3部
およそ四半世紀ぶりに会った美穂は、静かな水面のような美を湛えていた。彼女にとって、加齢は必ずしも魅力を減ずるものではなかったと言えた。
同窓会の会場は居酒屋の座敷席だった。およそ二〇人くらいがコの字型に配された座席に着いた。洋は同窓会開始から数分で美穂の隣に移った。
「久しぶり」
美穂が先に言った。笑顔だった。洋の緊張が解けた。
「久しぶり。元気そうで安心したよ」
「洋くんも」
お互いに近況を話した。美穂は子供が二人おり、主婦業に加え、郵便局でバイトをしていた。
「勝ち組の人生を送ってるね」
「そう? それを言ったら、洋くんもそうじゃないの?」
「そうは思わない」
「結婚してないから?」
「……そうではないけど。若い頃の夢を諦めたから」
「若い頃の夢って何?」
「DJになること」
「DJって。クラブの? そんな夢があったなんて、初めて知ったよ」
「一時期、練習してたんだけど、才能ないから止めた。まあ、妥協を重ねることなんだよな。年を取るってことは」
「ほかには? 妥協を重ねるだけ?」
「受け入れること」
「分かる。それは諦めることとも言えるよね」
「そして、忘れること」
「忘れること、ね。でも、忘れられないこともある」
「確かに……」
「洋くん、わたしに言うことないの?」
美穂は急に真顔になった。洋は不意を突かれた。
「……ある」
次の瞬間、美穂は徐に立ち上がると、全員に向かって声を上げた。
「ハイ、皆さん注目! 杉村洋くんがわたしに言うことがあるそうです。さぁ、どうぞ!」
「お、いいぞ、愛の告白でも何でも言ってやれ」
ヤジがあった。予想外の展開に、心臓の鼓動が早まった。
「バカか! 皆んなの前で言えるわけないだろ」
洋は膝立ちになると、冷然と自分を見下ろす美穂に向かって、声を潜めて言ったが、彼女は突き放した。
「なんで? 自分がわたしにしたことを皆んなの前で言いなよ。何の代償もなしに罪を償えるとでも思ってるの? そんな虫がいいことないよ」
洋は初めて美穂が今なお自分の行為を憎んでいることを知った。同級生の面々が洋に注目していた。
(嘘だろ。こんな展開になるなんて)
ピピピ、ピピピ――。目覚まし音で目が覚めた。
その日の夜の同窓会には結局、美穂は来なかった。洋は落胆したが、安堵もした。伸也から美穂の住所・連絡先を教えてもらった。美穂は川崎市に住んでいた。彼女の住所は、洋の家から一〇キロも離れていないと思われた。
*
秋になり、もう半袖では寒くなった頃、美沙子との関係はまだ続いていた。出会ってからすでに三か月以上経っていたが、彼女とより深い関係になる可能性が見えており、洋はその方向を追求していた。
そうした状況下で、美穂のことは過去として割り切ろうとした。一度は検討していた美沙子への告白も、今となっては論外だと思っていた。美沙子がそうした過去を受け入れるかどうか分からないし、わざわざそんなリスクを犯す意味などない、ある種の自己満足にすぎない、と。伸也に話したことで一応の区切りがついたのであり、それ以上のことはする必要はない、と考えた。
ところが、予想だにしなかったが、美穂から連絡が来たのだった。最初はメールで、すぐにLINEでやりとりするようになった。美穂は伸也から洋の連絡先を教えてもらったということだった。
美穂は結婚していて、夫と二人暮らし。住所の最寄り駅は、田園都市線の鷺沼駅ということだった。美穂の反応は良く、自分と会いたがっていることが伝わってきた。洋はそれに乗った。
お互いにとって都合の良い街である町田で会うことになった。
秋晴れに恵まれた金曜日の夜だった。JR町田駅の改札前で声を掛けてきた女性に洋は魅せられた。センタースリットのロングスカートに、Gジャンという出で立ちは、カジュアルかつセクシーだった。そのコーディネートもさることながら、肌のハリや透明度も四〇後半の女性とは信じられなかった。
「久しぶりだね」
そう言って、笑顔を見せる美穂には何の屈託も感じられなかった。
「だね。ぼくはすっかりおじさんになったけど、美穂さんはキレイなままだね」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
「お世辞だなんて。ぼくがお世辞言わないことは知ってるでしょ」
洋はそう言って笑った。
洋が予約した店は、魚料理が売りの居酒屋だった。若い女性の店員にカウンターに案内された。テーブル席よりも相手との距離が近かったので、洋は嬉しかった。カウンターにはほかに若いカップルが一組いた。
まずは生ビールで乾杯した。やはり美沙子と飲むときとは違った。すでにバイブスがみなぎっていた。それは美穂に魅力があることが大きかったが、それだけではなかった。切れていた相手と再び繋がれたことが、このサシ飲みをよりいっそう祝賀的なものにしていた。
まずは、洋が同窓会の話をした。何人集まったか、誰それが今何をしているかといったことを話した。美穂は興味深げに聞いていた。脱サラしてラーメン屋を開業した同級生の話をすると、「洋くんは、投資で生計立ててるなんてすごいね」と洋に水を向けた。
「まあ、まだ仕事辞めて一年も立っていないし、なおかつ含み損を抱えているけどね」
「わたしも株は最近始めたけど、マイナスだわ」
「まあ、利益出すのは簡単ではないよね」
「そう思う? なのによく仕事辞めて、投資一本で行こうと決心したね」
「去年、仮想通貨で相当儲けたんだ。儲けたカネを全部投資に回した。仮想通貨はまだまだ一般には普及していないけど、日々進化してて、今は九〇年代のインターネットのようなものと言われてるんだ」
「へぇ~、そうなんだ。わたしもちょっと買ってみようかな」
洋は国内のおすすめの取引所を教えた。おすすめのコインは、国内の取引所では買えないので、メジャーな通貨であるビットコインとイーサリアムを勧めた。
「でも、一日中ずっとモニターの前にいるんでしょ。それって、辛くない?」
「実は、週二でファミレスでバイトしてる」
美穂は「ファミレスでバイト」と復唱し、声を上げて笑った。
「学生のバイトみたい」
「そうだね。まさしく学生のバイトだよ。学生時代にやり残したことを今になってやっているんだ」
「え~、そうなの。なんか楽しそうだね。楽しい?」
「楽しくはないけど、どうだろう。まあ、必要なことかな、と思う」
「うん、分かるかも。わたしも子供いないじゃない。だから、時間はあるのよね。去年犬を飼ってね。今は犬の散歩がいい日課になってる」
「犬か。ペットは癒されるよね。賃貸じゃなかったら、ぼくも猫を飼いたいんだけどね」
ペットの話をしているときに、料理が届いた。刺身盛り合わせ、たこわさ、厚焼き玉子である。
「美味しそう」と美穂。刺し身は鮮度が良さそうで、美味しいのは食す前から分かった。美味しさは、それを共有することでさらなる快をもたらす、と洋は考えた。共有、それが人生の快楽の秘訣と言えるかもしれない。カネにしても一人で貯め込んだところで幸せになるわけではない。結局、人は有限な存在であり、年齢とともにそのことをますます強く意識するようになる。そのとき、美食、贅沢といったものはますます色あせていく。
ひとしきり料理を食すと、美穂は問わず語りに身の上話を始めた。短大卒業後は、アパレルメーカーでパタンナーの仕事をしていたこと、三〇で結婚し、仕事を辞めたこと、子供が欲しかったができなかったこと、夫婦関係は良好であること。
夫は大手小売業者のECサイトの運営責任者だという。経済面において、その意味するところは、彼女が裕福な暮らしを送っているということである。その美貌もまたカネの賜なのだろうか。ともあれ、満ち足りた暮らしをしていそうな彼女がなぜに自分とコンタクトを取ったのかが不思議だった。
洋ははたと過去の出来事を思い出した。自分が美穂に謝りたいと思っているように、彼女もまた何か言いたいことがあるのではないだろうか? そう考えれば、合点がいく。
注文した料理が終わると、追加でこの店の売りの料理である魚串盛り合わせを二人前注文した。また、洋はハイボールを注文した。
「なんか、満ち足りた生活を送ってそうだね」
「まあ、ある面ではそうだね。だけど、何かを得るということは何かを失うことでもあるから。失ったものはある。でも、自分の選択は間違ってなかったとは思うけど」
「う~ん、具体的にはどういうことかな」
洋は抽象的な話に苦笑を浮かべた。美穂は追加でハイボールを注文すると、脚を組み直した。そのとき、白い太ももが露わになって、洋は色めき立った。
「パタンナーの仕事は、好きだったんだけど、ほんとに給料が安かったのよ。で、二八のときにキャバクラでバイトしたことがあって、そこで愛人関係になった人がいたのよね。これは夫には言ってないんだけど。それから一年以内に夫に出会って、そのパパと別れて、貧乏な生活ともおさらばできたんだ。だけど、パタンナーの仕事を続けたり、転職したりして、キャリア面を開発していれば、違った人生になっただろうなって、思う」
「ああ、確か言ってたもんね。将来はデザイナーになりたいって」
「デザイナーにはなれなかったけど、アパレル関係の仕事に就けて嬉しかった。でも、稼げないのはね。それにわたしの仕事が未来に残るわけではないし。貧乏してまで続けようとは思えなかったな」
「なるほどね」
洋は本音を言えば、今の主婦という地位に失望していた。美穂は決して主婦にはならない、経済的に男に依存するのを是としない、と勝手に考えていた。とはいえ、男性と女性とでは、仕事に関する状況が劇的に違うことは認識していた。基本的に女性は低賃金で、サブ的職務しか用意されていないことが多い。そうした状況を考慮すると、その選択を批判できないと思った。特に若い頃、貧乏がリアルな問題だった頃は。
自分も何かを生み出しているわけではない、と洋は考えた。今は、投資には熱心だが、それは投資の成否が自分の裁量如何であるためである。そうである以上、熱心にならざるを得ない。それは社長が事業に熱心なのと同じである。ただし、事業とは異なり、投資が何かを直接生み出しているわけでなく、そこに誇れるものはない。
「じゃあ、今は毎日何して過ごしてるの?」
「平日は、服飾雑貨のリメイク店で週二でバイトしてる。後はヨガとか、夫が休みの日は二人で出かけてる。東京圏にいれば、遊ぶ場所には事欠かないでしょ」
「リメイク店か。じゃあ、ちゃんと才能を活かしてるんだ」
「そうだね。それ以外にも、夫にとって都合のいい職場なんだ。つまり、女性だけの職場というところが」
「ああ、なるほど。美人妻を持つ夫にとっては男がいる職場は気が気でないよね」
美穂はフフと笑った。
「じゃあ、ぼくとこうして会ってるのはまずくない?」
「いいのよ。今日、彼は留守にしてるし」
その発言は服装に負けず劣らず大きなサインだと思った。セクシーな服装といい、遅くなっても問題ない日であることといい、最後まで行くことを想定しているのではないだろうか。
(今日は一夜のアバンチュールか)
洋は高揚感を感じたが、文のときのように、そのままホテルに行くようなことはないと分かっていた。それは二〇数年前の出来事が蟠っているからである。美穂はそのことをおくびにも出さないがまさか忘れたはずはない。洋は今こそ、「部屋の中の象」に触れるタイミングだと思った。
洋はトイレから戻ると、「今日は君に謝らろうと思って来たんだ」と切り出した。
「覚えているよね? 一九のクリスマスイブの夜のこと」
美穂のドリンクを運ぶ手が止まった。
「覚えてるよ。忘れるわけないじゃん。でも、今はひとまずそのことは忘れよう」と一口飲んでから言った。
「今は?」
洋は彼女の真意が分からなかった。
「うん……。そういう話は今はしたくない」
今日初めて、美穂はぶっきらぼうな言い方をした。
「分かった。けど、とにかく、謝らせてほしい。ごめんなさい」
洋はそう言うと軽く頭を下げた。
「はい。その話はこれでおしまい」
美穂はそう言うと、脚を組み替えた。またしても普段見えない素肌が見えて、洋の劣情を煽った。
「これからどうする? よかったら、わたしの家で飲み直さない?」
美穂はそう言うと、洋の腕に触れた。洋はまともに相手を見た。女は目をそらさなかった。それは、途方もない承認だった。打ち上げ花火のような歓喜に洋は貫かれた。
美穂の家の最寄り駅には町田から二〇分くらいで着いた。そこからはタクシーに乗った。
一〇分もしないうちに美穂の家――低層マンション――に着いた。間取りは3LDKということだった。キッチンとリビングが一続きになっていた。洋はキッチンのテーブルに座った。部屋の壁には彼女が夫と思しき男性と抱き合っている写真が飾ってあった。どこか外国で撮った写真のようだった。「新婚旅行でスペイン行ったとき撮ったの」と美穂は対面に座ると言った。いろいろと嫉妬していた洋は「ほぉ~」と声を上げた。二人は缶ビールで乾杯した。
「今日はまさか君の家に来るとは思わなかったよ」
「そう?」
「うん」
「……ねぇ、ソファ行かない?」
二人はリビングのソファで横並びに座った。
「アレクサ、音楽かけて、……部屋暗くして」
美穂がそう言うとテレビの側にある球形のスピーカーの底が光って、音楽がかかった。また、部屋の照明が暗くなった。
「これはネットラジオなの。よく聴いてる」
R&Bが流れていた。四半世紀ぶりの美穂との性交が目の前にあった。洋はこの展開を喜んでいたが、アソコが勃起するかどうか不安だった。
(もしダメでも。クンニで悦んでもらおう)
洋はずっと触れたかった美穂の太ももに触れた。それから、抱き寄せ、キスしようとしたが、美穂はかわして、洋の耳元で囁いた。
「寝室行こうか?」
寝室にはダブルベッドが鎮座していた。ベッドの足元に窓があり、窓台に電球色のナイトスタンドが灯っていた。その明かりは、ベッドを淫靡に照らしていた。寝室には生々しさが漂っていた。夫婦の夜ごとの性交の息遣いさえも感じられるような。いわば、夫婦の愛の工場だった。今その場に足を踏み入れた洋は、間男としての自分を意識せずにはいられなかった。美穂と性交することに、窃盗に似た後ろめたさを感じた。しかし、今自分は彼女の招きに応じてこの場にいるのであり、相互の了解があることが夫への後ろめたさをいくらか緩和していた。
洋は服を脱いでパンツ一枚になり、タオルケットの下に潜り込んだ。美穂は「ちょっと着替えてくるね」と言って部屋から出ていった。洋が妄想たくましくして待っていると、ミニスカ婦警の格好をした美穂が戻ってきた。
「おお、似合うね」
「ありがとう。逮捕しちゃうぞ」
そう言うと、手錠を見せた。
「手錠まで、本格的だね」
美穂はベッドに潜り込むと、距離をおいて、洋に向き合った。女は無表情で、何か自分を試しているようだった。洋は手を伸ばしてシャツのボタンを外そうとしたが、彼女はそれを拒んで、ベッドの上に立った。下から見る美穂も格別だった。何よりもその肉付きのよい脚が素晴らしかった。美穂の冷たい視線を浴びながら、薄明かりに照らされた白い御御足、その奥の黒っぽいパンティを洋は凝視した。
「そうだ。マッサージしてあげるよ。うつ伏せになって」
洋が言われるままにすると、美穂が脚の上に跨いで座った。洋は膝裏に当たる彼女の尻の感触を堪能した。
「なかなか凝ってるね~」
美穂は腰をマッサージしながら言った。
「手はここね~」
そう言うと、洋の両手を腰付近に持ってきた。それからカシャ、カシャと音がした。
「逮捕しちゃった」と美穂。
洋は両手を後ろ手に拘束された。
「SMプレイか――」と洋は半笑いで言いかけたが、美穂は洋の言葉を無視して、「準備できたよ~」と大声を出した。洋は弾けたように立ち上がったが、バランスを崩して、ベッドから落ち、床に顔からぶつかった。次の瞬間、部屋の照明が点いて、二人の男が入ってきた。
「お疲れ~、グッジョブ!」
洋は直ちに両足を閉じた状態で縄で縛られた。次に片手の手錠を外されると、自由になった手に追加の手錠をかけられ、両手の手錠をそれぞれベッドのスチール製のヘッドボードにつながれた。さらに仰向けの状態で、むこうずねに男が跨がり、押さえつけられ、身動きできなかった。
「何やってるんだよ。俺に何をしようっていうんだ」
洋は美穂に向かって声を荒らげた。
「お仕置きだよ」
「お仕置だと……。昔のことを根に持ってるのか? それで俺を罠にかけたのか?」
「根に持っているというか、スカッとするかなって思って、それに、また似たようなことしたよね。ネットカフェで」
美穂が前にアツコにしたことを言っていると分かるまで少し時間がかかった。
「……配信見てるのか?」
「見てるよ。誰でも見れるでしょ」
「そうか。それは予想もしなかったよ」
「でしょうね」
金髪の若い男が何やらいかつい器具を持って、洋に近づいてきた。
「とびきりイカすタトゥーを彫ってあげるからね。大人しくしてるんだよ」と美穂。
「タトゥーだと! そんなことしてタダで済むと思ってるのか!」
洋は目隠しをされた。もはやまな板の上の鯉状態だった。ウィーンというモーター音とともに、肩のあたりがチクチクした。
途中で尿意を催した。洋がその旨を告げると、美穂がしぶしぶ応じるのが分かった(「わたし?」「他に誰がいる?」「しょうがないな~」というやりとりが聞こえた)。
「じゃあ、チンコ出すね」
美穂がそう言うと、洋はボクサーパンツを下げられ、局部を露出された。
「包茎チンポかよ。臭そうだな」と美穂の夫の声。
「横向きになって」
洋は言われるままにすると、陰茎をペットボトルらしきものに入れられた。感触から手にビニール手袋をしているようだった。「準備できたから出していいよ」と美穂。静かな部屋の中に響くジョボジョボという排泄音が何とも屈辱的だった。
二〇分または三〇分だろうか、洋が解放されるまでそこまで長い時間はかからなかった。まだ目隠しと手錠はかけられたままだったが。
「お疲れ様。いいタトゥーが彫れたよ。家でじっくり見てみな」
「……ほんとに残念だったよ。今夜は」
洋は絞り出すように言った。
「そう? わたしは楽しい夜だったよ。またね〜」
洋は美穂の夫に車に乗せられた。彫師の若い男が洋と同じ後部座席に同乗した。短いドライブの後、手錠とアイマスクを外され、降ろされた。そこは洋の家の最寄り駅の前だった。
*
翌朝、目覚めたとき、午前一〇時を過ぎていた。小便した後、鏡に向かって寝巻きにしているTシャツの襟元を恐る恐る引っ張ると、そこにはやはり忌々しい文字が見えた。それは「レイプ魔」という何ともひねりのない、明朝体の黒色の文字だった。服を着ていれば見えるものではなかったが、それは慰めにはならなかった。これにより、女性と親密な関係を築くことは非常にハードルが高くなった。洋は今週の土曜日に美沙子と会う約束をしており、セックスする予定だったが、それは今や難題になった。
洋はひとまずこの問題を脇に置き、投資で稼ぐべくチャートやさまざまな情報に目を通し、適宜ポジションを取っていたが、水曜日の夜、ありえないことが起こった。洋が最も投資している仮想通貨が暴落したのだった。それは時価総額ランキング第五位につけたこともある人気の通貨、Jack Jill《ジャックジル 》(JJ)だった。その特長は、米ドルの価格と連動したステーブルコイン、Jillであり、JackはJillの価格を安定させる役割を持っていた。ところが、Jillのドル連動が外れたのだった。それにより、Jackは暴落したが、洋はJackをステーキングしており、売ることができなかった。刻一刻と値下がりするJackをただ見ているだけという拷問のような時間が続いた。Jackの価格は、凄まじい勢いで下がり続け(その暴落は「死のスパイラル」と呼ばれた)、またたく間に資産が飛んだ。損失は、百三十万円になろうかという額だった。
それ以降、洋はショックのあまり生命の維持に必要な最低限のことをする以外は寝ていたが、金曜日のバイトでようやく外に出た。バイトでは無心で仕事をした。帰りに高橋くんと一緒になり、誘われ、飲むことになった。
駅前のチェーン店の居酒屋に入った。生ビールで乾杯すると、大学生は「本業の方はどうですか?」と訊いてきた。洋は「ぼちぼち」と答えた。
「でも、投資で生活してるってすごいですね」
「まあ、楽したいだけだよ」
「俺も投資で生活したいですよ」
「やめとけ。ろくなことないぞ」
洋は思わず大きな声を出した。
「冗談ですよ」
高橋くんは驚いた顔をした。
「今は大学三年生だっけ? まもなく就活だね」
「そうっすね。まだ何にもやってないですけど」
「業界は絞ってるの?」
「いえ、まだ何も。正直今の時代、会社員というのもどうかな~って思ってて」
洋は大卒のタイミングで就職できず、これまで、正規雇用というものを経験したことがなかった。自分の悲惨な職歴を踏まえると、就活をなおざりにするのはお勧めできなかった。洋は自分の経験から、大卒のタイミングで就職したほうがよいことを話したが、彼はすでにそうした話は分かっているようで、口を曲げた。確かに会社員として働くことは、洋自身も好きではなかったし、今でもそうだった。だからこそ投資を生業としたのだったが、膨大な額の損失を出した以上は、もうこの稼業から足を洗うことも検討しなければならないと考えていた。
洋はひとしきり大卒のタイミングで正社員にならないことのリスクや損失について話したが、大学生は「夢のない話っすね」と言ったきり、メニューを見て、食べ物を頼んだ。
「そう言えば、飲むの初めてですね」
「そうだね」
バイトの仲間と飲むのは、洋には喜ぶべきことだった。もともとバイトを始めた動機は、人との交流だったから。それでも、最近のいろいろな出来事のために、なかなか笑顔が作れなかった。
「もしかしたら、これが最初で最後になるかもしれないです」
高橋くんはセンターパートのミディアムヘアをかきあげて言った。
「なぜ?」
「俺、バイト辞めるかもしれなくて」
「そうなの。理由は?」
「俺、坂本さんのことが好きなんですけど、彼女に告白しようと思ってるんです」
洋は異文化に足を踏み入れた気がした。告白とかいう若者の文化に。付き合ってもいない人に告白というのは完全に転倒しているとしか思えなかった。とはいえ、自分もそうした文化に染まっていた時期はあったのであり、それはお互いに受け入れている限りにおいて、有効であることは理解していた。
「そっか。でも、バイト辞める理由になるかな」
「断られたら辞めます」
「……マジか。まあ、もう決めたことなんだろうから、ぼくは何も言わないよ」
「もしうまく行ったら、また飲みましょう」
そう言う若い男の目は、輝いており、洋はそこに若さを見た。
*
土曜日の夜、雨の渋谷で美沙子と焼き鳥屋、バーとはしごして、洋が自宅に戻ったのは夜の二三時半頃だった。
洋は顔を洗うと、久しぶりに配信を始めた(タイトルは「Jack暴落で爆損」)。先週の木曜以来だった。洋はリスナーが来た時点で、タイトルの話をした。それは意気阻喪させる出来事だったが、それから三日が過ぎた今だいぶ回復していた。それよりも、女絡みの出来事のほうが、後を引いていた。
次に先週の金曜日に、美穂と飲んだことを話した。開始から五分で延べアクセス人数は五人(リアルタイムの視聴者ではない)で、コメントはまだなかった。
〈また不倫か。よくやるな~〉
洋が美穂の家に行ったことを話した時点で、レッドがコメントした。
「結果的には不倫はしなかった」
洋は美穂にハメられて、タトゥーを入れられたことを話し、実際に入っているタトゥーをカメラの前に晒した。
〈それ、傷害だろ。警察行けよ〉
「そう、ぼくもそれは思った。だけど、これはシールで、一〇日くらいで消えるんだって。何日かしたら、薄くなったからそうかなと思ったけど」
〈なるほど~。それはよく考えたねぇ。だけど、なぜにそこまでやるのかな〉
洋は美穂との過去を話した。
〈じゃあ、スピーノさんが悪いんじゃないか。シールで勘弁してくれて感謝しないと〉
「そうだな。うん、感謝しているよ。まあ、この一件がなければ、ミサと別れることはなかったかもしれないけど、正確にはまだ別れてないけど。今はこれで良かったと思ってる」
〈ミサと別れた!? なんで?〉
レッドではなく、別の人だった。洋は美穂だと直感した。
「今日、彼女と会って、シールを見せて、過去の一件について話したら、交際を考えさせてほしい、とLINEが電車の中で来た」
〈どうして見せたのよ。消えるって分かってるのに〉
「確かに見せないでおくことはできた。だけど、過去の一件は確かに起こったことなんだ」
〈だから何よ? それを言う必要はある?〉
美穂が昂奮しているのが、テキストから分かった。
(言う必要、か。あるわけない。俺はリトマス試験紙として使ったのだろうか? ……違うな)
「逆に訊くけど、言わないでおく理由はある?」
〈はっ? 何を分かりきったことを。信じられない。彼女と別れても、わたしのせいにしないでね〉
「しないよ」
〈自分の年考えてる? 一体今の自分に何があるっていうのよ。いい年して、独身で、お金も失ったそうだし。これから老いる一方なのに。何かやらかさないか、心配だわ〉
「君はなにか勘違いしてないか。守るものがあったら、生配信なんてやってないよ。生配信している時点で、何もないってことなんだ。だから、好き勝手に振る舞えるし、俺はこの自由を愛してるんだ」
〈でも、それでいいの? あなただって、女性と暮らしたいんでしょ〉
「そうだな。だけど、そのために嘘ではないけど、……人生の重要な出来事を言わないというのは違うだろ」
洋は思わず熱くなった。ふと、美穂が愛人がいたことを旦那に黙っていると言ったことを思い出した。洋はそのことを間接的に批判したのだった。しかし、それは批判に値することでもない、とも思った。なぜなら、言わないことは、旦那を傷つけない配慮からだから。それは、自分にも同じことが言える。言わなければ、美沙子にショックを与えることはなかった。だが、長期的にはどうだろうか。長期的な関係を目指すのであれば、すべてを晒したい。
「これはぼくの意見です。別に自分が正しいとは思ってないから。……そうだな。どちらかというと、快・不快の問題かな。まあ、ぼくはそういうのが心地よくないと思っているから。相手への配慮という点では、隠し通すのが正解かもしれないよね。ぼくも一時期は言わないでおこうと思ってたんだけど、それは無理だった」
その後、コメントがなくなった。そうなると、いつもはYouTubeの動画を流していたが、今日はもう終わりにした。心がざわついてこれ以上は無理だった。
時間は〇時になろうとしていた。洋が寝る支度をしてベッドに入り、スマートフォンを見ているとき、美穂からLINEがあった。(了)
loveless spin @spin
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