第31話 5-3.


 まるで飲み込んでしまった毒を吐瀉するような、苦し気な叫び声が反響し、けれど漸く吐き出した毒に再び冒されそうになって、アマンダは思わず眩暈を覚える。

 このままだと過呼吸で死んでしまうかもしれないと、アマンダは最後の気力を振り絞り、霞む視界の向こうにいる陽介を睨み付ける。

 どうだ、陽介。

 アタシを言い負かせてみろ。

 アタシに堂々、勝ってみせろよ。

 頼むよ。

 頼むからアタシに、勝ってみせてよ。

 そしてその上で。

 お前を撃とうとしたアタシを、断罪して欲しい。

「助けてくれ助けてくれと泣き喚いて、助けてくれなかったからと言って、アマンダ、今のお前はなんだ? 餓鬼の頃の自分を取り巻いていた下衆な大人とどう違うんだ? それこそ一緒じゃないか! 」

 思わず耳を塞ぎそうになってしまう。

 やめて。

 もう、やめてくれ。

 アタシを怒らないで。

 アタシはただ、助けて欲しかっただけなんだ。

 アタシとばあちゃんを、助けて欲しかっただけなんだよ。

「お前が、自分自身の理屈を信じていないって、それが証明だ。お前は、金だ暴力だと喚いている自分が、自分達を助けてくれなかった『下衆な大人』と一緒だって言ったも同然だ」

「クソ、黙れ……。うるせえクソッ! 」

 もう、言葉が出なかった。

 もう、負けたと思った。

 負けたとは判ってはいたが、それじゃあ自分はこれからどうすれば良いのか、どうなるのか、何も判らなかった。

 明日の見えない今日を生きなければならない不安と焦りは、餓鬼だったあの頃だけで、もう充分だ。

 だからまだ、負けてない。

 負けてはいられない。

 無理矢理そう思い込み、口を開いては見たものの、それこそ餓鬼の口喧嘩のような幼稚な言葉しかでなくて、それが哀しかった。

 陽介は吐き捨てるように、叩きつけるように、アマンダに言葉を投げ続ける。

「お前が金だ暴力だと理屈を捏ね繰り回して、真っ赤な嘘で塗り固めたその裏に隠しているものは、結局は無い物強請りで拗ねて心を拗らせた餓鬼のお前だ。自分の我儘が、拗れて絡まって、お前の大好きな大隊長に危険が及んだと判った途端に、怖くなって逃げだそうとしているだけなんだ。それがお前の言う立派な大人か? このまんまじゃお前、何年後かに振り返っても、数少ない周囲の理解者にさえ、平気で迷惑をかけ続けている今と同じ、餓鬼のまんまだぞ」

 もう、餓鬼みたいな言葉さえ出なかった。

「馬鹿野郎……」

 左手が陽介の第三種軍装の襟に伸びる。

 ごめんよ、陽介。

 どうやら、助けて貰えなさそうだ。

 やっぱ、ちょいとばかり、お前は遅かったみてえだ。

 ごめんなぁ。

「アタシを責めるなあっ! 」

 大きなバックスイングを取って繰り出されたアマンダのパンチはしかし、狙った顔面には届かず、彼が上げた右掌に掴まれて、ペチッ、と妙に頼りない音を立てた。

「ひぃ……」

 喉が鳴るようなか細い悲鳴が、再び口から洩れた。

 怒りに震える彼の目は、真っ直ぐと拳越しにアマンダの瞳を捉えて離さなかった。

「……アマンダ」

 彼女の名を呼びながら、掴んだ拳を離さずに、陽介は一歩、アマンダへ踏み込む。

「あ……、う……」

 意味のない呻き声が、再びアマンダの唇から洩れる。

 途端に、掴まれた拳から力が抜ける。

「アマンダ、聞け」

 これ程の恐怖を味わった事はなかった。

 運送屋の狒々親父に一服盛られた時でさえ、貞操の危機や悔しさ、惨めさ、自分の弱さに身悶えするほど苦しんだけれど、今日ほどの『根源的な恐怖』は感じなかった。

 そう。

 陽介の次の言葉を聴くのが怖かった。

 その一言で、今日まで自分が、唯一無条件で愛してくれた祖母を、祖母のような慈愛でみつめてくれた四季を、どれほど傷つけ、裏切り欺いてきたかを思い知らされるという、恐怖。

 その一言で、今日まで自分が、自分を欺いてまで必死に歩き続けてきた人生の意味を、木っ端微塵に粉砕されるという、恐怖。

 その一言で、お願い助けてと希み続け、けれど助けてもらえなかった自分が唯一縋り付いてきた『一本の蜘蛛の糸』さえも、取り上げられてしまうという、恐怖。

 そんな恐怖ばかりを浮かべた瞳は、自分を助けてくれそうな『何か』を求め、けれど得られず、虚空を忙しなく彷徨う。

 一歩でも彼から離れれば、その分だけダメージは少なくなるのだと言う、根拠のない、祈りにも近い感情に支配され、アマンダの上体は仰け反り、震える脚は、ジリジリと後退さる。

 だが、陽介は容赦なく、アマンダが後ろへ下がれば下がった分、前へ踏み込んできた。

 アマンダが視線を彷徨わせれば彷徨わせた分、俺だけを見ろと強迫観念に訴えるような鋭い視線で眉間を貫いた。

 気が狂いそうになって、叫び出しそうになり、震える唇を二、三度パクパクさせるが、喉や口の中がカラカラで言葉が出ない。

 思わず、涙が零れそうになったその刹那、アマンダは気付いた。

 ずんずんと自分へ迫りつつある眩しいくらい真っ直ぐな、しかしけっして嫌いではない陽介の瞳から、いつの間にか怒りが消え去って、哀しみが取って変わっている事に。

 なにが、哀しいんだ? 

 アタシが、馬鹿だからか? 

 アタシが、分からず屋だからか? 

 アタシが、哀しそうだからか? 

 陽介の哀しみの意味が解らず、思わず足を止めたアマンダの困惑の瞳に反応するように、陽介は口を開いた。

「アマンダ、判るか? ……俺が、お前が自分自身の言葉を信じていないと言った訳を」

 アタシは、助けてもらえると思ったんだよ、陽介。

 アンタなら、アタシを助けてくるかも知れない、そう思ったんだよ。

 ……陽介、お前は。

 なんで、いるんだ? 

 なんで、アタシの横に立ってるんだ? 

 なんで、アタシを助けようと、そんなに必死なんだ? 

「艦隊マークってのは、一発ボカチン食らえば、一艦丸々全員お陀仏だ。そう言う兵科なんだよ。だから、同じ艦の乗組員ってのは家族も同然、死ぬときゃ揃って打ち死にって訳だ。同時にボカチン狙って撃ってくる敵も、俺を狙って撃つ訳じゃない。俺が乗ってる艦を狙ってるんだ。それが陸上マークや航空マークとの一番の違いなんだ」

 睨みつけるような視線が、ふと、緩んだ。

 普段彼が見せる、柔らかな笑顔を垣間見たような気がして、アマンダの心臓はドキリ、と跳ねる。

 驚いたのではなく、怖れたのではなく、その視線に紛れて届く陽介の心の哀しげな何かが、何故だか、胸を打つから。

「だからかも知れないな。俺は、あの情報部の野郎から裏切られ、ミサイルやら銃やらぶっ放された時は、正直、怖かった。ガクガクと脚が震えて止まらなかった。なんとか危機を切り抜けた時、それでも俺は途方に暮れた。それまで雪潮に、フネに乗ってる時には考えもしなかった。自分だけが狙われて殺される、仲間に裏切られる……。怖かったよ。……大袈裟に言えば、この宇宙の何処にも、自分の居場所はなくなった。そう、思った」

 陽介の、アマンダを見据える視線に、再び怒りの炎が灯る。

 だが、アマンダはもう後へ下がらなかった。

 下がれなかった。

 彼の目を、見てしまったから。

「そんな俺を、お前や大隊長はまるで何年も組んできた仲間のように、庇い、心配し、守ろうとして誘ってくれた。嬉しかったよ。……俺にもまだ、居場所があったんだ。そう思えて、心の底から嬉しかった。雪潮以外にも、俺が居ても良い場所があったんだ、ってな」

 少しだけ、アマンダの拳を握っていた、彼の手の力が緩まった。

 アマンダは何故か彼の手を離してはいけないと思い、我知らず握り返す。

「最初は唯の最果ての最前線によくいる、荒くれ者を気取った不良兵士かと思っていたけど、違う、コイツはそうじゃない。そう、気付いた。大隊長が駆けつけてくれて危機を脱した直後、お前は俺に言ってくれたよな? 『心配するな。お前に手出しはさせねえ、アタシがアイツを、絶対殺すから』ってな。あの時のお前の瞳は綺麗だったよ。裏切られた事への怒り、腹立ち、不安、絶望、恐怖……。そんな全てを拭い去り、俺に居場所をくれた鋭い目付きのアバズレが、その時の俺には、途轍もなく愛惜しく思えたんだ」

 もう、もう。

 もう、何も考えられない。

 ただ陽介の絞り出すような言葉の一つひとつが、煌く宝石のように思えて、頭の中をぐるぐると回っていた。

 助かるかも知れない。

 助けてと叫び続けて、叫ぶ事も叶わぬほどに声も枯れ果て、流す涙も乾き切ってしまった、絶望の刹那。

 陽介、アンタはアタシを助けてくれようと、今、手を差し伸べてくれている。

 助かる予感を、与えてくれたんだ。

 全てを失くし、ささくれだった砂漠のような心しか残っていないアタシに、アンタは希望を与えてくれた。

 ありがとう、陽介。

 力が抜けてダラリと下へ落ちそうになる腕を、陽介は胸の高さまで引っ張り上げて、言葉を継いだ。

 悔しそうだった。

「だけどアマンダ。今のお前は、拗ねてイジケて後先考えずに周囲の全てに悪態吐いて噛み付きまくる、手に負えない餓鬼だ。極論、あの情報部のスキンヘッドと変らないじゃないか? 俺はそんなお前を見たくない、お前はそんな人間じゃない、そう信じているんだ! 」

 ああ、ごめん、陽介。

 アタシは、やっぱり馬鹿だった。

 だけど、こんな馬鹿をアンタは、ちゃんと助けてくれたね? 

 アンタは、初めて出逢った瞬間から、アタシを助けようとしてくれたね? 

 アタシは、アンタに助けてもらってばかりだったんだね? 

 アンタは、アタシのヒーローだったんだ。

 少し、ほんの少し、登場が遅かったけど、ね。

 でも、間一髪でなんとか間に合ったみたいだぜ? 

「お前の言う通り、俺の下らん理想かもしれんし、現実から眼を背けているのは俺の方かもしれない」

 急に、弱々しげに、呟くように言った陽介を、アマンダは思わず叱咤しそうになる。

 馬鹿野郎! 

 散々っぱら好き勝手抜かしやがって、何でここへきて腰が引けるんだよ? 

 もうちょっとだろ? 

 アタシを助けてくれるんだろ? 

 アンタはアタシのヒーローじゃねえのかよっ? 

 それこそ、見っとも無い真似、するんじゃねえよっ! 

 想いが口から溢れそうになる刹那、陽介が再び意思の篭った、力強い視線を振り向け、アマンダの開きかけた唇を強引に閉じさせた。

「だけど、俺は見てしまったんだ。お前の瞳に浮かぶSOSを。敵襲の怖れのあるあの墜落事故現場で、手を抜こうと思えばいくらでも手を抜けるあの状況で、無茶苦茶に潰れたコクピットに這いずり込んで、ドックタグだけじゃない、一掴みの髪の毛に腕時計やら指輪やらなにやら、遺体からきっちり回収してやっていた、そんな強くて優しいお前の、瞳が泣いているのを」

 陽介はぎゅっと唇を引き結ぶと、ふぅっ、と短い吐息をついて、最後の言葉をゆっくりと、告げた。

「俺は、お前をこのままにしておけない。もう、見逃すのは、見過ごすのは、嫌なんだ。後悔なんて願い下げだ」

 血を吐くように苦しげに言った最後の言葉は、ひどく哀しそうだった。悔しそうだった。

 ああ、アタシのせいには違いないけど。

 そんな顔、しないで。

 アンタはアタシの、ヒーローなんだから、さあ? 

 アマンダは、握っていた陽介の手を振り払い、素早く彼に背を向けて、震える吐息を、震える肩を、涙に濡れた頬を誤魔化すように、ウンと大きく背伸びする。

 嬉しかった。

 叫び出したいくらいに、嬉しかった。

 自分でも拘りすぎて、憎みすぎて、そのうち、何をしているのか、何をしていいのか何をしてはいけないのか、判らなくなった挙句、暴走し、暴走してもなお収まらぬ苛立ちを持て余していた自分を、目の前の人の好さそうな坊ちゃん然としたこの男が、身体を張って止めてくれたのだ。

 嬉しすぎて、堰き止めようとして叶わず堰を切って溢れる涙を、今は見せたくはなかった。

 そう思って急いで背を向け顔を伏せたものの、涙は重力に従って、但し地球の9/10のスピードでゆっくり地面へと落ちていく。

「……クソッタレ、これだからA幹は。お節介も大概にしろってんだ! 」

 涙声を誤魔化そうとして罵声になってしまう。

 ズズズッ、とわざとらしく盛大に洟を啜り上げ、前髪をかき上げる振りをして頬を伝う涙を拭い、振り向きザマに陽介のボディに軽くパンチを入れる。

「男のお節介は嫌われるぜ? アタシ以外にするんじゃねえぞこの馬鹿野郎」

「それこそ大きなお世話だろう」

 言い返す陽介も、さっきまでとは違った力の抜けた口調で、内心でほっとした。

「いいや、お前の方がトンデモお節介野郎だ。だからカッパは軟弱だってんだ! 」

「いい加減カッパカッパ言うな、この泥亀! 」

「なんだとこのエロガッパ! 」

 言った刹那、自分が今、笑っていることに気付き、思わずアマンダは口を噤む。

 なんだか、久し振りに笑えた気がした。

 そんな自分を、ちょっと可愛いと思い、同時に恥ずかしいと思った。

 思った瞬間、自然と言葉が転がり出た。

「陽介、ごめん。謝って済むことじゃねえって、判ってる、許してもらえるなんて思ってねえ。だけど」

「俺に向かって引き金を引いたことか? 」

 殺す気はなかった、マズルをずらして脅かそうとした、そんな言い訳だけはするまいと、ただ、無言で頷いた。

「馬鹿だな、お前」

 陽介は一言、呟くように言うと、10mほど離れたところに淋しそうに転がっていたCzを拾い上げて、差し出した。グリップの方を向けて。

「許される事じゃないのが判ってるんなら、それは死ぬまでお前が背負っていけ」

 アタシは陽介に、救われた。

 救われたことだけで充分だ、だから陽介の言う通り、罪を背負って別れよう。

 思わず零れた涙を、陽介の指がサッと撫でた。

「本当に馬鹿だな、お前。泣くくらいなら、最初からやるな」

 そして、ふふっと笑って、掌を頭に載せて、言った。

「さあ、そろそろキャンプへ帰ろう」

 意外な言葉に、思わず「え? 」と声が漏れた。

「いいのか? 」

「なにが? 」

「アタシが一緒に帰っても? 」

「当たり前だろ? 」

 そして陽介はアハハと明るく、そう、彼らしく明るく笑い声をあげた。

「お前、許さないって言われたからバイバイってか? 罪を背負って、これからも俺のバディだ」

 ああ、ああ、陽介。

 よっしゃ、判った。

 アタシは許されない罪を犯した、だから一生その罪を背負って、お前の背中を追い掛ける。

 再び零れそうな涙を誤魔化そうと、頭に浮かんだ言葉を吐き出した。

「……腹減った」

「……そう言われれば、うん」

「アタシ、ラーメンとチャーハン。お前の奢りで」

「なんだそれ? 」

「それくらい奢ったってバチはあたらねえだろうが」

「俺が奢らなきゃならない理由が知りたい! 」

「アタシが奢れっつってんだ、四の五の言わずに奢れ! 」

「お前、我儘もいい加減にしろよ? 」

「誰が我儘だってえ? 」

 そこまで言って、アマンダは我に返った。

「いやいや、漫才やってる場合じゃねえや、本格的に腹が減っちまった。早いとこ、食堂行こうや」

 陽介も苦笑しながら頷いた。

「そうだな。腹が膨れりゃあ、気分も落ち着くさ」

「だな」

 ふたり、肩を並べて、歩く。

 そんな、なんでもない行為が。

 今は途轍もなく、嬉しかった。

 もう、こんな日なんて来ないと思っていたから。

 このままふたりは、交わることなくそれぞれの方向へ歩いて行って、近い将来この星から飛び立ったら、二度と顔を合わせることもないのだろう。

 そう、思っていたから。

 悲しくて、悔しくて、そして自分の馬鹿さ加減を、餓鬼のような頭の悪さを呪いながら、ひとり、歩いていくんだ。

 そう思っていたから。

「なあ、陽介? 」

「ん? 」

「お前、あの日までは、ここに詰めてたんだろ? 食堂のお奨めメニュー、なんだ? 」

「ああ、ラーメンも美味いけど、俺は中華焼きそばの方が好きだったな」

 楽しそうに答える陽介の笑顔が、眩しかった。

「チャーハンは? 」

「チャーハンは、普通。但し、食べ応えのある量だったな」

「んじゃあ、アタシは、その焼きそばとチャー」

 言葉が途切れた。

 倉庫の車両出入口を一歩出たところ。

 ふたりの前で光っているのは、M4のマズル、特徴的な照星が、ズラリと。

「銃抜いて決闘してるって通報が入ったから、慌てて飛んできたんだが……。え? あれ? 口喧嘩だったのか? 」

 MPの腕章をつけた警務隊員の戸惑ったような表情と言葉に、ふたりは改めて周囲を見渡した。

 まさか、1日に二度も、『銃衾』に囲まれる事になろうとは思ってもなかった。


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