天理調整。

もやしずむ

プロローグ:神様が砂糖を加えるように



 

あの日


誓い合った約束は、何処へ行ったのだろう。







『わたし、みことくんのことだいすき!

おとなになったらみことくんのおよめさんにな

る!』


『おれも!! いっぱいおかねかせいで、休みの日は旅行にいって、キレイな指輪もあげるから、おとなになったらケッコンして!』


『やくそくねっ! ぜったいだからね!!』


『うん! おじいさんおばあさんになっても一緒にいようね!』








塩辛い出来事は深く脳裏に染み込んで、

日保ちも良く、今日までも腐らずに。







……………………






「う‥‥ンン‥‥」



 カーテンのすき間から漏れるチラチラした光に嫌悪感をつのらせ、まぶたが重い腰を上げる時間がやってきた。



「‥‥夢‥‥‥?」



 繰り返す日々はここから始まり、今日も今日で変わらず目を擦る。

 自分の中で抱いた疑問など、どうでもいいように、ぼやぼやと定まらない視界は聴覚と手を取り合って、漏れる光とはまた別の嫌悪感の正体を突き止めにゆく。




  ヴゥ~~ヴゥ~~

      テンテンテレテン



 

 あれどこだよと手がフラッフラのダンシングを見せてくれたところで、上手いことスマホをキャッチ!

 



  ………………………

 



 スライドにより、煩わしい音色がピタりと止んで、落ち着きが辺りを包み込む。



「ンンゥ~う‥‥ふぅ‥‥」


 

 瞼を見習って体を起こし、両手を組んで、ぐにょーんと伸びをキメるとなんとも言えない心地よさに身が震える。



「なんの夢‥‥だったんだっけ‥‥?」



 意識が落ち着いてきたところで、冴えない寝起きの頭は一生懸命に考えた。が、まったく思い出せない。

 まぁ‥‥夢の内容の何割かは起きてすぐに忘れてしまっているとも言うし、今考えても仕方ないのかもしれない。

 

 

「あんまし良い夢じゃなかったか‥‥?」



 何となく、そんな感じが胸のなかにあった。

 たぶん良い夢ならもっとパッと目が覚めていると思うんだよ。



「起きよ‥‥」



 いつもであればもう二、三度寝するのだが、今日は眠くともスッと目が覚める。まるで何かの導きのままに。

 きっと、見ていただろうよくない夢のせいなんだろう。内容なかみはよくは分からないけれど。





 ◆ ◆ ◆ ◆




「いってきまーす」


 

  ……………………



 返事がなかった。

 そうか、両親とも仕事に行っていた。

 今日は二人とも早いようで、朝食の目玉焼きとソーセージ、トーストを置いて仕事に行ってしまっていたみたい。

 親は共働きでまぁまぁの忙しさなため、1人で火が使えるようになってからは1人の夜もちょくちょくあったものだ。

 そんな事を思い返しながらも、玄関の鍵を掛けて家を出る。

 

 

「うっ‥‥まぁまぁかな‥‥」



 7月初め、初夏の気温は熱を帯び始め、燦々さんさんと降り注ぐ日光の一端がちらつき始めている。

 あぁ、日本の夏は暑すぎるんだ‥‥。きっともう数日でもしたら俺はアイスクリームみたく溶けていく日々を送るでしょう。



「はぁ‥‥なんかダルいかもな‥‥」



 本日は土曜、にも関わらず俺は自転車を手で引いている。まぁ、現役男子高校生の陸上部員なんてこんなもんでしょ。

 そのままスマホを制服の左ズボンのポケットに仕舞い込み、家に背を向ける。



「ぐうっ‥‥暑っ‥‥!」

 


 建物の日陰から日の本へと姿を出した途端、世界の気温が3℃くらい上昇したのを感じた。

 いよいよか‥‥去年の夏は地獄だったから、鬱な気持ちのままに俺は自転車のペダルを踏み出したーーーー。


 

 いつも通りにコンビニの交差点を、額に汗をにじませて信号の青を待つ。


 いつも通りに小さな神社、誰が手入れをしているかも知り得ない。気にも留めず額に汗を垂らしてして通りすぎていく。


 いつも通りに大きな公園の溜め池を横目に、上がり坂を汗をこぼして立ち漕ぎで登っていく。


 いつも通りに近道として細い畑道を‥‥‥‥




  ブー ブー ブー




 いつも通り‥‥じゃない、左腿の震える違和感に右ブレーキを握りしめた。

 開いた画面に写るのは、陸上部のグループチャットの通知だ。



「はあっ!? マジか休みかよ‥‥」



 あと5分もあれば学校というのに‥‥!

 なんでも数人いる顧問のうち、誰も来られないというのだ。意味が分からん、こんなに走らせおって‥‥。



「もぉ‥‥だるッ!! はよ帰ろ!」



 確かに休みはデカいかも知れんが、俺の額は水滴をじわじわとしたたらせている。

 制服の薄い生地が肌にぺたりと張り付く感触。色んな意味で塩辛い現実がそこにはあった。

 そうしてそのまま、また来た道を戻るんだ。



 さっきと同じように公園の溜め池をシャー! っと、自転車が音を立てて額の汗を吹き飛ばすように下っていった。


 さっきと同じように神社の目も留めず通り過ぎていく。また、額の汗が湧き始めてきた感覚と共に。


 さっきと同じ‥‥あっ、

 そういや今朝の夢は一体‥‥。もう滲む汗と張り付く制服のシャツ生地への苛立ち、そしてもわんと鬱陶しい暑さにほとんど内容が思い出せない。

 なんだか‥‥やけに稚拙な声、それに楽しそうな感じだったか‥‥?

 いや、でも寝起きはそんな幸せな感じじゃなかったよなぁ‥‥。

 そのとき、暑さのせいで頭が冴えたのか‥‥


 

「‥‥‥はっ‥‥!」



 頭に何か刺さったかのように思い出す。ペダルを漕ぐ脚は動きを止め、右手の柔らかく握ったブレーキからはシュルシュルと音がする。


 そっか‥‥あの子の夢だったのかな。

 もう何年も何年も前のいつかの話、けれども今日までも腐ることはなく、ずっと俺の頭のどこかに居続けて離れない。



「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。」



 でも、またペダルを漕ぎ出して俺は進んだ。

 こんなところで止まっていても仕方がないから。

 きっと、この先も忘れることはないだろう。

 すぅと引いた額の汗も、また勢いを取り戻して流れ始める。

 


「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。」



 どうでもいい事を考える。

 今日の昼飯のこととか、残った課題のこととか、夏休みのこととか。

 こうやって、思い出す度にそうしてきた。

 いや、そんなんだから、いつまでも忘れられない。

 


「はぁ~あ‥‥」



 なんだかぼーっとしてくる。

 どうでもよくなってくる。

 後ろでわさわさと生い茂る神社の木々、なんでか若干へこんだ歩道のガードレール、遠くで点滅する信号、白い布を被ってぶっ倒れた人みたいに転がる物体‥‥











 お?







 


 横目に見えたそれに、全意識が持っていかれる。自転車を雑に停めて、倒れても気付かないくらいに急いで駆け寄った。

 遠目でも分かった、もうそれ以外見えない。



「ちょっと!? 大丈夫ですか!」


「‥‥‥‥‥‥」


「大丈夫ですか!!」


「‥‥‥‥‥‥‥」



 呼び掛けても、なんの返事もない。



「聞こえますかっ!? 聞こえますか!! 」


「‥‥‥‥‥‥」


 

 周りには誰もいない、それはそう、ここは誰が手入れしているかも分からない小さな神社のすぐ近くだから。

 それは誰にも頼れないということを表した。


 

「なんでっ‥‥! なんでだよ!!」


「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」



 おかしいだろ、急に人がその辺に倒れてるとか。しかも、この人は驚く程真っ白い布を体に纏っている。体にも傷ひとつなく、纏った布にも汚れひとつない。

 さらっと伸びた髪、体は俺より少し小さいくらい、この人は女性と推測できる。



「ねぇ! 起きてください!!」

 

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」



 加えて肩を揺すりもした。けれど、横たわる彼女の体はぐったりと力が抜け、とても生とは程遠い。

 そのためだろう、必死の俺の呼び掛けも耳には届いていない。



「起きてください!! 起きてください‥‥!」


「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」



 人間は本当に焦ったとき、最善は尽くせないものだ。今思えば、なぜ通報するという考えが浮かばなかったのだろう。それ程に衝撃の強い出来事だった。



「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥っ!」



 なす術なく、俺も黙り込んでしまった。

 力なく、俺は彼女の手のひらへと手を伸ばす。小さく、柔らかいその手はまだ暖かった。

 彼女の手を握りしめ、祈る思いで問いかけた。



「‥‥‥‥‥起きて‥‥‥!」



 ぎゅうと目を瞑って祈った。

 そして奇跡は起こる。神は見ていたのか、それとも俺の声が耳に障ったのか。

 本当に少し、ぴくっと彼女の体が動く。



「‥‥‥はっ!」



 俺は顔を上げた。

 まるで古びた人形が動くように、彼女の体がゆっくりと動き始める。

 ゆっくりと力が抜ける感覚と共に俺は天を仰いだ。



「あぁ‥‥良かった、良かった‥‥!」


 

 が、予想外の事が起こる。

 膝をついた状態で声をかけていた俺の腰から太もも周りにかけて、しゅるしゅると左右から巻き付くような感覚。



「あぇ!?」



 思いがけない感覚に、不審感を覚えて俺は顔を下に向ける。



「うえっ!? うええぇ!?」



 ふわっと漂う甘い香り。

 さらさらと流れる艶やかな髪。

 ふにふにと柔らかく伝わる腕の感覚。


 細く開いた眼がこちらを一瞬だけちらりと見つめ、すぐに下へといってしまった。



「はっ、ちょぉっ‥‥! うええぇぇ~!?」



 顔の表面が日差しとは比べものにならない程に熱を帯び始める。

 全身の脈打つ感覚は苦しいほどだ。このままでは俺も倒れる。








 あぁ、きっと、塩辛い日々に、神様は砂糖を加えてくれたんだろう。

 漂う甘い香りも、高鳴るこの脈も、きっと砂糖のせいだろう。


 

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