人の自分が鬩ぎあっている。

 どちらも嘘ではない筈だ。

 真実がたったひとつであったことなど、嘗てあっただろうか? 

 逸れた想いが、ガチャンと言う聞き慣れた安物臭い金属音で、現実に引き戻された。

 我に返って顔を上げると、そこには陽介の驚いた顔があった。

「……あ」

 頭全体が心臓になったかのように、鼓動が脳に直接響いていた。

 こいつの人の好さそうな笑顔が、こんなに懐かしく感じるのは何故だ? 

 明るい笑顔の裏で、いつも自分を気遣ってくれているのが判るから? 

 助けてと祈り、けれど救われず絶望に打ちひしがれて朽ち果てそうになっていた自分を、救い上げてくれた『自分だけのヒーロー』だから? 

 抑えがたい衝動と凶暴な欲望の行き着く涯、何が待っているのか、充分過ぎるほど判っていると言うのに? 

「馬鹿、だ……」

 思わず口を吐いて零れ出たアマンダの言葉に、陽介は笑ってみせた。

「おいおい。いくらなんでも、朝から馬鹿はないだろう? 」

 陽介が笑っている。

 今だ。

 おはよう、って言え!

 焦れば焦るほど、虚しく開閉を繰り返すだけの役立たずな唇を噛み破りたい衝動に駆られた刹那、陽介が言葉を継いだ。

「おはよう。今日も寒いな」

 アマンダは、思わず数歩よろめいてしまう。

 さっきまで鬩ぎあっていた、心の中のふたりの自分が、ひとつになった。

”……嬉しい”

 震える胸の内を余所に、しかしアマンダの身体は正反対の動作を行った。

「……よ」

”え? 何やってんだ、アタシ? ”

 軽く片手を上げるアマンダを、しかし陽介はこれっぽっちも気にしていない風に、身体をドアから外に出し、鍵をかけながら言った。

「なんだ、誘いに来てくれたのか? 」

”そうだ、って言うんだ! ”

 だが、やはり言葉は想いを裏切る。

「馬鹿野郎、餓鬼じゃあるめえし、んな訳ねーだろが」

 言葉の割には迫力の無い自分の声に、アマンダはこれ以上の抵抗は無意味であることを悟る。

 おそらく真っ赤になっているだろう頬を、潤んで落ち着きなくキョトキョト動く瞳を彼に悟られまいと、アマンダは顔を逸らすだけで、精一杯だった。


 2人は、最寄り駅であるJR根岸線の山手駅まで自転車の二人乗りで通っている。

 もちろん、道交法では見つかり次第罰金1万円也(未成年なら保護者に五千円)なのだが、UNDASN駐留基本条約に定められた『戦時下における駐留地域内移動に関する道路交通関連法規の罰則免除条項』により、制服を着ている限り作戦任務中と看做される、よってお咎めなしだ、とアマンダが胸を張って言った為、疑いながらも陽介はそれに従っている。

 本当かどうか確かめたことはないが、確かに今日まで警官に注意されたことはなかった。

 自転車はアマンダがどこかのリサイクルショップから1800円で買ってきた15インチの所謂ママチャリで、タンデムでこれに跨る2人の配置は、陽介が運転、アマンダが荷台と決まったのは、ふたり揃っての通勤初日。

「んだとテメエ。アタシに駅まで漕げってのか? デカイ図体コいた軍服の男を後ろに積んで? 」

 陽介がサドルに跨ると、アマンダは荷台に後ろ向き~陽介と背中合わせだ~に座り、第2乙ワーキングカーキのタイトスカートのサイドスリットが裂けんばかりに脚を開き、股の間に両手をついて荷台を握り、スカートの中を上手に隠す。

 どうせ見られたって支給のボクサーパンツだから別にいいけどよ、と彼女は笑い飛ばしたが、陽介にとっては下着が見える事より、スリットから覗く長く美しい脚の方が何倍もエロティックに見えて、毎朝困り果てるのだ。

 けれど、それを指摘するときっとアマンダは、照れて照れて、途轍もなく面倒くさい事態に陥ることは、火を見るより明らかだ。

 だから言わずに、やっぱり5ヶ月が過ぎた。

「乗ったか? 」

 声をかけると、背中の方からジッポの金属音と「ん……」と言う唸り声~陽介以外の誰も、それが否定か肯定か、いやそれ以前に返事なのか呻きなのかも判断できないだろう~が聞こえてくる。

「なあ、アマンダ。ちょっと訊いていいか? 」


 いつもと違う陽介の言葉に、思わずアマンダはビクッと肩を震わせる。

「ん? 」

「なんで前向いて乗らないんだ? 恐くないのか? 」

 思わず頬が熱を帯びる。

 だって。

 進行方向を向くと、陽介の身体に触らなければならない。

 即ち、自分の身体が陽介に触れる。

 当たり前のことだけれど。

 もしもそんな事をしたら、きっと何もかも忘れて、思い切りしがみついてしまい、顔を背中に押し付けて二度と彼の顔をまともに見られなくなってしまう事は、アマンダにとって自明の理だった。

「トロいお前がワッパ握ってんだぜ? なんかあった時、この方が飛び降りやすいだろうが」

「地味に酷いな、お前」

「お前の運転する転がすトレーラーに轢き殺されそうになったのは誰だったかなぁ? 」

 陽介の呆れた表情が目に浮かぶようで、アマンダはクスクスと笑ってしまう。

「それともなにか? アタシがそこらのねえちゃんみてえに横座りして、青春の1ページでも高らかに謳い上げているシーン。お前、見たいか? 」

 陽介は暫く考えて、ボソ、と答えた。

「遠慮しとくよ」

「……今の間の意味は? 」

「いや、少し想像してた」

 そう言って陽介はいきなりペダルを漕ぎ始め、言葉を継いだ。

「結構似合ってたけど? ……でも実際やったらお前、照れ死ぬだろ? 」

「バ……ッ、わああっ! 」

 自転車置き場から道路へ出るときの急カーブでグラリと揺れて、アマンダは反撃のタイミングを逃してしまった。

 が、陽介の背中にそっと凭れると、彼の楽しそうな笑いの『振動』が伝わってきて、アマンダは思わず微笑んでしまい、その笑顔を通行人に見られまいと咥え煙草のまま空を見上げた。

 冬の遅い朝は未だ辺りを薄闇に閉ざしているけれど、アマンダにはやがて来る眩しい陽光を一足先に見ることが出来たような気になって、少し得をしたような、いい気分だった。

「今日も、いい天気になりそうだ……」

 思わず口をついた想いに、陽介がチラ、と振り返る。

「なんか言ったかぁ? 」

「なんでもねえよ! いいからキリキリ漕がんかい! 」

「ローマ帝国のガレー軍船かっ! 」

 ボヤきながらもぐんぐんスピードが上がる。

 夜明け前の冷たい風も、2人の背中の温かさまでは奪えない。


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