2部

 六月に洋はおよそ四年ぶりに女性と同衾した。相手の鈴木美沙子すずきみさことは、Tinderで出会ったのだった。自分よりも四歳年下の美沙子は、決して美人とは言えないが、惹かれるところはあった。それは例えば、笑顔とか、とにかく自分とデートしてくれることとか。

 美沙子との間には、四年前に出会って、その日のうちに同衾した浅倉文あさくらあやとの恋愛で体験した最大瞬間風速はまったくなかった。文との恋愛で、洋は天国と地獄の両面を体験した。洋は、非常な魅力を備えた文に夢中になり、その最中にある種の「事故」によって振られたのだが、その苦痛たるや最大の苦痛である友人や肉親の死に匹敵するものがあると思っていた。もうリアルで会うことが未来永劫叶わなくなる死別よりもマシと言うこともできたが、そこには死別にはない要素があった。それは相手が自発的に離れたことである。そのために、悲しみだけでなく、恥辱をも感じた。

 美沙子は文に比べればそれと分かる魅力は乏しかった。しかし、だからこそ付き合える気がしていた。文に対してはとにかく嫌われるのが怖くて、どこか無理していた(結局、女性の美しさは、暗黙裡に男性にプレッシャーをかけるものではないだろうか)。他方、美沙子には精神的な余裕を持てた。それは、虚栄心を満たすことができないことの代償だった。性欲を除けば、虚栄心こそが、男を美しい女性との交際に駆り立てるものである。そうした認識を経て、洋は虚栄心を捨てることこそが女性と関係を持って、それを維持できる唯一の道ではないかと考えるようになっていた。それは年齢の問題も大いに関係していた。四〇オーバーの女性に、二〇代の女性と同じものを求めることはできない。四〇ともなれば、もうとっくに美しさのピークを過ぎている。洋はずっと女性に美しさを求めていたが、それはセックスで昂奮したいためでもあった(セックスでの昂奮は、虚栄心の源泉である)。ところが、もう若い頃のようにセックスできなくなっている。昔ほど性の喜びを感じられない年齢だとしたら、セックス以外に女性に求めるものの比重が高くなるのは当然ではないだろうか。

 洋は日曜の夜、チェーン店の中華料理屋で美沙子にLINEを送った。〈今日は、近所の日高屋に来てる〉というたわいもないメッセージだった。そこにはしかし、どこか心躍るものがあった。そうしたメッセージを送ること自体に、恋愛関係を感じられるからだろう。そうしたメッセージを送れる相手は、恋愛関係にある相手以外にいない。それは、キスやセックスと軌を一にする行動である。


 洋が自宅でNetflixのドラマを見ているときに、LINEの着信があった。それは、正月以来の伸也からのメッセージだった。

〈おひさ。今年の夏、同窓会やるからよー。来いよ〉

〈あーそうそう。美穂ちゃんだけど、連絡先わかったぞ。よかったな〉

 次に会場と日時を記したメッセージが続いた。お盆シーズンに地元の会場での開催だった。

〈久しぶり。連絡ありがとう。それで、彼女は同窓会来るの?〉

〈まだわからん〉

 伸也からすぐに返信があった。最後に会ってから三年以上が経ったのに、同窓会開催の段取りをつけて、美穂のことも覚えていてくれたことに感謝の念を覚えた。彼女と和解できれば、今の相手である美沙子との関係にも影響があるのではないか、と洋は考えていた。例えば、今、彼女に美穂のことを話すことはできない。本当は話したほうが良いのだろうが。親密な男女間に秘密は要らないから。ところが、もし和解できれば、話すこともあり得る。そうして、美沙子に自分の汚点も受け入れてもらうことができれば、よりいっそう関係を深めることができるのではないだろうか?

 そうした思惑が利己的にすぎることは認識していた。しかし、そもそも美穂に会おうとすることが、どう転んでも利己的にならざるを得なかった。彼女が自分と会いたいなどどうしたら思えるだろうか? 被害者が加害者に会いたいはずがない。本当にすまないことをしたと思っているならば決して相手の前に現れないようにすることが筋ではないだろうか。美穂に会いたいのは結局、今でも彼女と恋愛関係になることを期待しているからだった。

 それは洋が美穂に恋慕した状態で時が止まったから当然なのかもしれなかった。あれからおよそ四半世紀の年月を経て、美穂への思いが賦活するなどということがあり得るだろうか? それが不幸な結果――不倫――を招くとしても。しかし、女に夢中になること自体は貴重な体験である。結局、洋は美沙子に恋慕してはいなかった。それは美穂への思いに照らせば、明らかだった。



 美穂とは中学入学時に出会ったのだったが、親しくなったのは、一九歳の頃だった。ちょうど夏休みに地元に戻った折に伸也と海水浴に行ったときに、美穂と出逢ったのだった。美穂の青いビキニが眩しかった。一緒にいたもう一人の子は、短大の同級生だった。そのときは四人で、海で過ごした後、飲みに行ったのだった。

 次に美穂と会ったのは秋口で、場所は渋谷だった。彼女の要望で渋谷・原宿の服屋に行ったのだった。

 何軒か服屋を回って、美穂はスカートとトップスを購入した。その後、原宿のカフェ(洋には敷居が高かったオシャレカフェ)でお茶しているとき、美穂は気になっている異性がいることを話した。その人とは、合コンで知り合ったのだという。洋と同じ大学の学生だった。洋はその話を聞いて、失望したが、美穂が自分と会っていることに希望を見出していた。

「まあなかなか良さそうな人なんだよね。デートに誘われてるんだ」

「で、OKするの?」

「もうした」

 美穂はそう言って、笑いかけた。それは自分に対して「お生憎様」という意味なのか、と洋は思った。

(でも、今、自分も美穂とデートしているのだから。自分にも目はあるはず)

「幸運を祈るよ」

 洋は余裕を見せたくて言った。


 その後、洋は美穂を何度か誘ったが、会ってくれなかった。次に会ったのはクリスマスを翌週に控えた寒い一二月半ばの日だった。意外にも美穂から連絡があったのだった。今度は夜の新宿で会った。

 二人は、チェーン店の居酒屋に入ると、店員に案内されて、大きなテーブル席に横並びに座った。

 ビール片手にお互いに近況を話し合った。洋は一般教養課程だったが、勉強が面白いとはあまり感じられなかった。大教室で講義を聴いていたが、興味が持てるとはあまり思わなかった。洋がそうした感想を口にすると、「もったいない。せっかく苦労して大学入ったのに」と美穂。美穂は服飾の学科で学んでいたが、勉強は面白いということだった。「将来はデザイナーになりたくて」と美穂。それは消去法で経済学部を選んだ洋とは対照的だった。短大よりも大学に入るほうが難しいだろうが、目標があるのとないのとでは充実感は全然違うだろう。大卒という肩書は社会で有効と聞いているが、それを手に入れるのが目標というのは、あまりに空疎ではないだろうか? そもそも会社で働ける自信が洋にはまったくなかった。しかし、順調に行けばあと四年足らずで否応なしに社会に放り出されるのだ。そのときは、何らかの選択をしなければならないだろう。

「洋くんは、将来どうするの? やりたいこととかあるの?」

「あ~、それは、今考え中だね」

「そっか。まあ、まだ時間あるしね」

「結局、大学入ることが目標になってたからその後のことまで考えてなかったんだ。本当は君のようにやりたいことがあって、学校を選ぶというのが本来の順番なんだよね」

「そうだね。でも、一八でそこまで決めてる人は少ないよ」

「うん、まあ、でも、今後数年で社会に出ることになるわけだから早く自分の道を決めるにこしたことはない」

「……よくあるパターンは、会社に就職だけど、洋くんがスーツ着て出勤とかあまり想像つかないな」

「それはぼくも思う」

「何か自分に合った専門職を探したほうが良さそうよね」

「うん、そうだね」

 洋はそう言ったものの、自分に何ができるか皆目検討もつかなかった。ただ、女が好きで、女とヤリたいだけの男に何ができるだろうか?


 美穂がトイレから戻ってくると、ふわりといい香りが漂った。洋は、今日ずっと訊きたかった質問をついにした。

「クリスマスはどうするの?」

「実は予定ないんだ」

「前言ってた人とはどうなったの?」

「ちょっと付き合ったんだけどね。別れたわ。束縛がキツくて」

「じゃあ、ぼくと会ってくれる?」

「う~ん、そうね。一人で過ごすよりはいいか」

 美穂は手に持っているドリンクを見ながら、言った。その言葉に洋はしたたか傷ついたが、結局のところ「イエス」という答えであれば、それは希望をつなぐものであった。


 クリスマス・イブの新宿は異様な人出だった。洋は美穂の出で立ちに見惚れた。胸の開いた黒のニット、ショート丈のベージュのダッフルコート、膝丈一〇センチ以上の白に黒のウィンドウペンチェックのスカート、黒ストッキング、マーチンの8ホールブーツ。まるでファッション誌から出てきたようだった。二人は新宿南口からほど近いパスタ屋に入ろうとしたが、少なくとも数一〇分は待たなければならなかった。

「どうする?」

 美穂は眉間にシワを寄せてこちらを見た。洋も待ちたくはなかった。

「……どこも混んでそうだね。たぶんぼくの家の近所なら空いてると思うんだけど、そこで飲むのはどう?」

 美穂は考え込んだが、最終的にはOKした。

 電車に揺られること約四〇分で多摩地区の駅に降りた。

 二人で駅前のピザ屋で飲み食いした後、洋は自分の部屋で飲み直すことを提案した。

「そうね。まだ早いし、飲み直そうか」

 美穂が自分の部屋に入ったとき、むさ苦しい貧乏学生の部屋が一気に華やいだ。自分だけでなく、本棚やテレビまでもが彼女の存在を歓迎しているようだった。美穂の眼差しに晒されるすべてのものが、そのライフサイクルの頂点にあるように思えた。

「へぇ〜、結構キレイにしてるんだ」

「まあね、キレイ好きだから」

 そのとき美穂は自分を見て、フフっと笑った。その笑いは、彼女がその言葉の言外の意味(つまり、キレイな女の子が好きだ、という意味)に気づいたことの合図のように思えた。

 二人は正方形のローテーブルのコーナーを挟んで座ると、缶ビールで乾杯した。洋は一人暮らしを始めて以来、最大の幸福を迎えたと思った。  

「それにしても、洋くんと東京で飲む日が来るなんて思ってもみなかった」

「ぼくもだよ。夏に海で会わなかったら、飲むことはなかっただろうね」

「だね。ほんと縁って不思議よね」

「……うん、ぼくはむしろ運命と捉えたい」

「アハハ、『運命』なんて大げさな」

 軽く流されたが、洋にはその言葉も嘘くさくなかった。それは、自分が今、最高の相手と童貞卒業という記念すべき瞬間を迎えようとしているためだった。AV《アダルトビデオ 》やエロ本の世界でしかなかったセックスと、恋している相手との幸福な結合。それは、まさに夢✕夢であり、現実とは思えなかった。そうなったらもう、彼女と添い遂げるくらいの思いでいた。洋は溢れんばかりの美穂への思いを伝えようか迷っていたが、「テレビでも見ようか」という言葉により掻き消された。


 二人でテレビを見たり、音楽を聴いたりしていると、夜が更け、電車がなくなる時間になった。洋は時間を気にしながらも、女に帰ってほしくなかったので、時間のことは口にしなかった。

「もうこんな時間か。そろそろ寝る?」

 美穂はまるでカップル同士の会話のようにテレビを見ながらそう言った。そのとき、すでに日付が変わっていた。

「ああ、そうしようか」

 洋は昂奮を抑えて応えた。

(ああ、ついにこのときがきた。大勝利だ)

「じゃあ、何か着るもの貸してよ。この服で寝るのやだし」

 そう言うと、女は歯磨きをしに、洗面所に向かった。洋は洋服ボックスの中を漁って、寝間着になるものを渡した。それは部屋着にしているグレーのスウェットだった。

 洋は、キッチンで着替えて目の前に現れた美穂に感動した。自分の服が女の素肌に密着していることが、すでにセックスの前戯を連想させた。

 洋は美穂が着替えている間に一組しかない布団を敷いていた。それを見ると「他に布団ないよね?」と残念そうな顔をした。冷水を浴びせかけられた洋は、言葉が出てこなかったが、女は「しょうがないか。じゃあ、おやすみ〜」と、布団に潜り込んだ。

 考えられる限りで最大の快楽の源泉に手を伸ばせば触れられる今、何もなしに寝ることは不可能だった。すでに一物いちもつ が勃起しており、トランクスを突き上げていた。パンツ一枚になった洋はこちらに背を向けている女の尻を撫でた。

「もう、やめてよ。そんな気にはなれないから」

「えっ、じゃあ、なんで家に来たんだよ」

「だってわたしたち友達でしょ」

 美穂はこちらを向いて言った。その双眸は恫喝と悲壮感に彩られていた。

「俺はそんな風に思ってない。好きだよ。君のことが」

「……あ~あ、来なきゃ良かった」

 その言葉は、洋が先程まで抱いていたはち切れんばかりの期待を暗い衝動に反転させ、悲しみと怒りの奔流を生み出した。

「もう遅いよ!」

 それからは、無我夢中だった。男は欲望のままに女の身体に覆いかぶさり、そのすべてを味わった。小さな白いパンティ、小ぶりな乳房、細い腰、白い肌、薄い陰毛。それらは暗闇の中で宝石のように輝いていた。

 挿入後は何度か動いただけで射精した(コンドームはしていた)。洋が体を引き剥がすと、美穂は「シャワー浴びてくる」と言ってバスルームに行った。洋は冷静になると、自分がやってしまったことに慄いた。レイプだったのか、と自問したが、そうとしか思えなかった。

(なんということをしたんだ俺は)

 しかし、この状況で第三者にレイプだと主張することは無理ではないか、とも思った。彼女は自発的に夜、家に来て、泊まったわけであり、それが性交の暗黙の同意を構成するという見方は、決して飛躍が過ぎるとは言えないはずだ。とはいえ、愛のあるセックスではなかったことは間違いなかった。美穂は決してキスに応じなかったし、最中はただ嵐が過ぎるのを待っているような顔をしていた。

 美穂は戻ってくると、「今度こそ寝かせてよ」と言って布団に入った。

 二人で隣り合って寝ているとき、「なんか無理やりしてごめん」と洋は謝った。「いいから、しゃべりかけないでよ」と美穂はこちらを見ることなく言った。

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