第32話 5-4.


「おーい、誰かいねえかあ? 腹減ったー! 」

 挑発にしては少々脱力系の声が、さっきから廊下に響いている。

 陽介とアマンダは、兵站本部から5kmほど離れた旅団司令部、その本部棟に隣接した警務大隊本部の拘置棟の留置房に、通路を挟んで向かい合わせにひとりづつ放り込まれていた。

 他に客はいない。

 陽介は陸上部隊の重営倉はこれが初めての経験だったのだが、通路を挟んで鉄格子の独居房が並ぶ景色は、まるで漫画で描かれる刑務所みたいに思えて、どことなく現実感が感じられなかった。

 独居房の中は、トイレに鏡のない洗面台、それに壁面に収納可能なベンチみたいなベッドに毛布が1枚だけと、これも漫画みたいなシンプルさだった。

「なんださっきから! やかましいぞアマンダ、静かにせんかっ! 」

 怒鳴り声とともに姿を現したのは、警務大隊長、ルイス・ミゲット三等陸佐だった。

「なんだ、ダンナ直々のお出ましとは、お珍しい」

「三佐と呼ばんかっ! 」

 このやりとりは、どうやら昔からのお約束らしい、と陽介は気付いた。

 ルイスの怒鳴り声も、どことなくおざなりだ。

 アマンダに至っては、怒鳴られていることなど気にした様子もなく、ヘラヘラと笑っている。

 拘置棟の出入り口にはMPが2名詰めていた筈だが、警務大隊長自ら何の用だろうと、陽介がぼんやり考えていると、ルイスは自分のIDカードを取り出し、アマンダの入っている房のスリットに通した。

 ピピッと安物臭い電子音が響き、ガチャリとこれまた安物臭い開錠音が続く。

「沢村一曹、出ろ」

 ルイスの妙に平板な指示を耳にしたアマンダは、この段階で初めて笑顔を消し、訝しげな表情を浮かべながらも、素直に鉄格子を潜って通路に立った。

 ルイスは無言のまま今度は陽介の方を振り向き、先程と同じように鍵を開いて、アマンダを振り返った。

「一曹、こっちへ移れ」

「ええと、ダンナ……? 」

 今度こそアマンダは、薄気味悪そうな表情を浮かべたまま、その場を動かない。

「三佐だ! とっとと言われた通りにせんかっ! 」

 アマンダは仏頂面で言われた通りに陽介の房へ入り、暫くは所在無さげに視線を泳がせていたが、やがておずおずと陽介の隣に立つ。

 二人並んで鉄格子の前に立つのは、何処となく照れ臭かった。

「ねえ、なんの真似です、ダンナ? 」

 ルイスは今度は『ダンナ発言』をスルーし、再び施錠するとふたりに向き直って言った。

「今、ラングレー君と話をした」

 アマンダが少し声量を落として問う。

「姐……、大隊長、なんですって? 」

「引き取りにくるそうだ。処分は今回も所管長からの厳重注意に留められる」

 そして、ニヤ、と笑みを浮かべると口調を和らげた。

「それまでは、ふたり一緒の房に放り込んでおいてくれと、ラングレー大隊長たっての要望だ」

 思わず陽介とアマンダは顔を見合わせる。

 そんなふたりを可笑しそうにルイスは見ていたが、おもむろに口を開いた。

「それまではメシ抜きだ。まあ、これで我慢しておけ」

 ルイスはそう言うと、ポケットからラッキーストライクとライター、携帯灰皿を取り出し、アマンダの鼻先に突き出した。

「あ……。ども……」

 あまりにも普段とは違う扱いなのだろう~勿論陽介は、MPに拘留されるなんぞ初体験だ~、アマンダは毒気を抜かれたのか、間抜けな返事をして、鉄格子越しに素直にそれを受け取った。

 踵を返して去るルイスの足音に続いて、バタン、と拘置棟のドアが閉まる音が響き、ふたりきりの牢内に静寂がおずおずと戻ってきた。

 陽介は、呆然としているアマンダの手から煙草とライターを掻っ攫い、ベッドをベンチ代わりに座って、煙草に火を吸いつけた。

「お前、常連さんみたいだな? 」

 陽介の言葉に、アマンダは「ん、まあな」と言葉短かに答え、暫くは鉄格子の際で身体をくねらせていたが、やがて諦めたように溜息を吐くと彼の傍に来て、隣に腰を下ろした。

 微かに、ミルク・ビスケットの匂いがしたように、陽介には感じられた。


「……調子狂うなあ、なんか」

 独り言を呟くようにボヤキながら、アマンダは陽介が手に持った箱から1本煙草を抜き取って口に咥えると、暫く視線をそこらへ彷徨わせながら、考えた。

 考えた末に、腹を括って、直接訊ねてみることにしたのだ。

 アタシの脳味噌より、ちょっとは役に立つだろう。

 そう考えて、徐に陽介に向き直った。

「なあ、お前、さあ? 」

「ん? 」

 振り向いた陽介の表情は、少なからず驚いているように見えたのが、なんだか可笑しかった。

「お前の言ってた、その……、大人って、さあ? ……アタシにゃ今からじゃ遅すぎるんじゃねえかなぁ? 」

「アマンダ……」

 アマンダ自身、未だ全て、陽介の言葉に納得しきれた訳ではない。

 言いたい事だって、反論したい事だって、たくさんある、そう思っていた。

 だけど、今は。

 陽介が言うように、金とか銃、暴力、それ以外の、今は想像もできないけれど、とにかく『なにか』を、自分が持つことが、大人になることへと繋がるのならば。

 未だ餓鬼の尻尾を引き摺ったままの自分が、大人になることが出来るのだろうか? 

 『なにか』を見つけ出すことが出来るのだろうか? 

 それが不安だった。

 陽介に言ったことは、けっして嘘ではない。

 これまでずっと、陽の光の届かない暗い夜の底に溜まった、腐った泥の中を這いずりのた打ち回り、生き延びる為にはどんなことだってやってきた、そんな汚れた経験しか持たない自分であることは~口で言うのは簡単だけれど、それでもやっぱり自分は、死ぬまで落ちないだろう汚れに塗れ、知らぬうちに自身から漂う腐臭に顔を歪め涙を流しながら今日まで生きてきたのだ~、充分過ぎるほどに判っている。

 そんな自分が、本当に今から生き方を変えるなどと言うことが、果たして可能なのか。

 それだけが判らなかった。 

 そして、それさえ判れば、自分は。

「人生に、遅いなんてことはない、と思うよ」

 陽介は自分が吐き出した煙が天井にゆっくりと昇っていくのを目で追いながら、呟くように、静かに言った。

「……さっき、お前にはエラそうなことを言ったけど、俺だって面と向かって聞かれたら、首を捻ってしまう。……それが本音だし、大人なんて概念は、人によっても違うだろうし、曖昧模糊として言葉では言えない、そんなふわふわしたものなんだろうなぁ」

 陽介はそう言うと、不意に微笑を浮かべて頷いて見せた。

「だけど、お前に言ったことは、俺にとってはやっぱり嘘じゃないし、逆に言えば俺だって、今でも『なにか』を探しているんだと思う。そして、俺が言ったことは、アマンダ、お前ならきっと判ってくれるし、お前なら悪態吐きながらでも歯を食い縛って、昔の泥沼を断ち切って、一歩づつでも前へ進んでいける。そう信じてるんだ」

「陽介……」

 陽介は、やっと名前で呼んでくれたなと呟いて微笑み、ゆっくり、そして優しくアマンダの『背中を押』した。

「そんなことを、俺に訊ねる事自体、お前はもう、きっと大人なんだよ」

 陽介の言葉に、アマンダは、思わず身体を震わせた。

 真綿でこころを包み込むかのような、優しく温かい、静かな衝撃。

 陽介は、アマンダの瞳が潤んでいるのに気付いているのかいないのか、やっぱり吐き出した煙を目で追いながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

 それが、心地良くて、アマンダは自分の身体が芯からゆっくりと温まっていくような感覚に包まれて、いつまでも聞いていたい、そんな想いに囚われてしまっていた。

「ただ、今日までのお前は、自分に少しだけ残った子供の部分に拘りすぎていただけだと思う。だから今日からは、肩の力をほんの少し抜くだけでいいさ。ここまで一人で辿り着けたお前なら、それが出来ると思ってるんだ」

 彼の言葉はアマンダにとって、子供の頃、両親の死で悪夢に魘され、眠れないとむずかる自分を抱き締めながら添い寝してくれた祖母が、耳元で囁くように歌ってくれた子守唄にも似て。

「……なんで? なんで、そう思う? 」

 問い返すアマンダに、陽介はぷかりと美味そうに煙を吐き出す。

「事故現場で、俺に『殺す』と言った時、な。……お前、胸にわだかまっていた色々あるもの、全て切り捨てた、苦しいけれど切り捨てた、ってな瞳だったよ。まるで、切り捨てなきゃ前に進めない、大人になれないって信じ込んでいるみたいに、な。だから俺には、お前がとても悲しそうに思えた。……だけど、切り捨てる必要なんか、ないんだ。誰だって、子供時代の尻尾を残し、それを持て余しながら、大人の自分と折り合いをつけながら歩いていく……。お前も俺も、今日までの人生で切り捨てていいものなんか、これっぽっちもない筈なんだ。それが、大人になる、って事なんだと思う」

 陽介の言葉は、アマンダの胸の奥に、自然に、優しく、静かに、すとん、と落ちて、ゆっくりと溶け込んでいった。

 そうかもな。

 アマンダは陽介の吐き出した煙を追いながら、ぼんやりとそう思う。

 確かに、辛く苦しい人生だった。

 だけど、その辛く苦しい日々の果てに、アタシはコイツと出会えたんだから。

 そうだとしたら、まあ、一概に無駄だったとは言えねえんじゃねえか?

 漸く……。

 遅いかもしれないけど、漸く、アタシはアタシのヒーローを見つけたんだから。

 降り積もる過去の諸々を背負い、抱き締め、それでも前を向いて生きていく。

 そんな人生もいいかも知れない。

 少なくとも、コイツはアタシにそう教えてくれて、実際そう生きようとしてるんだから。

 アタシにも、そんな人生の歩き方が、出来るのかな。


「……火」

 陽介は手に持っていたライターを着火して、アマンダに差し出す。

 顔を向けたアマンダは、ライターの心許ない灯りに照らされ、暗い室内で見てもはっきりそうと判るほど美しく、柔らかく微笑んでいた。

『綺麗だ』

 そう言おうとして言えず、陽介の唇はただ、吐息まじりの煙だけをゆっくりと吐き出す。

 アマンダは火を吸い付けた後も暫く、じっと陽介をみつめていたが、やがて、ツ、と視線を外して、ポソリと言った。

「な、陽介」

「ん? 」

「その『なにか』……、っての、アタシに教えてくれるか? 」

 陽介はアマンダの思い掛けない言葉に驚き、一瞬、呆然としてしまったが、やがて自然と笑顔が浮かんできて、それは抑えようもなかった。

 アマンダに自分の思いが届いた、そう確信が持てた、瞬間だった。

 今度こそ俺は、『間に合った』んだな、それが嬉しくて、『何に』間に合ったのか、過去に自分は『何に』『間に合わなかった』のか、気にはなったけれど、まずはこの喜びを目の前に佇む美しい人に伝えなければ、そう思って、微笑みのまま、答えた。

「そりゃ駄目だ、俺には教えられないな」

 答えが意外だったのだろう、今度はアマンダは驚いた表情を浮かべて振り向いた。

 陽介はその表情をアマンダから引き出せたことに満足し、ポン、と彼女の肩を軽く叩く。

「言ったろ? 俺もエラそうなことは言えない、って。……だから、ふたり一緒に探して行こうや。な? 」

 アマンダは口をへの字にして陽介から顔を逸らせるが、暫くしてコクン、と微かに頷いた。

 愁いを含んだ横顔は相変わらず美しかったけれど、その瞳に柔らかな安堵が見えたように思えて、陽介は漸く、彼女から視線を外すことが出来たのだった。

「姐、早く来ねえかな……」

 耳に届いたアマンダの呟きはまるで、ひとり留守番をしながら両親の帰宅を待ち侘びる小学生の言葉のように、陽介には聞こえた。


「やれやれ……。今日はなんだか、疲れちまったなあ」

 大隊本部管理中隊のプレハブの外、ミハランのこれでもかというくらい大きな赤い夕焼けを見ながら背伸びする四季の隣で、B中隊長のルフィーノ・マンサネーロ一尉が、メキシコ人らしい彫りの深い顔をこちらへ振り向けた。

「大隊長、今日は確か、非番じゃなかったですか? 」

 年上の部下~気の良い男なのだが、事ある毎に妻と三歳になる娘の写真を見せたがるのには閉口していた~の言葉に、四季は苦笑を浮かべた。

「うん、確かにオフなんだけどね。……や、ちょいとプライベート、つうか、本来任務以外での心配事が、ね」

 ほう、という表情を見せたルフィーノに、陽介とアマンダの事を話そうかどうしようかと逡巡した途端、プレハブの窓が開いて副官のマイケル・マクワイヤ三尉が顔を出して四季を呼んだ。

「大隊長! 」 

「おう! 」

 何故だか助かった気分でほっとして振り向くと、マイケルが少し表情を曇らせていた。

「警務大隊本部から至急電です」

 内心あちゃあ、と舌を出し、それを億尾に出すことなく、四季はルフィーノにウインクして見せた。

「ごめんね、マンサネーロさん。また後で」

 ルフィーノは鷹揚に頷きながら、その人の好さそうな顔に若干の同情を浮かべ、す、と手をプレハブに向けて差し伸べた。


「なんだって、マック? 」

 室内に入ってマイケルを見ると、彼は顔を顰めてみせた。

「沢村がまたぞろ、仕出かしたらしいですよ? アイツ、いったい何回目になるんだか」

 マイケルは幹部学校を出て2年目のA幹で、元気で明るく職務にも真面目なアメリカはフロリダ州出身の好青年で、四季の直卒する大隊本部管理小隊本管の分隊士だが、どうも真面目な彼にはアマンダは単なる不良下士官としか認識されていないようで、四季も度々彼の口から文句というか愚痴を聞かされていた。

「またやったか? 沢村は確か今日は」

 惚けてみせると、マイケルは素直に欲しかった追加情報を披露してくれた。

「ええ、沢村と同行していたええと……、そう、ムカイとか言う二尉も、なんのつもりか、一緒になってMPの世話になったらしくて」

 そこまで言ってからマイケルは、不意に不思議そうな表情を浮かべた。

 どうやら、四季が思わず表情を緩めてしまったのが原因のようだ。

「そうか、雪ね……、じゃねえ、沢村が。向井君も一緒になって? ……困った連中だなあ、ほんとにもう」

 言葉ではそう言いながらも、浮かんでくる笑顔は抑え難く、ちっとも困った風を装えないことに、四季は困ってしまった。

 そんな四季に、マイケルもまたリアクションに困ったようで、黙って野戦電話機のハンドセットを差し出した。

「もーし、電話換わりました、ラングレーです。……ああ、ミゲット三佐。どうもご無沙汰し……。またウチの不良がなにかやらかしましたか? ほんっと、毎度の事ながら、お手数ばかりお掛けして申し訳ありません。……はあ、……はあ。……ですよねえ。……で、今回はまた何を? 向井二尉も一緒と聞きましたが……。はあ……。はい……」

 MPに手間をかけさせてしまったのは想定外で、申し訳なく思いながらも、経緯はどうあれ、当初の作戦目的は完全達成した様子で、やっぱり笑顔を抑えられなかった。

 マイケルが不思議そうにこちらを眺めているのは無視して、現時点での攻撃効果判定は充分なれど、念には念を入れて追加攻撃セカンド・ストライクを行うことに決めた。

「……なるほど、そうですか。それなら、うん、了解しました。しましたが……。いやまあ、何て言うんですかね? ミゲット三佐、警察活動ってのは民警じゃ民事不介入が鉄則って言うじゃないですか。……え? ……どこが民事かって? 」

 四季はアハハハ、と朗らかに笑うと、少し声を抑えて言葉を継いだ。

「だってホラ、沢村と向井のふたりなら、痴話喧嘩みたいなモンですよ。……ええ、そりゃもう。向井が来てから、沢村も丸くなったと言うか、顔つきまで穏やかになって……。でしょ? 三佐もお気づきになりましたでしょ? ……ええ、そうなんですよ。ですから、今回は……。すいません、ほんっと申し訳ありません。……ええ、ふたりには自分からよく言い聞かせます。はい、はい……。ええ、今から自分が引き取りに参りますので、それまで2人纏めて営倉にでも放り込んでおいて下さい……。はい……。ああ、そうですよねえ……」

 話しながらチラ、とマイケルの方を見ると、彼は筋を違えるのではと心配になるくらい、思い切り首を捻っていた。


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