第23話 4-3.


 頭に血を昇らせたアマンダは、知らぬうちに拳を上げて四季に殴りかかっていた。

 唯でさえ、自分との違いを心に刻みつけるようなその高貴さが気に食わないというのに、こんな命の遣り取りの瀬戸際でまで、己の惨めさを知らされてしまうその事実が、耐えられなかった。

「! 」

 クリティカルなパンチが、その美しいラインの顎にヒット、と思った瞬間、喉にヒヤリと冷たい感覚を覚えた。

「やっぱ強いな、貴女」

 必中を狙った拳はしかし、四季の右掌にガッシリと掴まれ、何時の間に抜いたのか、彼女の左手に逆手に握られたコンバットナイフが、アマンダの頚動脈に押し当てられていた。

「くっ! 」

「貴女が私を嫌ってたのは知ってたさ。理由は知らないけどな。だから、私も貴女の事、嫌いだったよ」

 四季はふわりと微笑みかけると、まずナイフを背中のホルダーに仕舞い、ゆっくりとアマンダの拳から手を離して、言葉を継いだ。

「でも、貴女の髪、綺麗だったから。貴女の肌、肌理細やかで、綺麗だったから。……だから、助けに来た」

 アマンダは暫くの間、四季の柔らかな笑顔に見惚れてしまっていて、それが自分の負けを完全に認めてしまっているという事実に今更ながら気付き、気付いた途端身体中から力が抜けてしまい、ふらふらとその場に座り込み、そして呟くように言った。

「アタシは、アンタのその赤い綺麗な髪と、翠の優しい瞳が……、キライだったんだ」

 そして、ポケットからクシャクシャになった煙草を抜き取って口に咥えた。

「けど、こんな馬鹿だと思わなかったぜ。……あんがとよ」

 四季は嬉しそうに、そして照れたように、顔を髪以上に赤く染め、「ん」と頷くと、ゆっくり手を差し伸べた。

「貴女、私より年上だよね? ……雪姉、って呼んでいい? 」

「……勝手にしやがれ」

 四季で良いよ、とは言われたが、流石に下士官と士官だ、呼び捨てと言うのも躊躇われ、なんとなく族時代の口癖で、「姐」と呼び始めた。

 お互い、口数の多いほうではなかったが、ふたりきりになると、色々なことを話すようになった。

 仕事のこと~どちらも切羽詰まって自棄になり志願したと判って笑いあった~。

 学校のこと~もっとも、アマンダは不登校だったので話は合わなかったが~。

 恋愛のこと~ふたりとも何故かぎこちなくあまり話は弾まなかったが~。

 家族のこと~ふたりともおばあちゃん娘だったことで盛り上がった~。

 親を亡くした時のこと~四季が幼い頃に実母を亡くしたと知った~。

 遊びのこと~双方、『遊び』の根本的な意味が違うようだった~。

 友達のこと~どちらも腐れ縁がいる点では同じ悩みだったが~。

 混血で苛められたこと~こればかりは、全く同じだった~。

 日々命の遣り取りに明け暮れる『歪な、しかしそれなりに平凡な日々』が流れ、同じような過去を抱え、同じような哀しみを抱いた四季と触れ合う事によって、アマンダの心にぽっかり開いた穴は決して塞がることはなかったけれど、それでも少しづつ小さくなっていることを実感できるようになった、ある日。


 キャンプでの夕食後、アマンダは自分のテントのシュラフにメモが挟み込まれている事に気付いた。

『話がある。夕食後、3号衣糧倉庫の裏で待つ。B中隊ザブレス』

 B中隊は隣の中隊だが、ザブレス一曹とは顔見知りだ。アマンダと同じ特A級レンジャーである。

 身体は彼女の倍ほどもある熊のような黒人で、女誑しと評判の男だった。

 たまに顔を合わせば下品な笑えない冗談を飛ばしてくるが、それも下士官兵の間では普通の範囲内で、少なくともアマンダに対しては、ジェンダーを意識させない、同じレンジャーであり、戦友というスタンスを崩さなかった印象がある。

「ちょいと出てくる。直ぐ戻る」

 テントの中の自分の部下に声を掛け、テントから出て少しだけ考えて、第3種軍装の上着を脱いで黒のタンクトップ姿で指定の場所へ向かった。

 すっかりと陽は落ちていたが、日中にじっくり焼けた大地は、未だに冷めてはいなかった。

 アマンダ達の大隊のキャンプは、主戦闘地域前線FEBAのすぐ内側、幅50m高さ20m程の急流の流れる峡谷の傍に開設されており、指定の倉庫群は崖の際に建っている。

 薄暗くなりかけた中、辺りを見渡すが人っ子ひとり見えない。

 ザブレスはまだ到着していない様子だった。

 アマンダが煙草を咥えると同時に、背中に硬い金属が押し当てられるのを感じた。

 ゆっくりと背後からライターを持った、毛むくじゃらで真っ黒の、丸太のように太い腕が伸びる。

 アマンダは、ス、と首を伸ばして火を吸い付けた。

「……何の真似だい、ザブレス」

「スカしてんじゃねえよ、姐さん」

 グヒヒ、と下卑た笑いが耳元で聞え、思わずアマンダは振り向こうとする。

「おおっと、動くなよ、思わずトリガー落としそうになっちまった」

「シロートじゃねえんだ、マズルをそんなピッタリ押し当てりゃあ、セイフティが働くなんざ、教育隊のボーヤ達だって知ってるぜ」

 震えそうになる声をひたすら押し殺し、虚勢を張って見せた。

 というより、既にその虚勢さえも目盛りは早々にエンプティを指しそうだった。

「なんの用だ? ……アタシは忙しいんだよ」

「じゃあ、とっとと済まそうぜ」

 じゅるり、と涎をすする音が聞えた瞬間、アマンダは、全身の血が一気に足元へ落ちていく音を耳の奥ではっきりと聞いた。

『いいじゃないか、初めてでもあるまいし。……1発ヤらせてくれさえすりゃあ、金は弾むぜ? 』

 バイト先の小さな運送会社の、普段は独裁者のように尊大な社長が珍しく淹れてくれたお茶に盛られた薬で、自由に動かない身体を撫で回された、横浜での恐怖の夜が脳裏で生々しく蘇った。

「ゆっくり、脱げ。……おっと、声は出すなよ? 」

 身体が震えて、動けなかった。

 普段なら、近接格闘戦でザブレスごとき敵ではなかった。

 だが、今は何をしても勝てる気がしなかったし、実際、指一本動かす事が出来なかった。

 夜の公園で、泥にまみれ、膝を抱えて震えながら、口の中で「助けて、誰か助けて」と呪文のように唱え続けた自分が見える。

 無言のまま動かないアマンダに焦れたのか、ザブレスはグイ、と銃を背中に痛いほど押し付けた。

「なに突っ張ってんだ、てめえ? 1発でいいんだ、黙って股開きゃ、それでチョンだろうがよ」

「……やぁ」

 自分でも驚くような、か細い声が洩れた。

 背後のザブレスも、普段からは想像も出来ないアマンダの反応に驚いたらしく、背後でたじろぐ気配が感じられた。

 チャンスだ、そう思った。

 隙を突いて、走ろうとしたアマンダのタンクトップを、ザブレスに鷲掴みされ、同時に足を払われ地面に叩きつけられた。

「大人しくしやがれっ! 」

「わああっ! 」

 タンクトップが簡単に裂け、うつ伏せに背中を見せたアマンダに、ザブレスは馬乗りになる。

「うるせえっ、喚くな! 」

「うぐっ! 」

 途端に、ごつい手で口を塞がれた。

 逆の手がアマンダのズボンのベルトを外そうと、身体の下へすべり込んでくる。

「うううう! 」

 涙が溢れて仕方なかった。涙と一緒に、身体中の力まで抜けて行く様だった。

 悔しい。

 ガク、と顔を地面につけたその瞬間、懐かしい、そして今アマンダが一番求めていたひとの声が響いた。

「誰だ、なにやってるっ? 雪姉かっ? 」

 ザブレスの動きが停まった。

「退きやがれっ! 」

 無我夢中で手足を無茶苦茶に振り回した。

 急に身体が軽くなったと思ったら、次の瞬間ザブレスの絶叫が聞えた。

「うわあああっ! 」

 恐る恐る瞼を開くと、四季の翠色の瞳が覗き込んでいた。

 頬に落ちてきた涙が、冷たくて気持ちよかった。

 自分の涙だと思っていたら、頬を濡らす水滴は四季の翠の瞳から落ちてきたものだった。

「雪姉、雪姉っ! 」

「姐……」

 四季は涙を手の甲で拭い、一瞬微笑むと、すぐに厳しい顔つきをして崖の方を見て言った。

「待ってろ! 」

「姐! 」

 アマンダが首を捻ってそちらを見た瞬間、四季の姿が崖の下にスッと消えた。

 襤褸切れのようになったタンクトップを身体に巻きつけながら崖淵に這い寄ると、5m程下がった途中の枯れかかった低木に引っ掛かったザブレスの巨体を、四季が担ぎ上げようと、四苦八苦している最中だった。

「姐っ! 」

 四季はチラ、とアマンダを見上げて微笑んだ。

「大丈夫! 下がってなっ! 」

 5分後、信じられない程の馬鹿力で、自分の体重の倍はあるだろうザブレスを、放り投げるようにして崖上に押し上げ、続いて這い登ってきた四季に、アマンダは抱きついて、声を殺して泣いた。

「よしよし、判った判った。怖かった、怖かったねえ、雪姉。もう、大丈夫。大丈夫だよ」

 しゃくりあげるアマンダが上半身裸同然なのに気付いて、四季は上着を脱いでアマンダに羽織らせ、まるで昔祖母がしてくれたように、背中をポン、ポンと叩き、髪を撫で、黙って抱き締めてくれていた。

 やがて、アマンダの呼吸が落ち着いてきた頃、四季はゆっくりと立ち上がり、崖っぷちで大の字に寝転んで荒い呼吸を繰り返しているザブレスに歩み寄り、無言で彼の横腹を軍靴で蹴り上げた。

「ぐふうっ! 」

 口から泡を吹いて悶え苦しむ彼の傍にしゃがみこむと、四季は腰からナイフを抜き出し、彼の口を塞いで、右腕に突き立てた。

「うぐおっ! 」

「貴様、本当なら私がこの手で殺してやるところだ」

 言いながらナイフを抜き、今度は右太股に深々と突き立てる。

「がっ! 」

「だが、今回だけは見逃してやる。貴様の狼藉も、本来なら軍法会議で禁固15年は固いだろうが、仕方ない。……その代わり、この事、黙ってろ」

「うう……」

 四季は黙って、今度は右肩にナイフを突き立てる。

「ぐあっ! 」

「判ったのか? それとも今度は左肩に行っとこうか? 」

 四季の手で口を塞がれたまま、汗と涙と涎と洟でドロドロになった髭面をザブレスはガクガクと縦に振った。

「よーし……。いい心掛けだ」

 四季はナイフを肩から抜くと、パンチを鳩尾にぶち込んで気絶させた。

「動脈は外してるから、簡単にゃ死なんだろ」

 そう言いながら振り向いた四季に、アマンダは噛み付いた。

「姐! 姐がそんな危ない橋を渡らなくたって……。そんな奴、川に放り出したって良かったのに! 」

 四季は困ったような笑みを浮かべ、ゆっくりとアマンダに近付き、そっと肩を抱き締めた。

「前に私、言わなかったっけ? 『誰も、私の目の前で死なせない』って……。そして、私は雪姉を人殺しにしたくなかった」

 そしてそっと身体を離し、アマンダの瞳をじっとみつめた。

「なにより私は、雪姉? ……雪姉のこと、大好きだもの」

「姐……」

 ああ、姐は、四季とは、こういう人間だったと改めて気付かされ、そんな自分の間抜けさに呆れて思わず笑ってしまった。

 アマンダが笑顔を見せたことで安心したのか、四季は笑い返してから、徐にアマンダの肩を抱いて、ゆっくり立ち上がらせた。

「ひとりで歩けるか? 」

「ん……」

 四季は頷くと、ザブレスの持っていた銃を拾い上げてベルトに挿し、「よ! 」と掛け声をかけて、彼の大きな身体を肩に担いだ。

「行くか」

 すっかり陽の暮れたキャンプ内を、四季とアマンダはゆっくりと歩く。

「姐……。大丈夫かな」

 四季はチラ、とアマンダを振り返る。

「こいつは大丈夫だろ。何せ、襲ったのはコイツだし、目撃者の私もいるんだし」

「じゃあ、なんで……、警務隊MPに渡さないんだ? 」

「ううん……」

 少しだけ迷うような素振りを見せて、四季は独り言のように小声で答えた。

「まあ、こう言う事件じゃ、辛いのは女の方だって言うからね。それにMP沙汰にしちまったら、こんな噂はあっという間に広がっちまう。黒豹の姉御としても、舐められるような噂は困るだろ? 」

 そして巨体を担いだまま、クル、と振り返った。

「それともうひとつ……。これは単なる勘なんだけど、雪姉……。なんか、こう言うケースでトラウマ、あるんじゃねえ? 」

 ドキリ、として、アマンダは力なく頷く。

「……それもあって、ね。被害者が傷口をグリグリと弄り回される、ってのも理不尽だけどな」

 医療小隊のバラックにザブレスを放り込み、『ケンカらしいが、加害者は逃げた後だった』と軍医に告げて、四季は外で待っていたアマンダに笑いかけた。

「奴は口を噤む。下士官兵どうしの喧嘩は、相手をチクるような真似は誰もしねえし、深くも追求されねえってのが常道。んで、ケガの程度が程度なんで、後送される。これでチョン、だ」

 そして、付け加えた。

「今夜の事を知ってる奴は、この星に誰もいなくなる。安心していいよ、雪姉」

 四季はニコ、と微笑んでみせた後、表情を引き締めた。

「なあ、雪姉。聞いて。私が雪姉を探してたのも、これが本題なんだけどさ。……幹部候補選抜学生制度、知ってるよな? 特務士官の養成課程だ。実は、連隊長枠で推薦しようとしてたD中隊の一曹が先週戦死してさ。試験は3ヵ月後だって。で、候補者なしでもいいんだけど、特別推薦枠は師団持ち回りでこれを逃すと1年近く待たなきゃなんねえ、ってんで、さっき連隊長に呼ばれて、誰か代わりがいないか? ……こう言う話だった」

 四季はニコ、と笑った。

「だから私、雪姉を推薦して、OK貰ったよ」

「なっ? 」

「まあ、それもあって、選抜前にあることないこと事前審査で雪姉が弄られるのを避けたかった、ってこともヤツを見逃した理由の一つなんだ。エラいさんでも、下種の勘繰りする奴は結構いるからね」

 あまりの事に、アマンダは咄嗟に言葉も出せなかった。

 暫く口をパクパクさせて漸く出た言葉は、自分でも訳が判らなかった。

「え? ……幹部、って、そんな? ……え、でも、だって? ……ええっ? 」

 四季はアマンダを落ち着かせるように、黒髪を両手でゆっくりと撫でた。

”ばあちゃん……”

 思わず祖母の顔を思い出す。

 思い返せば、アマンダの豊かな黒髪を、何の思惑もなく真っ直ぐに褒めてくれたのは、祖母と、四季だけだった。

「私はね、雪姉。……私は、貴女ならきっと、立派な士官になれる。そう思ってる」

 四季はゆっくりと手をアマンダの髪から離し、顔を覗き込むようにして言葉を継いだ。

「でも、士官も辛いよ、雪姉。……自分の一言で、どんどん部下が死んでいく。人殺しと一緒だ。ある意味、精神的には士官の方がキツいかも知れない」

「姐も……、姐も、辛かったのか……? 」

 辛くないわけなど、ないだろう。

 先日、連隊本部にいる同期の顔見知りに聞いた。

 初めて四季と話をしたあの日は、敵のブロードバンドジャミングで精密砲撃指示を含む指揮通信が乱れに乱れ、統制射撃が混乱する隙をついて敵機甲師団が乱入、勿論近接航空支援も間に合いそうにもなく、危うく地球軍が敗走の危機に立ち、死を覚悟の目視砲撃誘導が必要となったとき、四季が名乗り出たのだそうだ。

『あそこには沢村一曹が……、私の部下が機動斥候に出ています。自分が出ます』

 そんな四季が、どんな想いで今まで命令を下してきたのか? 

 今のアマンダには、聞くまでもなく、判りすぎる程判っていた。

 案の定、四季は微かに紅茶色の髪を揺らした。

「でも、それを私は仕方ない、って言うつもりはない。……それは、私がやったことだから。だから、一生背負って生きていく。そうしていれば、せめて亡くなった部下の家族に逢った時……、素直に謝れる気がするから」

 徐に両手で顔をゴシゴッシと乱暴に擦り上げると、涙で濡れた頬を歪めるように笑って見せた。

「だから私は、私の前でもう誰も死なせない。そして、それが出来るのは、やっぱり士官なんだ……。雪姉? ……貴女にはそれが出来る賢さと優しさ、そして私にはない強さがある」

 不良と呼ばれ、学校でも街でも鼻抓み者、挙句の果てに金に困って身売り同然に兵隊になり、地球を飛び出して他の惑星の砂漠でのたくっている自分を、ここまで買ってくれている人が居る事自体、アマンダの理解を遙かに超えていた。

 言葉がなかった。

 悔しいけれど、泣くしか、もう手がなかった。

「ひぃい……」

 アマンダは、声を上げて泣いた。

 声をあげて泣いたのは、祖母が死んだ時以来、初めてだった。

 しかし、それを意外だとは思わなかった。

 アマンダにとって四季は、死んだ両親と祖母以外で、唯一自分のことを「可愛い」「大好き」と言ってくれたひとだったのだから。


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