第3話 1-2.


 第一次ミクニー戦役の停戦で、取り敢えずの平和が訪れたとはいえども、戦後復興の切っ掛けが掴めず混乱と貧困に喘ぐスペインから日本に流れてきた父と、横浜港の小さな港湾荷役会社の事務員だった母、ふたりは出逢った。

 底なし不況は日本も同様で、共稼ぎで苦しい生活が続いていたのは子供心に理解しているつもりだったが、人並みの家族団欒への憧れ、両親に甘えられない寂しさは辛かった。

 そんな中、時折母方の祖母が焼いてくれたミルク・ビスケットが、彼女にとって唯一の、『幸せの匂い』だ。

 たまたま乗り合わせたこの列車内で、笑顔を浮かべている人々、それぞれに『ミルク・ビスケット』があるのだろうなぁ。

 フム、そうだな、とアマンダは、その形の良い唇をペロリと舐めて、視線を虚空に泳がせる。

 さしずめ、今夜の幸せの匂いは、カレーだな。

 昨日の夜、野郎の部屋から戻った後、ふと思い立って適当に作ったんだけど、一晩寝かせたんだ、今夜辺りは食べ頃の筈だ。

 アイツ、アタシの作るカレー、好きなんだよなぁ。

 美味いうまいって、毎度毎度、馬ほど食いやがる。

 そうそう、昨日の晩飯、牛蒡と鶏肉の旨煮も、予想以上に評判良かったよな。

 とにかくアイツ、何を出しても、まるで欠食児童も真っ蒼って勢いで平らげてくれる。

 あれってひょっとして、アタシが作った料理だから……、かな? 

 ああ、でもあの馬鹿、誰の料理でもなんか、美味いって言いそうだし……。

 あ、そうだ! 

 言ったじゃん、アイツ。

 『アマンダの作る料理、どいつもこいつも最高だよな』って言ってたじゃねえか、うん。

 ってこたぁ、やっぱアイツ、アタシの料理でないと駄目なんだ。

 今夜のカレー、アイツはいったい、何杯お替りするかな? 

 あ、まさかあの馬鹿、腹減ったからって、先にひとりメシ食っちまって……、なんてこたぁねえだろうな? 

 念の為だ、電話、しとくか。

 ええと。

 コートのポケットの底に転がっている携帯電話を握り締めた瞬間、アマンダは思わず我に返る。

 ああ、駄目だ。

 固く、強く、瞼を閉じて、唇を、噛む。

 自分を戒める為に。

 周囲のペースに巻き込まれてはいけない。

 周囲の笑顔に、てられる訳にはいかない。

 調子に乗って先走ってしまい、挙句の果てに傷付くのは、自分なのだから。

 思わず、苦笑を浮かべてしまう。

 やはり、心のどこかで、覚悟しているのだ。

 いつかは終わる。

 この、幸せは。

 そして結局は、1年のうち2週間だけの、笑顔の期間だけが残るのだ。

 だからこそ。

 いつでも、どんな時でも、いつかは終わりの時が訪れるのだと、今日の笑顔の裏で、自分に言い聞かせておくしかないのだ。

 それは確かに、辛く哀しく切ない、自傷行為にも似た、痛みを伴う作業ではあったが、そうしないときっと、本当の別れの瞬間、みっともなく泣き喚き、這い蹲って、彼の足に取り縋り行かないでと懇願し、挙句の果ては正気を保てず廃人のように朽ち果ててしまうだろうから。

 そしてなにより、彼を困らせるから。

 だから、溺れない。

 溺れられない。

 辛くても、哀しくても、切なくても、絶対に。

 この幸せには、溺れちゃいけない。

 約束された別れの刻、せめて最後の一瞬まで、彼の最大の長所である笑顔を、真っ直ぐにみつめていたいから。

 だから。

 けっして、溺れはしない。

 彼の傍にいられる今この瞬間を、切り取りパウチし真空パックに詰め込んで認識票と一緒に胸に抱けば、きっと、一生歩いて往ける。

 だって今は、今日は、あの馬鹿が微笑んで傍にいてくれるから。

 夜の闇でしか生きられない筈だったアタシを、アイツはせめてもと夕闇まで、射し込む陽光に手が届きそうな薄暮まで、連れ出してくれたんだから。

 だから、大丈夫。

 アイツの傍、耳を擽る優しい息遣い、柔らかな温もりに、思わず心地良すぎて閉じそうになる瞼を無理矢理ペンチで抉じ開け続ける日々の『作業』は辛くて、痛くて、苦しいけれど。

 それでもきっと、大丈夫。

 アイツの部屋から戻った直後の、一層冷たさと暗さ際立つ塹壕のような自分の部屋で、アイツが欲しくて一緒にいたくてせめて遠くからでも眺めていたくてだけど馬鹿なアタシはどうしようもなく立ち竦むばかりで、堰き止め切れぬ涙と洟と涎に塗れ、ともすれば無意識のうちに伸ばしてしまう我が手を力任せに折り畳み身体の下に折り敷いて、息も出来ぬほど苦しい夜を遣り過ごして漸く訪れた朝、再びあの馬鹿の笑顔に触れることが出来た刹那の眩しいほどの煌きは、爆発する程の喜びは、きっと、やがて独りで歩き始める日々の、歩き続ける為の糧となる筈だから。

 いったい自分は、いつの間にマゾっ気が出てきたのだろう?

 自分ではSだと思っていたのだが。

 口を開き、今度は静かに、ゆっくりと、アマンダは数度深呼吸をする。

 懐かしく甘い匂いはもう感じられず、ただ、車内の空気清浄機のイオンの香りだけが少しばかり鼻についた。

 クールダウン完了……、と。

 瞼を開き、今度は普段の用心深い半眼で、車内を見渡す。

”よし……。大丈夫。笑顔を見せつけられたって……、ん? ”

 ゆっくりと、まるで監視カメラのような正確さで車両の端から端へ首を振っていたアマンダの視界が、微かな違和感を感知した。

 行き過ぎた視線を、ゆっくりと戻していく、そして再発見。

 逆上せてしまいそうな『暖かい』笑顔の車内で、そこだけが暗い闇に閉ざされていた。

 12時の方向、ほんの1m程先。

 アマンダの押し込まれたドアの向かい側、通路の中間。

 アマンダの方に顔を向けた、ショートヘア、最近流行りの赤いセルフレームの眼鏡をかけた女子大生風の大人しそうな、そして少しだけ幼く見える『女の子』。

 彼女だけが、周囲の『笑顔の渦』に接していながら、周囲の全てから隔絶された、まるで透明人間のような。

 苦しそうに、顔全体を真っ赤にして、吐息さえも洩らすまいと懸命に口を、目を閉じていた。

 そしてアマンダの視線は、もうひとつの暗い闇を彼女の背後に捉える。

 彼女とは逆に、自ら周囲に防壁を張り巡らせて、そして何食わぬ顔をして獲物を自らの闇に引き摺り込もうとしている、一見、どこにでもいそうな中年の男。

 彼は、女子大生の背後に寄り添うように身体をつけて、顔だけは車内広告が映るディスプレイに向けている。

 けれど、その金壷眼が文庫本今月の新刊を眺めていない事は、アマンダには一目瞭然だった。

 猛然と怒りが湧いてきた。

 中年男に、ではない。

 いや、もちろん彼への怒りもあるにはあるが、懸命に嵐が過ぎ去るのを堪えようとしている女子大生に、そして周囲でそれに気付かずに笑顔を浮かべている名も知らぬ『善意の第三者』達に、一層、怒りのベクトルが向かった。

 自分の中の怒りの炎が、ある意味、彼や彼女とはまた違う『暗い闇』を燃料としている事に気付いた時には、アマンダは既に行動を起こしており、そして新たな後悔を自分の胸に仕舞い込む羽目になっていた。

「すまねえ、にいちゃん。通してくれ」

 川崎駅で女の腰を抱きながら後から乗り込んできて、アマンダを身体で戸袋の隅まで押し遣りながら目礼ひとつせず、頭の悪そうな厚化粧の彼女に頭の悪そうなTVドラマの話題を延々と声高に喋り捲っている、耳にピアスを4個ほど埋め込んだ頭の悪そうな若い男に、低い声で囁いた。

「ぁあ? 」

 声のする方を振り返った彼は、目の前に現れたのが革コートに包まれながらも形の良さが判るほどの豊満なバストである事に驚き、ゴクリと喉を鳴らしてゆっくりと顔を上げた。

 カフェオレ色の肌を持つ、まるでハリウッド映画の中から出てきたかのような壮絶な美人はしかし、痺れるほどにハスキーな声と、眉間を貫くほどの痛みを実際に感じさせる鋭い視線を遠慮なく浴びせかけてきて、彼は再び、音を立てて生唾を飲み込んでしまった。

「……ぅあ」

 間抜けな声を洩らした女の方に、アマンダは唇の端をほんの数ミリだけ上げて微笑んで見せ~けれど笑顔とは思われなかっただろう~、続いて釘で打ち付けられたように身動きできない男の顔を覗き込むように身体を少しだけ屈めて、もう一度、囁いた。

「耳まで休日か? 」

「……あい」

 男は息が洩れたかのような情けない声でそう返事すると、漸く女の腰から手を離し、混み合う車内を数歩、後退さる。

「……悪ぃな」

 アマンダは再び姿勢を戻し、吐き捨てるように形ばかりの礼を言うと、混雑を構わず真っ直ぐ女子大生の方に向かってその長く美しい脚を踏み出した。

「! 」

 自然とアマンダの行く手にいた人々は波のように後退さり、道を作る。

 だから、『暗い渦』までは数秒もかからなかった。

「おっさん。随分と自由気儘に生きてんなあ」

 アマンダが再び口を開いた時、彼女の前にいるのは、女子大生と、その背後の中年男だけだった。

「……あ」

 彼と彼女の口から、殆ど同時に、同じ言葉が洩れた。

 アマンダはその半眼を一層細め、女子大生の肩越しから恐怖に満ちた怯えた視線を向けている小さな目を射るように、見下ろす。

 彼女が抱きしめるように胸に抱えたお洒落なブランド物のハンドバッグの下には、背後から伸びた男の右手。

 男の左手は見えなかったが、膝丈のプリーツスカートが太股まで捲り上がっているところから、多分その中にあるのだろうと思われた。

「いつまでやらせてんだ、ねえちゃん」

 だが、アマンダの言葉は女子大生に向かった。

 痴漢に向けられたのとは違う、怒りの篭った口調に、女子大生は眼鏡の奥の瞳をただ、瞬かせるだけだ。

 苛立ったように、アマンダの声が大きくなる。

「何されてんだって訊いてんだ、お前? 」

 漸くアマンダの言葉の意味が判ったのか、彼女は涙声で痞えながら答えた。

「ち……、か、ん」

「どの手だ? 」

 今度は聴き取り難いほどの小声の問いに、女子大生はまるで催眠術にかかったように、両手で狼藉に及んでいた男の手を掴んだ。

「ち、違っ……! 」

 催眠術にかかったようにフリーズしていた中年男は、自分の『獲物』の予想外の反撃に漸く我に返り、叫びながら手を振り解こうとした。

 刹那。

「離すんじゃねーぞ」

 ボソ、と独り言のようにアマンダは言うと、次の瞬間には女子大生の肩越しに、男の首根っこを掴んでいた。

「は、離せ! 」

 震える声で男が叫んだ瞬間、彼は10cm以上も、一瞬のうちに背が伸びたように周囲の人々の目には見えた。

 その時、静寂に包まれた車内には似合わぬ、妙に間延びしたアナウンスが流れ始めた。

『まもなく横浜、横浜に到着いたします。お忘れ物ございませんよう、お降りのご仕度をお願いいたします。乗り換えのご案内を……』

 アマンダは、首を掴まれ爪先立ちでジタバタと藻掻いている男に、不思議と感情の抜け落ちたような口調で言った。

「おっさん、すまねえが降りてもらうぜ」

 そして次に、女子大生に顔を向け、今度は感情を押し殺したような口調で続けて言った。

「ねえちゃん。アンタもだ」

 言われた通り、男の両手を掴み続けていた彼女は、まるで自分が犯人であるかのように、僅かな怯えを眼鏡の奥の瞳に宿しながら、ガクガクと首を縦に振った。

 数秒後、かくん、と回生式電気指令式併用エアブレーキの軽いショックが伝わり、続いてドアが開いた。

 降りる人も多い筈だが、車中の誰一人、動こうとしなかった。

 ホームで電車を待っていた人々も、車内の異様な雰囲気が伝わるのか、誰も車内に足を踏み入れようとしない。

 そんな中、アマンダだけが動いた。

 いや、彼女が首根っこを掴んでいる男と、その両手を掴んでいる女子大生も、一緒に。

 アマンダはホームに降り立つと、手近の柱に備え付けられた係員呼び出しのベルを、拳骨で叩くように押す。

 途端に鳴り響く非常ベルに、駅員が2名、おっとり刀で駆け付けた。

「な、なんです? どうしました? 」

「痴漢。こいつ」

 アマンダは顎で中年男を指し、

「で、被害者」

 続いて女子大生を顎で指して、襟首を掴んでいた手をぱっと開いた。

「ひ! 」

「あ! 」

 腰が抜けたのか、別に足がとどいていなかった訳ではなかったが、男はそのまま地面に崩れ落ち、彼の手を掴んでいた女子大生も釣られて倒れそうになる。

 アマンダはひょいと手を伸ばし、彼女の腰を掬い上げるようにして地面に立たせた。

「んじゃ」

 駅員が男を両脇から抱えて立ち上がらせるのをチラと見て、アマンダはそう言い捨てると踵を返した。

「あ、ちょっと、あなた! 」

 アマンダは肩越しに振り返り、呼び止めた駅員を無言で見つめ返す。

「あ、あなたも一緒に来て下さい」

「急ぐんだけど」

「すぐに終わらせますから」

 アマンダは、已む無く身体毎駅員の方を振り返り、ぼりぼりと黒髪を無造作に掻きながら、ボソボソと言い訳するように抵抗して見せた。

「いいじゃねえか、適当にやっといてくれよ、そっちでよぉ」

「いや、しかし……。あなたが捕まえてくれたんでしょう? 鉄道警察に渡すとき、調書とかもありますし」

 マッポかよぉクソッタレマジ苦手なんだよアタシよぉ。

 口をついて出る愚痴を聞かせるうちに、言い募る駅員の声はだんだん小さくなっていって、とうとう耐え切れなくなったのか、同僚や被害者の女子大生、果ては痴漢にまで救いを求める視線を送り始めた。

 別に敵意がある訳でもなく、駅員達に申し訳ないという気持ちと、自ら嘴を突っ込んだ事とは言え煩わしい事件に巻き込まれてしまった苛立ちが募り、アマンダは大きく溜息を吐いた。

「悪ぃ。マジ、急いでんだ。連絡先教えっからよ。勘弁してくれよ」

 な? と最後は無声で口だけ開き、片手で拝む真似をして見せる。

「は、はあ……」

 不得要領に口の中で返事する駅員にアマンダは歩み寄り、革コートのポケットから名刺を引っ張り出した。


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