第5話 1-4.


 アマンダは無表情のまま、暫くの間じっと、声を掛けてきた女子大生を見下ろしていた。

 緊張しているのが手に取るようにわかる、きっと痴漢被害に遭って未だにパニック状態から抜け出せないまま、それでもなけなしの理性の声に従って勇気を振り絞り、礼を言わねばと声をかけたのだろうと思われた。

 下手をしたらトラウマになりかねない事件に遭遇してしまった不幸を気の毒にとは思うけれど、アマンダはそれ以上に、さっき車内で覚えた痴漢犯への怒りを乗り越えるような女子大生への腹立ちを、再び思い出してしまった。

 そのせいで、唯でさえ周囲から目つきが悪いと言われている己の瞳が、一層眇めるような半眼になってしまったが、けれど彼女はそんな表情の変化には気が付かなかった様子だった。

「……餓鬼じゃねーんだろ? 」

 漸くアマンダが発した意味のある言葉が、何の脈絡もない言葉だった為に、女子大生は、あう、とか、えと、とか口の中で繰り返していた。

 そんな彼女を気遣う余裕もなく、アマンダは言葉を継いだ。

 被害者だから優しくしてやらなければ、そんな気持ちは消し飛んでいた。

「あのおっさんに触られて、ヨカったか? 」

 重ねた問いに、彼女はぶんぶんと首を横に振って否定した。

「じゃあ、なんで抵抗しなかった? 」

「そっ! ……そ、こ……」

 叫ぶように言って、彼女はおずおずと視線をアマンダから外し、消え入るような声で答えた。

「こ、怖かった……、か、ら」

「大声上げて泣いたっていいじゃねえか? 『助けてくれ』ってひとこと言えばいいじゃねえか? 」

「で、でも、だけど、私、そ、そんな」

 きっと、彼女がそんな反撃ができるような人間だったら、端から痴漢になど遭遇しないだろうとは理性では判っていたけれど、それでも怒りは消えてはくれなかった。

 アマンダは口に咥えた煙草を指で挟み取り、静かに言葉を重ねた。

「餓鬼じゃねえんだろ、お前は」

 アマンダは彼女の語尾に押し被せるように、ハスキーボイスの端に微かな苛立ちを乗せて、言葉を継いだ。

「いいか? 大人ってのは、黙ってのほほんと歳食ゃあ、誰でもなれるってもんじゃねえんだ。頑張らねえと、大人にならなきゃって自分に言い聞かせていなけりゃあ、いつまで経っても餓鬼のままなんだ」

 話しながらアマンダは、いつの間にか彼女に対する腹立ちが収まっているのに気付いていた。

 他者に対しての怒りの感情と入れ替わりに胸を浸し始めたのは、自分自身への腹立ち、そして後悔してもし切れぬ、無知で粋がっているだけだった己の過去への、懺悔。

 だからこその静かな、起伏のない口調だったけれど、それだけに奇妙な説得力を感じたのか、はたまた恐れが引いたのか、女子大生は素直にコクン、と頷いた。

 彼女の見せたその素直さが、一層アマンダの傷痕に、沁みた。

「餓鬼のままじゃ、いずれ辛い目にあう。なにもできねえ餓鬼である自分が、こう、堪らなくイヤになっちまう。後悔なんて、してもし切れねえ」

 突っ張って、肩肘張って、意地になって、脇目も振らずに生きてきた筈だったのに。

「餓鬼のままじゃ、守れねえモノだってあるんだ。大人じゃなきゃあ、守れないモノってなぁ、絶対にあるんだよ」

 ゆっくりと、けれど確実に冷たくなっていく両親の身体。

 一緒に連れて行って、雪野も一緒に行きたいのと、幼い手を精一杯伸ばしながらも引き摺り戻された現実は、死さえ甘美に思える程の辛さだった。

「自分が大人じゃなかったって気付いた時にゃ、もう」

 両親亡き後、暗闇の夜の底を徘徊するような人生で、唯一人、無条件の愛を惜しげもなく注いでくれた祖母の命を、『餓鬼だった』故に守れないと知らされた、あの横っ面を張り倒されるような衝撃。

「辛いぞ、自分が」

 辛かった。

 ただでさえ、ハーフという、異邦人の血が混じっていることが一目で判る容姿、周囲の子供達とは確実に差異がある外見を持つと言う、子供社会では致命傷になり兼ねないハンデを背負った自分に残された『数少ない普通の部分』を、両親の命と共に奪われ剥ぎ取られ、それでもどうにか~とても普通とは言えなかったが~生き続け、その生を無償の、大きな愛で支えてくれた宝物、ミルク・ビスケットを焼いてくれた、優しい祖母。

 あの頃の自分は、表面上はともかく、心の中では常に最大限の感謝と愛を祖母に捧げていた筈だった。

 穏やかな子供時代を、一瞬にして全て奪われた自分を、唯一普通の子供として抱きしめてくれていた祖母が生命の危機に直面していると聞かされ、同時に、このままの自分では、未だ子供のままである自分では、祖母を、宝物を守れないのだと知らされた、痛烈な運命の皮肉、果てしない絶望、『永遠』と言う言葉がこれほどリアリティを持って迫るとは思わなかった『永遠の後悔』、後悔し切れず後悔し足りぬ涙を滂沱と流し続ける、『永遠』とも思えるこの、地獄。

「だから、大人になれ。辛い目に会う前に」

「え、えと……」

 今は判らなくとも、やがて、判る。

「あ」

 アマンダの瞳が、耐えかねて涙を一滴、頬に零したのを見て、女子大生は掠れた声を上げた。

 みっともねえ、喋り過ぎだ、切り上げなきゃ。

 指に挟んだ煙草を唇に咥え、返す手でサッと目尻を拭うと、アマンダは素早く彼女に背を向けた。

「強くなれ、って言ってんじゃねえ」

 涙を見られた照れ隠しも兼ねて、ひとこと、少し大きめの声で言った。

「……だけど、餓鬼だって事自体、罪になる場合だって、あるんだよ」

 ああ、もう駄目だ、これ以上喋ったら、とんでもねえ醜態を晒す羽目になっちまう。

「すまねえな、アタシが言い過ぎた、お前も気持ち悪かっただろうし恥ずかしくて辛かっただろうに、八つ当たりみてぇなこと言っちまったな、悪かった」

 早口で言うだけ言って、アマンダは踵を返した。


 万梨阿には、正直に言って、目の前の美女が何を言いたいのか、判らなかった。

 自分はただ、助けてくれたお礼を言わなければと、普段の引っ込み思案で見知らぬ人間とのコミュニケーションを苦手とする自分の本性を押し退けて、勇気を出しただけなのだ。

 けれど、何故だか彼女は~確か駅員との会話を漏れ聞いたところだと、沢村さん、という名前だった~、沢村さんは、私に対しても怒りを覚えている様子だった。

 仕事中だったのか、そんな忙しい時に手間を取らせたから怒っているのだろうか?

 それならちょっと理不尽だよね、私だって痴漢に遭いたかった訳じゃないのにと内心首を捻りながら、沢村の、途切れ途切れの話を聞いているうちに、思った。

 私は、甘えていたのかもしれない、と。

 私は、私一人が降車駅まで辛抱さえすれば、と。

 気弱で引っ込み思案な自分の性格に甘えて、卑劣な痴漢犯罪者を放置する、それが犯罪者をますます図に乗らせて、被害者を増やしてしまうという構図に思い至らぬ振りをしているだけだったのかもしれない。

 餓鬼のままじゃダメだ、大人になれ。

 その言葉の真意は未だに判らないけれど、大人になるということは、子供だからと甘えて放置していた自分の殻を、ひとつひとつ、内から叩き割って、周囲を見渡せるようになることなのかもしれない。

 そうだ、この後警察との事情聴取とか色々、自分の苦手とする他者とのコミュニケーションを強制される展開が待っているのだろうけれど。

 大人になろう。

 頑張って、警察や駅員の事情聴取にも、精一杯答えよう、卑劣な犯罪者にきちんと罪を認めさせよう。

 ゆっくりと遠ざかっていく沢村の後姿は、平日通勤ラッシュ時間帯かと錯覚しそうな雑踏の中でも頭一つ抜きんでていて、けれどそんな背の高さより何より、悲哀のオーラが彼女から立ち上っているような気がして、だから格好良く目立つのかもしれない。

「なんだか、ミルク・ビスケットみたいな、懐かしい香りがしたな……」

 最初は煙草の香りかと思ったのだけれど、違う、あれは子供の頃に母が時折作ってくれた、素朴なミルク・ビスケットの香りだったわ。

 そして、小さな気付きを得た。

 今日発表したレポート。

 幼馴染の関係は、幼い頃からの関係性がそのまま続いていることで、相手に対して意識がいつまでも子供のままで変わらないから。

 だから大人として接触してくる、ぽっと出のヒロインに、主人公は新鮮味を感じるのじゃないだろうか。

 

 ますます人の多くなり始めた、2月にしては異様に暖かな日曜、長い夜の始まり。

 雑踏の横浜駅構内、ゆっくりと歩き始めたアマンダの端正な顔が、微かに歪んだ。

 他人に説教なんざ、アタシもヤキがまわったモンだ……。

 いや、判ってる。

 こんなの、八つ当たりだ。

 性的な嫌がらせを受けた女性が、恐怖と羞恥を超える怒りを立ち上がらせる事など、滅多にある事ではないし、そうそう出来ることではない。

 短気、怒りっぽい、性根が据わっている、喧嘩慣れしている、腕っ節に自信がある。

 そんなあれこれが関係なくなるくらいに、その恐怖感はおよそ生物の雌が雄に対して抱く原初的な本能だ。

 誰であれ。

 特Aレンジャー徽章、特Aスナイパー徽章を持ち、10年以上異星人との泥沼のような戦争の最前線に立ち続け、柄に合わない戦闘功労章を山ほど貰った~第一種軍装の左胸を飾る略綬は一等陸尉の14年目という経歴には破格の4段に及ぶ~、『戦場の黒豹』の二つ名を持つ自分だって、『嘗ては、そうだった』のだから。

 そこまで考えて、アマンダは思い出したくもない過去の事件に行き当たってしまい、沈んだ気持ちを更に奈落へ落としてしまう。

「クソッ、ファック! 」

 小さく呟き、アマンダは足を速めた。

 こんな気分は、早く家に帰って、上書きしちまうに限る。

 そして、こんな最低な気分を綺麗に上書きできるのは。

 彼と、よく冷えたエビスだけだ。


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