第14話
もし柏田の外見上の魅力を損なっているものがあるとすれば、それは左目に装着された片方だけの眼鏡だろう。
柏田本人の肌は艶があり、きめ細かく手入れされているにもかかわらず、こんな古びた道具を付けていてはその魅力も台無しだ。
どうにもこういった道具には、人を老けて見せる効果があるらしい。
そこまで麻琴が考えた時、事件は起こった。柏田が神﨑に思いっきり抱き着いたのだ。
「ッ!?」
麻琴と神﨑には、共に霊能力を探る者としての相棒意識があった。しかし、それが――色恋沙汰でなかったにしても――三角関係になっていたとは。
麻琴は口をあんぐり空けて、突っ立っているしかなかった。
「あら、そちらの三人は初めまして、かなっ? こんちはっ! 神﨑礼一郎の相談相手にして研究顧問、柏田零子でーす! よろしくね、人間さんと幽霊さん! それに、この見え方は天使さんかなっ? 君もよろしくっ!」
麻琴は面食らった。
「ちょっ、私の後ろの二人が見えてるんですか?」
「そりゃあもう丸見えよっ! この片眼鏡は最新式の霊的存在に対する捕捉機能が備わってるからねっ!」
「は、はあ」
まあ、神﨑の知り合いともなれば、そのくらい簡単に済ませてしまうのも不思議ではないか。
「なあ麻琴、この女、信用できるのか? 現代日本の基準で教えてくれ」
「え、えーっと……」
「あら、そこのイケメン紳士さん! あたしを疑うのっ? ん?」
「俺たちの発する言葉まで捉えられるとは……。参ったな」
ジャックはすっと息を吐きながら、エンジェと目線を交わした。
こんなにも気軽に声をかけられたのはごく久々だったのであろう、ジャックはやや怒気を帯びた声で柏田に尋ねた。
「改めてあんた自身に尋ねよう、柏田零子。あんたは俺たちからして、信用に足る人物か?」
「それはあなたたちの目的によるね。霊体化を使った犯罪の手伝いなんかは絶対に嫌! 女風呂を覗くとかねっ!」
「本気で殺すぞ、お前……」
「おおっとぉ! そんなおっかない顔しないで、紳士さん! あなたがここに来たってことは、礼くんが手引きをした、ってこと。あたしはその礼くんの手伝いをしてる。つまり、あなたが礼くんを信用しているなら、それは同時にあたしを信用してる、ってことだよっ!」
それを聞いた麻琴は、そっとジャックの方に目線を遣った。
ジャックは一旦シルクハットを被り直し、角度を整えた。
「麻琴、神﨑、後の説明はお前らに任せる。って言っても、俺やエンジェにできることなんて何もないんだが」
「まあまあ、そんなにガッカリしないでよ、紳士さん! 話をするだけでも気が晴れることはあるんだって!」
「そんなもんかね」
肩を竦めるジャックに向かい、神﨑はウィンクしてみせた。柏田に任せておけば大丈夫だとでも言いたいのか。
「柏田さんを信じましょう、ジャック。ここで立ち止まっていても、あなたは子孫の下に辿りつくことはできない」
「……」
再び長い溜息をつくジャック。ここで神﨑が会話に割り込んできた。やや殺伐とした雰囲気を壊そうとしたのか、食事の話だ。
「よし、まずは飯を食おう! 零ちゃんの作る炒飯は絶品でね。ああ、ジャックさんもよければ」
「俺たち幽霊に食物を摂取する必要は――」
「ねえねえ柏田さん! ここにチョコレートってある?」
「もっちろん! 標準装備だよっ!」
「やったあ!」
ジャックがエンジェにデコピンを食らわせると同時に、柏田の背後の扉がスライドした。
「さあ、どうぞどうぞ!」
「……行くしかないようだな」
「ですね」
ジャックにそう応じる麻琴。こうして、四人は柏田の研究室兼神﨑の第二セーフハウスへと足を踏み入れた。
※
「じゃ、あたしは炒飯作るから! あなたたちはダイニングで待っててねっ! あ、ラボには入室禁止! お姉さん怒っちゃうゾ!」
語尾に星マークが付きそうな勢いで、柏田はそう言い切った。
小柄な麻琴の前で軽く屈み込み、人差し指を振ってみせる。
「分かりましたよ。ダイニングは――こっちですか?」
「うん、そうだよっ! じゃあ礼くん、あとは任せたっ!」
「了解だ、零ちゃん」
ひらひらと手を振る神﨑。麻琴はそのシャツをむんずと掴み、勢いよく引っ張った。
「おっとっと! 何するんだい、麻琴ちゃん!」
「ダイニングで待つようにと、柏田さんに言われたばっかりでしょ。さっさと行きますよ」
「へいへい」
神﨑を連行する形になった麻琴の肩を、ジャックが叩いた。
「麻琴」
「何ですか、ジャック? あなたまで……」
「訊きづらいことを訊く。お前の過去のことだ」
「えっ?」
急にジャックに尋ねられ、麻琴ははっと振り返った。
「無理にとは言わん。だが、俺もお前たちに自分の過去を明かした。後で柏田にも聞かせるつもりだ。ただ――話した時のことを思い出してな」
「どういうことです?」
「俺は他の人間や幽霊と対話を繰り返してきたが、女房と娘の話をしたのはお前たちが初めてだ」
「百年以上も幽霊でいたのに、ですか?」
深くゆっくりと頷くジャック。
「俺は目的もなしにこの国に来たわけじゃない。子孫を悪霊から守るためだ。だがそれを達成するためには、お前たちの理解が必要だし、さらにそのためには俺の過去を知ってもらう必要がある。しかし――」
「しかし?」
エンジェがその大きな目をパチパチさせながら、静かに尋ね返した。
「俺も一回、死ぬってことを経験したせいでビビリになってしまったようだな。俺を責め立てる群衆の声。断頭台の冷たい感触。何より、目の前で射殺された女房と娘……」
ジャックは腰に手を当て、やれやれとかぶりを振った。
「麻琴、すまないが、俺もお前がまともな人間だということを自分に納得させたい」
「どういう意味です?」
「お前も苦労したという話は、神﨑から聞いている。だが、お前と神﨑が出会うまでのことは、神﨑も知らない。当然俺もだ」
「……」
「それを、聞かせてはくれないか」
しばしの沈黙が、狭い廊下に降り積もった。
「もし嫌なら話さなくても――」
「構いませんよ」
沈黙を破ったのはジャックの声だが、奇妙に明るい応答は麻琴のもの。
「私のことは気にしないでください。私も、柏田さんが味方になってくれるのなら自分の過去を話しておいた方がいいと思っていましたので」
「そうか。神﨑、お前も来るか?」
「同伴させてもらいます」
神﨑はいつものひょうひょうとした感じを消して、真っ直ぐに視線を遣っていた。
麻琴の方へと。
※
麻琴が産まれる以前から、矢野家は荒れに荒れていた。
というのも、傍から見ればそう思われる、というだけで、実際に家庭内でトラブルがあったわけではない。
他者の目に映った矢野家夫妻。それは、オカルト信仰に走った、狂気じみた二人組というものだ。
ただ単純に、見ていて気味の悪い夫婦。
最初からこの夫婦に温かい目線が向けられたり、朗らかな挨拶がなされたりしたことはない。逆に、この夫婦にそんなものは不要だった。
二人にあった特別な能力。それは、幽霊が見えるというものだ。だから話もできるし、相手の言葉を聞くこともできる。
しかし、そんなことをしていては彼らは狂人だ。実害がないからまだいいものの、何かしらに憑りつかれたように振る舞う二人に好んで近づく者はいなかった。
ある日、その二人組の間に子供ができた、という噂が立った。
ある者は一家を丸ごと締め出せと言い出し、またある者はその子供に憐憫の情を抱いた。
いずれにせよ、この血筋は何かしらマズいのではないか。自分たちの身近に放っておくには危険ではないか。
それから四年後。事件は起こり始めた。
夏も終わりに近づいた九月上旬のこと。唐突に、その街での犯罪が同時多発的に発生しだしたのだ。
日頃から矢野夫婦の狂人ぶりを見ていた住民たちは、こう思った。
やはりあの一家のせいではないか。彼らが呪詛でもかけたのではないか。来るべきものが来たのではないか、と。
それから急に、矢野夫妻の目撃証言は増えた。家の中のみならず、街中の様々なところで奇行に出たのだ。しかしそれは、お祓いをしたり、祈りを捧げたりするようなものではない。
純粋に、眼前に誰かがいるかのように喋り出す。そして素早くメモを取る。それだけだ。
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