第4話 1-3.


 予想外の混雑に溜息を落としつつも、後数時間で退勤、明日は漸く休めるなぁとホームでマイクを掴んで乗車案内に勤しんでいた輸送係、つまりは駅務員である佐藤猛は、JR東日本に就職して4年目、来年は車掌になる為の社内試験を受けるつもりで、数ヶ月程前より先輩から譲り受けた参考書を退勤後に、そろそろと読み始めていた。

 今日はプライベートの予定もないし、寮に戻ったら参考書でも開くか。元々鉄道ファンが高じて運転士になりたくて入社したのだ、その第一ステップ、車掌試験は一発でクリアしたいものだ。

 などとぼんやりと考えていたところに、自分の立つプラットホームで鳴り響く非常ベルの音で我に返った。

「こんな時間帯に事故か?」

 乗客と列車の接触だったら目も当てられない、この混雑した利用状況でダイヤが乱れると、まるで自分が列車を止めたかのように、吊るし上げみたいに群衆に取り囲まれてしまうし、喧嘩騒ぎや痴漢だったとしても、後始末や鉄道警察隊との連絡などで手間ばかりかかる。

 げんなりしつつも発報位置を示すランプ点滅位置まで同僚とともに駆け付けると、痴漢を捕まえたと、ヒスパニック系の絶世の美女に告げられて、思わずどぎまぎしてしまった。

 叶うならば彼女とお知り合いになりたいものだと半ば真剣に考えたものの、それよりもまずは痴漢犯の確保と被害者の保護、警察への連絡だと己の職務を思い出して行動に移ったら、犯人確保の殊勲者が帰ろうとしているのでこれは拙いと呼び止めた。

 確かに痴漢騒ぎの後始末は、刑事犯罪だということもあって警察が駆けつけてからの関係者の拘束時間が驚くほど長い。

 目撃証言や被害者加害者、犯人確保の協力者、それぞれへの事情聴取だけでも数時間は駅務室で拘束されるのだから、犯人はともかく善意の第三者にしてみれば「なんで自分がこんな目に」と不当な扱いに憤慨することもままあるのだ。

 だからこの美女も嫌がっているのだろうと思っていたのだが、彼女から出された名刺を一目見て驚いた。

「! 」

 隣から覗き込んだ同僚も同じく、カクン、と音が立つほどの勢いで顎を落としていた。

「UNDASN……。ち、地球防衛艦隊」

 掠れる声で呟き、なお名刺から視線を離せない佐藤の前に、IDカードが差し出された。

「本人、な? 」

 IDカードの写真を網膜に焼き付け、ハスキーボイスに誘われるように繋がったチェーンを辿っていくうち、佐藤の視線は彼女の美しい顔に辿り着く前に、見事にトラップに引っ掛かってしまった。

 チェーンは彼女の首に掛けられていて、前の袷が開かれたコートから覗いたのは、確かにテレビや映画等で見慣れたカーキ色の軍服だった。

 多少のミリタリー趣味のある彼は、すぐにその服装に思い当たった。

 所謂第2乙種軍装、ワーキング・カーキと呼ばれる作業用略装だ。

 本来第2乙軍装を着用する場合、第1種軍装~ドレス・ブルー~と同じ制帽にカーキ色のカバーを付けるか、同色の略帽ライナーを被るのが規則の筈。

 けれど彼女は、何故か制帽やライナーをかぶっていない。

 確か、無帽は服装令違反の筈なのだが~自分達の会社でもそうなっている~、彼女自身はまるでそれが当然と言った風で、結果としてワーキングカーキの上から革コートを羽織ると、だから一見UNDASN軍人には見えなかったのだと納得してしまった。

 いや、佐藤が掛かったトラップは、そのワーキングカーキでも、右胸の階級章でも、士官をあらわす左胸のイーグルウィング・バッチでもない。

 第3ボタンまで大胆に開けられたシャツの、それまで弾き飛ばすかの勢いで存在している豊かな胸の谷間。

「アマンダ・ガラレス・雪野・沢村一等陸尉。なんかあったらそこへ電話、な? 」

 突然声が響き、我に返って顔を上げて、漸く彼はIDカードの写真と同じ、彫りの深い美しく整った顔が、写真同様無愛想な表情で存在することを確認した。

 写真と違うのは、唇に火のついていない煙草を咥えている、それだけだった。

「ん? 」

 催促するような美女の声に、佐藤は同僚と2人揃って、殆ど同時に敬礼していた。

「わ、判りました。ご協力、感謝致します」

 敬礼しながら、佐藤は思った。

 こんな美女が利用客なら、車掌になるのは1年くらい遅らせても良いかもしれない。

 取り敢えず今夜は、参考書は開かずに置いておこう。


 アマンダは、UNDASNではとても認められていない答礼を返し~ぶっちゃけ、招き猫のようだ~、ヤレヤレと肩を竦めながら再び踵を返して階段に向かって歩き始めた。

 歩き始めたはいいものの、内心、困ってしまった。

 アマンダは今になって、オフィスへ戻るつもりでJRに乗ったことを思い出した。

 オフィスの最寄り駅は、横浜駅より数駅先の、関内である。

 歩くには遠いし、かと言って代替交通機関はMM線の日本大通駅だが、そこだと最寄り駅というにはやはり距離がある。

 立ち止まり、この後どうすべきかと考えていたが、不意に背中や眉間に鈍い痛みを感じて、いつもの他者が寄せる視線が刺さっているのだと気付き、再びアマンダは己の足を前に踏み出させた。

 仕方ない、タクシーで帰るか。

 領収証貰ったとして、総務の明石が通してくれるか?

 メンドクセェなぁと頭に手を持っていったその刹那、か細い声が折角動き始めた歩みを止めた。

「あ、あのっ! 」

 聞き覚えのない声だったが、自分を引き留めたのに違いないという、裏付けのない確信があり、アマンダはその場でくるりと振り返った。

 そこにいたのは、被害者の女子大生だった。

 振り向いた表情が、よほど険しい顔つきだったのだろうか、彼女は一瞬ビクッ、とコート越しにもそうと判る薄い肩を震わせた。

 まるで出来損ないのロボットのように、ぎこちない足取りで彼女はアマンダの前に歩み寄り、両手の指を胸の前で絡ませて、頭ひとつ分以上も背の高いところにあるアマンダを見上げた。

「……ん? 」

 言葉にもなっていないアマンダの催促に~顔見知りに対してもとことん無口な質であることは自覚していたが、どうにも治す気になれない、ああ、『あの馬鹿』の前以外では~、女子大生は、まるでバレンタインに本命チョコを渡す中学生みたいに、カチンコチンに表情を強張らせ、上擦った声を上げた。

「あ、あの! ……た、助けて、頂いて、えと、その、あ、ありがとうございましたっ! 」


 槙島万梨阿まきしま まりあ、昨年12月に20歳になった。

 東京都内の私立大学に、横浜市内の自宅から通っている。

 今日は所属している近代文学研究サークルの例会に参加していたのだが、楽しかった。

 万梨阿が選んだ研究テーマは、20世紀終わりから21世紀前半にかけて流行ったライトノベル群の中の、所謂いわゆるラブコメと呼ばれるジャンルについてだ。

 『幼馴染は何故、ぽっと出のヒロインに想い人を盗られてしまうという類型が非常に多いのか』というテーマへのアプローチを簡単なレポートに纏めて発表したのだが、それが先輩達に非常に受けたのだ。

 ただ一人、ちょっと格好良いなと思っている3回生の先輩が「今でもそうだけれど、幼馴染という立ち位置の関係というのが、21世紀では既に伝説になっていたという研究資料もある。そんな時代になぜ幼馴染VSぽっと出ヒロインという構図が溢れていたのか、それも加えて検討するともっと面白いレポートになるんじゃないかな」とアドバイスをしてくれたのだ。

 確かに、自分も幼馴染なんていないし~中学二年で横浜へ引っ越してくるまでは、父の仕事で仙台住まいだった~、周囲の友人たちも幼馴染何それ美味しいの? という人間ばかりだった。

 明日からはそこら辺の社会環境も調べてみよう、そんなことを帰路考えながら混雑する電車に揺られていたのだが、川崎駅を列車が出発した辺りで、下半身に嫌な感覚を覚えて思わず背筋が震えた。

 痴漢だ。

 もう、折角楽しいままで1日を終えることが出来そうだったのに、台無しだよ!

 東京へ通学するようになってから2年、女性専用車両以外に飛び乗ってしまった時などは10回に1回は痴漢被害に遭ってしまう。

 友人に聞くと、何故だか、痴漢に頻繁に遭う人と殆ど遭わない人がいるらしい。

 ネットで拾った記事によると、痴漢犯罪者は、美人だとかスタイルが良いとかでターゲットを決めるのではなく、大人しそうで気の弱そうな、要は反撃してこなさそうな人物をターゲットにするらしく、ああなるほどだから私が、と納得しつつもその卑劣な理由に腹立ちを覚えたものだ。

 腹立ちは増したが、それでもやっぱり痴漢に遭ったら反撃することは勿論、声を上げて周囲に助けを求めることも出来なかった。

 気持ち悪くて、恥ずかしくて、時折痛くて、身体を捩ったり鞄で防いだり手を払ったり、それでも犯人の顔を見るのが怖くて顔も上げられない。

 慣れることなんて未来永劫ないだろうけれど、それでもそれまでの痴漢はスカートやパンツの上からお尻を撫でたり揉んだり、何やら固いもの押し付けてきたり、口惜しいけれど言ってみれば『その程度』だったのだけれど。

 今日は、違った。

 お尻の辺りに感じていた掌の感触が、やがてスカートをゆっくりとずり上げ始めたのだ。

 ちょっと待ってそれ洒落になんないと、必死に裾を掴んで抵抗していたら、今度は胸を背後から鷲掴まれた。

 思わず声を上げかけて、慌てて唇を噛み締めた。

 声を聞きつけられて、胸を掴まれている姿を他人に見られたらと思うと、もう生きていけないくらいのダメージを心に受けそうに思えたのだ。

 思わず鞄を胸の前で抱き締め、痴漢の腕ごと胸を隠した。

 胸に気を取られている内に、スカートは完全に腰まで捲り上げられていて、痴漢の手は縦横無尽に自分の下半身を弄んでいた。

 早く駅について!

 真っ赤になった顔を見られぬように俯いて、過呼吸になる程に荒くなる呼吸を口を噤んで秘しながら、ただそれだけを必死になって祈り続けていると。

 ハスキーな声が鼓膜を震わせた。

「おっさん。随分と自由気儘に生きてんなあ」

 恐る恐る顔を上げると、まるでラノベの表紙から抜け出してきたような、物凄い美女が立っていた。

 微かに、煙草の香りが、万梨阿の鼻孔を擽った。

 

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