第33話 5-5.


「はいよ、お待たせ、っと」

 陽介はマグを2つ~ひとつはアマンダがこの部屋に初めて上がりこんだ日に持ち込んだものだ、「テメエのカップなんざ気色悪くて使えっかよ」とカップならどれでも勝手に使えよと言う前に言われた~とアマンダ専用のクリープ~これも彼女の持ち込みで、陽介がブラック党と知っていて「これだからガサツなカッパ野郎は」とブツクサ言いながら持ち込んだ~、それにポットを炬燵の上に置く。

「ん。ごくろう」

 アマンダは炬燵の天板に頬杖を突いて、咥え煙草のまま、ぼへら、と答える。

 ふふん、と鼻で笑いながら陽介の手がクリープをスプーンに山盛り1杯、2杯とアマンダのマグへ。

「……毎度の事ながら、よく判ってんなあ」

 アマンダの呆れたような口調に、陽介は苦笑交じりに返す。

「俺にばっかりやらせてると、実施部隊に復帰した時、なにも出来なくて困るぞ? 」

 途端にアマンダは不機嫌そうな表情で口を尖らせ、ずず、とコーヒーを啜った。

 いつもの『照れ隠しの罵倒』を予測していたら、返ってきたのは予想外の、甘えたような声。

「なあ? ……陽介、さぁ? 」

 少なからず驚いてしまい、カップを持ち上げた手が一瞬、止まった。

「なんだ? 」

 言いながら一口啜ってカップを置き、アマンダの表情を伺う。

 テレビに顔を向けていながら、その実何も映していない瞳に浮かぶ不安そうな光を見て、胸が締め付けられそうになった。

「アタシ、ちゃんと大人になれてっかな? 」

 何がこの女性を、こうまで『それ』に拘らせているのだろう? 

 ついさっき、ドリップされるコーヒーを眺めながらぼんやり思い出していたミハランでの出来事が、再び胸に甦る。

 確かにミハランで、あの日、アマンダの心の叫びを聞いた。

 聞いていて苦しくなるほどの叫びを、聞いた。

 それから急速に関係が好転した2人の間で、二度とその話題が出ることはなかったけれど、あれから数年を経た今もまだ、彼女は『大人になること』に拘り続けている。

「……大人になる事って、やっぱ、日々増えていくしがらみっつーか、色んな荷物を背負って歩いてく事だって、思うんだよな」

 陽介の胸中に関わらず、アマンダはポツリ、ぽつりと話し続ける。

「それってやっぱ、独りだとしんどいんだよ。苦しくって、辛くって、泣きたくなって……、さ。それでも歩いていける強さとか、そう言うのがないと、やっぱ駄目なのかなぁ? 」

 そう言って、視線を陽介に移したアマンダの瞳は、普段の鋭い視線ではなく、まるで片想いの苦しさを訴える女子高生のように、不安そうで、儚げだった。

 そう言えばアマンダは、あの日、ミハランの兵站部でも、こんな縋る様な目で俺をみつめてたな。

 陽介は再び意識が過去へ飛ばされそうになり、慌てて我に返り焦点を正面の美しい顔立ちに合わせて、問うた。

「なにを焦ってんだ、お前? 」

 そう言ってから陽介は、ふ、と力を抜いて微笑を浮かべた。

「確かに、お前の言うような強さも必要なのかも知れないけど、さ? ……でも、荷物は重けりゃ、誰かに持って貰ったって、いいんじゃないかな? 」

「誰か? 」

 驚いたように、彼女にしては珍しく瞳を大きく見開いて、そしてすぐに、苦し気に視線を逸らした。

「……けどさぁ」

 思わず口を開くアマンダを目で制し、陽介は二口目のコーヒーを飲んでから言葉を継ぐ。

「別に『誰か』ってのが男でも女でもいいし、ヒト以外の何か、でもいい。ぶっちゃけ、人生は色恋だけじゃないって人間も結構いるだろ? 仕事や趣味とかでも良いワケだ」

 ほんの少し、アマンダの瞳が大きくなる。

「それに……、ひとりで全部の荷物を背負い込んで歩いて往ける『強さ』があれば、そりゃあ、それにこした事はないけど」

 アマンダは少し、首を傾げていて、なんとか陽介の言葉を噛み砕こうとしている様子だった。

 母親の物語をせがむ幼子のようなその表情に、陽介は言おうかどうしようか迷っていた言葉を吐き出す事に決める。

「強いってことと、淋しいってことは、別々の感情なんだぜ? 強いから淋しくなんてない。強くなりたいから、淋しさを抑え込む。……そんな必要はないんだ。淋しいってこと、……それを認めて、受け入れるのも、強さの形だし、それが大人になるって事じゃないかな」


 強さと淋しさは、違う。

”じゃあ、アタシが淋しくて不安で堪らない。……そう思ってもいいのかな? ”

 しかし、淋しくて手を伸ばしたい『そのひと』は、いつかは目の前からいなくなっていまうのではないか? 

 目の前に置かれたマグからゆっくりとたちのぼる豊かな香りが、鼻腔を擽る。

 陽介が、淹れてくれたコーヒー。

 後何回、これを楽しめる日が残っているのかとふと思い、途端に目の奥が熱くなってしまう。

 ついさっき、ドリップされるコーヒーの香りを感じながらぼんやり思い出していたミハランでの出来事が、再び胸に蘇った。

 あの日、ふたりきりの鉄格子の中で陽介が届けてくれた、言葉。

 あの言葉に心震わせた時から、夢のような数ヶ月が過ぎた時、アタシは決めたんじゃなかったのか。

 陽介との、ミハランでのあの日々を、煌めくような思い出を、彼がくれた温かい言葉を、この胸に抱いて、一生、歩いていく。歩いていける。歩いていける自分に、なるんだ。

 そう、決意して。

 だから、地球へ戻った2年前、自分は『代わりの宝物』を見つけたのではなかったか? 

 それなのに。

 それを、淋しがってもいいのだと、陽介は言う。

 淋しがられる方はいいだろう。

 第一、淋しがられていること、それすらも知らないだろうから。

 だけど、淋しがっている自分はどうなるんだ? 

 当たって砕けろ、とよく人は口にする。

 けれど、本当に砕けた時の痛みを、辛さを、苦しさを哀しみを、そんな言葉を軽々と舌に上す人々はどれほど理解しているのか? 

 振り返ってみれば。

 もともと、ハッピーエンドって柄じゃないんだ。

 だから、淋しさなんて感じなくて済むように。

 そう思い、2年前の夏、目の前で微笑む『宝物』を代わりにしようと、胸に抱いたのだ。

 ふと、意識が現実に戻る。

 不安そうな表情の陽介が、じっと自分の顔をみつめていた。

 零れそうになる涙を誤魔化すように欠伸を装い、意味を為さない言葉を口の中でつぶやいた後、軽くガンをクれてやる。

「お前、アタシをナメんじゃあねえぞ? 誰が淋しがってるって? あぁ? 」

「何もお前がそうだって言ってる訳じゃないよ。例えば、って話だ」

 軽くいなされる事が、何故か楽しい。

 アタシ、今、楽しんでる。

 コイツといると、楽しい。

 けれど。

 楽しい日々も、やがては終わる。

 その時、アタシはアタシの宝物を抱き締めて、独りで生きてく大人になってる。

 なってなきゃ。

 マグの中身を一気に飲み干したアマンダの胸中を知ってか知らずか、陽介は普段通り、ニコニコ笑ってみつめていた。

 なんだか、腹が立った。


 金属のドアが、安物臭い耳障りな音を立てて深夜のマンションに騒々しく響く。

 アマンダは真っ暗な玄関口に立ち尽くしたまま、灯りをつける気にもならず、ただ洩れるのは深い溜息。

 どうせ、灯りをつけたって、独りなのには違いはない。

 そんな詩だか俳句だかがあったような気がする、とかぼんやり思う。

 遠くから聞える電車の走行音。

 上りはとっくに終わっている、とすると、あれは下りの終電か。

 右腕のゴツい野戦用G-SHOCKのデジタル表示が、暗闇の中、ぼんやりと浮かび上がって、暗い玄関がまるで、水族館みたいに微かな翠に染められる。

 その翠が、先日久々に食事を共にした、年下の上官の瞳の色を思い出させた。

『よく、娑婆のキャリアウーマンが、右腕の手首裏にビジネス用のシンプルな時計してるだろ? ……あれ、なんか、お洒落な気がしねえ? 』

 四季と飲みに言った時に聞いた、彼女らしからぬ~いや、案外彼女らしいかも知れない~言葉を、その場は鼻で笑った癖に、翌日、左腕にある愛用のG-SHOCKをそっと右腕の手首裏に付け替えてみた。

 残念ながらレディス・ウォッチは持っていなかったけれど、少しだけ女らしくなった気がして、でもそれ以上に、その女らしさが自分には似合わない気がして少し哀しくなったが、化粧品やアクセサリーのひとつも持っていない自分の唯一のお洒落だと心に決めて、今日まで続けてきた。

 最近、漸く慣れてきた筈の右手の感触が、妙に哀しい。

 再び漏れる、吐息。

 さっきだって、これみよがしに右腕の時計を眺めて見せたけれど、陽介の口から洩れたのは、いつもの一言。

「さて、明日も仕事だ。そろそろ寝るか? 」

 このクソ鈍感の朴念仁め鈍いのもここまでくりゃあ立派な犯罪だ、しかし悪態は口に出せずに飲み込んで、不貞腐れた表情で立ち上がる。

 けれど、「おやすみ、また明日」と言う彼の声を背中に聞いた途端、直前までの不機嫌をコロリと忘れて心ときめかせている自分の単細胞さに呆れつつ、それを悟られまいと振り向かず「おう」と吐き捨てるように答えて玄関を出るのが、哀しいけれど日課になってしまっている。

 独りの部屋。

 静寂。

 畳の匂い。

 ミハランの砂漠と、この一人暮らしの部屋、どこが違うというのか。

「……くそっ! 」

 吐き捨てるように呟き、ジャージの上下をそこら辺に脱ぎ捨てる。

 UNDASN支給の野戦用の黒いタンクトップ、陸上マークの前線女性兵員はデフォ装備のソルジャー・ブラ、これも支給されるボクサータイプの飾り気のないグレーのショーツ。

 『ランジェリー』と呼べる優雅な響きの言葉が似合うような下着類など、持っていない。

 そして、そんな自分を眺めて吐息を落とす為の鏡も、洗面台以外には、ない。

「いいんだ、アタシは」

 自分自身を納得させる為に、いつか口癖にまでなった『呪文』を唱え、アマンダは、つけていたアンダーウェアを脱いで洗濯機に放り込み、浴室に入った。

 冷え切った身体に、熱いシャワーが痛く、心地良い。

 指先が痺れるような感覚に、疲れとともに苦い思いまでが流されていくような錯覚に捉われる、この瞬間が、好きだ。

 漸く慣れた生活サイクル。

 なんだかんだと突っ張ってみても、所詮アタシは『農夫型』なんだな、と苦笑が洩れた。

『人間には、農夫型と猟師型の2種類があるんだって。農夫型は地味で、コツコツと周りの環境に合わせて生きていく。ドカンと大きなボーナスはないけれど、それでも確実に収穫を上げる。猟師型は、大漁の時もあればドボンの時もあるし、今日はあっちの狩場、明日はこっちと行き当たりばったり……、ってな感じで、日々を博打の様に、ボーナス狙いで生きていく……』

 あの夜、四季は言葉を区切り、淋しげに笑った。

『雪姉は自分の事、どっちだと思う? ……え? 私? ……うーん。どっちだろ、判んねえや』

 どっちでもいいじゃねえか考えたってその通りに生きられるとは限らねえんだし、とか何とか、その場は適当に答えたけれど、実は、自分が農夫型に圧倒的な憧れを持っている事に、その時気付いた。

 シャワーを止めて、ガシガシと男みたいに乱暴な手つきで長い黒髪の雫を拭う。

 ドライヤーなんて気の利いたものは持っていない。

 ふと、何者かの視線に気付き、タオルの隙間から顔を上げると、洗面台に据えられた、この部屋唯一の鏡の中に、淋しげで不機嫌な表情の自分が居た。

「お前、なんでそういつも……、機嫌悪いんだ? 」

 まるで子供が拗ねているみたいな。

 と、すると。

 やっぱりまだ、アタシは大人になれてねえのかな? 

 思い通りにいかないと、すぐ腹を立ててしまう。

 泣いても喚いてもどうにもならず、詮無い事で機嫌を損ねてしまう事の愚かしさを知ったのは、まさに、陽介が艦隊に復帰する為ミハランを去った時ではなかったか? 

『雪姉? 本音と建前をきちんと使い分けられるってのが、大人と子供の違いだ。だから、雪姉は建前を顔に出して胸と見栄を張ってなきゃ。いつまでも詮無い事で落ち込んでるなんて、雪姉らしくないよ。……でも、建前の裏でやっぱり本音も大切にしないと、ね? 心の底から欲しい。そう想う気持ちを無理矢理抑え込んじゃ駄目だ。大切な想いが、腐っちまうからね。私みたいになっちゃ駄目』

 そう諭してくれた四季の切なそうな翠の瞳が、いったい何を、誰を映していたのかは、知らない。

 ただ、彼女の翠の瞳に、自分を心より思い遣ってくれている溢れるほどの温かさをみつけたから。

 そして、あの日陽介は『お前はもう大人だよ』と言ってくれたから。

 だから、せめていつの日か、もしも再び出逢える日が訪れた時、彼に「素敵な大人になったな」と言って貰えるように、と。

 その為に、と追い求めてきたのだ、一緒に寄り添い、歩いて行ける『宝物』を。

 『それ』をみつけた瞬間、大人への道が開けた気がしたのは、確かに嘘ではない。

「だけどその後、ほんとにアンタと再会できて、アタシは餓鬼に戻っちまった……」

 アンタの「おはよう」が聞きたくて。

 アンタの「おやすみ」が聞きたくて。

 アンタがアタシの名を呼ぶ声が聞きたくて。

 叶うならば、アンタの息遣いを一息も洩らさず聞いていたくて。

 せめて、アンタの気配だけでも、頬を染め感じ続けていたくて。

 アンタを感じて想うだけの暮らしに、身も世もなく悶えながら生き続けるこの日々が、たまらなく愛惜しくて。

「アタシは、餓鬼に戻っちまった」

 灯りを消して畳の上に敷きっ放しの布団に寝転がり、アマンダは瞼を閉じた。

「おやすみ、陽介。カレーお替りしてくれて、嬉しかったよ……」

 1日で一番素直になれるこの瞬間が、アマンダは大好きで、そして大嫌いだった。

 今日も、おやすみと言えなかったから。

 明日の朝、再び陽介の「おはよう」という声を聞けるから。

 夢は、見ない。

 陽介と壁一枚隔てて『暮らす~彼と出逢うまでは、”ただ生きる”だけだった~』日々こそが、夢のようだったから。


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