第30話 5-2.


 けれど銃声が響き渡ることは、なかった。

 アマンダは、それが予想外の事態だったにも関わらず、その結末に心から感謝した。

 トリガーにかかった指に、自分は確かに力を込めたのに、だけど、ハンマーは、落ちなかった。

 銃声の代わりに鼓膜に届いたのは、まるで雨に濡れた子猫が、母猫を恋慕うような、儚げな声だけだった。

「……は、ぅ」

 それが自分の声だと判るまで、数秒かかった。

 殺さずにすんだ。

 殺せなかった。

 判ってもらえなかった。

 判るはずないんだ。

 アタシはアンタを否定した。

 でも、アンタはアタシを否定しないで。

 怒鳴られた。

 怒鳴らないで、慰めて。

 彼は、悲しんでくれている。

 それよりアタシと一緒に泣いて。

 裏切ったのはアタシ。

 見限ってくれないコイツ。

 アタシが助けてと叫んだのに。

 アンタは助けてくれなかった。

 アタシは助からないのだ。

 アンタに助けて欲しかった。

 今でも助けて欲しい、心から願っている。

 助けて、陽介。

 安堵と怒り、哀しみと喜び、切なさと希望、絶望と欲望。

 全てが綯い交ぜになった感情、それは、自分がまだ、ひとである証し。

「殺せなくて残念か? 」

 アマンダは陽介の声に我に返り、何故自分が彼を殺せなかったか~殺さずにすんだか~を漸く悟った。

 いや、ハンマーはやはり落ちたのだ。

 ただ、何故だか落ちたハンマーの撃針は薬室内の9m/mパラの雷管を蹴飛ばさず、だから弾丸は撃発されなかった。

 落ちたハンマーが叩いたのは、陽介の指だったからだ。

 長年の間、主であるアマンダと共に数々の戦場を渡り歩いたサイドアームは、決して持ち主を裏切った訳ではなかった。

 陽介が発射の刹那、大きく一歩踏み込み、マズルを潜るようにして伸ばした左手で、Czのスライド底部を静かに、その大きな掌で包んだ、ただそれだけのことだった。

 荒い息の下、絞り出すような声で陽介は言った。

「いい加減眼を覚ませ! 理屈で勝てなかったらって、短絡的過ぎるだろう! それこそ餓鬼だって言うんだ! 」

 言い終わるなり、陽介は伸ばしたままの左手に力を入れ、掴んでいた銃をアマンダの手から弾き飛ばした。

 それほど強い力ではなかった、しかし数々の死線を一緒に潜り抜けてきた筈の手に馴染んだグリップは、まるで最初から『ヤル気』がなかったかのように簡単にアマンダの手を離れて飛んで行った。

 地面に落下していく銃をぼんやり目で追っていたアマンダは、刹那、凶暴とも言える力で頭を掴まれて陽介に引き寄せられた。

 陽介の手って、こんなに大きくてゴツゴツしていたのかと、少しだけ感動した。

 この手が。

 陽介の命を奪うという愚行を防いでくれたのだ。

 アタシを救ってくれたのだ、と。

 けれど、アタシは。

 確かにトリガーを落してしまった。

 本気で殺す気はなかった、少しだけマズルをずらすつもりだった。

 そんな言い訳はけれど、もう通用しない。

 『アタシが』、『陽介にマズルを向けて』、『トリガーを絞った』。

 もう、それだけで充分、アタシは許されざる罪を犯してしまったという事なのだ。

「俺を見ろっ、アマンダ! 」

 陽介の怒鳴り声に驚き、視線を自分の手元から外すと、彼はギロリと真っ向からアマンダを見据えていた。

「いい加減にしろっ! 黙って聞いてりゃあグダグダと見っとも無い言い訳、自分でも思ってもいないことを垂れ流しやがって、いったいお前って奴は、どこまで情けない姿を俺に晒せば気が済むんだっ? 」

 陽介の瞳に映る自分は、確かに彼の言うとおり、見っとも無くて、惨めで、そして哀しそうだった。

 一見、激しい怒りを湛えている自分の表情はしかし、彼の瞳に映ると、文字通り陽介に縋り付いて、泣き叫んでいるようにしか見えなかった。

 『タスケテ』と。

 陽介の瞳に映る自分は、泣き叫んでいた。

「まだ判らないのか? お前がそうやって、イジケてヤケになって、思い通りにいかない現実に腹を立てて子供みたいに暴れてきたその結果が、さっきの事件じゃないのかっ? 餓鬼みたいな、理屈にもならない理屈に拘った挙句、周囲の人間や自分の命までも危険に曝す。まるでこの戦争みたいに果てのない泥沼のような悪循環を! それに気付かないうちは、いつまで経っても大人にゃなれない、餓鬼のまんまで野垂れ死にするんだってことが! 」

 自分がこんな幹候出のぼんぼん育ちのA幹に、一方的に押されているのが信じられなかった。

 怒りが湧いてきて仕方なかった。

 そして湧き上がる怒りを凌ぐ勢いで、今頭を掴まれて罵倒されている自分が、これまで感じた事のなかった、温かくて心地良い感情を胸に抱いている事が、妙に嬉しかった。

 が、口をついて出るのは正反対の言葉。

「クソッタレこの馬鹿」

 再び陽介の手に力が入り、手前に引き寄せられる。

 最初から判っていたことだったけれど、陽介の顔が少し高い位置にあるのが、新鮮に思えた。

 けれど、自分の頭に伝わってくる振動が、陽介の手が細かく震えているからだと理解した刹那、何故だか、リアリティが煙のように消えてゆく。

 ひょっとしたら、とアマンダは考える。

 これは夢か? 

 夢だとしたら、アタシは醒めたいのか、ずっと見ていたいのか、どっちだろう? 

「黙って聞けっ! 」

 聴覚がおかしくなりそうなくらい近くで怒鳴る陽介の声が、何故、これほど心地良いのだろう? 

「馬鹿だと? 笑わせるな、アマンダ。お前こそ馬鹿馬鹿しい、自分でも半分も信じていない理屈を捏ねくり回して、捏ねすぎて訳がわからなくなってるんじゃないのか! ……大人になるんだ、その為には金が要る、そこまでは俺だって我慢して聞いてやる、金が要るのも理解できるし、確かに金のない大人は全く無様なモンだ。だけど、お前はあの搭乗員たちが無念のうちに死んだ事故現場から金を奪おうとした。あの時はお前の気持ちが理解できなかったが、今なら判る。そうさ、今更ながら、漸く俺は理解できた」

 ドキリとした。

 陽介に思惑を見透かされたかもしれない、と。

「……お前、本気で金が欲しいなんて、思ってもいなかっただろう? 」

 図星だ。

 なんで判った?

 なんでバレた?

 ああ、そうだ、その通りだ。

 真っ直ぐで真っ正直で明るくて、キラキラと太陽の光を浴びて眩しく輝くアンタの隣に立つ自分が、あんまり惨めで汚らしくて。

 アンタが立っている昼間の明るい世界、その横に並び立っている筈のアタシは、実は勘違いしていて未だ真っ暗闇の夜の世界にいることに気付いて。

 そんな事実に気付いたアタシは。

 逃げ出したかったんだ。

 だから、アンタに嫌われるような真似を。

 だって。

 アタシからアンタを嫌うなんて。

 そんなこと、できるわけ、なかったから。

 混乱するアマンダに、陽介は尚も攻撃の手を緩めなかった。

「お前、唯々俺に意地を張ってただけじゃないのかっ? もしもそうなら、そんなだからお前は、いつまでも餓鬼のままだって言ってるんだ! 」

「う……」

 一言呻いて、アマンダは陽介の手を弾き飛ばした。

「うるせえっ! うるせえうるせえウルセエッ! 黙ってろこの馬鹿、大人しくしてりゃつけあがりやがってっ! 」

 遠くでクラクションが、まるで出航の汽笛のように低く、長く鳴っていた。

「お前みたいな何不自由なく生きてきたボンクラに、アタシの気持ちなんて判る訳ねえんだっ! 」

 そんなチンケなセリフを恥ずかしげもなく叫んでいる自分の胸の内に、言葉通りの怒りなんてこれっぽっちも浮かんでこないのが不思議だった。

 とすれば、さっき胸を過った怒りの感情は、陽介に向けてではなく、自分自身に向いていたのだろうか?

「そうさ。お前なんざぁ、上っ面だけの綺麗事を、真顔でイケシャアシャアと言える偽善者のエリート野郎じゃねえかっ! 」

 漸くそれだけを言い切ると、額には滝のような汗が流れ、息が切れて両肩は激しく上下し、心臓は爆発寸前のように忙しく動いている。

 両親を亡くしてから今日まで、味わってきた屈辱や腹立ち、焦りや恐怖、哀しみや絶望を、上っ面だけの同情でもいいから、中身のない表面だけの軽い言葉で構わないから、判ったと言って欲しかった。

 頼むよ、陽介。

 アタシはお前が嫌いじゃないんだ。

 だから、頼むよ、判ってくれよ。

 アタシは苦しかったんだ。

 アタシは哀しかったんだ。

 アタシは悔しかったんだ。

 アタシは怖かったんだよ。

 アタシはいつも、助けを求めていたんだよ。

 陽介、アタシを助けてよぉ。

 だけどこんな都合のいいことを言いながら、アタシはアンタに銃を向け、ウトウトしちまった。

「……判りっこ、ねえんだよ」

 漸く言葉として空気を震わせたのは、自分自身を諦めさせる為の独白だった。

 だが、陽介はそれに応えた。

 応えて、くれた。

「判ってもらえるなんて、本気で考えてたのか? 」

 顔が、一瞬、痛みで歪む。

 本当に、胸をナイフで刺されたみたいな、鋭い痛みを感じた。

「俺に判ってるのは、ひとつだけだ」

 陽介の目が妙に座っている。

「さっきも言った通りだよ。お前が散々喚き散らしたその場凌ぎの屁理屈を、お前自身がこれっぽっちも信じていないってことだけだ」

 静かだが、明確な意思の感じ取られる口調だった。

「初めて出逢ったあの瞬間から……、相棒になると決まった瞬間から、俺はお前を見てきたんだ」

 陽介の瞳に、一瞬哀しみが浮かんだように感じられた。

 陽介も、アタシと同じように、胸に痛みを感じてくれているだろうか?

「いいか、アマンダ。人間ってのは、『どうせ自分のことなんてこれっぽっちも判ってくれない』他人を、どうにかして理解しようと、理解し切れない、間違った理解かもしれない、そんな畏れを常に抱きながらも、探り合い、時には互いに傷つけあって、傷を擦り合わせて、『判らない筈の』他人を判ろうと足掻くものなんだ。そうやって他人を思い遣り、折り合いをつけていく、それが大人の在り方で、大人の責任ってものなんだ。……誰にだって、思い出すのも辛い事のひとつやふたつはある。それを相手が抱えていると理解した上で、同じように辛くて苦しい想いを胸に抱えた自分を理解してもらう。それが大人ってもんだろう? 」

 再び、陽介の瞳は怒りで染められる。

「それを最初から判ろうともしないで……、理解できていても判らない振りを決め込んで、金だ腕力だと屁理屈を喚いて怒鳴って、ちょいと痛いところを突かれたら、殺すのなんの、アタシを理解できない奴は皆まで敵だと噛み付きまわる。自分の苦労を、苦しみを哀しみを判ってくれと、理解できない相手に銃を突き付けて泣き喚く。アタシこそが悲劇のヒロインなんだ、否定する奴は悪者なんだ。そう言いながら自分の都合だけで周囲を振り回す、お前こそ何様だ? それはな、アマンダ」

 グッと唇を噛み締める陽介に、アマンダは怖れさえ感じる。

「それは、単に自分が傷つくことが恐いだけだ、慰めてくれない相手を遠ざける為の、それこそ餓鬼の屁理屈にしか過ぎないんだよっ! 」

 泣きそうだった。

 周囲の目も後のことも、何も考えず、泣き喚いてしまいそうになるくらい、陽介が怖かった。

 そして、そう自分に思わせる、恐れを抱かせる陽介が、どうしようもなく腹が立って、どうしようもなく嫌な奴で、そしてこのまま、自分を嫌ったまま離れて行ってしまいそうで、それが一番恐ろしかった。

「自分の思い通りにならない現実から目を逸らしてるのは、アマンダ、お前の方だろうがっ! 」

 泣きそうな自分を誤魔化す為に、アマンダは恐怖に震える脚を、思い切って一歩、陽介に向けて踏み出し、叫ぶ。

「大人なんて、そんな格好のいいもんじゃあねえんだよっ! 」

 アタシが餓鬼の頃、苦しみ悲しんでいるアタシを、大人は助けてくれなかった。

 アタシが大人になろうと苦労してる頃、アタシは大人達に囲まれ、騙され、狙われ、利用されたんだ。

「苦労知らずがエラそうに説教すんじゃあねえよっ! アタシが怖くて泣きたくて不安で苦しくて、明日も見えない寒い夜に、ばあちゃんと2人、抱き合ってガタガタガタガタ震えていても、大人達は助けてくれなかったじゃねえかっ! せめて稼ごうと学校も行かずに汗水垂らして働いたって、周りの大人達は、金を掠めよう、アタシを抱こうと、そんな下衆な事しか考えてなかったんだよ! 役にも立たねえクソ餓鬼だったアタシを助けてくれるヒーローなんざ、どこにもいなかったんだよっ! 」

 静まり返った、天井の高い補給廠の倉庫に、アマンダの叫び声が木霊した。

 誰かに『本当にそうなのか? 』と問い返されているみたいな気になって、余計に泣きそうになってしまった。


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